東浩紀×茂木健一郎「分数も年号も覚える必要ありません」

 本がない大学生活というものに驚かざるをえないのだが、そこに異論を差し挟む者もいよう。

「写真見るとパソコンがあるじゃん。ネットがあれば、もう本なんていらないわけよ」

 この議論を地でいくのが「中央公論」2010年5月号に載った東浩紀×茂木健一郎対談「ネット時代の『知』を考える 分数も年号も覚える必要ありません」である。この対談は同誌の「学力なんて要らない!?」特集の一つとして組まれたものだ。

文系にとって本質的なのは図書館で、今まではそれが大学機関に必然性を与えてきた。ところが、今やその図書館でさえすべてデジタル化されネット上で公開されそうな勢いです。図書館というインフラが大学外に開かれてしまったとき、大学の文系諸学部、とくに文学部なんてどのような存在意義が残るのか、はなはだ疑問です。(東、p.68)

 まあ、図書館が「すべてデジタル化されネット上で公開」されたら紙の本は本質的に要らなくなるよね、というのは論理上同意せざるを得ないのだが(大学が不要になるかどうかは別として)、いまとてもそんな状況にないから(そして東や茂木もそんなことは言っていない)、現時点で「ネットがあれば本なんて要らない」とか言っているやつはただのアホである。

 ただ、「やがてネットですべてができるようになる」という話と、「いまかなりネットでできるようになっている」という話の間の距離は、東×茂木対談ではしばしばあいまいになり、話の前提としていることのピントがぼけていく。読んでいるとどうしても「今そんなことが性急に言える訳ないだろ」という感情がどうしてもつきまとってしまうのである。

 たとえば次のような議論だ。

本当に意欲があればネットでいくらでも独学できるし、学校制度にできるのは基礎的な情報収集能力くらいしかない。(東、p.66)

 「本当に意欲があればネットでいくらでも独学できる」という部分についていえば、現状では「ネットで、ある程度までは独学できる」というくらいだし、「本当に意欲があれば」というのはかなりハードルの高い条件である。さらに、そこから学校制度の否定を、現段階でおこなうのはいかにも乱暴だ。

 だけどね。
 東の議論ってこちらがそういう批判の仕方してもホント意味ないのかなあって思ってしまうよね。東の論じ方というのは、自分の立場とか浸っている気分を先鋭的に(極論的に)面白可笑しく表現するというもので、正確であるとか、全面的であるとか、そういうこととは「無縁」といっていいくらい「いい加減」なものである。こう書いたとして東はそれを名誉だと思うに違いない。

 東がこの対談で次のように述べているのは、まさに東のスタンスそのものであろう。

教育や大学の起源を考えるにあたって、ソクラテスという存在は外せません。でも彼はべつに弟子たちに哲学を教えてわけではない。金持ちが主催する飲み会へ参加しては、酒を飲んでツッコミを入れていただけです。彼自身に体系があったわけじゃない。でも彼がいると何となく議論が活発になる。そういう人だった。(東、p.72)

 この茂木と東の対談では、知の「内容」や「体系」を蓄積していくという「学力」のあり方に強い懐疑が感じられる。中身を覚えることなんてそんなに大事じゃない。いろんなものをどんどんつなげていったり、変化させていくことの方が大事なんだ、そういうダイナミズムを持てるかどうかなんだ、という志向である。

中身をちゃんと理解しているかどうかなんてどうでもいい。とにかく指向性のダイナミクスが広くて、豊かな人を育てる。そういうことこそ、教養教育というんだと思うな。……そういう考えるきっかけというかヒントを出す。教育なんてそれだけでいいんですよ。(茂木、p.72)

そもそも教養って、いいかげんなものですよね。/さっきラッセルやアインシュタインの名前が出ましたけども、そこで紹介されたエピソードも正確である必要なんてない。確かにそういう人いるなということが話し相手と共有できればいい。「ラッセルは○○年に○○大学を出て……」みたいな知識をひけらかすのはただの専門家で教養人ではない。教養は知識の集積ではないんです。ポインターなんですよね。(東、p.72)

 ちなみに、東は茂木から教えてもらったこのポインター(茂木によれば「前頭葉は、情報そのものというよりも、情報へアクセスするためのポインターなんです。この前頭葉のおかげで、人間は情報を統合できる」というもの)概念が気に入ったらしく、4月29日付(2010年)の朝日新聞の「論壇時評」でも「にもかかわらずその〔ツイッターの〕普及が重要なのは、それが、すでに存在するサイトやブログへの高効率の『ポインタ』として機能するからである」とさっそく使っている。つれあいは、いきなりこの用語を読まされて「書いてあることが頭に入ってこない」と苦情を言っていたがw

学ぶ意欲や関心を育てればそれでよい、という議論

 茂木と東の議論は、それほど新しい議論ではない。
 文部省や臨教審が20年ほど前に「新学力観(新しい学力観)」として提示したものである。現代では知の内容がすぐに古くなる。内容を覚え込むようなスタイルは意味がない。ときどきの新しい知を積極的にとりこむ意欲や関心を育てることこそ、新しい教育の役割であり、そうやって獲得された力こそが新しい学力なのだ——というものだ(そして学校時代だけでなく生涯にわたって学習によって自分を再更新していくという「生涯学習」の必要性とセットで主張された)。

 見てわかるとおり、これを機械的にとらえると、知の内容や知識量への軽視となってあらわれるので、この歪んだ形態が「ゆとり教育」と呼ばれ蔑視されることになる。ちなみに「ゆとり教育」を正確に概念規定しようとする試みは同誌の中西茂論文にある。中西は、

ゆとり教育は、自学自習を促す考え方である。(p.89)

とのべ、茂木×東対談との親和性を見せている。
 学力をめぐって、概念的にいえば、「学ぶ姿勢や意欲を育てるべきで、内容や量はそれほど意味がない」という立場と、「学ぶ内容や量を軽視すると結局バカが育つ」という立場とがある。「中央公論」の特集のうち多くの論者は前者に重きをおいた議論を展開しているのである。
 まあ、両者の議論はどちらも極論なので「どちらの側面も大事なところがあるので、一方だけになるのはよくないよ」というのが、「正解」ということになるだろう。だけど、それは東が一番忌み嫌う「つまらない議論」そのものになってしまうので、どちらに今重点をおくべきかといえば、やはり前者だろうとぼくも思う。

 学校制度を東のいうように全面的に書き換えてしまうと完全に失敗してしまうだろうけども、東や茂木が強調したことは大事なことをデフォルメして言っている、というぐらいの受け止めにしておけばけっこう示唆深いものがある。東の議論とはそんなふうにつきあっていかないといけないんだなあと最近ようやく学んだ。