『進撃の巨人』と『失楽園』

 twitterで「『進撃の巨人』は『失楽園』(ミルトン)を背景にしているのではないか」という旨の指摘があったので、考えてみた。

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)
 諫山創は自身のブログで、映画評論家の町山智浩が「バットマン」シリーズの「ダークナイト」で『失楽園』を語っているのにインスパイアされて「巨人像」を考えたことを告白している。

町山智浩と言う男がいる - 現在進行中の黒歴史
http://blog.livedoor.jp/isayamahazime/archives/1137082.html

そして諫山本人は『失楽園』自体は読んでいないと述べている。*1
http://blog.livedoor.jp/isayamahazime/archives/3544297.html

今あらためて聞き返して思うのは、このテーマを扱うにはあまりにも
力不足、主人公にただ「それじゃ家畜だ!」なんて言わせても
伝わるわけがない、結果、やたらセリフが浮いてだだすべり...

この映画特電で感銘を受けたのは、西洋諸国に根付く考え、
神、秩序、体勢、に従う事への恐怖や抵抗感、
人間の根源的な自由意志、
奴隷の幸福か、地獄の自由か」ってヤツです、

前者が、現状に満足して壁の中で日常を過ごす人々、
後者が、現状に不満を懐き命を懸けて自由を求める人々、
かっこいいのは言うまでも無く後者、

つまり、この漫画で言う神様ってのは巨人のことです、
超大型巨人のキャラデザは、結構時間をかけました、あの見開きは
一回出来た原稿を没にして、書き直したぐらいです、他のページも
がんばれよ!っつー話ですなんですが、超大型巨人だけは他と同等の
扱いはできなかった、
何故なら神に見えなければいけなかったからです、

http://blog.livedoor.jp/isayamahazime/archives/1137082.html

 ミルトンの『失楽園』は冒頭で

人の最初(いやさき)の不従順(そむき)よ、また禁断の樹の果(み)よ

と書いているけども、人間が神に背くというより、町山がニコ動でのべているように、神と積極的に戦闘して争うのはサタンである。だから「奴隷の幸福か、地獄の自由か」というのは、ほとんど『失楽園』の主題とはなりえていない。諫山は、町山の語りのなかにある、「人間が神に背いて楽園を追放される」という一言を頼りにイメージをつくったのだ。

進撃の巨人(4) (少年マガジンコミックス) それにしても、「奴隷の幸福か、地獄の自由か」という問いを今日する状況があるだろうか。
 たとえば、大企業のようなところにヌクヌクとしていて、自分で起業しない……とかそういう状況に使われるかもしれない。
 ぼくは、今日、このような問いかけを抽象的におこなう場所はどこにもないのではないか、と思う。大企業に雇われていてもそれは長時間労働やリストラの恐怖におびえながらの身を削るような生活の保障なのだし、それを「奴隷の幸福」と呼ぶのは違和感が大きい。そして起業したからといって「自由」なわけではなく、さまざまな社会法則にがんじがらめにされて制約されているわけで、大企業の一部門にいるほうがかえって創造的な余地が大きいことだってよくある話だ。

 こういう問いが抽象的におこなわれたとたん、「地獄の自由」を生き抜く「自己責任」のような臭いが強烈に立ちこめてしまう。

 あるいは、町山が「ダークナイト」の語りのなかで、理由も根拠もわからない「絶対悪」をもったキャラクター(ジョーカー)について述べ、これは『失楽園』の「サタン」だと主張する。
 「サタン」がそのようなものかどうか別にして、むしろこれこそ『進撃の巨人』に出てくる「巨人」そのもののイメージではないのか、と思う。無意味、無根拠に人に害をなす絶対悪なのだから。

 こういう「絶対悪」の存在は、たとえば日本における「北朝鮮」イメージを連想させる。対話不能なバケモノが自分たちの生活圏をおびやかすというストーリーである。
 巨人を倒すのに、悲壮な戦闘決意しかないという筋立てに違和感をおぼえるのは、「どうして巨人の動きなどをもっと研究して、巨人を避けるとかいうことを考えないのか」という思いが先に立つからだ。
 外交であれば、多少なりとも「対話」がなりたつ。
 津波のような自然災害であれば研究してそれを避けることを考える(予報や高所移転など)。
 「共存」がありえない絶対悪に挑むイメージは、どこかしら入りにくいのである。

 『失楽園』の話を調べるうちに、ぼくがこの作品への共感できない感覚をもっている、その根源を見たような気がした。

*1:ちなみにぼくも全部は読んでません。