このtogetterについて、話に入る前に言っておきたい。
このまとめのタイトルが「電話してみた」になっているけど(2019年6月29日17時時点)、まとめを読めばわかる通り、この保護者は学校に「電話して」などいない。「担任から電話がかかってきたし、校長から電話がかかってきたので、質問してみた」というのが正しい。
あたかも学校に積極的に電話して「ハンコでなくサインにせよ」と要求したかのように題名がつけられ、それをもとに「モンペ」などとコメントされている。事実と違うのである。まことに気の毒としか言いようがない。
もちろん学校に積極的に要求すること自体が悪いわけではないし、それ自体が「モンペ」ではない(後述する)。少なくともこの保護者(ぺたぞう)はそのようなことをしていないという事実の問題である。
さてその上で中身に入る。
ハンコでないとダメってどこかで決まってんの?
うちの娘の小学校にもプールカードはある。そしてハンコである。サインは不可であることが明記されている。
おとといもぼくはカードにハンコを押した。ハンコ押しておいたのに、食卓の上にカード忘れてプール入れないでやんの。
「ハンコ押したよ。ここに置くけど、今ここでランドセルにしまわないと絶対忘れると思うよ」と警告したけど、生返事して『にじさんじ学園!』読んでやがる。見事に忘れていった。草。
ぼくが小学生のときにはこのようなカードはなかった。
文部科学省が『水泳指導の手引』というマニュアルを作っている。
その第4章に「水泳指導と安全」という項目があり、保護者からの情報を集める「健康カード」の活用を推奨している。
指導者は、健康管理上注意を必要とする者に対して、医師による検査、診断によって水泳が可であること を確かめておく必要があります。このため、児童生徒の健康状態について多面的に観察することが大切です。
(1)保護者による健康情報の活用 保護者による健康情報については、問診票や健康カード等によって把握することができます。問診票は、 体温、食欲、睡眠、活動状況などから健康の状態が分かるように、具体的な調査項目を設定します。
健康カードの具体的な項目例が載せられ、そこに「保護者印」とあるではないか!
これが元凶か!
……と言いたいところだが、それは早とちり。
だいたい、娘の学校はこんな詳細な質問項目を記入させないし、体温なども記入させない。入れるか入れないかと簡単な理由を聞くだけである。
つまりこのマニュアル(『手引き』)は単なる参照に過ぎないのである。
事実、いろんな学校のプールカードがネット上に転がっているが、例えば以下はある愛知県の小学校の校長名で出されているカード記入についての保護者宛の文書では、こうある。
ご面倒ですが、授業でプールに入ることが予定されている日の朝に、各家庭で検温と健康観察を行ってください。その結果、「泳ぐ」「泳がない」のいずれかに○を付け、保護者印またはサインをして担任まで提出してください。
どっちでもいいのである。
ハンコか、サインかは、本当に重要ではない要素だとわかる。
むしろ、健康状態について実質的に保護者がよく観察して子どもを送り出してくれているかどうかが学校側としては心配すべき点であり、文科省の『手引き』もうるさいようだが、そのような配慮から書かれているものである。
学校の保健関係の先生たちのサイトでは次のような座談会がある。
並木 私が学校にいた頃なので古い話ですが、初めて家庭で検温してくるようにしたところ、いちいち学校が保護者にそこまで要求するのか、要は事件事故が起こったら学校は責任を逃れたいからだろうと突き上げられた経験がありましたが、いまは協力が得られていますか。
富永 いまはそれほど極端な方はいません。検温やプールカード使うことは当たり前になっています。子どものためにやっているということで浸透しているのではないでしょうか。
並木 いまは徹底しているということですね。
富永 徹底はしています。ただ、カードを使うにあたっての課題がありまして、保護者の判断を主としているのですが、徹底しているがためにプールカードに保護者の印やサインがないとプールに入れさせていません。そこで、児童が前日に学校に忘れてしまった場合など、連絡帳で代替したり、保護者からの電話があればまだいいですが、連絡がない場合、プールに入らせなくて後になってトラブルになる場合があります。
並木 そのようないろいろ課題もありますが、それでもおおむね保護者との連携はうまくいっているということですね。永田先生はいかがでしょうか。
永田 保護者の方は協力的ですがいろいろな考え方がおありなので、小学校のように継続してやるのは大変だと思います。中学校でのプール指導は保健体育教科の中の時間ということで限られています。生徒が授業を欠課した場合、担任、教科担任、養護教諭で判断した場合もあります。が、保護者が欠課届けを本人に持たせる場合もあり、養護教諭がすべてに関わるわけではありません。本校では毎日検温することは行っていません。
責任逃れじゃなくて、本当に安全管理上大事だからお願いしているんだよ、というわけである。
いずれにせよ、保護者の確認の形式について、学校以外のどこかで決められた、抗い難いルールがあるというわけではないのだ。決めたのは学校のはずである。
質問しただけだろ? 説明すればいいのに
んでその上で、元々のツイートを見てみる。
このツイッタラー(ぺたぞう)が不思議に思ったのは、ハンコ以外はダメというルール、なぜサインではダメなのかということである。
ぼくも同じ。不思議に思ったもん。
そして、その理由について、向こう(学校)からたまたま電話がかかってきたことをきっかけに質問したに過ぎない。
担任や校長は、決めた理由を説明すればいいのである。
「宿題の朗読はサインでいいのですが、プールは事と次第では命にもかかわるので、特別にしっかりと確認していただきますためにハンコにしております」
とか、
「サインは偽造が可能で、そうなるとその判別に担任が相当時間を食ってしまうので、申し訳ありませんがハンコとさせていただいております」
とか、
「サインは一見すると大人が書いたか子どもが書いたかわかりません。ハンコでも三文判などを子どもが買ってきて押せるとは思いますが、一般的にはそこまでする子どもはなかなかいないので、やはり保護者にしっかりと確認してもらっていることが即座にわかるハンコをお願いしております」
とか。
学校や職員会議で判断した理由をそのまま話してくれればいいのである。
その説明を担任も校長もやっていないのである。
説明をしないという点でもうダメだろうと思う。質問したのにどうして説明してくれないのだろうか。*1
「会社でも役所でもハンコを要求される時いちいち『サインでも可能か』と聞くのかよ」という反論が返ってきそうだが、不思議なら聞いてもいいんじゃないの? 法令で決まっている場合は「法令で決まっています」と言って、自分たちの説明責任の範囲外であることを答えればいいのである(「〇〇という法律の第◯条です」と法令根拠まで示してあげられれば親切だがそこまでする必要はない)。
質問したり説明を求めることはクレーマーか
質問したり説明を求めること自体がクレーマーである、という意見はどうだろうか。
親はどこかのレストランに行くかのように自分の趣味で子どもを学校に行かせているのではない。憲法で義務を課されているがゆえに子どもを小・中学校に行かせているし、教育を受ける権利の実現のために子どもを送り出しているのである。
その関係の中で、学校機関側が子どもの健康状態の確認について親に「カードをかけ」という仕事をさせているわけである。その方式や手順について親が質問したら、それで「モンペ」扱いされる謂れはあるまい。
そういう奴は、アレか。会社の仕事を依頼されても、手順の質問とか絶対にしないクチか。質問したら「モンスターワーカー」とかいうのか。
さらに言えば
以下は、「さらに言えば」というほどのもの。最初の「ぺたぞう」のケースを超えた話だと思って聞いてくれ。
ぼくは教育という営為はマニュアル的な対応ではない、と思っている。一人一人の子どもの発達と成長にあわせた対応が教育のはずで、だからこそ画一的な中央統制ではなく、教育委員会は独立した行政機関なのだし、学校は一つ一つが独立した権限を持っているし、教師は専門家として広範な裁量を持っている。
であれば、子どもも保護者も学校に質問していいし、「こうしてほしい」と積極的に要求してもいいはずだ。
というか、そういうことをしなくて、全部質問禁止・要求禁止の画一対応マニュアルでやれ、というのは間違っている。もちろん時間の制約があるから、無限に付き合うわけには行かないが、子どもを成長させ、あわせて「親育ち」(親を教えて成長させる)をさせるのは学校教育の重要な役割の一つである。説明したり、要求に応えて変えたりすることが旺盛なほどいい、と言っても過言ではない。学校は消費者相手の「店」ではない。
現実には学級の人数が多すぎるし、教員は仕事に追われ過ぎている。そういう中で塩対応になってしまうことはあり得るし、保護者の側も遠慮するということはあり得る。また、教育の中身そのものでないことだと判断する事項なら、教師でなく別の人員が説明してもいいとは思う。
しかし、もともとのところを言えば、教育について保護者は学校に対して質問すべきだし、要求すべきである。それでクレーマーと言われる筋合いはない。
*1:ただ、これは、あくまで「ぺたぞう」からの叙述であって、ひょっとしたら実際には学校側は簡単にでも理由を説明したのかもしれない。その上で「そういう決まりですから」と言ったのかもしれない。ぼくの立論はあくまで「ぺたぞう」の話を信用すれば、という前提である。