ぼくのこのツイートについての雑感を書く。
「社会科学の文献」である以上、何者であろうと当該文献を徹底して自由に討議し、タブーなくラディカルに批判することを認める義務を持つ。マルクスも「この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ どんな臆病もここで死ね」とダンテを引用して言っておりますことですし。(エアリプ)
— 紙屋高雪 (@kamiyakousetsu) 2022年8月19日
な…何を言っているのかわからねーと思うがわかる人にしかわからない話なので、わからない人は気にしないでくれ。
さて。
「社会科学の文献」とはどういうことであろうか。
自分が書いたものが「科学」であるということは、ポエムや同人マンガではない、ということだ。願望を書き連ねたり、主観を垂れ流したりするものではない*1のである。
虚構にもとづく創作は、正しさを問われない。
しかし科学は正しさを問われる。厳しく問われる。
「科学」なのだからといって、無条件に正しいわけではない。別の言い方をすれば、「この文献は科学的です」と言えばその文献がすなわち正しいことを証明するものではないのである。
「これは社会科学の文献です」という扱いをするということは、正しさに対する覚悟を要求する。
その覚悟、決意は実に恐ろしいものだ。
「決定された指示や命令」ではないからである。
「ルールだからこれに従いなさい」「みんなで議決したものだから正しいと言って回りなさい」という言い訳は一切通用しない。
学問の世界に行ってみればいい。学会で発表されている論文は全てそのような覚悟にさらされる。「これは●年の●●学会で決議された文書なのでそれは正確性の前提となります」とか「これは●●先生という大権威のおっしゃっていることだから無条件に真理です」とか絶対に言えない。どんな人がどんな批判をしてもいいのだ。もちろん批判者も批判にさらされる義務を持つ。科学という土俵において。
マルクスは『経済学批判 序言』*2のラストでこう述べている。
経済学の分野における私の研究の道筋についての以上の略述は、ただ私の見解が、これを人がどのように論評しようとも、またそれが支配階級の利己的な偏見とどれほど一致しないとしても、良心的な、長年にわたる研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。
「この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ どんな臆病もここで死ね」
マルクスが示した研究結果がブルジョアにとってどんなに恐ろしい結論であってももしそれが科学の結論であればしょうがないじゃん、というのがマルクスが直接に言いたいことだ。それは地獄の入口に立つような覚悟がいるのだ。
ただ、それはまたマルクスにも投げ返される。自分の研究結果を、どのような人が「どのように論評しようとも」、そしてそうした批判論評がもしもマルクス自身の思い込みや「偏見とどれほど一致しないとしても」、それを受け入れなければならない。
科学として自分の言説を取り扱うよう求めるということは、そのような地獄、修羅の道を歩むことでもある。
そう、地獄なのである。
ある種の実験を伴う誰かさんの研究の場合、その実験結果と考察が正しいかどうかは、問題となっている人の実験そのものを、実際に批判者である自分でもやってみた上で真理性を検証する。そうした検証と考察なしには議論などできない。当然である。
しかし「この実験はおかしいのではないか」という論理的な批判をすることも自由であるはずだろう。また、そもそもいま問題となっている実験の前提になっているそれ以前の様々な無数の実験データがあるなら、それに基づいて批判し論評できるはずである。
何れにせよ、科学の文献であれば、それはもう徹底的に自由に議論していいのである。
根本をひっくり返すようなことも含めて。
科学の文献なのだから。
それを許さない文献など、およそ科学を名乗る資格はない。
余談
マルクス『経済学批判序言』のラストのダンテの引用句は、大月書店の訳*3ではもともと次の通りであった。
ここにいっさいの疑いを捨てねばならぬ
いっさいの怯惰はここに死ぬがよい
え…? 「疑い」を捨てるの…? 疑っちゃダメなの…? それって科学じゃないのでは…? という当たり前にもほどがある疑問が沸き起こる。
しかも「怯惰」…? 「怯懦(きょうだ:臆病で気が弱いこと。いくじのないこと)」は聞いたことがあるけど「怯惰」って…?
「怯惰」は「腰抜けで怠け者であること。臆病で怠惰であること」だ。おかしいだろ、明らかに。
長年この部分は、学習会をしていてもすっきりしない箇所だった。
詳しくは日本福祉大学福祉社会開発研究所 『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』 第115号( 2007年3月)の江坂哲也「翻訳について」に譲るが、これは誤訳である。
https://core.ac.uk/download/pdf/268278523.pdf
引用部分のマルクスのドイツ語訳(ディーツ版)は
Hier mut du allen Zweifelmut ertöten,
Hier ziemt sich keine Zagheit fürderhin.
で、江坂によればZweifelmutは
Zweifelと Mut(気分)の合成語で、前者の Zweiは「2」と いう意味だから、地獄の門を前にして「入ろうか、戻ろうか」などと躊躇する二つの気持ちを表し
ているのだという。
だから、「ここにいっさいの疑いを捨てねばならぬ いっさいの怯惰はここに死ぬがよい」は「ここにいっさいの逡巡を捨てねばならぬ いっさいの怯懦はここに死ぬがよい」と直すのがよく、さらにくだけたものにするために、
この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ
どんな臆病もここで死ね
と試訳してみた。
学生時代に学習会をしていたあの頃、この部分について今考えるとアホみたいな解釈をみんなでもっともらしく披露しあっていた。
いやー、やっぱり「人がどのように論評しようとも、またそれが利己的な偏見とどれほど一致しないとしても」真理の前にはこうべを垂れる、科学的精神で徹底的に見直さないとダメですね!