こんなに傲慢な任意団体があるだろうか?
最近、PTA問題を特集した読売新聞の記事「PTAは必要ですか」(2017年6月1日付)を読んだ。
3人の識者がコメントしているが、日本PTA全国協議会・専務理事の高尾展明のそれをしみじみ読む。
交通事故や犯罪の発生など、子どもを取り巻く地域の問題がある。家庭もいろんな家庭があって、お互いに助け合っていく必要がある。そういう条件の中に我々はいる。PTAは任意だ、入退会は自由だと言う前に社会の状況をよく見ていただきたい。
「地域」という言葉とセットで「交通事故」「犯罪」「家庭の状況」という逆らいがたいテーマが押しつけられる。そして、この有無を言わせぬテーマと任意制が関連づけられるのである。
自由ですといったら、負担のないほうを人間は選んでしまう。その前に、子どもたちの環境がどうなっているのか考える必要がある。
ぼくの知り合いは地元で「子ども食堂」の運営に参加している。貧困対策の一助になれば、ということで始めた。
もちろん、任意の団体だ。PTAと同じである。
しかし、知り合いは「子ども食堂」の運営への参加をこんな言い回しで押しつけたりはしない。
「子どもの貧困をめぐる状況は大変なんですよ? 参加しないんですか? 参加は任意だ、入退会は自由だと言う前に社会の状況をよく見ていただきたい。『参加する自由があるだろ』だって? 自由ですといったら、負担のないほうを人間は選んでしまう。その前に、子どもたちの環境がどうなっているのか考える必要があるんじゃないですか」
ぼくが前のエントリーでPTAを退会したことを書いたら、「結局この人はなぜ退会したのかわからない」というリプを書いてくる人がいた。理由はいくつか書くことができる。しかし、任意団体、つまりサークルに入らないことに、いちいち理由など不要なはずだ。
あなたは、ぼくの知り合いが運営している「子ども食堂」になぜ参加しないんですか? どんな理由ですか? そんなこと、聞くか? 「自由ですといったら、負担のないほうを人間は選んでしまう。その前に、子どもたちの環境がどうなっているのか考える必要がある。」などという、「脅し」で参加させるのだろうか。
そしてこう書けば、「うわっ、めんどくせえやつ」と思われるかもしれないが、「めんどくせえ」言い回しをしているのは、どう考えてもPTA側(ここでは日P協の高尾)なのである。
ちゃんと説明しているPTAが多いと思います。大半の人がわかってくれると思う。それでもひとり、ふたりは加入しないと言う人もおそらくいるでしょう。それを強制することはできません。その意味では任意です。
くりかえすが、どんなにその「地域」に貢献しているサークルであっても、説明したら、大半が入るというものではない。それなのに「ひとり、ふたりは加入しない」という扱いなのだ。いわば「変わり者」である。
「子ども食堂」運営でこんな傲慢な発言をすることは、おそらく許されまい。
「ちゃんと説明している子ども食堂が多いと思います。大半の人がわかってくれると思う。それでもひとり、ふたりは運営に参加しないと言う人もおそらくいるでしょう。それを強制することはできません。その意味では任意です。」
ふつうの任意団体ではありえない「傲慢」さだと言ってよい。
どんなに「任意」だと明らかにされようとも、「地域」のため、「子ども」のため、という逆らいがたい言い回しで参加を事実上強制してくる、このPTAの「体質」はどこから生じ来たっているのか。
あたかもこの高尾の発言を読んでの違和感を解説するかのように書かれているのが、岩竹美加子『PTAという国家装置』(青弓社)である。
奉仕と修養の近代プロジェクト
この本は、“奉仕と修養を通じて、母の国民化を求める近代プロジェクトを完成させようとするもの”だというPTA把握に立つ。
うむ、むずかしい言い回しだな。
いいかえると、こうなる(以下は、ぼくによる本書の理解である)。
何かに「つくす」(奉仕)、そのために自分を「みがく」(修養)、その練習をさせられる場がPTAだ。
何につくすのか。その中身、ソフトは国家(国、大きなもの)が決める。
「いや、私は国に言われてPTA活動をしているつもりはない」とあなたはいうかもしれない。
PTAをふんわりと包み込むような同調圧力のもとでやらせる大きなしかけが「地域」という全体主義的概念だ。「地域みんなで」「地域ぐるみで」という言い方。地域みんなでやっていることの中身は、決して「非」とされない。
PTAは「民主主義」的な組織だから、異論があればモノが言えるではないか――しかし、自主的・民主的・任意と言われながら、それらはただの形式に過ぎず、実際には、いかに強制的であるか。さらに「前例踏襲」で有無を言わせない力がある。
任意だと戦後からくり返し強調されながら、事実上「全員参加」がそのたびにいろんな手口で強制されてきた。
このようにして、国家がやらせたいことを保護者、主に母親に、「やさしく」求め、そのやらせたい中身については異議を唱えさせず、その目的につくさせ、「自分みがき」をさせていく。「母」は、国の思うことを自分の中にとりこんだ「国の民」、つまり「国民」に育て上げられていく――これが著者の言いたい「国家装置としてのPTA」だ。しかも、この「母」を「国の民」として取り込むことは、戦後日本でたまたま起きたことではなく、実はどの国であっても近代国家にありがちなことであり、そういう意味では戦前の続きとして「近代のプロジェクト」を完成させたものがPTAなのだ。
――以上が、ぼくが読み取った著者・岩竹の主張のコアである。
「早寝・早起き・朝ごはん」や「通学路の見守り」も…
そう読んでみて、思い当たるフシがぼくにはある。
戦前、「母の会」や「学校後援会」は、国につくし、戦争に子どもを送り出す国家プロジェクトの一端を担った。
戦後の今、各地のPTAで行われていることの一つに、「早寝早起き朝ごはん」の運動がある。これは文部科学省を先頭に旗を振っているキャンペーンで、福岡でもPTAが率先してやっている運動の一つだ。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/asagohan/
http://www.fukuokacity-pta.jp/officer/497/
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/data/anbi-jirei.pdf
何を隠そう、ぼくもPTAの広報副委員長として、このキャンペーンにもとづくアンケート結果をPTA広報に書いた(ただDTP作業をしただけだが)。
「早寝早起き朝ごはん」は「当たり前」の話のように思えるが、これは第一次安倍内閣によって改定された新教育基本法の中で新たに家庭教育の責務として盛り込まれた「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」(第10条)に対応している。また、いま成立がねらわれている、自民党の「家庭教育支援法案」でも同様の文言が入っている(法案第2条)。
PTAの会員、つまり普通の親たちは、自分たちが旗を振っている運動が、国家目的の一環として行われていることをあまり知らない。
PTAがやっている登校時の見守りはどうか。
これこそ、一人ひとりの親の善意から出てきたもののようにも思える。
しかし、学校保健安全法の第30条は「地域の関係機関等との連携」として
学校においては、児童生徒等の安全の確保を図るため、児童生徒等の保護者との連携を図るとともに、当該学校が所在する地域の実情に応じて、当該地域を管轄する警察署その他の関係機関、地域の安全を確保するための活動を行う団体その他の関係団体、当該地域の住民その他の関係者との連携を図るよう努めるものとする。
とされ、「学校安全の推進に関する計画」にもとづいて実は推進されているのだ。
「別に悪いことじゃないし、当たり前のことだろう」とどちらも思うかもしれないが、「地域」という概念を媒介にした「国家意思」の貫徹ではあるのだ。
「早寝早起き朝ごはん」によって「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことは、次のように批判することもできる。
人は、基本的生活習慣ということばの合成に成功してからというもの、機械に似てきた。資本の論理の要求する、決められた時間内に決められた量以上の物を、決められたコスト以下でやり遂げるためのシステムの交換可能な部分として、人が、基本的生活習慣という何人も抗し難い名称の統一規格を強要されている。(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』地歴社、p.222)
まあ、ここでは、この命題に反対するか賛成するかはどうでもいい。
ぼくらが自発的意思のように思っているPTAの活動の中に、さまざまな形で国家意思が貫かれているのだ、ということにまずは注目してほしいのだ。
いずれにせよ、本書の核心は、このPTA把握――“奉仕と修養を通じて、母の国民化を求める近代プロジェクトを完成させようとするもの”ということにつきる。これを仮に「岩竹PTAテーゼ」と呼ぼう。
この「岩竹PTAテーゼ」の立場から、PTAの現状、および、それを改革しようとする種々の勢力への評価も定まるのである。
コントロールし難い得体の知れない「怪物」
例えば、「PTAには、何かを主催する権利はない」(p.18)とか、連合体の「タテ」の関係と地域組織の「ヨコ」のつながりなど、PTAは全体像が「見えにくい」(p.10)とする主張・例証が本書にはくり返し登場する。
近代的アソシエーションとしての明確性(「コレ」をやる組織です、というはっきりした目的)がなく、ぬらぬらと動く、得体の知れない、境界線のはっきりしない「怪物」をイメージさせる。
いったん入り込むと、民主性をつらぬくことは至難で、コントロールできずに取り込まれてしまう……という印象を本書はあたえる。
戦前との連続性――近代のプロジェクト
あるいは「岩竹PTAテーゼ」の立場から、「連続」論がとりあげられる。
「連続」論というのは、戦前と戦後は「連続」しているのか、「断絶」しているのか、という議論である。
左派系リベラル派の運動は、この断絶を強調することが少なくない。
戦争に子どもを送り出した戦前の教育を反省してPTAがつくられ、「かしこい親、自立した公民である親になろうということでできた組織がPTAなんだぜ!」という具合に。
しかし、岩竹は、本書第3章で、戦前の父母組織などをとりあげて、PTAといかに「似ているか」を明らかにしようとしている。
つまり、戦後のPTAも、戦前の「母の会」なども、「奉仕と修養」を求めるものであり、それを通じて「母の国民化」を求めるものだというのである。すなわち戦前と戦後はある意味で「連続」しており(ネオ連続論)、それは近代のプロジェクトの連続した過程なのだとする。(したがって、PTA的なものは日本的なものではなく近代国家に共通するものだと岩竹は主張する。)
このくだりを読み、先ほどの「早寝早起き朝ごはん」運動を思い出す。
この運動のめざすものは間違いなくいいものだということをくり返し講演会などで馴致させられ、改悪された教基法に定められた「生活のために必要な習慣」を「身に付けさせ」られた、すなわち身体にとりこんだ子どもをつくらせる……そうとらえれば、岩竹の指摘はある意味鋭い。
戦後のリベラル左派のPTA改革運動への評価
あるいは、「岩竹PTAテーゼ」を基準として、過去の、そして現在のPTA改革運動への評価も定まる。
例えば、日本子どもを守る会。
例えば、全国PTA問題研究会。
例えば、山住正己。
例えば、川端裕人、大塚玲子、山本浩資。
前三者は、左派系のリベラル運動である。これらは「地域」という全体主義的概念を無防備に使っていたり、PTAへの多数参加(できれば全員参加)を是としているがゆえに「ダメ」扱いされている。
川端・大塚・山本らは前三者と相対的に区別された改革潮流であるが、「楽しいものに改革しよう」的なこれまた無防備な運動と扱われ、全員参加を結局補完し、全体主義概念や国家意思の貫徹に抗する武器を持たないナイーブな存在としてやはり批判されている。
本書の一面性がぼくを動かした
「岩竹PTAテーゼ」より導かれる実践的な結論は、こうである。
学校の保護者組織は、必要に応じて保護者が作るべきだろう。すでに構築されている国家組織に組み込まれるのではなく、必要な組織があれば柔軟に作っていくべきである。「PTA改革」は、これまで繰り返し言われてきた。しかし、PTAの枠組みの中での改革は、微小なものにとどまって根本的な解決にはならず、結局、現状維持につながる。「子どもの幸せ」や「健全育成」「親睦」などの明確や、加入しないと子どもに不利になるなどの理由をつけて入会を誘い、実際は奉仕と修養を求めるPTAという国家装置につながれたままでいていいかを考え、議論し行動していく必要があると思われる。(本書p.228)
一面的な結論である。しかし、一面的であるということは、真実の一面を鋭くついているということでもあり、その一面性が、ぼくをしてPTA退会にまで踏みきらせた。その意味で、本書には一面的な主張が持つ、生命力や力強さ、鋭さがある。
ぼくは町内会長としては「脱退」という方向を取らなかった。
町内会が任意であることは、PTAよりもかなりはっきりしたものになってきた。ぼくの今住んでいる町の町内会には、入会と退会が明確に規約にうたわれているが、学校のPTA規約には、どんなに食い下がっても盛り込んでもらえなかった。
町内会への加入率・参加率はみるみる低下している。
その中で、ぼくが会長をつとめた町内会は地域の連合体から実際に外れることもできたし、シンプル化(ミニマム化)できたし、行政の下請組織化からも自由でいることができた。新自由主義的な行政運営の圧力に抗して、そういう町内会を実際に住民とともにつくることができたのである。
さらに、公団自治協といって、UR団地の自治会の協議会に加わることで、URという政府系の住宅政策と緊張感を持って対峙する流れにも合流できた。
つまり、国家装置であることから現実に外れることができたのだ。町内会の場合には。
他方でPTAはどうだったか。
年月をかけて役員を務め、信頼を得て、会長職にたどり着き、一歩一歩改革を進める、ということが決してできなかったわけでもないだろう。
しかし、現実に参加してみて思ったことは、PTAは町内会に比べると、(少なくとも九州では)加入率・参加率が高い。つまり、同調圧力が非常に強い。任意である、という雰囲気が非常に弱いとも言える。
そして、学校当局=行政の力がすぐそばにある。
具体的には、いつでも校長や教頭と「相談」し、その同意・承認のもとで動かされることになり、この圧力の強さは、町内会の比ではない。
町内会の場合は、ふつう行政は連合体をコントロールすることで全体を管理しようとするので、個別町内会までは直接容喙しないのである(もちろん、地域によっては、個別町内会をそのまま下請け的な「行政協力員」「特別職公務員」扱いしている自治体もある)。
したがって、校長の「拒否」のもとに、「国家装置」であることを外れる改革を行うのは、相当難しいだろう。
つまり、長期にわたって自分の意に反する活動をPTAで行う恐れが強かったのである。特に、役員としてではなく、「一会員」として改革の同意を全体に取り付けようとするのは、本当に難しいと感じた。
活動の根本を問う場は、実質的に年1回の総会しかない。しかも学校には日常的に保護者全体に向けて訴える場所もないし、ビラをまく自由もない。全て学校(校長)の承認がいる。敗北は初めから決定づけられていると言っていいほどだ。それでも辛抱強く「同志」を募り、総会で改革をしていくことはあり得るだろうが。
そうした中で、ぼくは本書に出会った。
町内会活動において行政側からの新自由主義的な下請け意思、保守的なイデオロギー浸透が企図されているのと同様に、PTAにも国家意思が貫かれようとしていることは確かに警戒すべきことであった。PTAに参加したり、改革に挑むにせよ、そのことに対して無警戒でいることは、あまりにもナイーブだ。
そのことを気づかせてくれた(明確に再認識させてくれた)ことが本書の最大の収穫であった。
ゆえに、「退会」が選択肢に入ってきた。
そして、退会し、特に不利益も感じない*1のを実際に示すことで、「加入しないと子どもに不利になる」という無言(あるいは有言)の圧力を実践的に反論することができるだろうとも思い至った。
本書の不満な点――改革実践への冷たさ
他方で、本書の不十分な点、不満点を述べる。
それは何と言っても、PTAを改革し、PTAを通じて子どもたちのために何かをしようとする実践に対して、あまりにも評価が低すぎる点である。
まず、戦前型の保護者組織からの脱却を試み、子どもの権利の実現のために尽力しようとした戦後のPTA改革の運動への批判が、ひどい。
「地域」という全体主義概念を使っているから、とか、「全員参加」を結局はめざしているから、とか、そういう点だけでの批判のように思える。
ぼくは「地域」という概念そのものが問題なのではなく、「地域」の中には進歩的な要求もあれば反動的な要求もあり、それを一つ一つ弁別することが大切だと考える。『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)で防災・防犯・見守りなどの各分野に分け入り、そこに新自由主義的な意図がどう流れているかを示して警戒を促したのは、そうした努力の一つである。
また、戦後のPTA改革運動の多くが「全員参加」をめざそうとする点についても、PTAを(教員ではなく)保護者の学校参加・意思反映のテコにしようとする戦後の民主主義改革の流れを引き継いだものであり、それだけをもって批判することはあまりに性急である。
川端・大塚・山本らの任意制強調のとりくみも、委員制(事業を先に定めてそれに合わせて人狩りをするシステムと言ってもいい)を解体し、本当の意味で任意になれば、「国家装置としてのPTA」体制には大きな打撃となる。言い方をかえれば、真に保護者が自発的に参加するPTA(あるいは保護者組織)となりうるのだ。
根本的・ラジカルな立場から、PTAの問題点をえぐることは、一つのリアルさがある。
しかし、そのラジカルな視点からのみ、当面の改革に苦闘する取り組みを冷笑することは許されない。
かつて、左翼運動の中にあった「革命と改良」の関係に似ているのである。