日本民主主義文学会の支部同人誌である『クラルテ』第5号をご恵投いただいた。感謝したい。
さて、ページを繰っていくと、谷本諭「『連帯』の希求と『パワー崇拝』の危うさ 『ONE PIECE』の魅力と人気を考える(上)」とあるではないか。
冒頭の章が「国民的人気マンガとマンガ評論家のブログ炎上」とあり、
紙屋氏の評論を読み、その主旨は理解しつつも、私はひとりの『ワンピース』ファンとして、自分がなぜこの作品を面白いと思うのか、語ってみたくなった。(p.109)
と述べているように、ぼくの『ONE PIECE』論に対する一種の批判を書いている。
『人間と教育』で『ONE PIECE』論を執筆
ぼくは季刊『人間と教育』「マンガばっかり読んでちゃいけません!」という連載をもっているが、その81号(2014年春号)に『ONE PIECE』論を書いた。「『ONE PIECE』はなぜつまらないのか」と題し、すでに指摘されている「任侠もの」という点をふまえて、平居謙が論じたクロポトキン的な「相互扶助」という把握について書いている。
興味のある人はお読みいただきたい。
谷本の『ONE PIECE』論
『クラルテ』の中で谷本は、ナミやチョッパーたちが抱えている悲劇は、単なる個人的な悲劇ではなく、戦争や共同体の破壊に結びついた悲劇であって、「不当な暴圧にさらされた善良な人々を、アウトローだが正義感を胸に秘めた主人公たちが命をかけて守り、解放する」という「任侠」「白波もの」の構図をもっており、「白波もの」の構造をもっているからこそ“安易な戦闘描写”がその人気の一因であると指摘する。
タイトルに「(上)」とあるように、これは谷本の展開のまだ半分でしかない。
後編では、ワンピース人気がしめす今日の「連帯」論と、政治状況との関係を考察する予定(p.115)
とあるので、次回で、さらに踏み込んでいくようである。しかも
王道冒険漫画として着実に人気をあげてきた『ワンピース』は、40巻あたりをさかいに、ストーリーを急展開させる。
ルフィ海賊団に所属する考古学者=ニコ・ロビンの過去が明らかになるなかで、彼らの世界を統治する「政府」の悪辣さと欺まんが暴かれ、“革命もの”の要素が物語の主軸に躍りでてくるのである。これによって、本作の世界設定は大きく広がり、それまで何気なく描写されてきたことが、実は「伏線」だったことが明らかになってくる。(p.114)
とあるように、30巻までいかずに放棄したぼくにはわからない作品世界がその後にあったのであるぞよ、と述べている。くそっ。
というわけで、相変わらず『ONE PIECE』を全部読もうとしていないぼくには論じる資格がないこの作品を、谷本がどう料理していくのかを次号見ることにしたい。
「“ベタつき感”が希薄な友情」という指摘
谷本の前編の指摘のなかで、「“ベタつき感”が希薄な友情」(p.113)についてひとこと。「“ベタつき感”が希薄な友情」というのは、構成員が依存し合っている共同体のイメージではなく、個々人が自立した人間集団であり、「互いの能力にたいする職業的な信頼を基礎に」(p.114)、各人が自覚的につとめを果たすというような、連帯のありようである。それが新しい世代にウケたのだという鈴木貴博の指摘を谷本は紹介する。
これが後編で谷本が論じていく「連帯」論のモチーフになっていく。
『無限のリヴァイアス』
ぼくがこうした友情の描き方に衝撃をうけたのは、すでに前世紀にさかのぼるが、アニメ『無限のリヴァイアス』を見た時だった。その衝撃の片鱗は、10年ほど前に描いた以下の文章の一部にも現れている。
アニメ『無限〔の〕リヴァイアス』をみたときもそうだったけど、そこには70年代のころのようなベタベタした友情とか愛情というものは、ほんとうにうそくさいものとしてカケラも残らないほど追放されている。かわりに、それをあらわす友情や愛情の表現というのは、どこまでも索漠とした、お互いを利用しあったり排斥しあったりして、しかしギリギリのところで結ばれたり生まれたりするものとして描かれている。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nananan.html
『無限のリヴァイアス』は、テロで軍艦に避難した500人の少年少女が極限状況に追い込まれ、そこでの人間関係を描いた作品である。
http://www.sunrise-inc.co.jp/ryvius/
宇野常寛は、この作品を『新世紀エヴァンゲリオン』のような「セカイ系」に対置された「サヴァイヴ系」の重要作品の一つに位置づけ、『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008)の中で扱っている。
同作の最大のポイントは、この「少年少女あかりの五百人」の社会を徹底してシミュレートした点にある。(宇野p.108)
として、
「社会」の与える抑圧は秩序ではなく無秩序であり、不自由の息苦しさではなく、自由のもたらす不安である。何が正しいか、価値があるかは勝手に決めればいい。そしてその正しさはバトルロワイヤルに勝ち抜いたもの(権力を得たもの)が決め、しかもその座は安泰ではない。(同)
という作品世界の受け取り方をしている。
『ONE PIECE』のこの描写はヌルいだけじゃねーの?
ひるがえってみて、『ONE PIECE』の作品世界は、これほどまでにドライで冷酷ではない。「サヴァイヴ」すなわち生き残りと形容するほど過酷にはぼくには読めない。そういう意味では、ルフィの一団がどれほどクールでドライのように描かれようとしているかわからないが、ぼくからみれば相当に「ベタついて」いる。
『無限のリヴァイアス』のようなエッジのかかった「生き残りの過酷な世界」という設定からみると、『ONE PIECE』の作品世界はいかにもヌルい。ヌルい分だけ安心して読める人が多い、というような恐ろしい結論になってしまうような気がする。
さて、谷本が後編で「連帯」をどう論じるか、そして『ONE PIECE』の「面白さ」にどこまで迫れるのか(そしてそんなものがあるのか)、楽しみにしている。
※『クラルテ』第5号を購入希望される方は、本屋に売ってないので、ぼくにメール(アドレスはブログのトップに書いてあります)をください。ぼくから同会に連絡します。