子どもの写真つき年賀状のこと──『永遠の途中』にもふれて

 ぼくは年賀状を欠かさないタイプの人間で、今年も100枚ほど出す。
 さて、子どもが生まれてから必ず脳裏を横切るのは、子どもの写真つき年賀状のことである。

 たしか原田梨花の『Black!』ではなかったかと思うのだが、子どもの写真が大写しで載った年賀状についてバカにしているセリフがあったはずである。……と思い、と『Black!』をひっくり返してみたのだが、どこにも見当たらないので記憶違いなのだろう。おかざき真里『サプリ』だったかもしれない。いずれにせよ「フィール・ヤング」の連載のマンガだった。

 それだけではない。

 たとえば唯川恵の小説『永遠の途中』にも似たようなセリフは出てくる。
 唯川の小説の方を古本に出してしまったので、いま手元に残っているのはそれをコミカライズしたささだあすか同名マンガしかない。こう述べられている。

ああ そっか 私
今年は写真入り年賀状なんて
親バカ丸出しなこと やったんだわ
「こんなに可愛い男の子が生まれたんだから
 すべてはこれでよかったんだ」
――と自分で確認したかったから(p.86)

永遠の途中 (MFコミックス)
 『永遠の途中』は、キャリアを失わず、その代わりに家庭や子どもを持てなかった女性と、キャリアを失い、その代わりに家庭と子どもを女性とが、自分の人生に足りなさを感じ、互いの人生を時々で羨んでしまい、その後悔が生涯果てることがないという業の深さを描いた小説である。

 上述のセリフは、「キャリアを失い、その代わりに家庭と子どもを女性」である薫のものである。

 子どもの写真入り、というか大写しの年賀状にここまで意味をかぶせるのか、と愕然とするぼく。いずれにせよ、子どもの大きな写真を年賀状に載せるという行為に対しては「自分の幸福を確認し、他人に押しつける行為」という烙印が押されている。
 薫がそうであるように、キャリアを失い、夫の浮気に悩まされながら、家庭という牢獄に閉じこめられている(と感じている)自分の基盤を確かめずにはいられない、と解釈されることもある。いわば自信を失いかけているがゆえに、「子どもの大きな写真を年賀状に載せる」とされる場合がある。
 または、自分の幸福の基盤に何の相対化の尺度ももたない、無神経で無遠慮で無粋な「精神の帝国主義」ともいうべき態度として扱われるときがある。「ほら、みてこんなにかわいいんだよ」「こんなに私たちは幸福なんだよ」と開いて構わずふりまき、その幸福を押しつけている、という見方である。


古典的な論争テーマとしての「子どもの写真付き年賀状」の是非

 別にマンガだけに限らない。
 ネット上では古典的な論争テーマであり、たとえば、Q&Aサイトには次のような質疑応答が寄せられている。

私は写真つき年賀状をもらうのが苦手です
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5207839.html

子供の写真付年賀状が嫌いです
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210419527

子どもの写真をプリントしてくる年賀状が不快
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213928447

子供の写真つき年賀状について
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/1006/206940.htm

子供の写真付年賀状が嫌いです。
親戚ならいいのですが、友人が毎年送ってくるので、年末年始の時期に言うとカドがたつと思い、半年ほど前に「私は子供が出来ないので、子供の写真で一方的に幸せを見せ付けられるような年賀状は嫌いです」とはっきり言いました。それでも今年また来ました。そのとき同席していた別の友達も昨年出産して子供の写真を送ってきました。会うときは必ず子供も一緒なので年賀状で私にわざわざお披露目する意味が分かりません。ちゃんと意思表示をしたのに送ってくるのはナゼでしょう。幸せを見せびらかす以外に何の意図があるのですか?届いたときはショックで縁を切ろうとさえ思ってしまいました。来年はもう年賀状のやり取りをしたくないです。私の言い方や言う時期が悪かったのでしょうか?それともこんなことでショックを受ける私が悪いのでしょうか?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210419527

 上記のURLのなかにもあるが、不妊のために子どもが欲しくても持てず、それゆえ不快だという理由もある。この理由はかなり強力な、ちょっと反論しがたい理由のように思える。
 しかし、たとえば「どうして子どもを持たないの? 子どもはいいよ〜」とでも書いたなら完全にアウトだが、自分や自分の家庭の小さな幸福を報告すること自体が、そうでない状態の人にとって「不幸を浮き立たせるもの」になるからヤメろ、というのではあまりにも苦しくないか。
 これは、子どもが1人しか持てない家庭に3人もいる家庭が近況報告する年賀状は失礼だとか、病気で床に臥せっている人に「今年フルマラソンを走りました」と書いた年賀状は失礼だとか、受験で落ちた子がいる家庭にうちの子はどこそこ大学に受かったと書くのは失礼だとか、そういう「政治的に正しい年賀状」になってしまうことになる。

 “そうだ、それでいいのだ。だから、どんなシチュエーションでも合格点をもらえる「旧年中はお世話になりました。新しい年もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」、干支のイラストと年月日、おしまい、という儀礼的様式が発達したのではないか。
 儀礼は社会的浪費なのではなく、どういう状況や相手にも、もっとも低い金銭的時間的体力的コストで通用するように生み出された社会の知恵なのだ。”――しかしそれではやはり味気ない、というので、家族報告や近況報告が年賀状には登場するようになった。「年賀状のやりとりくらいかなあ」という交際範囲の人間は多い。そのとき、この慣習とツールは優れている、と実感する。

 ネット上の論争を読むと、「家族の写真ならわかるが子どもだけの写真はいただけない」式の議論も多い。本人との間の儀礼的やりとりだから、会ったこともない子どもの写真を載せるはおかしい、という理屈だが、そこまで詳細な理屈付けをして子どもの写真を非難するのにびっくりする。

 いずれにせよ、たとえば犬や猫の写真をつけたとき「自分は犬派なのに、猫の写真を貼付けてくる人間の神経がわかりません」「私はこの猫とつきあっているのではない」という反応は聞いたことがない。まあ多少はあるのかも知れないが、これほどまでに大勢を巻き込む論争にはならない。


他でもない「子ども」のみが引き起こす問題

 問題はおそらく「子ども」なのだ。
 子ども顕示し、それを通じて自分の幸福を顕示することは、人の心を波立たせる、強烈な破壊的作用を及ぼすのである。
 しかもそれが「顕示欲」を満たす時期というものがあり、小学校くらいまでが「写真」による幸福顕示の時期になる。たとえば中学生くらいになればもう年賀状には登場してこない。子どもをめぐる顕示欲のレースは「写真」という形では終わっているのだ。本人がイヤがるのもあるだろうが、学力偏差値や容姿によるランク付けが苛烈をきわめるので、無条件に写真をさらすことが幸福の見せびらかしにはならなくなる。

 そして何よりも、受け手の側が変化している。
 同級生の子どもが中学生や高校生になるころには、いわゆる出産の適齢期が終わっている、もしくは子どもを持たないという人生の選択をすでに受け入れている、ということだ。

 こうして見てみると、「子どもの写真付き年賀状を出すのはおかしい」という抗議は、子どもを持つ幸福を顕示されることに苛立つ「子どもを持たない人・家庭」から発せられ、その抗議を正当なものとみなす、周辺の人々(子どもを持っている家庭をふくめる)に支持されている、と考えることができるだろう。コアは子どもを持つ幸福を顕示されることに苛立つ「子どもを持たない人・家庭」のイデオロギーなのだ。もちろん、「子どもを持たない人・家庭」がすべてその策源地になるのではなく、そういう層が一定数いる、ということである。

 論理をそのように運んでみると、冒頭に紹介した『永遠の途中』で、子どもの写真付き年賀状について「幸福に確信がもてない、キャリア断念子持ち専業主婦の空しい自己確認作業」だという規定はかなり強烈なイデオロギー攻撃ということになる。実際にはこの問いは、専業主婦側からではなく、「子どもを持たない人・家庭」(の一部)から発せられている「決めつけ」であるのに、逆転したものとして観念されているのである。これは驚くべき転倒というほかない。

 もっと幅を広げてとらえてみれば、「子どもがいない家庭の幸福像」というものが類型的かつ容易にイメージできるものとして確立されておらず*1、そのことが「子どもを持つ」ことへの過度の強圧となって現れているともいえる。
 「子どもを持つことが正常な家庭」だとするイデオロギーそのものの変種、あるいはそのイデオロギーへの機械的反発として「子どもの写真付き年賀状」への嫌悪はあるのだろう。

 とひとしきり書いたところで、娘の写真を大写しにした親バカ年賀状を出してくることにする。

*1:子どもがいない家庭が実際に幸福でないとか幸福であるとかということとは関係ない。