がんで身近な人が亡くなるという経験をこれまでいくつもしてきた。
活動家仲間が早くに亡くなる、というのもそうだし、身内では義姉がそうであった。そのことはもう十数年以上も前にブログに書いたことがある。
今も身近にはがんを患っている人がいる。
その人が平均寿命を周辺の世代ではなく、自分に近い世代の人だと、ステージがどのようなものであったとしても、どうしても「生存率」とか「余命」とかそういうことを考えてしまう。
最近、「グエー死んだンゴ」が話題だが、この話も、自分にとってどうにも身近なことのように感じられてならなかった。
「グエー死んだンゴ」
— NHK生活・防災 (@nhk_seikatsu) 2025年11月1日
生前に予約したとみられる投稿のあと、がんの研究機関などには1500万円を超える寄付が集まっています
父親「寄付の広がりは率直にうれしいです。患者が助かるよう治療や研究に役立ててほしい」
【ニュース動画で詳しく↓】https://t.co/iUdsj0qMot
そういう状況の中で読んだ短編作『友達だった人 絹田みや作品集』のうち、がんで亡くなった人との交流を描いた冒頭作「友達だった人」は特別な注意を引いた。
最も本質的な「友達」であり得たこと
この短編では、主人公は、「友達」だったわけでもなく、それどころか一度も会ったことがなく、ただなんとなく気になっていたSNS(「ツイッター」と明示してある)上のアカウントががんを公表し、やがて亡くなって、そのリアルな葬式に出るまでを描いている。
だから、実は「身近にがん患者がいる」というぼく自身の「特権性」を除外しても、この奇妙な縁のたどり方を作品として示したことによって読後も強く印象に残った。
『友達だった人』 (1/8) pic.twitter.com/cCLBWQdcfE
— 絹田みや🐖💨 (@tukutyan) 2025年11月21日
主人公にとって、がんで「余命1年」を宣告されたというその「ささみ」というニワトリイラストのアイコンのアカウントとのつながりは、相互フォローになっただけ。せいぜい「いいね」をつけるくらいの関係ではあった。それが「余命」宣告を公表してから、主人公がたまらずにレスをつけた後、「ささみ」からレスが返ってきたことがきっかけで簡単なやり取りをする間柄になる。
主人公にとって、「ささみ」は同い年であるとか、絵文字を多用するとか、口が悪いとか、ツイッター上の記憶しかない。
しかし、夜中にふと目覚めると「ささみ」がつぶやいている。
そういうのを見るにつけ主人公は自分は孤独な存在なのではないと思わせてくれるのだと感じていた。
そこに途中で、「ヘルニア」という名前のパンダイラストのアイコンアカウントがまざって、3者でなんとなくほのぼのした交流が続く。いつかオフ会をしたいと言いながら。
ニワトリとパンダと主人公があたかも部屋や職場でなごみあっているかのようなコマがいくつも挿入される。「えっ怖い…」と言っているパンダがいかにもかわいくてほっこりする。
バーチャルの人間関係がそんななごやかで、心穏やかそうなテンポなのに対して、「ささみ」の周辺のリアルな人間関係のは「よく分からん噂話で年がら年中盛り上がっているうちの職場」だったり「縁を切ったはずの父親が面会に来る」ことになったり、いかにも面倒そうである。
リアルの人間関係の粘っこい鬱陶しさに対して、バーチャルな人間関係は淡白で部分的だからそういう「よさ」が目立つんだろうという気にもなるが、それがある種の理想的な人間関係のような気がしなくもない。「粘っこくて鬱陶しい人間関係」は今後どんどん批判され、駆逐され、整理され、あっさりした、部分的で、そして任意で自由な人間関係に置き換わっていくのだろうと思う。
だが、本作が、大きなどんでん返しをするのは、ラストである。
淡白であっさりして部分的だと思われた人間関係は、一転して、熱いものに変わる。リアルの、粘っこいほどに鬱陶しい人間関係、関わる時間が長いほど相手のことをよく知れるのかよという挑発のようにも見える。
主人公と「ささみ」と「ヘルニア」が獲得した人間関係こそ、一番本質的な「友達」だったのではないのかと読者に提示して作品は終わる。
そんなことはないだろうと思うが、いや実際にあり得そうなラストだからこそ、この理想が説得力を持つ気がする。
「指先に星」について
最後に載っている短編「指先に星」は、世間的に割り当てられた役割や見立てに対して自由である女性(佐伯)を観察する主人公の話である。
社員旅行でみんな観光に出かけているのにホテルでぐっすり寝る。
これから豪華な旅先の夕食なのに「旅先で食べるカップラーメンがこの世で一番美味しいから」といってカップラーメンを食べ始める。
佐伯はそんな人である。
職場でも子どもの迎えやらなんやらで早退してしまう。
ああいいな、なんとも自由だな、というのはカップラーメンや睡眠の挿話である。自分だったらあくせくして「元をとろう」としてしまうだろう。
しかし、ふだん仕事と子育てで時間がないからぐっすり寝たいのだろう、そして、本当にカップラーメンが食べたいのだろう、と考えると、佐伯の自由さが伝わる。
主人公の内語——「この人は誰よりも社員旅行を楽しんでいる」がその状況を端的に表していて、なるほどと思った。
主人公はそれに触発されて、自分の人生を振り返りつつ、さらりと暴言を吐いた職場の主任にビールを引っ掛けたり、社員旅行の食事先を抜け出して佐伯と食事をしたりする。
自分は自由になりたかったのだ、ここではない場所に行きたかったのだと自覚する。
そう自覚した後も揺り戻しがあり、それでいいのだろうかと悩む。
しかし、指の長さと美しさを誉めてくれる何気ない佐伯の言葉に、主人公は指先に見える星に思いを馳せて、自分には自由があることを再認識する。
ぼくも今50代半ばで人生が激動しまくってしまっている。そして、今さら「誰にも何にも邪魔されない選択肢がたくさんある」などということはあるまい、という気持ちにもなる。
が、こういう作品を読んで今から学び直して人生を再構築することこそ必要ではないかと思えた。
まあ、この作品だけでなく、河合克行が獄中で本をべらぼうに読んだということや、ぼくの友人が日々たくさん本を読んでいるということも刺激になったのだが。
史上初、入獄した元法務大臣の河井克行氏が見た刑務所の世界 「次は良い大臣になるよ」その言葉の真意とは? | 2024/10/8 - 47NEWS https://t.co/p0BKkL8XlZ
— 共同通信公式 (@kyodo_official) 2024年10月8日
変な取り合わせかもしれないが、そういうものの相乗作用で、ぼく自身の人生の自覚ができているのだと思った。
