ずいぶん前に、ある紙媒体から依頼されたエッセイのうち、ボツにしたものを、最近の体験も交えて手を入れなおした。それをアップしてみる。
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選挙に出るという稀有な体験をした際の話である。
人前で演説をする。ぼくのファンがいるときは、ぼくが訴えていれば、目の前で声援を送ってくれる。
しかし、そうでない人の方が圧倒的に多い。スルーをされるときはなかなか強烈だ。わりと大きな音でお騒がせしていても、あるいは、すぐ目の前で訴えていても、絶対に視線が合わない。反感の表現すらされず、そこにぼくはいないかのようだ。まるで透明人間である。
そんな中、スーパーから出てきた人が演説中のぼくに気づき、ピタリと足が止まることがある。そしてこちらに顔を向けてくれる。
あっ、足が止まったな、と訴えながら思う。いいぞ。心の中でその人に向けて語りかけるつもりで演説を少し変えてみる。買い物袋を提げたまま、こちらを見て腕組みして、聞き入ってくれる。こちらもますます興に乗って話す。
話題が一区切りして再び歩き出し立ち去ってしまう人もいるが、終わりまでじっと聞いてくれる人もいる。演説はだいたい十分足らずで終わるから、急いで駆けつけて握手を求めてみる。「いやあ、選挙に行くつもり全然なかったんだけど、あんたの言う通りだと思ったよ。投票するよ」と笑顔で言ってくれる。あるいは、聞いてはいても握手をしてくれない人もいた。それはそれで嬉しい。なぜなら、おそらくぼくとは政治的立場が違う人だけども、最後まで聞いてくれたからだ。むしろそういう人に聞いてほしかった。
もしストリートやライブハウスで音楽の演奏をやったら、こんな感じなのだろうか。
実は選挙の期間中、ぼくはあるマンガを読みふけり、それにずっと励まされていた。石塚真一の『BLUE GIANT(ブルージャイアント)』(小学館)というジャズのサックス奏者の物語である。高校で初めてサックスを吹いた主人公が、地元の宮城で、次に東京で、やがてヨーロッパで知り合った仲間とバンドを組んで演奏をしていく。
なんでジャズのマンガに励まされてんの? といぶかる人もいるだろう。それは選挙で経験したことと、作中に出てくるジャズの様々なシーンとが、どうにも重なってしまったからなのだ。
まず、描かれているジャズのライブの感覚が、演説の臨場感にそっくりだった。
主人公たちが評論家や知り合いの有名ジャズ奏者を集め、満を持して開いたバンドの初ライブ。ところが演奏はバラバラで客が次々に帰っていく。主人公たちが焦れば焦るほど分解していくのである。
選挙中それに似た体験をしたことがあった。ある公共施設の部屋を借りての演説会。別の会場で話したことと同じことをしゃべって、前の会場では聴衆から大ウケだったのに、その会場はまるで反応がない。
焦る。親近感を持ってもらおうとして自分の父親の話などしてみるのだが、さらにスベる。反応が固いままなのである。ますます焦る。脂汗が出始め、終わった頃には汗びっしょりだった。きっと『BLUE GIANT』の主人公たちもこんな気持ちでライブを終えたに違いない、などと自分を慰めてみる。
そうかと思えば、その作品の中で、小さな町で立ち上げられたばかりのジャズ・フェスティバルへ主人公たちが参加するエピソードに、妙にシンクロしてしまったこともあった。
作中のフェス・スタッフはたった三人。しかも素人同然。しかし「この街でしかない特別なジャズフェスを開催したい。見た人が生涯忘れない、ジャズフェスにしたい」と熱く語る。その意気込み通り、音響も設営も道具揃えも、三人は不慣れな素人なのに、決して手を抜かない。
無謀とも思える戦いに挑む――まるで俺の選挙じゃん、これは俺のために描かれた物語だ、などと。政治のことなど一言も書かれていないのに、である。そして冷静に考えれば、随分自分を美化した感情移入だなとは思うのだけれど。
最近、自分の職場に関係する「新人」の人たち(「新人」といっても若い人はあまりおらず、多くがぼくと同じがそれより上の世代)に毎日30分ほどリモートで研修——簡単な学習と交流をやっていて、その司会を一人でやっている。1回につき5、6人の「新人」がリモートで集まる。
そのリモートの学習・交流会。毎日緊張する。
学習のお題が毎朝知らされるというスリリングな中身で、自分が持っている知識をベースにしつつ、にわかに調べたことを大量に付け加えて、学習・交流会に臨む。
司会者兼ファシリテーターとしての役割が与えられていて、「新人」からどんな質問・意見が飛び出すか全然わからない。「リモートができないんですけどお」などという電話が「新人」からかかってきたりもする。
終わると汗びっしょりである。
しかし、うまくいくと心地よい。やりきった爽快感が駆け抜ける。
これは——『BLUE GIANT』の主人公たちがやっているライブのようなものではないのか? と勝手に思っている。
『BLUE GIANT』のライブは、「何が起きるかわからない」。
主人公の高校からの友人が「ど初心者」からドラマーとなり、上達を重ねていく。しかしバンドの決定的とも思えるライブ、そのライブのまさに最中に主人公は、なんとこのドラマーに「ソロ」をやろうと持ちかける。
未完成なドラマーは、しかし全力でソロをやる。そのひりつくようなライブ感を、持ちかけた主人公の不安そうな、しかし楽しそうな表情でこのマンガは捉えようとする。
あるいは、全力でライブをやりきった後、登場人物の一人は疲労感をたたえて家に帰ってくる。しかし、それは全てを出し切ってやりきった後の、虚脱とも言えるほどの快楽なのだと読む者は悟る。
「新人」たちとの議論を終えて汗びっしょりになったぼくは、『BLUE GIANT』のそのシーンを思い出し、そんな疲労に囚われてみたいとさえ思う。
何の関係もないはずのテーマで描かれた虚構が、現実のぼくの心を踊らせその生活を励ます。そんなこともあるのだ。
いつか自分が語る政治の言葉にもそんな生命感が宿ればいいなと思う。