斎藤幸平のSDGs論を西日本新聞の対談で読む

 16日付の西日本新聞で斎藤幸平が江守正多(国立環境研究所・地球システム領域副領域長)と対談していた。

 斎藤幸平は、『人新世の資本論』の冒頭で

SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

とはっきり述べ、

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

と断言した。これを読んで頭にきた市民活動家や左翼も少なくなく、ぼくの知っている左派雑誌も斎藤幸平とは名指ししないものの、明らかに斎藤のこの発言を念頭に“SDGsには意義がありますよ”特集を大規模に組んでいた。

 しかし極論を言って読む人の反応を引き出すのは斎藤の「手法」のようなもので、あまりそういうこの人の言葉尻にかかずり合わない方がよろしい。前にも書いたけど、斎藤は自著でボロクソに書いているバスターニの『ラグジュアリーコミュニズム』の推薦文を(ライバルとしての立場から)書いているような人で、そのへんは「いい加減」、文字通り「適切な加減」なのである。

 

 その思いをこの西日本の対談を読んでますます強くした。

 斎藤は対談でこう述べている。

 

経済界が熱心な持続可能な開発目標(SDGs)にしても、社会経済の抜本的な変革が必要だとの根本にある精神を無視し、経済成長、金もうけの手段にしようという形での議論の盛り上がり方に懸念を抱いている。

 

 ちゃんとSDGsの根本精神は「抜本的な変革」だと述べているのである。

 さらに斎藤はこの対談で、

温暖化対策を求めるグレタさんらの運動の中にも、成長にブレーキをかけて別の形の経済を回そうという脱成長の考えがある。SDGs「それを使って成長しましょう」ではなく、そういう動きの第一歩にすべきだ

とも述べている。SDGsの根本精神は斎藤の「脱成長論」と整合的であるという立場を表明しているのだ。

 現状では、自民党政権SDGsを前面に立てて、浪費的経済成長や監視型資本主義を煽っている。

 あらあら、まあまあ、うふふふ。

 その現状からいえば、現状としては「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』」という一面がまかり通っているのだと言えよう。そこにあまり目くじらをたてる必要はない。

 

 むしろ、前もぼくが書いたことだけど、斎藤のいう「脱成長」は発達した資本主義国での成長を基本的に否定してるかどうか、それは公正な結論なのかを気にかけたほうがいい。

 また、この対談では対談相手の江守が

資本主義の下で、市場の力を使って、排出を減らす技術を普及させることがないと、限られた時間の中での脱炭素は実現しないのではないか。

と述べているように、資本主義と市場経済との混同が見られる。これは広範囲に見られる混同であり、この混同こそが資本主義を手放せない限界を世の中で生み出しているのだと言える。

 斎藤はこの江守の発言に対して、「市場への介入が必要」という趣旨の発言しかしていない。ぼくが懸念したように社会主義とは市場の廃止なのかどうかを斎藤は明確に答えるべきなのだ。ぼくは資本主義の克服と市場経済の廃止は別の問題であり、市場経済を活用した社会主義こそ必要なのだと考える。

 そこを整理することの方が、より重要な左翼(マルクス主義者)の役目だと思う。