1. 1~2巻
これを読んだのは夏。
わたしの部屋はクーラーがないので、これを読むためにカプセルホテルに泊まり、1晩中くりかえし読んでいた。
オムニバス形式。
茄子にまつわる、形容しがたい話の集合体。
1読目はおもしろくなかった。しかし麻薬のようにじわじわきいてきて(知らないけど)、ついに中毒に。なんか入ってるのか、これ。
ひとつだけあげるとすると、「国重」という女の子、というか女性というか、が出てくる話。1巻の終わりにあって、2巻でもその続きの話がでてくる。
高校を卒業して、勤めもすぐやめた女の子。
キャッチボール仲間(元級友)の男の子とのしょうもないキャッチボールやゲームや引っ越しの手伝いの話がえんえんつづくという異常な漫画。
しかし、この女の子……、そうだなあ、どう言っていいのか。まったく無欲なのだ。「わたしさー、レンアイとかケッコンとかコドモ生むとか、そういうことしないで生きていこうと思うんだー」などとキャッチボールをしながら、男に言うのだ。
男も「へえ、それはいいなあ」と返す。
男の子も帰りの電車で「働かないで生きていけないかなあー」と軽くつぶやき、女の子に「無理じゃん?」と軽く返される。
こんな会話がありうるだろうか!
そう、この二人には、まったく「欲」というものが感じられない。といって、漂白されたり超越したりしているわけでもない。
この二人は一晩中ゲームをしている。
女の子の方が突然生理がきて男の子に深夜にタンポンを買いにいかせるのだ。これほど性的なものをまとわらせながら、二人のあいだにはなんの感情も行動も起きない。
そしてゲームが仕上がった時、国重は「仕事もこんなふうにできたらいいなあ、仲良しごっこじゃなくてさ」とつぶやく。
頭が悪いわけでもなく、超越しているのでもない。
不思議な女の子なのだ。どこでも見たことがない。
こういうものが描ける人を尊敬する。
2. 3巻
黒田硫黄は文化庁芸術祭マンガ部門で同著者の『セクシー ボイス アンド ロボ』(小学館)が大賞を受賞した。
以下、ネタバレあり。
黒田硫黄は、さっくりと「残酷」なものを描く。
2巻の「東都早もの喰い」では、復讐をしに屋敷に来た同心を、リンチ同然に殺してしまう。天狗の面をつけた屋敷づめの侍たちが「拙者も!」「拙者も!」といって人を斬る味をしりたがって斬る様は、いったい「笑うべき」ところなのか「戦慄すべき」ところなのか、迷う。
3巻でも、高間の同窓生で、宝探しをしているという松浦が、最後に暴力団っぽい男たちに拉致されて、コンクリートミキサーのあるところへつれていかれる。別のコマがはさまったあとで、暴力団らしき男たちが“用済み”顔で帰っていく。
冒頭の富士山の話で、茄子の化け物にのっとられたおそらく死んでいるであろう職員の描写がまた即物的ですごい。「これはー、佐藤さん?」という淡白ぶりがそれに輪をかける。
事故で死んだりするっていうのは、ほら、あれよあれよという間にその事故って現実が迫ってくるじゃないか。ついさっきまで、自分は全然別の現実にいたのに。そういう現実を引き裂いて、ものすごい力でどこからからやってくるみたいなところがあるだろう?
そういうのに似た圧倒的な力を感じる。
黒田のセリフまわしが達意であることは、すでにいろんな人が指摘しているが、それは黒田のリアリティをささえている根幹の一つになっている。
セリフとともに、黒田のリアリティを支えているのは、独特の擬音であろう。
3巻でも炸裂。
「ケヒケヒケヒケヒケヒ」(キャタピラ音)、「ウヨイーン」(トラックの扉の開閉音)、「ガミューン」(麻雀の自動卓の音)、「ぞあっ たあたあたあたあたあたあ」(夕立ちの音)。そうなんだ、キャタピラってたしかに「ケヒケヒケヒ」なんだよな。
こうしたリアリティに支えられているのに、物語のほうは、そんな制約から離れて自由自在だ。密着することもあれば、大胆に飛翔するときもある。読んでいる私たちは、不思議な感覚におそわれる。
どの短編も高いクオリティをほこっている。黒田が『大日本天狗党絵詞』以来、ずっとこの調子で描いていることにもびっくりだ。
しかし「二本松さん、どうして手で積むと強いんですか……」には笑ったなあ。
映画「茄子 アンダルシアの夏」を見て
映画「茄子 アンダルシアの夏」(高坂希太郎監督)を見てきた。
おもしろかった、というのが第一印象。
自転車の大部隊が走る圧倒感や、アンダルシアという地域をつたえるシズルは、漫画は漫画でよかったけども、やっぱり苦労してつくられた映像のほうがいいと思った。
たいして、セリフ回しの方は、声優特有の、ウェットで、いちいち重大感のある言い回しになってしまっていて、原作のかわいたテンポの良さが完全に死んでいた。あれほど当意即妙のセリフがおしげもなくくり出されるところに黒田漫画の凄さのひとつがあると思うのだが。
新宿東急でみたが、月曜の昼間ということもあって、正直、客は少なかった。20人くらいか。
このセリフのテンポのよさを見よ!
「ユリイカ」誌の黒田硫黄特集を読んで
「ユリイカ 詩と批評」誌の2003年8月号が、黒田硫黄特集をしていたので、さっそく買って読んだ。
こうした特集は待ち遠しかった。なぜにか。黒田硫黄を評することばがないからだ。受けた感覚を表現することばを見出せずに、ぼくは四苦八苦している。どうしても「部分」を論じるか、「うまくいえない」という自己告白をかさねるしかない。「茄子ってどういう話?」とか聞かれても困るんだけど!
まえに「クイック・ジャパン」誌で特集していたから買って読んだんだけど、なかなか「あ、これだ」っていうことばをみつけられなかった。黒田硫黄世界への知識は、ちょびっとふえたけど。そういう意味で、この「ユリイカ」の特集に大いに期待したわけだ。
結論的にいうと、ここにも書いたような、断片的だけど、ぼくが感じたいくつかの感触は裏付けられた、みたいなかんじになった。
まず、冒頭の、黒田をまじえた座談。いきなり歌人の穂村弘がカマす。
「この話を受けたあと気が付いたのは、いきなりで何なんだけど、何も言うことがないということでした(笑)。『クイック・ジャパン』の黒田硫黄特集で、担当編集者たちが語る黒田硫黄というページがあったんだけど、そこでもみんな『黒田硫黄には何も言うことがない』と言っていた。みんな何もいうことがないので、黒田さんの手料理を食ったとかそういうエピソードが多かったのが印象的で、その気持ちはすごくわかります。こっちの言いたいようなことは初めから超えてしまっている感じがする」
で、これは、先のぼくの実感にもよく合っているわけ。
冒頭の座談の興味深さは、語られている中身以上に、語られ方だった。
というのは、座談の前半で黒田の作品に解釈をほどこそうとする穂村と、アシスタントの西いづみの必死さにたいし、黒田ほうは、黒田の描く人物よろしく実にユルい。そっけなさすぎ。
「そう言えばそうだなあ」
「なんとなくかなあ」
「(どうして知らない世界のことを書けるんですか?)推理するんです」
「(穂村の披露した人物観察譚にたいし)そういう話を聞くと、俺はまったく外界に興味がないなあと思いますね」
けっこう笑えた。
その作品世界の解釈や自己規定というものに興味がないというか、嫌っているというか、とにかくぶっきらぼうに言い続ける。
ただ、そのなかでちろっと言ったことがあって、
「現象があって、それを見るときに、その背負っている意味とかをどんどん捨てていくと、すごく即物的に物が裸になっていくところがいいんです」
という箇所には注目した。ぼくは、このサイトにのせた『茄子』への感想文において、黒田の作品のなかでは、唐突で圧倒的な力によって、人がモノのように死ぬといったんだけど、黒田をつらぬくのは、ひとつはこの「即物主義」なんじゃないだろうか。
というのは、座談の後半で映画の話になって、「何が好きか」と聞かれるあたりではやはりまったくそっけない答えしかしないのだが、話が映画の具体的な中身に入ると、背景の歴史や写しこみについて、とたんに饒舌になるのだ。
「台湾に行ってクーリンチェンに行ってみようというので行ったんですけど、あそこは昔に本の軍属や官僚が住んでいたところで、古い瓦屋根の家が廃墟になっていて、勝手に入って写真とか撮ったりしました。映画のなかで屋根裏から日本刀とかライフルとか出てくるシーンが……」
「国共内戦後の国民党が台湾に大挙して来たころの話で、もともと台湾に住んでいる人と大陸から来た人が一緒に住んでいるんだけど、コミュニティはばらばらで……」
意味を剥ぎ取った「物」や、「事件」への、異様ともいえる執着を垣間見る。
この冒頭対談のあとに載っている黒田への単独インタビューでは、黒田は、高坂アニメでよかった点を聞かれて、やはり客観物へのこだわりをみせている。
「集団から飛び出すときの、ギアの重さや風の重さがちゃんと絵になっているのはすごいことです。それは世界的に見てもレアな映像ができたのではないかと思いますね」
冒頭の座談にもどると、黒田は、また、こうも言っている。
「架空の戦記物などはもっと即物的なレベルで考えたら、新鮮で面白くなるのにといつも思う」
穂村はこの態度を、近代短歌の「写実」になぞらえているが、その意味での写実は、封建的で前近代的な即自的な感覚――なんだかよくわからんが昔からそういうものだとされているという感覚――からいったん自分と対象物をひきはがして冷静にみてみようじゃないか、という科学につうじる態度だったとおもう。たいして、黒田の「即物主義」というのは、近代というものが、過剰に意味を付してきたこの世界を、いちど丸裸にしてみるという、ポスト近代な態度である。それが、アドバルーンではなくて、ほんとうに徹底しているという点において、読むぼくらは新鮮さをおぼえるのかもしれんなあ。
あとは、芥川賞作家の長嶋有のコメントに注目した。
擬音と女性キャラに注目しているのだ。
ぼくはこのサイトにのせた『茄子』への感想文で、「ケヒケヒケヒ」というキャタピラ音や「ぞあっ」という夕立ちのはじまりの音について書いたのだが、長嶋もまったくおなじ擬音について指摘しているのである。
また、国重という女性キャラのことをぼくは書いたけど、「登場する女性が魅力的」ということも長嶋は指摘している。「媚びず、軽やかで、ユーモアもある。下品ではない。超俗的なのだ」。
人の死が描かれる場面での即物性にも言及している。「『富士山の戦い』の茄子が襲撃する場面。『しゅぱあ』『ビシッ』『むりょりょ』などなど。人が大量に死ぬ瞬間の驚異や悲壮さが、字体からまるで感じられない」。
むろん、同じ論点があがるのは、黒田の作品がわれわれの意識から独立して客観的にそうなっているからであり、また、ぼくのカスのような雑文が、長嶋の作家としての論評のするどさにはとうていおよぶべくもないことはいうまでもない。ただ、それでも、これだけ多義的に解釈しうる作品群にたいして、同じところに着目する「同志」がイッパツで出てくると、なんとなくうれしいものなんだな。これが。
余談になるが、冒頭の座談のなかでの穂村の次のことばは印象的だった。
「たとえば『わたせせいぞう』とか名前を出すことが自分を傷付けることになる名前と、自分を高めてくれそうな名前とかがあって、『黒田硫黄』は断然後者なんだよね」
「黒田硫黄について書かれた文章って内容の正しさとは別に、黒田硫黄を選んだ自分を誇るみたいなところがあるんだよね」
これは大久保ニューの漫画『ニュー・ワールド』(青林堂)にでてくる主人公・倉田麻美子(よく見ると「くらたま」かよ)のコトバを思い出させる。ビョークというアーティストが好きな自分に酔っていたが、自分がバカにしていた「コギャルあがり」がビョークっていいよねと言ったのを聞いての告白。
「なんかね 自分の底が見えちゃって…
誰だって聴いたらスゴイって思うことなのに…
アタシただ“スゴい”って思うだけで自分が“特別”だと思ってたんだよね
ホントに“スゴい”のはビョークなのにね… アタシって最低」
ネットにあふれかえる「漫画レビュー」は、ぼくのものもふくめて、独力での輝きをしめせない、情けない自己顕示なのだなあ。
青土社 ISBN4-7917-0108-9 C9490