原夏見『彼女たちの式典』

 先に紹介した『友達だった人』は、「友達」と呼ぶのがためらわれるようなSNS上だけのつながりを「友達」と呼ぶ話だった。

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 それに対してこの原夏見の作品『彼女たちの式典』は、冒頭に

何年も会ってない

会う必要もない

だから

“友達”

と言うには

難しいけれど

とある。「友達」という概念の湿っぽさや熱さから逃れたい…というか違和感のある関係だと考えたいのである。

 5人の女性は、高校時代の部活(バスケ)の同期で

それぞれ世界観違うっていうか…

部活やってなかったら

まぁ関わらないメンバーなんだよね

と自己規定したくなる関係なのだ。

 それがメンバーの一人の結婚式を契機に再び集まるというお話である。

 作品はオムニバス形式である。

 ぼくはそれらの中で、最も「美人」で「才能」があると周囲から思われている近江さくらの話が印象に残った。

 

近所の福岡市総合図書館(25年11月、神谷撮影)


 近江は、「『美人』で『才能』があると周囲から思われている」がゆえに、「美人」「才媛」というカテゴライズ・役割で扱われ、何よりも性的な存在として一方的に見なされ、その被害や抑圧に苦しんできた。

 そういう扱われ方に、場を壊しかねない形で違和感を表明したり異議を唱えたりする近江を、さりげなく緩衝材になったり、フォローしたりする派遣の「斎藤さん」という女性と、飲み会の後一緒に帰り、近江の自宅に泊まってもらうことになる。

 近江はその夜、自分が遭遇した様々な性被害に追い立てられる夢を見る。

 その悪夢から逃れようとして飛び込んだ夢のラストは、高校時代の部活で、ひらすら練習をした後に、近江が他の4人に尋ねるくだりが描かれる。

「みんなが 私に求めるものって何…?」

「……… ディフェンス?」

「パス」

「ドリブル」

「シュート」

 近江はそれを聞いて涙ぐむ。

 ここでは自分は、純粋に目の前の目的のための機能だけを求められている。自分に過剰な役割や不当な偏見を押し付けてこない、フラットな関係がそこにあったことを近江は懐かしく思い出し、大粒の涙を流す。

 そこで近江は目が覚め、横にいた斎藤に「大丈夫?」と心配そうに聞かれる。

 

「そ? ならよかった」

「近江さん 送る」

「辛(つら)いよね」

「ナイスファイト」

 

 斎藤がかけてくれた何気ない言葉が、なんとも近江に響いてしまい、出しぬけに近江は

私 斎藤さん めっちゃ好き

一緒に暮らさない?

 

と提案してしまうのである。

壱岐・黒崎砲台跡(神谷撮影、25年11月)

 自分が日々暮らしてきて、毎日うんざりしている抑圧的な視線を、一切持たない関係性というものは、実は難しいんじゃないかと思う。

 そこに加えて、自分の心が傷ついた時に、そのフラットな関係のまま、さりげなく一言でケアしてくれる人…というのは、そうそういるものではない。

 家族や同僚、「友達」=知り合いが必ずしもそういう存在にはならないことが多いのではないだろうか。

 例えば家族は、血縁者であるというだけでそのようなポジションを期待されているはずであるが、むしろそうならないことが実は多いのかもしれない。

 ぼくだって、一例をあげれば、じゃあ娘に対して過剰な「期待」とか、何らかの「役割」あるいは固定した見方をして、それを押し付けているのではないか、という疑いは拭えない。まあ別にそうだと決まったわけでもないが。

 むしろ家族という関係は、フラットな関係とは真逆で、いつまでも親は子どもを「子ども」扱いし、固定的な見方をしようとすることから逃れがたく、それをウェットに押し付けてくる厄介な存在なのかもしれない。

 

 そう考えると、近江がここで急に斎藤に、あまりに唐突に同居の提案をしてしまうのも、何となく頷けてしまうのである。

福岡市の今宿の海(25年11月、神谷撮影)

 ただ、斎藤のやっていることは、さりげないように見えて、最も勇気のいる、しかも実践が難しいケアだとも言える。

 職場の空気に逆らうようにして介入するということや、お節介と思われても「送る(一緒に帰る)」という行為をすることは、実はなかなかできるものではないからだ。

 斎藤はあまりにさりげないのだけれども、実は、なかなかいない、ある種の理想的すぎる非現実的存在なのかもしれない。