ネットで話題になっている、いしいひさいち『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を読む。朝日新聞を購読していたときにごく一部を読んだ記憶がある。
高校生だった吉川ロカがポルトガルの国民歌謡「ファド」の歌い手として、世界に発見されていくまでを、いしい特有のギャグ4コマに載せながら描き出す。
ある隠れた才能が見出される、というストーリーは好物なので基調として本作を楽しめた(というか最近その種のマンガばかり読んでいるような気がする)。
(以下ネタバレあり)
ラストについて。
スターダムへと駆け上がるロカに、同級生かつ不良で、しかしロカのよき相談相手となってきた柴島美乃は突然“絶縁状”を突きつける。自分のような「ヤバイ筋」のものが近くにいては問題になるからもう連絡するな、というのである。
ロカは、柴島の「配慮」にどう判断したかははっきりとは描かれないが、おそらく受け入れたであろうと思われる描写が続く。苦渋に満ちてそれを受け入れるのである。自らの内的なエネルギーが消尽してしまいかねないほどに。
そして柴島がいた会社の、そしてロカたちが練習を積み重ねてきた倉庫が焼けてしまったという会話とともに、一部が焼けたロカのポスターが大写しになってラストとなる。
そこで初めて、ぼくらは、この物語がロカをとりまく人々、とりわけ柴島をはじめロカがメジャーになるまで支えてきた地域の人たちの物語であったことに気づく。ロカが活動をしていたストリート、ロカの才能をいち早く見出してライブをさせたキクさん食堂と、そこに集う人々、高校の音楽教師…などなどである。
倉庫が焼失したことはそうした牧歌的な時代が終わったことを暗示する。
ラストで一つの時代・世界の終わりを明確に提示することいよって、はじめはロカに奪われていた視線が、ラストにきてロカを支えて取り巻いていた人々へ移し直され、物語は最初にもう一度戻った時に、それはロカを支える人々の物語であったと思い知らされるのだ。
ロカは自分のことをつい「わし」と言ってしまう。メジャーデビューしたファド歌手にふさわしくないその一人称をなんとかやめさせようと音楽会社は必死である。なのに、「わし」と言ってしまう。
しかし、おそらくもうロカは「わし」とは言わないのではないか。
「わし」はロカの柴島的なものとの接続を示す象徴とも言える。それはもう失われたのだ。
ところで、いしいは所々でロカを美しく描く。
ことに表紙は美しい。
そのような筆力が、ロカの歌唱の美しさをグラフィックで提示するという離れ技をやってのけているのである。