志村貴子『娘の家出』5巻を読む。
『娘の家出』は、家出をしたがる年頃の思春期の少女たち、およびそこからつながっている老若男女たちのオムニバスストーリーである。
Pちゃん
「Pちゃん」に目がいく。
「P」はネットゲームのハンドルネームである。小さなオフ会仲間をつくっているうちの一人の女性で、2児の母親である。
5巻でオフ会仲間の千秋こと「ロキ」に酒場で会うシーンに登場する「Pちゃん」の顔がとても素敵(志村同書5巻、集英社p.156、右図)。美人で知的。
だけどやわらかい感じがするのは、p.163で「ロキ」から惚れてしまったと告白されて、戸惑っている顔、そしてそのあとの柔軟なやり取りに、まいってしまうからだ。
困難とか戸惑うようなことに直面した時にする、人間的な反応だから、じゃないかな、と思う。
驚きすぎる、クールすぎる、という反応を、今ぼくは欲していないのだろう。
「そりゃ、母性的な包容力を感じるってことじゃないの?」「あんたはロキと同じように、パートナーにお姉さんとかお母さんを求めるんんじゃないの?」……うぅ、そうかもしれん。
ロキが告白したあとのあしらい方に確かに「お母さん」を思わせる余裕がある。
だけど、実際に「Pちゃん」と付き合ってみたり、結婚生活を送ってみたら、きっと「Pちゃん」は理想像として描いているような「Pちゃん」ではないのだろう。
余裕のなさや融通の利かなさ(マンガで言っているような、不倫をはじめとする一つの何かの倫理観に対する極度の不寛容など)を見せられることになるに違いない。
こういうのを現実に落とし込んだところが、うちのつれあいではないのか。
うん、それは「妥協」という言い方もできるんだろうけど、現実と格闘すれば、現実が雑多で豊かなもので蘇生されていることを知り、「理想像」として描いたものの貧弱を思い知るのである。
「Pちゃん」というのは、ぼくの今の理想で憧れでありながら、たぶんそれはきっと貧しいものなんだろうなと予感する。
ロキ
「ロキ」はどうか。
ロキは惚れっぽい、レズビアンの女性である。
ありていに言って、性的な関心の対象として読んだ。
しかし、それ以上に、タレ目でだるげに自分のおかれている状況、とりまかれている環境を分析したり達観したりするのが良い。「タレ目でだるげに」というのは気負いがないということだから。
ただし、「達観」と言っても自分をコントロールできているわけではない。やはりオフ会仲間に加わって新しい、若い恋人となった「はるる」こと春奈に「捨てないで…」と涙で顔をぐしゃぐしゃにしてすがったり、ダメとわかっていて「Pちゃん」にホレてしまうから。
ぼくがロキとどうにかなりたいのではなく、ロキのようになりたい。電車のホームで一人でぼくが歩いているとき、ぼーっとしてみる。すると自然にロキのような気持ちになってみる。
「あー… さようなら 安くておいしいカジュアルフレンチ…」
みたいな調子で今自分に起きている問題とか課題をぼんやりと考えてみる。なんだか冷静になれたみたいでひどく落ち着くのである。
村木理央
村木理央。
女子高生。
身長が大きくて、ガタイがしっかりしているのが村木のコンプレックスであるが、そのこと自体には何の関心も起きなかった。
しかし、新しい高校になって、初めて友だちになった女の子・りおんが、昼食をとりながら語るエピソード、すなわち中2のころのクラスが一番居心地がよく居場所だったけど、中3になってみるとクラスが分かれ、居場所性が失われてしまった、ということに村木が「わ… わかりすぎる…」と心の底から共感を示すシーンを興味深く読む。
娘(小3)は、前の学校の2年生のクラスがよかったとしきりに言う。
ぼくにも思いたあることはある。
居場所はメンバーによってのみ支えられているのではなく、タイミングや場所の空気など絶妙な条件が重なって成立するもので、ある意味で「奇跡的」に成立していると言えるからだ。
久住先生
そして久住先生。
独身の、ジャニーズっぽいアイドルグループ(ビビッド・スコア)に入れ込む、しかし学校職場ではおくびにも出さない、不器用な生真面目さをもつ女性教師。
5巻ではなく3巻・4巻がよかった。
3巻では、学校に来ない、担任クラスの女子高生(美由)にラインで話しかける(学校には承諾済み)。自分も学校にいかなった時期があり、そんな気持ちを不器用ながらメッセージで送り続けるのだが「どうしてこんな陳腐なメッセージを送り続けてるんだろう」「こわいよね こんな一方的に 毎日…」と自問し半泣きになる。最初以外に美由からのレスはないのだ。
しかし、ひょんなことから知ってしまった、美由も同じアイドルグループ、ビビッド・スコアに熱を上げていることを、ラインで伝えてしまうと、とたんに「ソッコーレスポンス!!!」が返ってくる。
やがて、チケットが取れなかった久住先生は、美由の誘いでコンサートに一緒に行ってしまうのである。4巻だ。
そしてノリノリ。
意気投合する。
「せ 先生…
わたし
がんばって卒業資格取ります
それでできれば
大学にも行きます
そしたら わたしと
友達になってください」
この展開は安易すぎる、という指摘もあろうが、ぼくは胸がすく思いだった。こういう展開が読みたかったのである。心底期待をしていた。そんなに甘くない、などとはしてほしくなかった。これこれ、こうでなくちゃ!
泣きながら送ったメッセージが、格闘の末、生徒に伝わったのである。
ビビッド・スコアというサブカルチャー的欲望にまみれた久住先生は「本当の久住恵」ではないのか。いまの教育をしばっている表面的な「公正」が破壊され基底が露出した時、本当の、人間的な心情が顔を出す。そういうものの交流が教育ではないのか。
そういう青臭さがとても心地よいのである。
この流れは何とも爽快で、感動的であった。