髙井章博『“イヤな”議員になる/育てる!』

 2022年に刊行された髙井章博『“イヤな”議員になる/育てる!』(公職研)を読む。

 

 

 選挙勝利から議員になり、議員としてどう仕事をするかまでを、市議会議員経験者、そして選挙コンサルとして書いている。菅直人系の地方議員経験者。

 いろいろ興味深い箇所はあったが、やはり一番食い入るように読んだのは「票を獲得する方法」のところだ。

 それほど突飛もないことは書いていない。むしろオーソドックスのことなのかもしれない。しかし、いまぼくはそのことを、わりと解像度高めの話でしてみたいと思っているのだ。

 「解像度高め」。

 似ているんだけど、その方法は違う。

 そういうことを言ってもらいたい。何かの理屈をつけて。

 それが合っているか間違っているかはどうでもいいんだ。

 むしろ違う流派の人からそう突きつけられて、「それは正しいね」とか「いや、それはおかしんじゃない?」とか議論してみたい。同じ「流派」の人は、すぐ同調したり、頭から否定したりしてしまうからダメだ。

 髙井の言うところを聴きながら、対話してみよう。

 

選挙に出ると言うと、「とにかく挨拶廻りをしなさい。」とアドバイスする人が多いのですが、実際にはそんな簡単なものではありません。(髙井p.46)

 「握手を●人としなさい」というアドバイスと同じで、有権者と本人が接触する機会を増やすことは票を増やす上で効果的ではないのだろうか。

あなたは、たった一度、突然訪ねてきて、インターホン越しに「よろしくお願いします。」と言って帰った人のために、投票所へ行きますか?(同)

 うん、まあ…行かないかな。でも全く知らない人よりはよくないか?

 まるでその答えを見透かしたように、髙井は批判する。国政選挙では例えば野党第一党から選ぼうというような思考方法で探すかもしれないが、

市議会議員選挙のように、何十人もの候補者がいて、しかも同じ政党から何人も立候補するような場合は、全く違う物差しで判断せざるを得ません。(髙井p.46-47)

 髙井は、候補者選択の決め手はふた通りあるとして、第一に、政党・期数・性別などの属性、第二に、自分との人間関係の距離、という二つを示す。国政や都道府県知事は第一だが、一般の市町村議会議員選挙は第二だという。

 おいおい、じゃあ、県議と政令市議はどっちなんだ!?

 髙井の書き方からはわからない。

 しかし、例えそうだったとしても、自分との距離が決め手であるなら「挨拶廻り」は有効なのでは? と思ってしまう。

 そうではない、と髙井は主張する。

 そこが髙井の考える解像度なのだ。要するに、本人が一回挨拶をしただけでは、人間関係の距離が縮まらない、まだ遠い、ということなのだろう。

 髙井のいう票を集める極意は、次のとおりである。

全く知名度がなく、元々の人間関係が存在しない候補者であっても、ある一人の有権者に対して手を変え品を変え一〇回接触すると、よほどの理由がない限り、その有権者は自分に投票してくれるようになる。(p.50)

 これだ。「手を変え品を変え10回接触」。

 共産党統一地方選挙に向けて、第6回中央委員会総会で、次のような方針を打ち出した。

「折り入って作戦」とは、"後援会員、支持者、読者に「折り入って」と協力を率直にお願いし、ともにたたかう選挙"にしていくということです。

 京都府の伏見地区の鈴木貴之委員長からは、次のような報告が寄せられました。

 「『折り入って作戦』を今回の選挙戦で3~4回と繰り返し行い、直接訪問を支部が行うことを重視しました。対話を通じて党勢拡大に結び付き日刊紙、日曜版で連続前進につながりました。5月~7月『折り入って作戦』と『集い』を繰り返す中で6支部7人の入党者、そのうち50代以下5人を迎えることができました。繰り返し『折り入って作戦』を行うことで、『積極的支持者』をつくることができたことは大きい。選挙最終盤、選挙後も『はがきをもらい、勇気が出た。私も10人に訴えた』『家族にも広げた』『投票所に連れていった』などの多くの反応が出されました」

 ここには「折り入って作戦」を、「"気軽に""率直に""何度でも"を合言葉」(5中総決定)にとりくむことがいかに大きな力を発揮するかが、生きた形で示されています。直接訪問して対話すること、「集い」を繰り返し開いて結びつきを広げることの重要性が語られています。

 正直ウザいのでは? と思うかもしれない。

 ウザいと思う。

 それに対して、髙井はここでも解像度高く、次のように指摘する。

この法則のポイントは、「手を変え品を変え」という部分です。当たり前のことですが、単純に、「お願いします。」という電話を一〇回繰り返しても、煩わしがられるだけで、却って逆効果です。「しつこい」、「煩わしい」、「鬱陶しい」と思われないように、様々な方法で、何かと理由を作って働きかけをすることが肝要です。また、投票依頼以外の「お願いごと」を色々とすることで、有権者に「この候補者は、私のことを頼りにしてくれている。」という意識を持たせることができます。多くの有権者にとって、他人から頼られることは、悪い気がしないものです。(髙井p.50)

 髙井は「これはあくまで一例」(p.51)として、次のような「10回の働きかけ」を例示する。

  1. 後援会の入会資料(リーフレット)を郵送する。
  2. 候補者が訪問して後援会入会依頼や知人の紹介依頼をする。
  3. スタッフが架電して入会依頼・紹介依頼のダメ押しをする。
  4. 政策ビラを名宛てで郵送する。
  5. 街頭演説・駅頭演説を見せる。
  6. 後援会事務所開きの案内をする。
  7. 選挙運動用通常はがきを用いた知人紹介を依頼する。
  8. ボランティア等による協力を依頼する。
  9. 選挙事務所開設の案内をする。
  10. 選挙期間中に電話で投票依頼をする。(髙井p.51)

 そしてそのさいの注意ポイント。

ただ、一つ注意点が合って、それは、街頭や駅頭で姿を見せる場合を除き、すべて、その有権者に対して「名宛て」で行なうことが必要だということです。(同)

 共産党の場合はどうか。共産党は「後援会」をゆるく考えている。「後援会ニュースを読んでくれる人」(後援会ニュース読者)を、いわば「準後援会員」として扱っており、そこにファン度を高める働きかけをしていくのだ。よく飲食店とか美容室などで一見さんに対して、メールやラインのニュースの会員の登録をお願いするという、ハードルの低い入り口を用意するのに似ている。

 ここで、小さなことであるが「名宛て」をしている組織とそうでない組織がある。

 「名宛て」そのものはたぶん小さなことだろう。

 大事なことは、組織の側が、ニュース読者になった人を「個人」として認識し、それを尊重するような働きかけをする精神を持っているかどうかなのだ。「犬の赤ちゃんをもらったそうですね」とか「お孫さんは北海道で警察官をされているとか」のような認識。

 そして、よく読めば、髙井のいう「10回」の中には、明らかに「郵送」(名宛てポスティング)と書いてあるものが2項目あるし、電話と明記されているものも2項目ある。直接訪問を必須としているのは1項目だけである(2番目の項目)。

 京都の伏見地区の経験は直接訪問を3〜4回しているのだから、髙井のいう取り組みよりもひょっとしたらハードルが高いと言えるのかもしれないのだ。

 

 

 そして、その働きかけを早くしなければならない。

私が市議会議員選挙に初めて立候補することになった時は、いわゆる「落下傘候補」だったこともあり、選挙区内に個人的な人間関係がほとんどありませんでした。そこで、私に出馬要請した菅直人衆院議員の支持者宅を中心に挨拶廻りしました。その時、非常に多かった反応が、「ああ、菅直人さんのところから出るんですか。それならぜひ応援してあげたいところなんだけど、残念ながら、つい先日、地域の〇〇市議が挨拶に来られて、投票するって約束しちゃったのよ。あなたが先だったらよかったんだけど。ごめんなさいね。」というものでした。そういった場合の「地域の〇〇市議」たちは、政治的なスタンスが当時私が所属した政党「社会民主連合」や、菅直人議員とは全く違っていることがほとんどでした。(髙井p.47-48)

 ところが他方で、髙井はこんなことも言っている。

 2年も3年も前に行っても有権者は忘れてしまうし、その訪問自身を選挙と結びつけて考えられない。そして2年前に行っても忘れられて、1ヶ月前に来た別の候補の方が強く印象付けられる。だから「早ければ早いほどいい」というのは考えものだ、と。

有権者が特定の選挙の実施を意識するのは、どんなに早くても約一〇ヶ月前、「選挙があるぞ」という空気が地域社会に広がってくるのは、せいぜい二〜三ヶ月前のような気がします。(髙井p.27)

 統一地方選挙は来年の4月。半年あるからまだ十分間に合うというか、今から始めてちょうどいい。

 ただ、それは票をお願いする話。

 選挙を意識した活動そのものは1つの期である4年間ずっと行う必要がある。

 例えば2期目のジンクス。1期目は当選するが2期目は落ちる人が多い、というジンクスがあるのだが、髙井は新人を通そうという「新人期待層」がいて、新人にボーナスが与えられるのだと考え、2期目が難しい理由を次のように述べる。

この新人期待層は、常に議会の新陳代謝を期待しているので、ほとんどの場合、現職や元職の候補者には投票しないからです。ですから、初めての選挙で、運を天に任せるような戦い方をして幸い当選した場合、特に何もしなければ、確実に二期目の選挙でガクッと票を減らし、落選の憂き目を見る危険性があるのです。(髙井p.55)

 髙井はそこで2期目を目指す議員(あるいは一度通った現職議員全てに通じることだが)に何をやれというのか。

そこで絶対にやらなければならないことは、良質な名簿づくりです。なぜ名簿づくりが重要なのかというと、その名簿が、当選後(あるいは落選後)、次の選挙までの間にお付き合いする基本となるからです。(同)

そのため、選挙の際に反応がよかった人(=支持者)を名簿化し、その人たちに、定期的に活動レポートを郵送したり、活動報告会を開いたりして、関係性を維持するのです。そうして、日常的に頑張っている姿を見せれば、投票してくれた支持者は安心し、次回の選挙でも応援しようという気持ちになるのです。(髙井p.56)

 え? できてない?

 しょうがない。

 今からでもやるしかないだろ。

 共産党の人たちは、よくもわるくも「住民全体のことを考える」ので、例えば議会報告のチラシなどは住民全体に配布する。それはそれで重要な仕事だとは思うのだが、「名簿をきっかり整備してそれを日常的に増やし、常にファンサして耕す」という観点が薄い。

 昔は党員が若かったので、PTAだのサークルだの市民運動だのにつながりがあった。それが意識的にか自然成長的にか、支持者のリストになっていた。しかし、高齢化するとそういうつながりが次第に弱くなっていってしまう。

 だからこそ意識化して名簿にしなければならなくなるのだろう。

 

 だが、名簿は自然には増えていかない。

 この名簿を増やす方策については髙井は何も書いていない。

 どうしたらいいのか。

 それは、政党や議員が住民のために何かしらの働きかけを行った時に、住民とのつながりができるわけで、外に対しての働きかけ、つまり住民の要求を取り上げた時以外にはなかなか増えようがない(無差別の電話などでたまたま潜在的な支持者を見つけることはあるだろうが)。

 共産党においては、第6回中央委員会総会が次のように提起している。

●すべての支部が、12月末までを一つの節にして、国政問題とともに、身近な住民要求・地域要求にもとづく運動にとりくみ、地方議員団・候補者と協力して、その実現のために力をつくします。

 まあそれしかないだろうなと思う。

 しかし、政治運動にハマっている身からすれば、実は要求を実現させるための社会運動をやっていろんな人と出会うことこそ、政治をやる醍醐味であって、このプロセスは活動を面白くさせることができるはずのものなのだ。

 …と、そんなことをいろいろ考えさせてくれる本であった。

松田舞『ひかるイン・ザ・ライト!』3

 中学生がオーディションを受けアイドルをめざす物語、松田舞『ひかるイン・ザ・ライト!』は、ぼくの最近のお気に入りである。

 なんども見返す。

 それは好きなコマが多いからである。

 

 主人公と同じ地元で年上の友人であり、かつアイドル経験者でもある西川蘭。

 蘭の所属するオーディションのチームは、本番直前、ガチガチに緊張してしまう。そのとき、同じように緊張しているはずの蘭は、リーダーであることを思い出し、自覚を取り戻して、みんなを励ます。

松田舞『ひかるイン・ザ・ライト!』3、双葉社kindle版109/185

 この時の、髪をかき上げながらみんなを励ましている蘭の顔と、「こーんなに可愛くしてもらって」というセリフのくだりがとても印象的で頭から離れない。

 蘭は一旦みんなの不安をすべて口にして見せてその不安に寄り添う。しかし不安を全て言い表すことでそれを簡潔に客観視させる。その上で、この笑顔で今の自分たちのプラス面を再度冷静に見つめさせ、最後は「だって曲が終わる頃には——見てる人全員 私たちのファンになっているんだから」とそのプラス材料の中に潜在していた自信を引きずり出して理想として展開してみせる。それはそのままメンバーにとっての最高の暗示となる。

 空虚な言い張りではなく、昨日まであった練習での根拠を再開花させるのである。

 蘭たちの歌い踊る℃-ute 『羨んじゃう』、ひかるたちの歌い踊る三浦大知 「The Answer」など横で流しつつ、そんなくだりを読む楽しさよ。

 

 

 そんな蘭はダンスも歌もそつなくこなす。しかしオーディションを取り仕切るプロデューサーの審査員に「器用貧乏ちゃん」とあだ名をつけられてしまう。

 蘭は審査員に実力を認めてもらうことに必死で、パフォーマンスの精度を上げようとする。しかし、アイドルにとって大事なことは「その場にいる全員を虜にして忘れられなくしてやる」と思うこと、あるいは、たった一人の人であっても自分を見て、自分が歌って踊っていることを楽しんでくれているなら、その人のために届けようとすることだと思い出す。

 前のアイドルグループに所属していた時、後列で大勢の中で踊る自分が客席から見えているだろうかと不安に思いつつ、客席に「らん」という自分を応援してくれるうちわをもつファンを見つけた時

あの瞬間思ったじゃん

私が歌って踊ることで

たった一人でも

喜んでくれる人の存在を

知ってしまったら

 

こんなに楽しいこと

一生やめられないって

 

と感じたのだ。

 (年齢にふさわしく)ぼくは小泉今日子の「なんてったってアイドル」の「アイドルは やめられない」という歌詞をなんとなく思い出した。

 見てくれている人がいるからアイドルは心の底から楽しんで笑えるのだ——それがアイドルのパフォーマンスの核心であるのだから、パフォーマンスの精度を上げること自体に目的が向かってしまうことは本質を忘れて技術に走ることとなり、それが「器用貧乏」の批判を生んでいるのだと蘭は気づく。

 本作では、見てくれている人を意識したコミュニケーションであり、「見てくれている人との関係」にこそアイドルの本質があると見る。

 主人公・ひかるが、歌を「人に届ける」という歌い方を知って、その端緒をステージで味わうシーンも3巻にある。そのとき、ひかるはもしもっと遠くにまで届かせることができたら「どんなに気持ちいいだろう」とその快楽を知ってしまう。

 それも同じことだろう。

 

 ぼくはもちろんアイドル志望ではない。

 だが、ちょっと思い当たるフシがあった。

 候補者をやって演説をしたり、インタビューに答えたりしたときに、自分の言葉に反応してくれるオーディエンス、取材陣に対して、自分の中の快楽度が上がっていき、そのことによってますます自分のパフォーマンスが上がっていくような一種の万能感を覚えた。

 いつもは自信がないような、おどおどしたはずの人格なのに、まるで別人のようになり、しかも自分判定であるけども性能がどんどん向上していく気がする。すごい。どこまで自分は行ってしまうんだ、みたいな。それが驚きであり、楽しみでもある。(いや、客観的にどんなひどい出来かもしれないんだけど、そう思っちゃうわけだよ。)

 かつてぼくは、演説をライブに喩えたことがあるけども、そういう感覚が抜けないのだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 当然であるが、候補者というのは当選したら議員や首長になるのであって、職業的政治家になれば演説やインタビューだけやっていればいいというものではない。それは政治家稼業のごく一部にすぎない。

 そのことは承知の上で、「見ている人」との関係で自分がゾクゾクしてしまう感情を持ったことは否定できない。

 自分が見てくれている人を意識し、見てくれている人の反応が自分に反作用して自分をまた変えてしまうのである。そのインタラクティブな関係が「アイドルは、やめられない」という快楽を生み出すのだろう。

 そんな勝手な空想をしながら、ひかるや蘭の脳内で生じる妖しく、抗いがたい耽溺のことを想像して本作を読んでいる。

 ひかるが自分の目標を聞かれ「スーパースターになることです」と答えるのは、ホラでもなんでもないのだ。そして、作中でプロデューサーが言うように、そういう世界で自分の才能を限界などを「冷静」に見ずに、圧倒的格上の存在に挑戦し続けてしまう「真っ直ぐなバカ」こそが栄冠をつかめるのだ、と、ぼく自身に起きた、短い期間での小さな変化を思い出してしみじみと納得するのである。

 

 そして、松田舞の前作『錦糸町ナイトサバイブ』も続けて楽しんでいる始末だ。主に歯科マンガとして。

 

 

 

いしいひさいち『ROCA』

 ネットで話題になっている、いしいひさいち『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を読む。朝日新聞を購読していたときにごく一部を読んだ記憶がある。

 高校生だった吉川ロカがポルトガルの国民歌謡「ファド」の歌い手として、世界に発見されていくまでを、いしい特有のギャグ4コマに載せながら描き出す。

 ある隠れた才能が見出される、というストーリーは好物なので基調として本作を楽しめた(というか最近その種のマンガばかり読んでいるような気がする)。

 

 (以下ネタバレあり)

 ラストについて。

 スターダムへと駆け上がるロカに、同級生かつ不良で、しかしロカのよき相談相手となってきた柴島美乃は突然“絶縁状”を突きつける。自分のような「ヤバイ筋」のものが近くにいては問題になるからもう連絡するな、というのである。

 ロカは、柴島の「配慮」にどう判断したかははっきりとは描かれないが、おそらく受け入れたであろうと思われる描写が続く。苦渋に満ちてそれを受け入れるのである。自らの内的なエネルギーが消尽してしまいかねないほどに。

 そして柴島がいた会社の、そしてロカたちが練習を積み重ねてきた倉庫が焼けてしまったという会話とともに、一部が焼けたロカのポスターが大写しになってラストとなる。

 そこで初めて、ぼくらは、この物語がロカをとりまく人々、とりわけ柴島をはじめロカがメジャーになるまで支えてきた地域の人たちの物語であったことに気づく。ロカが活動をしていたストリート、ロカの才能をいち早く見出してライブをさせたキクさん食堂と、そこに集う人々、高校の音楽教師…などなどである。

 倉庫が焼失したことはそうした牧歌的な時代が終わったことを暗示する。

 ラストで一つの時代・世界の終わりを明確に提示することいよって、はじめはロカに奪われていた視線が、ラストにきてロカを支えて取り巻いていた人々へ移し直され、物語は最初にもう一度戻った時に、それはロカを支える人々の物語であったと思い知らされるのだ。

 ロカは自分のことをつい「わし」と言ってしまう。メジャーデビューしたファド歌手にふさわしくないその一人称をなんとかやめさせようと音楽会社は必死である。なのに、「わし」と言ってしまう。

 しかし、おそらくもうロカは「わし」とは言わないのではないか。

 「わし」はロカの柴島的なものとの接続を示す象徴とも言える。それはもう失われたのだ。

 

 ところで、いしいは所々でロカを美しく描く。

 ことに表紙は美しい。

 そのような筆力が、ロカの歌唱の美しさをグラフィックで提示するという離れ技をやってのけているのである。

「社会科学の文献」とは

 ぼくのこのツイートについての雑感を書く。

 な…何を言っているのかわからねーと思うがわかる人にしかわからない話なので、わからない人は気にしないでくれ。 

 さて。

 「社会科学の文献」とはどういうことであろうか。

 

 自分が書いたものが「科学」であるということは、ポエムや同人マンガではない、ということだ。願望を書き連ねたり、主観を垂れ流したりするものではない*1のである。

 虚構にもとづく創作は、正しさを問われない。

 しかし科学は正しさを問われる。厳しく問われる。

 「科学」なのだからといって、無条件に正しいわけではない。別の言い方をすれば、「この文献は科学的です」と言えばその文献がすなわち正しいことを証明するものではないのである。

 「これは社会科学の文献です」という扱いをするということは、正しさに対する覚悟を要求する。

 その覚悟、決意は実に恐ろしいものだ。

 「決定された指示や命令」ではないからである。

 「ルールだからこれに従いなさい」「みんなで議決したものだから正しいと言って回りなさい」という言い訳は一切通用しない。

 学問の世界に行ってみればいい。学会で発表されている論文は全てそのような覚悟にさらされる。「これは●年の●●学会で決議された文書なのでそれは正確性の前提となります」とか「これは●●先生という大権威のおっしゃっていることだから無条件に真理です」とか絶対に言えない。どんな人がどんな批判をしてもいいのだ。もちろん批判者も批判にさらされる義務を持つ。科学という土俵において。

 

 マルクスは『経済学批判 序言』*2のラストでこう述べている。

経済学の分野における私の研究の道筋についての以上の略述は、ただ私の見解が、これを人がどのように論評しようとも、またそれが支配階級の利己的な偏見とどれほど一致しないとしても、良心的な、長年にわたる研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

「この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ どんな臆病もここで死ね」

 マルクスが示した研究結果がブルジョアにとってどんなに恐ろしい結論であってももしそれが科学の結論であればしょうがないじゃん、というのがマルクスが直接に言いたいことだ。それは地獄の入口に立つような覚悟がいるのだ。

 ただ、それはまたマルクスにも投げ返される。自分の研究結果を、どのような人が「どのように論評しようとも」、そしてそうした批判論評がもしもマルクス自身の思い込みや「偏見とどれほど一致しないとしても」、それを受け入れなければならない。

 科学として自分の言説を取り扱うよう求めるということは、そのような地獄、修羅の道を歩むことでもある。

 そう、地獄なのである。

 ある種の実験を伴う誰かさんの研究の場合、その実験結果と考察が正しいかどうかは、問題となっている人の実験そのものを、実際に批判者である自分でもやってみた上で真理性を検証する。そうした検証と考察なしには議論などできない。当然である。

 しかし「この実験はおかしいのではないか」という論理的な批判をすることも自由であるはずだろう。また、そもそもいま問題となっている実験の前提になっているそれ以前の様々な無数の実験データがあるなら、それに基づいて批判し論評できるはずである。

 

 何れにせよ、科学の文献であれば、それはもう徹底的に自由に議論していいのである。

 根本をひっくり返すようなことも含めて。

 科学の文献なのだから。

 それを許さない文献など、およそ科学を名乗る資格はない。

 

余談

 マルクス『経済学批判序言』のラストのダンテの引用句は、大月書店の訳*3ではもともと次の通りであった。

ここにいっさいの疑いを捨てねばならぬ

いっさいの怯惰はここに死ぬがよい

 え…? 「疑い」を捨てるの…? 疑っちゃダメなの…? それって科学じゃないのでは…? という当たり前にもほどがある疑問が沸き起こる。

 しかも「怯惰」…? 「怯懦(きょうだ:臆病で気が弱いこと。いくじのないこと)」は聞いたことがあるけど「怯」って…?

 「怯惰」は「腰抜けで怠け者であること。臆病で怠惰であること」だ。おかしいだろ、明らかに。

 長年この部分は、学習会をしていてもすっきりしない箇所だった。

 詳しくは日本福祉大学福祉社会開発研究所 『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』 第115号( 2007年3月)の江坂哲也「翻訳について」に譲るが、これは誤訳である。

https://core.ac.uk/download/pdf/268278523.pdf

 引用部分のマルクスのドイツ語訳(ディーツ版)は

Hier mut du allen Zweifelmut ertöten,
Hier ziemt sich keine Zagheit fürderhin.

で、江坂によればZweifelmutは

Zweifelと Mut(気分)の合成語で、前者の Zweiは「2」と いう意味だから、地獄の門を前にして「入ろうか、戻ろうか」などと躊躇する二つの気持ちを表し

ているのだという。

 だから、「ここにいっさいの疑いを捨てねばならぬ いっさいの怯惰はここに死ぬがよい」は「ここにいっさいの逡巡を捨てねばならぬ いっさいの怯懦はここに死ぬがよい」と直すのがよく、さらにくだけたものにするために、

この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ 

どんな臆病もここで死ね

と試訳してみた。

 “ここから先(ブルジョアにとって)どういう恐ろしい結論が出てくるかもしれないけど、尻込みするなよ”とマルクスは言いたいのである。

 学生時代に学習会をしていたあの頃、この部分について今考えるとアホみたいな解釈をみんなでもっともらしく披露しあっていた。

 いやー、やっぱり「人がどのように論評しようとも、またそれが利己的な偏見とどれほど一致しないとしても」真理の前にはこうべを垂れる、科学的精神で徹底的に見直さないとダメですね!

*1:ポエムや同人マンガや「願望を書き連ねたり、主観を垂れ流したりする」ことが質が低い作業という話ではない。役割が違うという話。

*2:マルクスエンゲルス8巻選集』4巻、大月書店、p.42-43。ダンテ『神曲』の引用のみ紙屋訳。

*3:国民文庫版と同じで翻訳は杉本俊朗

齋藤孝『図解 資本論 未来へのヒント』と『資本論』学習の支援

 最近出た『資本論』入門を紹介するシリーズの3冊目。

 齋藤孝『図解 資本論 未来へのヒント』だ。

 これが一番正統な「入門書」だろう。『資本論』第1部の順番にだいたいそって、内容を紹介し、解説するというもっともオーソドックスなやり方をとっている。

 ただし「図解」とあるのだが、「図解」なのか……これ……? という感じではある。ざっと数えて20ほどの「図」があるのだが、そもそも200ページの中で20しか図がないって「図解」と銘打つほど多くはないよね? と思うし、出てくる「図」もそこまで『資本論』の内容を噛み砕いているとは思えない。図で言えば先に挙げた的場昭弘監修『マンガでわかる資本論』の方が「図」が多いし、わかりやすいものが少なくない。

 しかし、文章はさすがである。こちらは的場や斎藤幸平と違って監修ではなく、齋藤孝本人が著書だとしている。齋藤孝が書いているのである。たぶん。

 素直に読んでいけば『資本論』第1部のポイントはわかるようにできている。正真正銘の「入門書」だ。

 

 とはいえ、まず難点から上げておこう。

 上記の「図が少なくわかりにくい」というのが第一。

 第二は、やはりここでも「価値」には「使用価値」と「交換価値」がある、とやってしまっていることだ。まあ、的場本と違い、すぐに「交換価値」は出なくなるのであまり混乱しないとは思うが、この解説の間違いはホントにいろんな本で出てくるなあ。なんとかならんのか。

 第三は、出来高賃金と時間賃金の記述があるが、これが労働力価値という本質が賃金にどう現象するのかという解説がないので、問題が全くわからない。

 どちらも搾取分が隠蔽されて、あたかも「労働の価値」であるかのように現れる。労働力価値を時間や出来高の「平均」で割ることで、この隠蔽の仕組みが出来上がるのだが、そのあたりのことは一切書かれていない。

 第四は、いまぼくが学習会で協業やマニュファクチュアのあたりをやっているせいでそこに目がいってしまうのだが、「うーん」と首をひねってしまう記述がいくつかある。

 例えばp.110で協業は労働者を分断されてしまうと書かれる。これは『資本論』で労働者が「お互いどうしでは関係を結ばない」*1という箇所を根拠にしているのだが、これは分断というよりも、資本が主導的に関係を結ばせるので、協業によって生まれる生産力の成果は資本のものになり、生産力は資本の生産力として現れる、という点がポイントだろう。むしろ、中世の職人的な分散した職場から合同した職場が出現するので、共同の契機になりやすいとさえ言える。

 また、p.115で「マニュファクチュアでは、多くは単純な作業となります」とある。これは正しい。しかし「そこで、熟練する可能性を奪われた労働者たちが生まれてくる」と続く。うーん、これはどうかな。熟練がなくなるんじゃなくて、不熟練と熟練に分かれるんだな。齋藤孝が言いたいのは昔の職人みたいに全ての工程を一人でやってしまう「完全な職人(労働者)」がいなくなってしまうということだろう。中世では「一人前」でない場合は見習いでしかなく、就業できなかった。しかし、マニュファクチュアのもとではみ不熟練工であっても就業できるようになる。熟練工がいなくなるのは、機械制大工業が生まれてからだ。

 まあ、一生不熟練工ってことはあるかもしれないのだが。

 

 と4点も難癖をつけちゃったのだが、だからと言って悪い本ではない。

 たぶん、資本論』の中身を『資本論』の内容に沿って理解する、という入門書の基本に立ち戻って考えると、これまでに紹介した中では一番いい本だろう

 齋藤孝のわかりやすい文体・文章が、入門書としての良さを際立たせ、200ページで読み終えられるという「短さ」も幸いしている。

 区切りごとの冒頭に掲げられている『資本論』からの引用・抜粋もおおよそ的確である。いまぼくがサブテキストで使っている土肥誠『面白いほどよくわかるマルクス資本論』も区切りごとにマルクスの『資本論』の原文が引用されているのだが、「え、ここを最大のエッセンスだと思ったわけ?」と首を傾げたくなるようなトンチンカンな部分が引用されていることが少なくない。

 

 

 的場監修本にも区切りごとのラストに『資本論』の抜粋が要約されて載っているのだが、あまり適切でない部分であったり、ひどい時には意味が反対のものが載せられている時もある。

 

 齋藤孝の本でいいなと思ったのは、8章の労働時間短縮のための労働者のたたかいを齋藤孝自身が高く評価し、結構力を入れて書いているということである。

 不破哲三マルクスが解明した資本主義分析の特徴を4つあげ、『資本論』の読み方についても次のような注意を与えている。

資本論』を読む際、搾取の本質(第一の特徴)と利潤第一主義(第二の特徴)だけで済ませてしまって、こういう搾取社会だから変革が必要なことを理解する。これはたいへん大事なことですが、マルクスは、そこだけにとどまっていません。資本主義の発展のなかで、次の社会変革に進む客観的条件(第三の特徴)と主体的条件(第四の特徴)がどのように準備されるか、そのことを含めて資本主義社会についての経済学を展開しているのです。(不破『マルクスと友達になろう』p.29-30)

 ぼくはこれに同意する。8章における労働運動の叙述はまさにこの第三と第四の特徴に関わるものである。

 

資本論』を学ぶために必要な支援

 若い人たち、それも『資本論』についてほとんど予備知識もなく、翻訳した西洋古典と付き合った経験がない人たち(こういう人を仮に「超初学者」と呼ぼう)と学習会をしてみて、『資本論』を学ぶうえでどういう入門書や学習支援が待ち望まれているのだろうか。

 第一は、内容の柱をつかむこと。『資本論』の内容をざっくりと理解するような平易な解説である。しかも『資本論』を順序立てて。齋藤孝の本はまさにこれである。昔は労働組合のテキストなどでそういう本がいっぱいあったが、今はもうほとんどない。

 不破哲三などはこういう類の本にあまりいい顔をしない。なぜなら、「解説を読んでわかった気にならないでほしい」と思っているからだ。そして解説の方の解釈がじゃまになって、古典を素で当たったときの新鮮な理解が曇らされると思っているからである。それはそれで一理ある。

 しかし、「超初学者」にとって、『資本論』という森、いやジャングルに入ることがいかに困難なことか想像してほしい。ガイドや地図もなしにジャングルに入らされるようなもので、迷うこと・挫折すること必至である。「いまどの辺りにいる」「何合目まできたな」という感覚がない。

 第二は、内容の柱が現代のどんな問題と結びついているかを簡単に理解すること。あるいは、視覚に訴える教材を使うこと。

 例えば、価値や貨幣の問題は抽象的な議論である。それを現代のこんな問題と結びついてますよ、と示すことで興味や関心を持続できる。

 昔の労働組合や左翼組織は堅苦しい文章を印刷するしかなかったが、今は動画とか写真・イラストとかがネットなどで無料で自由に使えるから、こんなに恵まれた条件はない。

 ぼくは、マルクスが8章や11章で持ち出す綿工業や時計産業の具体的な姿がわかりにくいので、ネットで動画を探してみんなで見てもらったりしている。例えば「紡錘」は何回も『資本論』で登場するが、若い人は見たこともない。

www.youtube.com

 

 第三は、『資本論』原文に入った時に、段落ごとを1行か2行程度に要約したものがほしい。あるいは、すぐに理解しなくていい箇所とここはどうしても理解してほしい章・節・段落を示すことだ。

 第一、第二のような解説本や教材はその気になればある。

 だけど、問題は原文を読み始めた時の難解さなのだ。どんなに気の利いた解説本を読んでいても、現代との繋がりがトピック的にわかっていも、いざマルクスのクソ小難しい、ペダンティックな皮肉交じりの文章の洪水に付き合わされたらたじろがざるを得ない。正直辟易する。

 いかに事前に「エベレストはきつい山ですよ」「アマゾンは途轍もない密林ですよ」と言われ、地図で難所や見取り図を確認し、トレーニングを積んだとしても、いざ登ってみたら・入り込んでみたら、とんでもないことに気づかされるのと同じである。

 

 『資本論』を実際に読む上で最大の問題は、何度目かの挑戦者ならともかく、一読めの読者は、ここは大事な箇所だなとか、そこはどうでもいいマルクスのおしゃべりだな、という遠近感が全く掴めないので、全部必死で意味を取ろうとすることだ。そんなことができるわけがないのに、逐語的に意味をつかもうしとして最大の難所である冒頭の3章(いや3章どころから、価値形態論になる1章3節)までで疲れ果てて挫折するのがパターンである。

 飛ばしていいところは飛ばす。理解しようとこだわらない。

 登山や密林探検で言えば、「ヘリコプターに乗って飛ばしていい」箇所があるのだ。いちいち丁寧に全て踏破しようとするな。その「飛ばしどころはここだ」「意味がつかめんかったけどこの段落はだいたいこういうことなんだな」という理解で次へ進める、そういう本が必要なのである。

 不破哲三『『資本論』全三部を読む 新版』はそういう本だと言えなくもない。

 

 問題はこれを前から順番に読まないことだ。

 そして、不破が面白がってしゃべっている脱線話にもいちいち付き合わなくていい。本を読み慣れていない人には、この本を読むだけでハアハアフウフウしてしまうのだから。わからない時に辞書を引くように読めばいい。

 全然書いていない箇所もある。そういうところは飛ばしていいんだなと思うようにしろ。

 しかし、そういうふうにすると今度は飛ばしすぎになる。ほとんど何も書いていない章・節もあるからだ。

 できれば章ごと・節ごと・段落ごとの要約があるものがよく、超初学者にとって大事でないとこ路・大事なところが色分けしてあるのがなお良い。

 

 例えば日本共産党は「新版『資本論』の普及と学習をすすめよう」ということを大会決定にしている。

 しかし、そのような「学習」を進めるための、ぼくが今あげたような第一、第二、第三にふさわしい資材・教材が作られているとは思えない。共産党には「学習・教育局」というのがあるんだから、そういう努力をしてみてはどうだろうか。

 今あげた第一、第二、第三の方向とは違うかもしれないのだが、実際に『資本論』を読んでいると、「マルクスが言っている、この記述はどういう意味だろう」と思うような箇所がいくつもある。

 8章は労働時間をめぐる具体的な話だからわかりやすいと思うかもしれない。しかし実際に読んでみると、年齢ごとの時間規制が複雑に入り組んでいて整理するのが一苦労な上に、誰のどういう利害がどんな行動に駆り立てているのかが、当時の事情がわからないとよく理解できない。

 例えば次の記述について、賢明な諸氏は状況とか、誰にどう有利で不利なのか、理解できるだろうか?

一八五〇年の法律は、「少年と婦人」についてのみ、朝の五時半から晩の八時半までの一五時間を、朝の六時から晩の六時までの一二時間に、変更したにすぎない。したがって、児童については、変更されるところなく、依然として彼らは、その労働の総時間は六時間半を超過してはならなかったとはいえ、この一二時間の開始以前に三〇分と、終了以後に二時間半、利用されえたのである。この法律の審議中に、かの変則の無恥な濫用にかんする一統計が、工場監督官によって議会に提出された。しかし無駄であった。背後には、好況期には、児童の補助で成年労働者の労働日を再び一五時間に引上げる、という意図が待伏せていた。つづく三年間の経験は、このような企図が、成年男子労働者の抵抗のために挫折せざるをえない、ということを示した。かくして、一八五三年には、ついに一八五〇年の法律が、「児童を少年および婦人よりも、朝は早くから晩は遅くまで使用すること」の禁止によって補足された。(エンゲルス,向坂逸郎マルクス資本論』2  Japanese Edition Kindle の位置No.3988-3997  Kindle 版)

 本当に学習会をやっていたらそういう困難に必ず出くわすはずなのだ。

 だけど、例えば共産党が出している学習支援雑誌「月刊学習」にはそういう話は一度も出てこないし、「赤旗」の学習のページにはそんなことが載った試しはないし、そういうことにフォーカスした支援教材も出てこない。実際に少しでも学習がされてるのかね? と疑問に思う今日この頃である。

 以上で、『資本論』入門書の紹介シリーズは終わる。

*1:新日本出版社版では3分冊p.588。「それら個々別々の人間は、同じ資本と関係を結ぶが、お互いどうしで関係を結ぶのではない」。

『マルクス「資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』

 最近でた『資本論』入門書シリーズの2つ目。

 斎藤幸平+NHK「100分de名著」制作班監修『マンガでわかる! 100分de名著 マルクス資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』(宝島社)である。

 マンガは前山三都里。「編集協力」は山神次郎、「取材・文」は乙野隆彦・森田啓代ということなので、実際にはこのあたりの人が書いているんだろうな…。

 

 斎藤幸平といえばこのツイート。

 これはあかんやろ。なにやってんねん。

 斎藤の言っていることが事実であるなら、マルクス解釈・成長解釈は違うといえども、『資本論』をここまで有名にした斎藤幸平と、なんで共産党は対談しようとしないのか。

 大いに対談したらいいではないか。共産党側が何かの節度や善意があって反応しないのだとしても、現在の共産党側の態度表現の仕方はあまりにヘタクソなのではなかろうか。

 

 

 

 さて本書である。

 これは正確に言えば『資本論』入門書とは言い難い。『資本論』関連本といったところだろう。そして、その解釈は斎藤幸平流。

 斎藤は監修者として本書のあとがきでこう言っている。

本書のマンガも、小さな仲間たちの意識改革で終わっていますが、現実には、気候変動のような問題を解決するためには、もっともっと大人数の参加が必要です。だから、本書がその大きなうねりを生み出すためのきっかけとなることを願っています。

 斎藤の『人新世の「資本論」』やNHKの「100分de名著」における斎藤流『資本論』紹介は、たしかに社会の大きな枠組みを問い、その変革を訴えるものであった。そしてそのスケールは確かにマルクスそのものである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 ところが、本書は、斎藤が述べているように「小さな仲間たちの意識改革で終わって」いる。

 これは、斎藤の著者・マルクス資本論』と、本書との距離であるが、逆にいえば、本書の特徴でもある。

 

 休日に里山に集まるだけの、会社も階層・階級もバラバラな人たちをめぐるマンガである。里山という自然にすばらしい息抜きを感じている多くの仲間たちに対して、山の所有者であるメンバーの一人は里山を「金儲け」の道具に変えていこうとする。その小さな違和感が一つの主題となる。

 さらに、休日でない平日のメンバーたちの労働現場に時々目が転じられ、そこでのサービス残業パワハラによる成果追求、ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の問題などが挟まれる。

 これらは、人間と自然の物質代謝、コモンと商品、労働者の「自由」、絶対的剰余価値、相対的剰余価値、分業、部分労働、アソシエーションなどといった『資本論』の基本問題へとつながっていく。

 

 いきなり「社会変革」を志すことは難しい、という人も少なくなかろう。まあ、たぶんそっちの方が多数派である。

 だとすれば、ぼくらは休日に触れる自然、平日の労働の矛盾を感じたときに、一足飛びに社会変革や政治変革に投じられるのではなく、まず小さな違和感をいだき、その違和感を解釈しようとし、そして身の回りで小さな行動を起こす。

 そのような行動のサイズを考えた時、ひょっとしたら、本書のような「第一歩」は最適解なのかもしれないのだ。

 左翼は、かつて労働運動から少なくない人が流入してきた。

 しかし、こんにち、そのようなルートは有効だろうか。

 ぼくは、本書を読みながらこんな短いマンガなのに、里山で集まっている仲間たちのキャンプの描写にずいぶんと惹かれるものがあった。前山のグラフィックが醸し出すゆったりした感じ、好みである。

 面白そう。

 行ってみたい。

 と至極単純に思ったのである。

 例えば、夕焼けを見ながらコーヒーを飲んでいるこの描写をぼくは繰り返し見てしまう。

本書p.15

  あるいは、マルクスの解説的な立ち位置にいる町田という女性(小さなPR会社の経営者、おそらく年齢はぼくと同じくらい)の次のような「ゆったりした」感じ。

本書p.66

 あー、テントでコーヒー飲みてえ、と思ってしまう。

 へ? たったこれだけで? と思うかもしれないけど、そうなんだよ! 悪いか。

 こういう休みが待っていたら平日の激務もがんばれるかも、って素直に思うんだよな。

 そういうことをで集まっていく(つまりオルグしていく)左翼運動があったっていいじゃない、と思うんだよな。

 行きてえ。参加してえ。

 って心や体が欲している。

 ラストの結論が「小さな仲間たちの意識改革」と言っているわけだけど、この仲間たちは汲み上げた水の共同利用や市民発電などのアイデアを出して終わる。ぼくが関わっている左翼運動にはそういう入り口が全然ない。

 コミュニスト組織の再生産の話に関わるけど、組織が提起する多くの課題が、およそぼく自身にとっても魅力のないテーマに終始している。里山だのキャンプだのは一ミリも出てこない。運動の生き生きした原初的なエネルギーがなければ、友人も誘ってそこに身を投じようなんて思うはずもないではないか。

 いやあるよ。気候変動について若い人の団体と懇談しませうとかそういうのが。

 だけど、そういうことじゃないんじゃないの?

 魂が震えるような運動の体験がなくて、人なんか集まらないと思うんだよ。

 最近、ひょんなことから、渡辺武という共産党国会議員のパートナーであった渡辺泰子という人の自伝を読む機会があった(ご存命である)。

 渡辺泰子は1950年ごろに福岡市の樋井川(現在の城南区)付近で活動しており、同じ細胞(党支部)には大西巨人夫婦もいた。彼女は部落の子どもたちのために農繁期託児所をつくり、人形劇や紙芝居を演じたりする。稲庭桂子:作・永井潔:絵の紙芝居「正作」を買ってなんども演じるくだりがある。

私はこの「正作」をこのときから九州を去るまでの二年半の間にどのくらい演じただろう。私はこの紙芝居を長尾の引く丘の尾根を越えた向こうの部落の子供会でやった時の、女の子の涙でいっぱいの目を忘れない。たった十六枚の動かない絵で、こんなに人の心を動かすことができるのか。私は紙芝居の持つ力を実感した。(渡辺泰子『息子たちへ』上、p.108)

 

 

 

 人々の心と体の奥底から生まれてくる要求に応える真剣な運動があって、忘れられない体験としてその運動を大切にし、居着くのではないのか。

 本書(『マルクス資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』)の里山でのキャンプの描写を見るたびに「行きたい」と思うぼくの心は、そうした運動の原初ということを考えさせてくれるのである。

 

 

 

 

的場昭弘監修『マンガでわかる資本論』

 ある出版社の出している『資本論』を手に入れようと大手書店の経済書のコーナーに立ち入ったら、しばらく見ないうちにずいぶんいろんな『資本論』入門書が出ているじゃないか…!?

 というわけでその中から3冊ほど感想を書いてみたい。

 

 最初は的場昭弘監修『マンガでわかる資本論』(池田書店、マンガ:ユリガオカ・サイドランチ)。奥付に「執筆 佐藤賢二+真代屋秀晃+石津智章」とあるから、本文は実質的にはこの人たちが書いたんだろうな…と想像する。

 

 

 

 

 この本がぼくの興味を引いたのは2点。

 

 第一は、入門書として、現代の起業の物語をマンガとして使うことで、職人的な手工業から現代的な資本へという資本の歴史を、身近な題材で見てもらおうという工夫があることだった。

 ぼくが構成を務めた『理論劇画 マルクス資本論』は、『資本論』の中身をマルクスと作者(門井文雄)が掛け合いをしながら説明するというもので、まあある意味で誰もがまずは思いつきそうな「マンガ化」の方法である。

 

 しかし『理論劇画』の方法の良さは、『資本論』の解説としてはいいけども、マンガの面白みや物語性のようなものが生かされにくいのである。

 

 この点で本書(『マンガでわかる資本論』)は、「スタートアップ」という、ある意味で今の人たちにとって現代的な材料と物語を使う。初めは友人と二人だけでやっていた企業がやがて人を雇い大企業へと成長していく。

 歴史=論理である。

 資本というものが歴史として登場してくるプロセスを見ることで、そこに資本の論理がどう働いてくのかを読者は学ぶことになる。

 『資本論』を「解説」にせず「物語」にする手法は、イーストプレスの「まんがで読破」シリーズの『資本論』でも採用されているが、イーストプレス版は、舞台が昔のヨーロッパである上に『資本論』の構成に縛られすぎている(良く言えば『資本論』の順番をちゃんと意識している)。

www1.odn.ne.jp

 

 これに比べて本書は、かなり大胆に『資本論』を「バラバラ」にした。物語が自由になり、没入度を高めることができる。

 

 第二は、ちょうどぼくが若い人たちとやっている『資本論』学習会が今まさに協業やマニュファクチュアのあたりをやっていて、この本ではそのあたりの解説の分量が非常に多いのである。

 

どこが問題か

 問題点は、不正確な粗が目立ってしまうということ。今回連続で紹介する3冊の中でもっともそれが目立った。

 細かくあげればきりがないし、あまり意味のある作業とも思えないので、2点ばかり指摘しておく。

 

 その1。商品の「使用価値」と「交換価値」を「商品がもつ2つの価値」という説明をしてしまうこと(p.42-43)。

 これ、すごくよくある説明。いや確かに「使用価値」と「交換価値」っていうふうにどっちにも「価値」がついているからね。だから「2つの価値」なんでしょうね。

 でもですよ。マルクスはわざわざ「価値」という概念で、『資本論』を説明していくんですよ? これがどんな混乱を生み出すか考えたことがありますか。

 「1メートルの布」は「1キロの小麦」で交換価値を表すのだが、なぜ何もかも違うように見える「1メートルの布」と「1キロの小麦」が交換できるのかと言えば、同じ手間暇をかけている、つまり投下されている労働量が同じだからであり、それが価値だという説明をしていない。

 このため、「使用価値」が「価値」であるなら、生産力が上昇するとなぜ「価値」が下がっていくのかがわからなくなってしまう。

 本の中では「価値」「交換価値」の使い方が時々に変わり、読者は混乱する恐れがある。

 

 その2。相対的剰余価値の説明で「特別剰余価値」という概念を使わずに説明して、しかもその説明がよくわからない(p.122-123)。

 

 相対的剰余価値とは、資本家が技術革新による生産性の向上などで特別のもうけ(特別剰余価値)を手に入れようとして、その結果社会全体の生産力が上昇して、労働力価値(労働者の賃金=労働者が衣食住のためにかける費用)が下がり、増える剰余価値のことである。

 今述べたように、資本家は特別剰余価値をめぐる争いをして、意図せざる結果として相対的剰余価値を手に入れることになるのだが、そのテコとなる特別剰余価値についての説明はない。

 

 しかも、服をめぐる原価や利益の計算を書いているのだが、ぼくの頭が悪いのか意味がわからないのである。簡単に言えば「生活費が下がって給料が下がる」ことで儲け分(剰余価値)が増えることが相対的剰余価値のはずだが、本書では「給料は変わらず」、生産力が上がると「利益が増える」ことになっている。

 もしぼくが勘違いをしていたら、ぜひ指摘してほしい。

 

 「え、なに、じゃあ間違いだらけなの?」というとそういうことではない。

 上記の2カ所を除けば、細部に間違いはあっても、大ざっぱに理解する上では問題ないと言える(いや、問題ありまくりだ! という人もいるかもしれないが、程度の問題だと思う)。 

 まあ、監修者はもうちょっとよく監修してくれ、と注文をつけておく。