椎名軽穂『君に届け』

 今日(2010年10月8日付)の西日本新聞宮本大人連載「マンガは生きている」は椎名軽穂君に届け』だった。
 これね。これね。絶対俺の『君に届け』評への批判だから。もう100%、完全に、保証書添付で、何があっても間違いないから。だってさ、ほら、考えてもごらんよ。今、映画とかにもなっちゃって、飛ぶ鳥を落とす勢いの『君に届け』だよ? 『君に届け』批判なんか誰もしてないでしょ? なのに、「捨て犬拾って胸キュン」設定とか、これは少女マンガ的誇張・妄想だみたいな批判をわざわざ拾い出して、それを批判するのは、どう考えてもぼくへのアレでしょ。

 とかね。
 「この物語は私のために書かれた物語に違いない」という思い込みと同じで、まあそんなわきゃないんだけど(多分Amazonとかネットのレビューをいろいろ見ての結果でしょうか)、自分に向けたられた矢、ということにして話をすすめていくのです。論じるためのネタ、ということで、ひとつよしなに。

君に届け 1 (マーガレットコミックス (4061)) 『君に届け』って何? とか甘えるにも程がある輩のために、ちょっと設定だけ紹介しておいてやるけど、主人公の女性・黒沼爽子(さわこ)は一見地味で陰気な風貌ゆえに「貞子」とあだ名をつけられ、敬遠されている女子高生だ。その爽子と、吉田・矢野というちょっと柄の悪い女子2人が仲良くなっていき、次第に爽子をサポートするようになる。爽子はクラス一番の人気男子・風早に憧れている。

 ぼくは本作について次のような批判を書いた。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/crazyforyou.html



宮本の反批判

 宮本は、本作への批判について、次のような反批判を記している。

もしこの作品を、今の日本の現実からかけ離れたファンタジーで、だから現実に疲れ果てた女子たちがそこからの逃避として読んでいるのだと思っている人がいるなら、その人はむしろ、スレてしまった自分の目に、何かが見えなくなっていることに気づかなくなってしまっているのだと思う。信じられないかもしれないけど、ここに出てくるような子たちと同じ気持ちを、内側に抱えている子たちって、本当にいるよ?(前掲、強調は引用者)

 もう一つは、風早の造形にたいする批判への反批判である。

…普通に考えたらひたすらまだるっこしい展開を、そうだよね!女友達と放課後にラーメン食べに行くだけでも貞子にとっては感動イベントだよね!と共感させる力が、この作品にはあるのだ。あ、爽子だけど。
 それはやはり、日本の少女マンガが積み上げてきた心理描写の技術を、作者である椎名軽穂がフル活用して、当人にとっては一大事な、微細な感情の揺れ動きをしっかり捉えているからだ。
 主人公の中にある、友達とうまく打ち解けられるだけでこんなにうれしいなんて!という感情が、実はマンガ的な誇張でも何でもなくて、多くの読者にリアルに響くものであることを、椎名が知っていたからだ。
 物語の冒頭で、お約束通りに捨て犬を拾ったりして、一見、ザ・少女マンガの王子様、な風早が、踏み込んで描かれてはいないけれど、ちゃんと「男子」の生理を持った存在として捉えられていることが、読者にも伝わっているからだ。(同前)

リアルな妄想として

 ぼくは第一点目について、上記のURLの記事で「少女の妄想の中軸」という言葉を使ったり、「極端に描いてるけど」「非常に可笑しみのある極端化をしている」とか書いているので、何となく宮本の批判の対象になっているような気がする。

 しかし他方で「思春期や青春期の女性にとっては誰にでもある課題だといえる。普遍的だ」とか「人の役に立てるってことで自分の居場所を見い出していくっていう感情の描き方がリアル」とか書いている。
 上記URLの記事を書いたのは1巻が発売された段階である。1巻でここまで言えてるのってすごくね?
君に届け 5 (マーガレットコミックス) そして、5巻が発売されたころにぼくが書いた「しんぶん赤旗」での評論は以下の通りである。

自分が他人の役に立ち、また他人の温かさを感じて、不器用に喜ぶ爽子の姿に僕らは胸うたれる。友情を媒介にして自分の居場所を作り出していく描写がこの作品の大きな魅力だ。(前掲紙2007年12月26日付)

 『君に届け』は流行っているマンガなわけだが、それへの対し方は、『ONE PIECE』に対するそれとはまったく違う。『ONE PIECE』については「どこが面白いのかさっぱりわからない」という感じなのだが、『君に届け』は5巻を読んだ段階でかなり面白いと感じていたし、12巻まで読んでいる現在もやはりその評価はかわらない。これが人気を持っているというのは、理屈としてではなく、感情的によくわかるのだ。

 ただこれを「妄想」というかどうかは単なる最終表現の違いだけだろう。
 強い妄想というのは、現実に根も葉もない「日本の現実からかけ離れたファンタジー」として成り立つのではなく、一つひとつの描写がリアルな共感(や反感)を引き起こすからこそ成立する。「リアルな妄想」というわけである。
 だってさあ、困難はあるとはいえ、こんなに驚異的うまさに自分の居場所が確保されたりとか、恋敵にあなたがライバルでよかった的なことを泣きながらいわれたりするのって、どう考えても妄想でしょ? いやそういう感情と理想を抱えているからこそリアルなんだけどさあ。

 だから、この点では宮本とぼくの間にそれほど大きな差はないのだ。


風早の造形の大転換

 問題は風早という形象のリアリティである。ぼくの上記URL記事でもボロクソだし、「しんぶん赤旗」でも次のように酷評した。

それほどにいい味を持つ作品なのだが、ぼくは正直、爽子が憧れる男子高校生・風早の造形の「あまりのリアリティのなさ」に愕然として評価が低かった。(同前)

 しかし、その記述の後に次のように続けた。

しかし、連載誌の読者人気投票では風早がトップ。三十男の自分と十代少女たちの感性のギャップにさらに愕然となった。(同前)

 宮本にいわせれば、「スレてしまった自分の目に、何かが見えなくなっていることに気づかなくなってしまっているのだ」というところだろうか。悪うございましたね。

君に届け 8 (8) (マーガレットコミックス) ただ、この点については宮本の記述は前述の通りで、あまり多くを語ってはいない。
 「ちゃんと『男子』の生理を持った存在」というのは、8巻以降の展開であろう。8巻から11巻にかけて、風早の告白劇が展開されていくのだ。風早は、ぼくがリアリティがない、と感じたような「平等主義者」ではなかったことを風早自らがいらだちとともに告白する。

……平等なんて……
…………
一度も接したつもりはない
爽やかとか平等とか
そんな風に思われたかったわけじゃない
俺 黒沼がすきだ

(椎名前掲書9巻、episode35)

 ここで風早の行動を作者は再解釈してみせるのだ。いわば「上書き保存」である。風早は博愛主義の観点から爽子に優しかったのではなく、爽子が気になって、好きで、独占したかったからこそ、優しかったのだ、と。恋愛という独占は究極の反博愛主義であって、ここでものすごいハンドルの切り方を作者はしているのである。

 椎名の念の入りようは格別である。
 11巻episode44において、1巻からの風早の行動をすべて「黒沼が気になる・好きである」という観点から、風早ヴィジョンで書き換えていくのである。すげーよ。

 ちなみに、風早が爽子を好きになっていく中核は、強制ではなく自分の発意で人のために働いている爽子を見て、この人は自分の真実の気持ち以外からは出発しない誠実な人だと思うのである。真善美の統一という、誠実な少女こそ最終的には「勝利」するという少女マンガ倫理の伝統がここにはある。

 ぼくが5巻まで嘘くささを感じて仕方なかった風早の造形は、8巻以降一気に書き換えられていく。しかも担任のピンが“男にはみんな下心があるんだぜ、当たり前だ”と喝破し、風早もそれを認める。
 こうしたトータルが、宮本のいう、「踏み込んで描かれてはいないけれど、ちゃんと『男子』の生理を持った存在」ということなのだろう。

 ただ、それでもなおぼくには風早という人物は、「ちゃんと『男子』の生理を持った存在」として活写されているようには見えない。いや……少女的にはこれで十分なんだろうけどね。「踏み込んで描かれてはいない」んだからないものねだりかもしれない。
 まあもうそこまで接近しろとは言いませんよ。男性キャラクターについては、読者である少女たちが楽しんでいるんだから、それでいいじゃん。もう四十になろうという男が何か不平を言ったからどうってこともないんじゃねえの。もうね、俺、「スレてしまった自分の目に、何かが見えなくなっていることに気づかなくなってしまっている」ということでいいや。いいでしょ。それで。

 と、勝手に仮想敵扱いしたという設定で話をすすめさせてもらいました。宮本先生すいません。