サークルひまわりのたね『文学少女に食べられる』

(性的な話題が書いてある記事です)

 

 サークルひまわりのたね『文学少女に食べられる』『文学少女に食べられる2』を読む。

 文学サークルに属する男女二人はどちらも大人しく、サークル部屋で本を読んでいるだけなのだが、2人で飲みに行くことになり、耳を舐めさせてもらえないか、と恥ずかしそうに女性の方から切り出す話である。

 彼女の部屋に行った二人はセックスをすることになる。

 男性の耳をそっと舐めるプレイから始まって、体の快感と思しきスイッチをゆっくりとくり返しなぞったり触ったりしていく。女性の側が男性に目隠しをさせたり拘束をしたり、器具を使ったりして、あたかも女性側の働きかけに精確に反応する性的機械のようになる。いわば「おもちゃ」になるのである。

 しかし、女性の側は嗜虐的になるのではなく、むしろ慈愛に満ちた表情と言葉で、男性の反応に興奮し、感動する。男性を支配するような、庇護的に振る舞うような、そんなリードを終始やって、男性を快楽に導く。

 続編『文学少女に食べられる2』は、付き合うことになった二人が、1週間の「お預け」という強力な抑圧を外して爆発するという展開で、『文学少女に食べられる』では攻めなかった部位を攻める。より分解的で、より長い尺でセックスを見せるこの『2』の方がぼくは圧倒的に好みで、「犯す女性」と「犯される男性」の立ち位置がしばしば逆転して快楽に溺れるスイッチを切り替えていく様も、眩暈がするほど倒錯的である。

 

 こういうものが今自分は読みたかったのだ。

 『娘の友達』を読んだ時、「このままエロ展開になってくれねえかな」と思っていたが、女性側が母性的な立ち位置で男性をリードし支配する、庇護するというのは、畢竟ここにつながっていたのだ。『娘の友達』はそんな展開にはもちろんなっていかないのだが。

 

 ある関係性の中で、無邪気に自分を性的な対象にし、モノのように扱ってもらおうと思う欲望がここでは解除されている。そして、男性も女性も、というか、より印象的には男性(そしてそれを読んでいる男性のぼく)が豊かな諸側面を持つ全面的な人格存在であることを完全に忘れて、ただの「さかったオス」、性的な存在でしかないという断言をしている作品なのである。そして、そういうふうに扱われたい、というぼくの欲望にまことによく応えている。

 

 「本当にお前みたいな男は無邪気なんだな」と言われそうだ。

 リアルの社会で性的な眼差しを向けられ、たえず性的な対象となり、いつも性的な存在と扱われることに、ある種の女性が恐怖を抱いていて、そういう人にとってこんな開けっぴろげな謳歌はとても耐えきれるものではないのかもしれないが。