『青空エール』は実によくできたマンガである。
それだけにこのマンガが現実に与える影響の恐ろしさといったら無い。
このマンガのテーマは、女子高生の主人公・小野つばさが、完全に無理と思われていた目標――人はそれを「夢」と呼ぶわけだが――に向かって、執拗に与えられた試練を乗り越えて決して諦めることなく邁進していく、その不屈さを描くことにある。目標に対する不屈さ、これである。「違うよこのマンガはね」という異論はあとで聞いてやる。今は俺の話を聞け。な?
主人公の意欲と意志を挫こうとし続ける試練の連続
吹奏楽をまったくやったことのないズブの素人であるつばさが、小さいときに見た甲子園での試合と応援の感動を動機として、全国コンクールを狙うような高校の名門吹奏楽部に入るという無謀きわまるところから物語は出発する。
そして第1巻は、これでもかというほどに、つばさの意欲と闘志を挫こうとする困難・障害・抑圧の連続である。
金管楽器を吹くために入部テストとして渡された風船すらふくらませない屈辱。コンクールの戦力確保という視点からあまりに厳しすぎる顧問教師。いきなりレベルの低い人に足を引っ張られたくないからと退部勧奨する同級生。できない自分をくり返し再確認させられる「敗北の毎日」――いやー、こう書くだけで、逃げ出したくなるわ。
高校の部活特有の厳しい雰囲気の描写
しかも、河原和音がうまいのは、つばさをとりまく「厳しい部活動」の空気、人間関係が、実に高校部活動っぽく仕上げられているということなのだ。
それは、一見無意味と思われるほど強烈な上級生と教師の抑圧的な指示・指導関係だ。「そんなことないよ。1巻だけみても、ていねいに教えてくれる森先輩がいるし、やさしく歓迎してくれてんじゃん」という人がいるかもしれない。しかしドラマツルギーとしてそうなっているのであろうが、つばさは絶えず叱咤され、自分を追い込むような緊張した空気が部活に流れている。あるいは「部員全員が目標に真剣であるがゆえに」ということかもしれないが、一つひとつに寛容がない。容赦がない。
風船をふくらませることになって部室にやってくるつばさに、副部長はいきなり怒号を浴びせる。
「遅い!!」
(どきっ)
「授業が終わってからもう30分位たってるよね!?
もっと早く来れるよね?
返事は!?」
「は…はい…」
「声が小さい!!」
「ハイ!!」
「副部長の岩瀬です」
「ハイ…」
「クラスと名前!!」
「ハイ!! 1-C 小野つばさです!!」
そして、挨拶や服装に始まる吹奏楽部の厳しい部則一覧を渡されるのである。いかにも高校の、しかも名門クラブの高校の部活っぽい高飛車な接し方だ。
たとえば、創設1年目の高校野球部を描いた『おおきく振りかぶって』は上級生のいないフラットな人間関係だ。そして顧問からの指示も説明的な科学にもとづいているし、意見をくみ上げて変更したり気付きを導くという民主性をもっている。
高校かるた部の奮闘を描く『ちはやふる』でも、少人数のチームの雰囲気は、共同性と民主性に満ちあふれている。どちらも全国制覇をめざそうというほどの峻厳さを持ちながら、人間関係にはユートピアともいえるほどのウェットな絆がある。
これに対して、『青空エール』の吹奏楽部の雰囲気は、いつも厳しい。
6巻で腱鞘炎の森の家の前でトランペットパートの部員たちが合奏するシーンは、森を励ます、という意味なのだが、むしろ引きずり出す、という感覚をうける。事実、引きこもり怒る森に、パートリーダーである春日は激情で対抗する。それは怒りにも似た森への訴えだ。
出てこいやぁ!! このわからんちん!!
みんな あんたを必要としているのに!!
なんでそれがわからない!?
なんでみんなの心がわからない!?
最終的にはつばさの涙にほだされて、パート員たちの真情が吐露されたあとも、春日は厳しい顔を崩さない。
結局引きずり出された森も、怒りの顔で「見とけよ!」と決意を述べる。
こういう律し方の空気、ホント高校や中学で既視感がある。
それがいいとか悪いとかいうことを越えて、リアルなのである。
熱い、あたたかい、とみなすこともできようが(根底でそれが流れているのは分かるので、「冷たい」とは思わないが)、ぼくには「厳しい」というふうに受け取れる。すべてが自分の意思をまるで挫くために仕組まれたような辛さと重さで襲いかかってくる。
敬虔な信仰としての「夢をあきらめない」気持ち
それをはねのけて夢=目標に一歩でも近づこうとするつばさの健気さ、というか純粋さは、神の幾度の試練にも耐えぬいて信仰を貫いたヨブにも似て、宗教とでもいうべき敬虔さに満ち満ちている。悪口でいっているように聞こえるかもしれないが、その聖潔さこそ、リアリティを十全に持たせた、「挫けない闘士」としてのイコンたりえさせているのである。
ぼくらの気持ちは決してつばさから離れることはない。つばさと一心同体となって、この艱難辛苦を乗り越えているような試練を味わっているのである。
圧巻は2巻の定期演奏会のシークエンスだ。
自信を積み重ね、音が出せるようになってきたつばさだったが、一つの失敗をきっかけに本番で音が出せなくなり「音を出さず」に定期演奏会を終えてしまう。それを同級生の水島に見抜かれ、さらに自責を激しくするつばさ。
なんというかその……河原(神)はまだつばさ(ヨブ)にそんな試練を与えるんですか、といいたくなる。
つばさは目標を見失って幾度も「あきらめ」の渕に沈みかける。
そうした身を切るような自責の念こそ、昨今の「自己責任」論的な空気、「生きづらさ」の空気のなかであまりにも確かなリアリティを獲得してしまう。
逆に言えば、それを乗り越えて前に進むつばさの描写は、嘘くさいものではなく、今このぼくらが生きているこの社会のなかで夢=目標を不屈に達成することを限りなく説得的に示してしまうのである。
夢をあきらめないことをこれほどまでにまっすぐ、しかも説得力をもって示すがゆえに、読者である中高生たちは夢をあきらめないことをこのマンガで教えられるし学ぶに違いない。
つらいときに、このマンガを思い出して歯を食いしばる子だって出てくるだろう。
都条例ではないが、虚構は現実に影響を与えるのだ(笑)。それも、こうした類のマンガこそもっとも現実に侵入しやすい。ステルスで侵入し、影響としては破壊的なほどの力を持っていることだろう。
つばさの不屈性を支えているものは何か
しかし、つばさの不屈さを支えているのは、実は二つある。
一つは、大介を中心にした友だちだ。
挫けそうになったつばさを、大介は必ず的確に支える。別々の競技ながら、同じスタートラインで苦労を交流し、およそ高校生男子のリアリティを持たぬ屈託のない笑顔とともに、つばさは困難を吹き飛ばしてしまう。
もう一つは、科学である。
初心者であるつばさに懇切丁寧な、しかも的確な指導を施したのは、ブラスの先輩、なかんづく森である。6巻で、たしかに上達してきたつばさを、しかしこのままの延長線では名門・白翔の選手選抜には間に合わないとして、成長ではなく「進化」を命じ、そのための練習メニューを用意してくれたのは森だ。
だいたいだね。こんなの一介の高校生が考えたメニューなんて、俺だったら怖くて使えんよ。単に森個人の経験だけにしか裏打ちされていないものだったら、とても怖くて青春を預ける気になんかなれんもの。そこで作品中では、教師の真木にメニューの補正をさせている。
『おおきく振りかぶって』の15巻で、監督の百枝が全員の目標を「全国制覇」に討議と自己検討を通じて意志統一した後、全国制覇用のメニュー内容と量を示したのは、いちいち頷かされる。「この方向で努力をすれば必ず道が開ける」という確信があれば、それは不屈さを頑丈に基礎づけるだろう。
読者たる高校生たちはこのことに気づけるか。
高校生はぼくのようなバカではないのだろうが、ぼくは高校時代、本当に「自己責任」論者というか個人主義者であった。人間が共同しなければ生きていけない弱い存在であることをまったく理解せず、目標に達するには具体的な科学がなければならないことを(受験勉強以外では)わかりもしなかった人間だったのである。
そのことを気づけぬままに、『青空エール』を読んで「夢をあきらめずにがんばればかなう」と説くことは、実に有害ではないか(そもそも河原はこの物語をどういう風に結末付けようとしているのだろうか)。実際には夢は往々にして実現しないのであるから。つばさと比較して、「目標をあきらめてしまった自分」を責めるようなことにはなりはしないのだろうか。
あるいは、1つや2つくらい、心に刺さったままのトゲというのは残る。たとえば前述の森のエピソードを考えてみればいい。腱鞘炎が悪化してそのまま引きこもってしまい、部活に悪印象を残したまま、いかなる説得にも応じずに消えていくメンバーというのはいるだろう。現実で問題となることは、そうした経験をどうやって自分の中に消化していくかということではないか。
ああ、なんか、おれ、このマンガの冒頭で「現実主義的」な妥協ばかり説いて、実際にはつばさの足を引っ張っている城戸みたいなことを言っているな。
このマンガではこうした「悪しき現実主義」を木っ端みじんに粉砕していく。それはもう完膚なきまでに。その徹底ぶり、ラディカルぶり、革命左派ぶりが、読む者にとって圧倒的なカタルシスと救済をもたらす。ゆえにこのマンガはすぐれた少女マンガたりえている。そして、実際に大介が横にいるかのような勇気を虚構から受け取るのであろう。
しかし、半面で、現実を飛び越えてしまうあやうさもまた持つ。
無論、そんなことに責任を持て、などというつもりはまったくない。
それくらい現実と虚構の区別さえ失わせる、破壊力の大きい、よくできたマンガだということなのだ。