『天才柳沢教授の生活』19巻

 

 

 すでに松本幸四郎が演じるテレビドラマになったので、ご存じのかたは多いだろう。
 私はみていないが、ドラマにしやすい原作だと思う。そういえば『ハッピー・マニア』を稲森いずみ主演でドラマ化したのは最悪だったなあ。原作そのままを実写ドラマでやると、あそこまで上滑りするのかと、メタな意味で興味深かったのだが。

 山下和美の画風は、少女マンガの幻想的な雰囲気を残しながら、それでいて、青年マンガのような現実的で明確な描線をもっている。たとえば、山下の描く「瞳」は、岩館真理子のマンガのような茫洋さを残しているが、画風の全体は白っぽくはあるがしっかり書き込まれている。
 そうやって描かれた女性(または男性)が、とても美しいというのも、山下漫画の特徴だろうと思う。この19巻でも、戦後の焼け野原を艶やかな着物であるく女装の男性(少年)が登場するが、はっとするほど美しい(エロさがまるでないというのも特徴だが)。しかも切れ長の目の美人や美男子が多い。いまでこそ中田英寿のような「酷薄顔」が国民的英雄になる時代だが、バブル最盛期にこういう打ち出し方をしたのは、ちょっと変わっている。むしろパッチリ眼の男女というのは、凡庸なキャラの方に使われている。
 こういった要素からみて、山下和美は、男女の狭い枠組みをこえた、普遍的な作品を生み出しうる才能と技量をもった作家だと思う。

 女性誌「ヤングユー」に連載していた『摩天楼のバーディー』では、金のためならなんでも願いをかなえる「便利屋」トキオを主人公にしながら、その依頼人たちの人生を垣間見ていった。
 どれだけ金を払っても、それで帳消しにしたい過去や、かなえたい夢とは何か――金とひきかえに「生命の尊厳」を問うたり、「美の価値」を測ったりするのは、すでに手塚の『ブラック・ジャック』、細野の『ギャラリー・フェイク』でおこなわれてきた手法で、山下はこの体裁を借りた。
 しかし、山下にとっては、問い直したい尊厳や価値が明瞭にあるわけではない。一人ひとりがもっている人生そのものが面白く、それにわけいってみれば、それらが美しさや驚きに満ちており、その探究自体をしてみたいというのが山下の基本動機である。
 だから、『摩天楼のバーディー』は非常に面白い作品だったが、次第に便利屋トキオという存在の意義が曖昧になり、こういう体裁そのものが不要になっていった。

 これにたいして、『天才柳沢教授の生活』は、あくなき知的探究心と人間研究をつづける柳沢教授というフィルターを通して、この山下がきわめたいテーマを正面から扱った。こちらは息が長い、人気連載になっている。
 しかも、学問的概念によって世界を再解釈しようとする主人公の行動は、常識人からみれば、ひどく世間しらず、または逆に杓子定規のように映り、そこにおかしみや笑いが生まれる。読んでいても楽しい。

 とくに、中期の巻(5~15巻くらい)は、脂がのりきっている。作品としても完成度が高い。だいいち、笑える。
 たとえば、任意の巻、7巻をとりだしてみよう。
 このなかで教授の孫娘・華子(幼稚園児)と、娘の世津子(大学生)が、教授の寵をめぐってコドモじみた(片方は本当に子どもなわけだが)争いをする話がある。華子は、教授からもらった『経済学と技術革命』を読む「真似」をする。それを気に入らない世津子は、「ほー、ぼろぼろ。よく勉強してんじゃん」とからかい、「じゃあ、しーつもんっ。マネタリズムとはなんぞや」と華子に質問する。「マネタリズムとはね。あんたみたいなね バカな真似っ子 子猿のことよ」と嘲笑する。
 華子はそこで、パンツ1枚で石のように固まってしまうのだが、このシーンがなんともいえずおかしい。
 「マネタリズムをやめる」と叫ぶ華子にたいして、教授が「華子はマネタリストだったのですか?」「では、華子は、裁量的な経済政策の有効性には疑問を持っているのですね」と杓子定規に返すのも、いかにも教授らしい。これなどは、じっさいに学者が冗談めかしていいそうなことで、父をモデルにした山下が実際に父親に言われたのではないかと思えるほどだ。
 けっきょく、教授を追いかけて大学にいった華子は迷子になってしまい、そのことをみた世津子が自分の小さい時そっくりだと笑い、華子と仲直りをする。どちらも教授が大好きなのである。
 仲直りをした二人をみて、教授が「仲直りしたのですか?」「喧嘩の原因がまだ解明出来ないのですが」「(二人が)似ていることが喧嘩の原因になるのですか?」「分からないことをそのままにするのは納得出来ませんね」といぶかる。人間探究の精神と知的好奇心を充溢させた教授の姿をよく示している。

 19巻では、半分以上が、戦後直後、山上の邸宅でおきたエピソードに費やされている。
 終戦を前後して、社会の価値が激しく動揺する。きのうまで天皇のために死ねといってた教師が、きょうはマッカーサーに尻尾をふっている(このエピソードの史実性は疑問があるが、それはおいといて)。
 そのなかで、変わらずに、美や人間の好奇心を追求した建築構造になっている山上の大邸宅というものが、焼け野原を見下ろして屹立している。夫がつくったその邸宅のなかで、未亡人となった老貴婦人が、精神の門扉を固く閉ざして生活している。
 男娼とか陰間と石を投げられながらも、自分のしたい格好をしている、女装の美少年。モノクロの焼跡と対比的に、その少年の口紅や美装が浮かび上がる。「焼跡を色が駆けぬける」「なんてあでやかな」と老貴婦人がその様に驚く。
 若い教授は、そういう人生の美しさや勇気というものについて、発見し、自分を変える。そして教授のその発見自体が、こんどは老貴婦人の精神を解放していくのである。

 こう書くとそれなりにまとまっていて悪くなさそうな感じをうける。
 しかし。
 にもかかわらず、わたしが19巻に低い点数をつけているのは、最近の山下の作品は、以前のような、おかしみや笑い、わかりやすさが消え、人生の真実とかそこにある美しさというもの、あるいは何だかそういうコトバでもとらえられないようなものを描こうとする姿勢がぐっと前面に出てきているからである。
 そのこと自体は、決して悪いことではない。
 ただ、頭だけが前のめっている感じで、作品としてこなれていない。面白くないのだ。
 天皇玉音放送や、戦後の教育現場まで出てくるほどに歴史の現実と切り結ぶのだから、もっとそこに厚い下準備をしないと、本当に薄手の物語になってしまう。

 とくに、山下はモンゴルに行ってから、大きな転機をむかえたようで、作風が変わってきているようにみえる。短編もこの間いろいろ書いてはいるが、どれも成功しているようには思われない。満天の星空の下でセックスをするという、「シェルタリング・スカイ」ばりの話もあるが、「だから何だ」と言いたくなってしまう。
 たぶん、何かを生み出そうと苦しんでいる最中なのだろうとおもう。
 その出口が見えてこないのだ。

 だから、これほど低い点数にした。まことに残念。
 今後に期待したい。

山下和美 講談社 モーニングKC)


採点46点/100
年配者でも楽しめる度★★★★☆

2002年12月記