いしいひさいち『ROCA』

 ネットで話題になっている、いしいひさいち『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を読む。朝日新聞を購読していたときにごく一部を読んだ記憶がある。

 高校生だった吉川ロカがポルトガルの国民歌謡「ファド」の歌い手として、世界に発見されていくまでを、いしい特有のギャグ4コマに載せながら描き出す。

 ある隠れた才能が見出される、というストーリーは好物なので基調として本作を楽しめた(というか最近その種のマンガばかり読んでいるような気がする)。

 

 (以下ネタバレあり)

 ラストについて。

 スターダムへと駆け上がるロカに、同級生かつ不良で、しかしロカのよき相談相手となってきた柴島美乃は突然“絶縁状”を突きつける。自分のような「ヤバイ筋」のものが近くにいては問題になるからもう連絡するな、というのである。

 ロカは、柴島の「配慮」にどう判断したかははっきりとは描かれないが、おそらく受け入れたであろうと思われる描写が続く。苦渋に満ちてそれを受け入れるのである。自らの内的なエネルギーが消尽してしまいかねないほどに。

 そして柴島がいた会社の、そしてロカたちが練習を積み重ねてきた倉庫が焼けてしまったという会話とともに、一部が焼けたロカのポスターが大写しになってラストとなる。

 そこで初めて、ぼくらは、この物語がロカをとりまく人々、とりわけ柴島をはじめロカがメジャーになるまで支えてきた地域の人たちの物語であったことに気づく。ロカが活動をしていたストリート、ロカの才能をいち早く見出してライブをさせたキクさん食堂と、そこに集う人々、高校の音楽教師…などなどである。

 倉庫が焼失したことはそうした牧歌的な時代が終わったことを暗示する。

 ラストで一つの時代・世界の終わりを明確に提示することいよって、はじめはロカに奪われていた視線が、ラストにきてロカを支えて取り巻いていた人々へ移し直され、物語は最初にもう一度戻った時に、それはロカを支える人々の物語であったと思い知らされるのだ。

 ロカは自分のことをつい「わし」と言ってしまう。メジャーデビューしたファド歌手にふさわしくないその一人称をなんとかやめさせようと音楽会社は必死である。なのに、「わし」と言ってしまう。

 しかし、おそらくもうロカは「わし」とは言わないのではないか。

 「わし」はロカの柴島的なものとの接続を示す象徴とも言える。それはもう失われたのだ。

 

 ところで、いしいは所々でロカを美しく描く。

 ことに表紙は美しい。

 そのような筆力が、ロカの歌唱の美しさをグラフィックで提示するという離れ技をやってのけているのである。

「社会科学の文献」とは

 ぼくのこのツイートについての雑感を書く。

 な…何を言っているのかわからねーと思うがわかる人にしかわからない話なので、わからない人は気にしないでくれ。 

 さて。

 「社会科学の文献」とはどういうことであろうか。

 

 自分が書いたものが「科学」であるということは、ポエムや同人マンガではない、ということだ。願望を書き連ねたり、主観を垂れ流したりするものではない*1のである。

 虚構にもとづく創作は、正しさを問われない。

 しかし科学は正しさを問われる。厳しく問われる。

 「科学」なのだからといって、無条件に正しいわけではない。別の言い方をすれば、「この文献は科学的です」と言えばその文献がすなわち正しいことを証明するものではないのである。

 「これは社会科学の文献です」という扱いをするということは、正しさに対する覚悟を要求する。

 その覚悟、決意は実に恐ろしいものだ。

 「決定された指示や命令」ではないからである。

 「ルールだからこれに従いなさい」「みんなで議決したものだから正しいと言って回りなさい」という言い訳は一切通用しない。

 学問の世界に行ってみればいい。学会で発表されている論文は全てそのような覚悟にさらされる。「これは●年の●●学会で決議された文書なのでそれは正確性の前提となります」とか「これは●●先生という大権威のおっしゃっていることだから無条件に真理です」とか絶対に言えない。どんな人がどんな批判をしてもいいのだ。もちろん批判者も批判にさらされる義務を持つ。科学という土俵において。

 

 マルクスは『経済学批判 序言』*2のラストでこう述べている。

経済学の分野における私の研究の道筋についての以上の略述は、ただ私の見解が、これを人がどのように論評しようとも、またそれが支配階級の利己的な偏見とどれほど一致しないとしても、良心的な、長年にわたる研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

「この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ どんな臆病もここで死ね」

 マルクスが示した研究結果がブルジョアにとってどんなに恐ろしい結論であってももしそれが科学の結論であればしょうがないじゃん、というのがマルクスが直接に言いたいことだ。それは地獄の入口に立つような覚悟がいるのだ。

 ただ、それはまたマルクスにも投げ返される。自分の研究結果を、どのような人が「どのように論評しようとも」、そしてそうした批判論評がもしもマルクス自身の思い込みや「偏見とどれほど一致しないとしても」、それを受け入れなければならない。

 科学として自分の言説を取り扱うよう求めるということは、そのような地獄、修羅の道を歩むことでもある。

 そう、地獄なのである。

 ある種の実験を伴う誰かさんの研究の場合、その実験結果と考察が正しいかどうかは、問題となっている人の実験そのものを、実際に批判者である自分でもやってみた上で真理性を検証する。そうした検証と考察なしには議論などできない。当然である。

 しかし「この実験はおかしいのではないか」という論理的な批判をすることも自由であるはずだろう。また、そもそもいま問題となっている実験の前提になっているそれ以前の様々な無数の実験データがあるなら、それに基づいて批判し論評できるはずである。

 

 何れにせよ、科学の文献であれば、それはもう徹底的に自由に議論していいのである。

 根本をひっくり返すようなことも含めて。

 科学の文献なのだから。

 それを許さない文献など、およそ科学を名乗る資格はない。

 

余談

 マルクス『経済学批判序言』のラストのダンテの引用句は、大月書店の訳*3ではもともと次の通りであった。

ここにいっさいの疑いを捨てねばならぬ

いっさいの怯惰はここに死ぬがよい

 え…? 「疑い」を捨てるの…? 疑っちゃダメなの…? それって科学じゃないのでは…? という当たり前にもほどがある疑問が沸き起こる。

 しかも「怯惰」…? 「怯懦(きょうだ:臆病で気が弱いこと。いくじのないこと)」は聞いたことがあるけど「怯」って…?

 「怯惰」は「腰抜けで怠け者であること。臆病で怠惰であること」だ。おかしいだろ、明らかに。

 長年この部分は、学習会をしていてもすっきりしない箇所だった。

 詳しくは日本福祉大学福祉社会開発研究所 『日本福祉大学研究紀要-現代と文化』 第115号( 2007年3月)の江坂哲也「翻訳について」に譲るが、これは誤訳である。

https://core.ac.uk/download/pdf/268278523.pdf

 引用部分のマルクスのドイツ語訳(ディーツ版)は

Hier mut du allen Zweifelmut ertöten,
Hier ziemt sich keine Zagheit fürderhin.

で、江坂によればZweifelmutは

Zweifelと Mut(気分)の合成語で、前者の Zweiは「2」と いう意味だから、地獄の門を前にして「入ろうか、戻ろうか」などと躊躇する二つの気持ちを表し

ているのだという。

 だから、「ここにいっさいの疑いを捨てねばならぬ いっさいの怯惰はここに死ぬがよい」は「ここにいっさいの逡巡を捨てねばならぬ いっさいの怯懦はここに死ぬがよい」と直すのがよく、さらにくだけたものにするために、

この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ 

どんな臆病もここで死ね

と試訳してみた。

 “ここから先(ブルジョアにとって)どういう恐ろしい結論が出てくるかもしれないけど、尻込みするなよ”とマルクスは言いたいのである。

 学生時代に学習会をしていたあの頃、この部分について今考えるとアホみたいな解釈をみんなでもっともらしく披露しあっていた。

 いやー、やっぱり「人がどのように論評しようとも、またそれが利己的な偏見とどれほど一致しないとしても」真理の前にはこうべを垂れる、科学的精神で徹底的に見直さないとダメですね!

*1:ポエムや同人マンガや「願望を書き連ねたり、主観を垂れ流したりする」ことが質が低い作業という話ではない。役割が違うという話。

*2:マルクスエンゲルス8巻選集』4巻、大月書店、p.42-43。ダンテ『神曲』の引用のみ紙屋訳。

*3:国民文庫版と同じで翻訳は杉本俊朗

齋藤孝『図解 資本論 未来へのヒント』と『資本論』学習の支援

 最近出た『資本論』入門を紹介するシリーズの3冊目。

 齋藤孝『図解 資本論 未来へのヒント』だ。

 これが一番正統な「入門書」だろう。『資本論』第1部の順番にだいたいそって、内容を紹介し、解説するというもっともオーソドックスなやり方をとっている。

 ただし「図解」とあるのだが、「図解」なのか……これ……? という感じではある。ざっと数えて20ほどの「図」があるのだが、そもそも200ページの中で20しか図がないって「図解」と銘打つほど多くはないよね? と思うし、出てくる「図」もそこまで『資本論』の内容を噛み砕いているとは思えない。図で言えば先に挙げた的場昭弘監修『マンガでわかる資本論』の方が「図」が多いし、わかりやすいものが少なくない。

 しかし、文章はさすがである。こちらは的場や斎藤幸平と違って監修ではなく、齋藤孝本人が著書だとしている。齋藤孝が書いているのである。たぶん。

 素直に読んでいけば『資本論』第1部のポイントはわかるようにできている。正真正銘の「入門書」だ。

 

 とはいえ、まず難点から上げておこう。

 上記の「図が少なくわかりにくい」というのが第一。

 第二は、やはりここでも「価値」には「使用価値」と「交換価値」がある、とやってしまっていることだ。まあ、的場本と違い、すぐに「交換価値」は出なくなるのであまり混乱しないとは思うが、この解説の間違いはホントにいろんな本で出てくるなあ。なんとかならんのか。

 第三は、出来高賃金と時間賃金の記述があるが、これが労働力価値という本質が賃金にどう現象するのかという解説がないので、問題が全くわからない。

 どちらも搾取分が隠蔽されて、あたかも「労働の価値」であるかのように現れる。労働力価値を時間や出来高の「平均」で割ることで、この隠蔽の仕組みが出来上がるのだが、そのあたりのことは一切書かれていない。

 第四は、いまぼくが学習会で協業やマニュファクチュアのあたりをやっているせいでそこに目がいってしまうのだが、「うーん」と首をひねってしまう記述がいくつかある。

 例えばp.110で協業は労働者を分断されてしまうと書かれる。これは『資本論』で労働者が「お互いどうしでは関係を結ばない」*1という箇所を根拠にしているのだが、これは分断というよりも、資本が主導的に関係を結ばせるので、協業によって生まれる生産力の成果は資本のものになり、生産力は資本の生産力として現れる、という点がポイントだろう。むしろ、中世の職人的な分散した職場から合同した職場が出現するので、共同の契機になりやすいとさえ言える。

 また、p.115で「マニュファクチュアでは、多くは単純な作業となります」とある。これは正しい。しかし「そこで、熟練する可能性を奪われた労働者たちが生まれてくる」と続く。うーん、これはどうかな。熟練がなくなるんじゃなくて、不熟練と熟練に分かれるんだな。齋藤孝が言いたいのは昔の職人みたいに全ての工程を一人でやってしまう「完全な職人(労働者)」がいなくなってしまうということだろう。中世では「一人前」でない場合は見習いでしかなく、就業できなかった。しかし、マニュファクチュアのもとではみ不熟練工であっても就業できるようになる。熟練工がいなくなるのは、機械制大工業が生まれてからだ。

 まあ、一生不熟練工ってことはあるかもしれないのだが。

 

 と4点も難癖をつけちゃったのだが、だからと言って悪い本ではない。

 たぶん、資本論』の中身を『資本論』の内容に沿って理解する、という入門書の基本に立ち戻って考えると、これまでに紹介した中では一番いい本だろう

 齋藤孝のわかりやすい文体・文章が、入門書としての良さを際立たせ、200ページで読み終えられるという「短さ」も幸いしている。

 区切りごとの冒頭に掲げられている『資本論』からの引用・抜粋もおおよそ的確である。いまぼくがサブテキストで使っている土肥誠『面白いほどよくわかるマルクス資本論』も区切りごとにマルクスの『資本論』の原文が引用されているのだが、「え、ここを最大のエッセンスだと思ったわけ?」と首を傾げたくなるようなトンチンカンな部分が引用されていることが少なくない。

 

 

 的場監修本にも区切りごとのラストに『資本論』の抜粋が要約されて載っているのだが、あまり適切でない部分であったり、ひどい時には意味が反対のものが載せられている時もある。

 

 齋藤孝の本でいいなと思ったのは、8章の労働時間短縮のための労働者のたたかいを齋藤孝自身が高く評価し、結構力を入れて書いているということである。

 不破哲三マルクスが解明した資本主義分析の特徴を4つあげ、『資本論』の読み方についても次のような注意を与えている。

資本論』を読む際、搾取の本質(第一の特徴)と利潤第一主義(第二の特徴)だけで済ませてしまって、こういう搾取社会だから変革が必要なことを理解する。これはたいへん大事なことですが、マルクスは、そこだけにとどまっていません。資本主義の発展のなかで、次の社会変革に進む客観的条件(第三の特徴)と主体的条件(第四の特徴)がどのように準備されるか、そのことを含めて資本主義社会についての経済学を展開しているのです。(不破『マルクスと友達になろう』p.29-30)

 ぼくはこれに同意する。8章における労働運動の叙述はまさにこの第三と第四の特徴に関わるものである。

 

資本論』を学ぶために必要な支援

 若い人たち、それも『資本論』についてほとんど予備知識もなく、翻訳した西洋古典と付き合った経験がない人たち(こういう人を仮に「超初学者」と呼ぼう)と学習会をしてみて、『資本論』を学ぶうえでどういう入門書や学習支援が待ち望まれているのだろうか。

 第一は、内容の柱をつかむこと。『資本論』の内容をざっくりと理解するような平易な解説である。しかも『資本論』を順序立てて。齋藤孝の本はまさにこれである。昔は労働組合のテキストなどでそういう本がいっぱいあったが、今はもうほとんどない。

 不破哲三などはこういう類の本にあまりいい顔をしない。なぜなら、「解説を読んでわかった気にならないでほしい」と思っているからだ。そして解説の方の解釈がじゃまになって、古典を素で当たったときの新鮮な理解が曇らされると思っているからである。それはそれで一理ある。

 しかし、「超初学者」にとって、『資本論』という森、いやジャングルに入ることがいかに困難なことか想像してほしい。ガイドや地図もなしにジャングルに入らされるようなもので、迷うこと・挫折すること必至である。「いまどの辺りにいる」「何合目まできたな」という感覚がない。

 第二は、内容の柱が現代のどんな問題と結びついているかを簡単に理解すること。あるいは、視覚に訴える教材を使うこと。

 例えば、価値や貨幣の問題は抽象的な議論である。それを現代のこんな問題と結びついてますよ、と示すことで興味や関心を持続できる。

 昔の労働組合や左翼組織は堅苦しい文章を印刷するしかなかったが、今は動画とか写真・イラストとかがネットなどで無料で自由に使えるから、こんなに恵まれた条件はない。

 ぼくは、マルクスが8章や11章で持ち出す綿工業や時計産業の具体的な姿がわかりにくいので、ネットで動画を探してみんなで見てもらったりしている。例えば「紡錘」は何回も『資本論』で登場するが、若い人は見たこともない。

www.youtube.com

 

 第三は、『資本論』原文に入った時に、段落ごとを1行か2行程度に要約したものがほしい。あるいは、すぐに理解しなくていい箇所とここはどうしても理解してほしい章・節・段落を示すことだ。

 第一、第二のような解説本や教材はその気になればある。

 だけど、問題は原文を読み始めた時の難解さなのだ。どんなに気の利いた解説本を読んでいても、現代との繋がりがトピック的にわかっていも、いざマルクスのクソ小難しい、ペダンティックな皮肉交じりの文章の洪水に付き合わされたらたじろがざるを得ない。正直辟易する。

 いかに事前に「エベレストはきつい山ですよ」「アマゾンは途轍もない密林ですよ」と言われ、地図で難所や見取り図を確認し、トレーニングを積んだとしても、いざ登ってみたら・入り込んでみたら、とんでもないことに気づかされるのと同じである。

 

 『資本論』を実際に読む上で最大の問題は、何度目かの挑戦者ならともかく、一読めの読者は、ここは大事な箇所だなとか、そこはどうでもいいマルクスのおしゃべりだな、という遠近感が全く掴めないので、全部必死で意味を取ろうとすることだ。そんなことができるわけがないのに、逐語的に意味をつかもうしとして最大の難所である冒頭の3章(いや3章どころから、価値形態論になる1章3節)までで疲れ果てて挫折するのがパターンである。

 飛ばしていいところは飛ばす。理解しようとこだわらない。

 登山や密林探検で言えば、「ヘリコプターに乗って飛ばしていい」箇所があるのだ。いちいち丁寧に全て踏破しようとするな。その「飛ばしどころはここだ」「意味がつかめんかったけどこの段落はだいたいこういうことなんだな」という理解で次へ進める、そういう本が必要なのである。

 不破哲三『『資本論』全三部を読む 新版』はそういう本だと言えなくもない。

 

 問題はこれを前から順番に読まないことだ。

 そして、不破が面白がってしゃべっている脱線話にもいちいち付き合わなくていい。本を読み慣れていない人には、この本を読むだけでハアハアフウフウしてしまうのだから。わからない時に辞書を引くように読めばいい。

 全然書いていない箇所もある。そういうところは飛ばしていいんだなと思うようにしろ。

 しかし、そういうふうにすると今度は飛ばしすぎになる。ほとんど何も書いていない章・節もあるからだ。

 できれば章ごと・節ごと・段落ごとの要約があるものがよく、超初学者にとって大事でないとこ路・大事なところが色分けしてあるのがなお良い。

 

 例えば日本共産党は「新版『資本論』の普及と学習をすすめよう」ということを大会決定にしている。

 しかし、そのような「学習」を進めるための、ぼくが今あげたような第一、第二、第三にふさわしい資材・教材が作られているとは思えない。共産党には「学習・教育局」というのがあるんだから、そういう努力をしてみてはどうだろうか。

 今あげた第一、第二、第三の方向とは違うかもしれないのだが、実際に『資本論』を読んでいると、「マルクスが言っている、この記述はどういう意味だろう」と思うような箇所がいくつもある。

 8章は労働時間をめぐる具体的な話だからわかりやすいと思うかもしれない。しかし実際に読んでみると、年齢ごとの時間規制が複雑に入り組んでいて整理するのが一苦労な上に、誰のどういう利害がどんな行動に駆り立てているのかが、当時の事情がわからないとよく理解できない。

 例えば次の記述について、賢明な諸氏は状況とか、誰にどう有利で不利なのか、理解できるだろうか?

一八五〇年の法律は、「少年と婦人」についてのみ、朝の五時半から晩の八時半までの一五時間を、朝の六時から晩の六時までの一二時間に、変更したにすぎない。したがって、児童については、変更されるところなく、依然として彼らは、その労働の総時間は六時間半を超過してはならなかったとはいえ、この一二時間の開始以前に三〇分と、終了以後に二時間半、利用されえたのである。この法律の審議中に、かの変則の無恥な濫用にかんする一統計が、工場監督官によって議会に提出された。しかし無駄であった。背後には、好況期には、児童の補助で成年労働者の労働日を再び一五時間に引上げる、という意図が待伏せていた。つづく三年間の経験は、このような企図が、成年男子労働者の抵抗のために挫折せざるをえない、ということを示した。かくして、一八五三年には、ついに一八五〇年の法律が、「児童を少年および婦人よりも、朝は早くから晩は遅くまで使用すること」の禁止によって補足された。(エンゲルス,向坂逸郎マルクス資本論』2  Japanese Edition Kindle の位置No.3988-3997  Kindle 版)

 本当に学習会をやっていたらそういう困難に必ず出くわすはずなのだ。

 だけど、例えば共産党が出している学習支援雑誌「月刊学習」にはそういう話は一度も出てこないし、「赤旗」の学習のページにはそんなことが載った試しはないし、そういうことにフォーカスした支援教材も出てこない。実際に少しでも学習がされてるのかね? と疑問に思う今日この頃である。

 以上で、『資本論』入門書の紹介シリーズは終わる。

*1:新日本出版社版では3分冊p.588。「それら個々別々の人間は、同じ資本と関係を結ぶが、お互いどうしで関係を結ぶのではない」。

『マルクス「資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』

 最近でた『資本論』入門書シリーズの2つ目。

 斎藤幸平+NHK「100分de名著」制作班監修『マンガでわかる! 100分de名著 マルクス資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』(宝島社)である。

 マンガは前山三都里。「編集協力」は山神次郎、「取材・文」は乙野隆彦・森田啓代ということなので、実際にはこのあたりの人が書いているんだろうな…。

 

 斎藤幸平といえばこのツイート。

 これはあかんやろ。なにやってんねん。

 斎藤の言っていることが事実であるなら、マルクス解釈・成長解釈は違うといえども、『資本論』をここまで有名にした斎藤幸平と、なんで共産党は対談しようとしないのか。

 大いに対談したらいいではないか。共産党側が何かの節度や善意があって反応しないのだとしても、現在の共産党側の態度表現の仕方はあまりにヘタクソなのではなかろうか。

 

 

 

 さて本書である。

 これは正確に言えば『資本論』入門書とは言い難い。『資本論』関連本といったところだろう。そして、その解釈は斎藤幸平流。

 斎藤は監修者として本書のあとがきでこう言っている。

本書のマンガも、小さな仲間たちの意識改革で終わっていますが、現実には、気候変動のような問題を解決するためには、もっともっと大人数の参加が必要です。だから、本書がその大きなうねりを生み出すためのきっかけとなることを願っています。

 斎藤の『人新世の「資本論」』やNHKの「100分de名著」における斎藤流『資本論』紹介は、たしかに社会の大きな枠組みを問い、その変革を訴えるものであった。そしてそのスケールは確かにマルクスそのものである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 ところが、本書は、斎藤が述べているように「小さな仲間たちの意識改革で終わって」いる。

 これは、斎藤の著者・マルクス資本論』と、本書との距離であるが、逆にいえば、本書の特徴でもある。

 

 休日に里山に集まるだけの、会社も階層・階級もバラバラな人たちをめぐるマンガである。里山という自然にすばらしい息抜きを感じている多くの仲間たちに対して、山の所有者であるメンバーの一人は里山を「金儲け」の道具に変えていこうとする。その小さな違和感が一つの主題となる。

 さらに、休日でない平日のメンバーたちの労働現場に時々目が転じられ、そこでのサービス残業パワハラによる成果追求、ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の問題などが挟まれる。

 これらは、人間と自然の物質代謝、コモンと商品、労働者の「自由」、絶対的剰余価値、相対的剰余価値、分業、部分労働、アソシエーションなどといった『資本論』の基本問題へとつながっていく。

 

 いきなり「社会変革」を志すことは難しい、という人も少なくなかろう。まあ、たぶんそっちの方が多数派である。

 だとすれば、ぼくらは休日に触れる自然、平日の労働の矛盾を感じたときに、一足飛びに社会変革や政治変革に投じられるのではなく、まず小さな違和感をいだき、その違和感を解釈しようとし、そして身の回りで小さな行動を起こす。

 そのような行動のサイズを考えた時、ひょっとしたら、本書のような「第一歩」は最適解なのかもしれないのだ。

 左翼は、かつて労働運動から少なくない人が流入してきた。

 しかし、こんにち、そのようなルートは有効だろうか。

 ぼくは、本書を読みながらこんな短いマンガなのに、里山で集まっている仲間たちのキャンプの描写にずいぶんと惹かれるものがあった。前山のグラフィックが醸し出すゆったりした感じ、好みである。

 面白そう。

 行ってみたい。

 と至極単純に思ったのである。

 例えば、夕焼けを見ながらコーヒーを飲んでいるこの描写をぼくは繰り返し見てしまう。

本書p.15

  あるいは、マルクスの解説的な立ち位置にいる町田という女性(小さなPR会社の経営者、おそらく年齢はぼくと同じくらい)の次のような「ゆったりした」感じ。

本書p.66

 あー、テントでコーヒー飲みてえ、と思ってしまう。

 へ? たったこれだけで? と思うかもしれないけど、そうなんだよ! 悪いか。

 こういう休みが待っていたら平日の激務もがんばれるかも、って素直に思うんだよな。

 そういうことをで集まっていく(つまりオルグしていく)左翼運動があったっていいじゃない、と思うんだよな。

 行きてえ。参加してえ。

 って心や体が欲している。

 ラストの結論が「小さな仲間たちの意識改革」と言っているわけだけど、この仲間たちは汲み上げた水の共同利用や市民発電などのアイデアを出して終わる。ぼくが関わっている左翼運動にはそういう入り口が全然ない。

 コミュニスト組織の再生産の話に関わるけど、組織が提起する多くの課題が、およそぼく自身にとっても魅力のないテーマに終始している。里山だのキャンプだのは一ミリも出てこない。運動の生き生きした原初的なエネルギーがなければ、友人も誘ってそこに身を投じようなんて思うはずもないではないか。

 いやあるよ。気候変動について若い人の団体と懇談しませうとかそういうのが。

 だけど、そういうことじゃないんじゃないの?

 魂が震えるような運動の体験がなくて、人なんか集まらないと思うんだよ。

 最近、ひょんなことから、渡辺武という共産党国会議員のパートナーであった渡辺泰子という人の自伝を読む機会があった(ご存命である)。

 渡辺泰子は1950年ごろに福岡市の樋井川(現在の城南区)付近で活動しており、同じ細胞(党支部)には大西巨人夫婦もいた。彼女は部落の子どもたちのために農繁期託児所をつくり、人形劇や紙芝居を演じたりする。稲庭桂子:作・永井潔:絵の紙芝居「正作」を買ってなんども演じるくだりがある。

私はこの「正作」をこのときから九州を去るまでの二年半の間にどのくらい演じただろう。私はこの紙芝居を長尾の引く丘の尾根を越えた向こうの部落の子供会でやった時の、女の子の涙でいっぱいの目を忘れない。たった十六枚の動かない絵で、こんなに人の心を動かすことができるのか。私は紙芝居の持つ力を実感した。(渡辺泰子『息子たちへ』上、p.108)

 

 

 

 人々の心と体の奥底から生まれてくる要求に応える真剣な運動があって、忘れられない体験としてその運動を大切にし、居着くのではないのか。

 本書(『マルクス資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』)の里山でのキャンプの描写を見るたびに「行きたい」と思うぼくの心は、そうした運動の原初ということを考えさせてくれるのである。

 

 

 

 

的場昭弘監修『マンガでわかる資本論』

 ある出版社の出している『資本論』を手に入れようと大手書店の経済書のコーナーに立ち入ったら、しばらく見ないうちにずいぶんいろんな『資本論』入門書が出ているじゃないか…!?

 というわけでその中から3冊ほど感想を書いてみたい。

 

 最初は的場昭弘監修『マンガでわかる資本論』(池田書店、マンガ:ユリガオカ・サイドランチ)。奥付に「執筆 佐藤賢二+真代屋秀晃+石津智章」とあるから、本文は実質的にはこの人たちが書いたんだろうな…と想像する。

 

 

 

 

 この本がぼくの興味を引いたのは2点。

 

 第一は、入門書として、現代の起業の物語をマンガとして使うことで、職人的な手工業から現代的な資本へという資本の歴史を、身近な題材で見てもらおうという工夫があることだった。

 ぼくが構成を務めた『理論劇画 マルクス資本論』は、『資本論』の中身をマルクスと作者(門井文雄)が掛け合いをしながら説明するというもので、まあある意味で誰もがまずは思いつきそうな「マンガ化」の方法である。

 

 しかし『理論劇画』の方法の良さは、『資本論』の解説としてはいいけども、マンガの面白みや物語性のようなものが生かされにくいのである。

 

 この点で本書(『マンガでわかる資本論』)は、「スタートアップ」という、ある意味で今の人たちにとって現代的な材料と物語を使う。初めは友人と二人だけでやっていた企業がやがて人を雇い大企業へと成長していく。

 歴史=論理である。

 資本というものが歴史として登場してくるプロセスを見ることで、そこに資本の論理がどう働いてくのかを読者は学ぶことになる。

 『資本論』を「解説」にせず「物語」にする手法は、イーストプレスの「まんがで読破」シリーズの『資本論』でも採用されているが、イーストプレス版は、舞台が昔のヨーロッパである上に『資本論』の構成に縛られすぎている(良く言えば『資本論』の順番をちゃんと意識している)。

www1.odn.ne.jp

 

 これに比べて本書は、かなり大胆に『資本論』を「バラバラ」にした。物語が自由になり、没入度を高めることができる。

 

 第二は、ちょうどぼくが若い人たちとやっている『資本論』学習会が今まさに協業やマニュファクチュアのあたりをやっていて、この本ではそのあたりの解説の分量が非常に多いのである。

 

どこが問題か

 問題点は、不正確な粗が目立ってしまうということ。今回連続で紹介する3冊の中でもっともそれが目立った。

 細かくあげればきりがないし、あまり意味のある作業とも思えないので、2点ばかり指摘しておく。

 

 その1。商品の「使用価値」と「交換価値」を「商品がもつ2つの価値」という説明をしてしまうこと(p.42-43)。

 これ、すごくよくある説明。いや確かに「使用価値」と「交換価値」っていうふうにどっちにも「価値」がついているからね。だから「2つの価値」なんでしょうね。

 でもですよ。マルクスはわざわざ「価値」という概念で、『資本論』を説明していくんですよ? これがどんな混乱を生み出すか考えたことがありますか。

 「1メートルの布」は「1キロの小麦」で交換価値を表すのだが、なぜ何もかも違うように見える「1メートルの布」と「1キロの小麦」が交換できるのかと言えば、同じ手間暇をかけている、つまり投下されている労働量が同じだからであり、それが価値だという説明をしていない。

 このため、「使用価値」が「価値」であるなら、生産力が上昇するとなぜ「価値」が下がっていくのかがわからなくなってしまう。

 本の中では「価値」「交換価値」の使い方が時々に変わり、読者は混乱する恐れがある。

 

 その2。相対的剰余価値の説明で「特別剰余価値」という概念を使わずに説明して、しかもその説明がよくわからない(p.122-123)。

 

 相対的剰余価値とは、資本家が技術革新による生産性の向上などで特別のもうけ(特別剰余価値)を手に入れようとして、その結果社会全体の生産力が上昇して、労働力価値(労働者の賃金=労働者が衣食住のためにかける費用)が下がり、増える剰余価値のことである。

 今述べたように、資本家は特別剰余価値をめぐる争いをして、意図せざる結果として相対的剰余価値を手に入れることになるのだが、そのテコとなる特別剰余価値についての説明はない。

 

 しかも、服をめぐる原価や利益の計算を書いているのだが、ぼくの頭が悪いのか意味がわからないのである。簡単に言えば「生活費が下がって給料が下がる」ことで儲け分(剰余価値)が増えることが相対的剰余価値のはずだが、本書では「給料は変わらず」、生産力が上がると「利益が増える」ことになっている。

 もしぼくが勘違いをしていたら、ぜひ指摘してほしい。

 

 「え、なに、じゃあ間違いだらけなの?」というとそういうことではない。

 上記の2カ所を除けば、細部に間違いはあっても、大ざっぱに理解する上では問題ないと言える(いや、問題ありまくりだ! という人もいるかもしれないが、程度の問題だと思う)。 

 まあ、監修者はもうちょっとよく監修してくれ、と注文をつけておく。

故安倍晋三氏への弔意表明に関する請願

 次のような請願を教育長と自分の子どもが通う中学校の校長宛に出した。

 そこに書いたように内心の自由表現の自由にかかわる問題であるからだ。

 

〇〇市教育長 〇〇殿

〇〇市立〇〇中学校校長〇〇殿

安倍晋三氏への弔意表明に関する請願

2022年7月○日

〇〇市〇〇

(ぼくの署名)

 

 私は〇〇中学校の生徒の保護者です。

 掲題の件について、請願法に基づいて請願いたします。

 同法第5条等に基づいた処理を求めます。

(請願趣旨)

 9月27日に故安倍晋三氏の国葬が行われることが閣議決定されました。この国葬自体が法令上の根拠もなく、国民の「内心の自由」などを侵す不当なものですが、国葬にあたって、政府が、教育委員会自治体に対して、弔旗・半旗の掲揚や黙祷での弔意の表明を求める恐れがあります。

 弔意の表明は本来憲法が保障する「内心の自由」と「表現の自由」に関わるものであり、これらの市民・子どもの基本的人権が侵されることがあっては絶対になりません。

 故安倍晋三氏は現職の総理大臣ではなく、いわば自民党の政治家であり、この人物に対して教育委員会及び各学校が子どもに弔意を求めることは、第一に、教育基本法第14条が定める「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」に違反します。これは強制であるかないかにかかわりなく、求めること自体が違反になります。第二に、たとえ強制ではなく「要請」であったとしても、学校当局や教員という「権威」が子どもに「要請」することは事実上の強制であり、「内心の自由」「表現の自由」を侵します。第三に、黙祷など身体への介入をするものでなく、弔旗の掲揚だけであったとしても、学校としての行為であり、広く子どもと地域住民に弔意を「強要」しているという事実に変わりはありません。

 以上3点に鑑み、弔旗・半旗の掲揚や黙祷要請など弔意表明の要請は、憲法教育基本法に違反するものであり絶対に許されません。

 よって、以下の点を請願いたします。

(請願項目)

教育委員会及び学校として子どもや地域住民に故安倍晋三氏への黙祷や弔旗掲揚など弔意を事実上強制する行為をしないこと。また、教育委員会として弔意表明を求める通知を各学校に発出しないこと、同様の国の通知が発出された場合についても「周知」をしないこと。学校はそれらに応じないこと。

以上 

 

 異論がある場合は、声をあげておくことが、それも文書で明瞭に出しておくことが必要だ。茂木自民党幹事長が「国民から『国葬はいかがなものか』との指摘があるとは認識していない」と言っているだけに、「指摘」を明瞭にしておく必要があるから。少なくともぼくという国民の一人は「指摘」をした、という点で、茂木の認識は間違っている。

 

 教育委員会は「あくまで学校の判断」として政府の通知を垂れ流す可能性は大きい。

 では判断を委ねられた学校はどうか。

 学校は本当はそんなバカげた政治イベントに動員されたくはない。しかし、上からの通知を忖度してしまうために、何かそれを断る「根拠」がほしい。

 それは保護者や子どもがきちんと声を挙げることだ。

 中曽根死去のときも、同じような請願を行い、少なくとも娘が通う学校において半旗・弔旗の掲揚はなく、黙祷などの要請・強要もなかった(当局からだけでなく、娘にも確認した)。

 あくまで推測であるが、1人であっても保護者が明瞭に声を上げているということは、学校が判断をする重要な根拠になるのだろうと思った。

 

性風俗事業者への給付金についての共産党の態度から考える

 コロナ禍での持続化給付金などの対象から性風俗事業者を排除したのは、憲法違反だとして、デリヘルの事業者(会社)が国などに支払いを求めた裁判の件。東京地裁は合憲判決を出した。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

 訴状・書面、そして判決文は、以下にある。

 

 この裁判の訴状の中(p.22)にも出てくる「ナイト産業を守ろうの会」は、福岡市議会でも2020年に請願を出したことがある。ぼくはこの時の市議会の請願審査を傍聴した(委員会ではなく本会議)のでそれを思い出した。

https://gikai.city.fukuoka.lg.jp/wp-content/uploads/2020/05/seigan_02131.pdf

 請願は、「ナイト産業」(キャバクラ、ホストクラブ、バー等の飲み屋から性風俗やラブホテル等)に対し補償その他の給付を行うことと市独自の給付を行うよう求めている。

 この請願の紹介議員が上のURLの文書に書いてあるが、紹介議員になったのは、日本共産党(倉元・中山・松尾・山口湧・堀内・綿貫)と、緑と市民ネットワークの*1(荒木・森)のみであった。

 そして、この請願の委員会での審査は「不採択」とされた。この委員会による「不採択」という結論についての賛否が本会議で問われることになった。

 各会派はどう判断したかが以下の通りである(福岡市議会ホームページより)。

 請願不採択に反対、つまり「請願を採択しろよ」と主張したのは、紹介議員になった共産党・緑ネット、そして市民クラブ(立憲民主・国民民主・社会民主などの議員が集まった会派)のみだ。自民党公明党・令和会(維新含む)は不採択の立場に回った。

 請願採択を求める共産党(綿貫英彦議員)の討論がある。

www.jcp-fukuoka.jp

 

 そこではこのように訴えている。

私は日本共産党市議団を代表して、ただ今議題となっております2年請願第13号、「ナイト産業への補償について」に賛成して、討論を行います。


新型コロナウイルス感染症が拡大する中で、市民生活に重大な影響が及んでいます。とりわけ、所得が低く貧困にあえいでいる人には大きな打撃となっております。

昨日経済振興委員会で本請願についての審査が行われた際、請願者は冒頭に次のように述べました。


「中洲のナイト産業というと眉(まゆ)をひそめる方もいますが、そこで働いている人たちは、幼い子を抱えたシングルマザーなど生活のために一所懸命な方ばかりです」。

「風俗店に従事する女性たちは、シングルマザーであったり、親の借金を返済するため等様々な事情を抱え、やむなくこの仕事をしている人が多いのが実情です。もちろん貯金に回す余裕などありません。そのような事情を抱えた女性たちが、世間に対する後ろめたさを感じながら感染リスクを承知の上で、生活のために身を削って働いているのが実情です。私のもとには、女性たちから、泣きながら『生きているのが辛い、どうすれば楽に死ねるかな?』『リストカットをした』という相談が毎日のようにたくさん寄せられています」。


――このような訴えでした。


性風俗産業で働いている人たちは、もっとも保護や手立てが必要であるにも関わらず、これまで公的な制度から締め出され、政治の光が当てられてきませんでした。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための学校臨時休業に伴い厚生労働省が新設した助成金で、風俗業などで働く人たちが対象外とされていたために、「職業差別だ」という非難の声が国民の多くから沸き起こり、厚生労働省がこの方針の見直しに追い込まれたのは、つい先日のことであります。この見直しは、学校の臨時休業だけでなく、事業所が業績悪化をした場合に支給される雇用調整助成金にも適用されることになりました。

このような差別が公的な制度のあちこちに残され、現在のような緊急時にはその差別がこうした人たちを苛(さいな)んでおります。


今回、請願では、ナイト産業に対して休業の補償などの給付、とりわけ働く人に対する給付を国や市に求めております。現在、福岡市の休業支援や国の持続化給付金は事業者に対するものであり、働いている女性への直接給付ではありません。

また、先ほど述べた雇用調整助成金についても適用されにくい現状があります。

風俗店で働く女性スタッフの多くが業務委託契約に基づく完全歩合制となっています。そのため、接客数がゼロであれば、店に待機していても、その日の報酬はゼロとなります。

業務委託契約といえば、建設業でいうところの一人親方のようなもので、女性スタッフひとりひとりが個人事業主という扱いとなります。こうした場合、彼女たちは雇用調整助成金を受けることもできません。また、個人事業主にも支給される持続化給付金についても風俗業は対象からも除外されており、受け取ることができません。

事業所への公的な融資についても、国・市ともに性風俗業は対象から外されており、事業所を通じて女性たちにお金が渡るルートも塞がれているのであります。感染拡大を防止する立場からパチンコ業が国の融資対象として新たに認められたことと比較しても、あまりに不公平です。これらの業界は国や市に納税しています。税金だけは納めさせておいて、給付や融資からは締め出すというやり方は、およそ許されるものではありません。


さらに、彼女たちが、社会福祉協議会の緊急小口貸付などの制度を利用するにしても、手渡し日払いのため、源泉徴収票や給料証明書などの収入を証明する資料がなく、事実上これらの制度の利用ができません。

感染拡大を防止し、市民生活を守らねばならないというこの非常時に、さまざまな理由をつけて性風俗にたずさわる女性たちを差別する現状を変えなくてはなりません。


私ども日本共産党は、綱領でジェンダー平等社会の実現を掲げ、女性の独立した人格を尊重し、女性の社会的、法的な地位を高めることをうたっております。もっとも苦しみ、光の当たってこなかった女性を緊急に支援するために、本請願を採択することを強く訴えるものであります。

 このとき、「業種によって差別なく公的融資を受けられる手立てを講じることを求める意見書案」が同時に提案された。

 これは市民が提出するものではなく、市議会議員が議会に提案する意見書である。

https://gikai.city.fukuoka.lg.jp/wp-content/uploads/2020/05/iken_02021.pdf

 「ナイト産業」関係の人たちの請願にあわせて、市議会議員がまた別の意見書を提案したというわけだ。

 意見書案は次のように訴えていた。

政府は臨時休校に伴う休業補償の対象から、ホステスや風俗業で働く保護者を除外していましたが,「職業差別だ」との批判を受け、方針を転換し、認める方向を打ち出しました。融資の場合も、業種による差別があってはなりません。

よって、福岡市議会は、国会及び政府が、日本政策金融公庫の融資の対象となる業種を拡大するなど、法律で営業を許可している以上、事業者に対し業種によって差別なく公的融資を受けられる手立てを講じられるよう強く要請します。

 このときの共同提案者は、共産党・緑ネット・市民クラブであった。

 これについても採択が行われたが、やはり賛成は共産党・緑ネット・市民クラブのみ。自民党公明党・令和会は反対に回った。(以下は福岡市議会ホームページより)

 福岡市議会での態度に限らず、国会では共産党と立憲民主の議員が当時、「ナイト産業を守ろうの会」と共同して動いていた。

www.buzzfeed.com

 こうした国会や福岡市議会での左翼・リベラル系議員、まあ特に共産党議員の実際の姿を見て、「性風俗業は性的搾取である」という原理論を先に立てて全て切り捨ててしまうのではなく、具体的に目の前で困窮している問題で、やはり具体的に解決策を見出し、共同する、という真骨頂を見た思いがした。

 その時のぼくの、いわば「感動」が次の文章になった。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 そこでもアナロジーとして書いたのだが、マルクスの理論から言えば中小企業であっても労働者を搾取している。しかし、では共産主義者は中小企業家や中小業者と敵対するのかといえば、そんなことはなく、むしろ一貫して革命の統一戦線の担い手、つまり社会を変えるパートナーとして中小企業家たちと協力関係を結んでいる。「社長」をやっている共産党員は決して少なくない。搾取は法律で根絶できるものではなく、剰余価値を社会がコントロールできるようになった時に、すなわち、社会の仕組みとして搾取を「克服」した時に、初めて「なくなる」のである。法律で「禁じ」ればなくなるというものではない。

 法律上の狭義の「強制」や「暴力」については当面厳しく規制をくわえながらも、働いている現場を改善すること、職場をよくしていくことは十分共同できるはずである。

 同じことは「性的搾取」でも言えないだろうか? それがぼくが書いた一文の趣旨であった。

 

 AVや性産業においてそれが働いている人にとって「強制」かどうかよく議論になる。お金のために「嫌々やらされている」のだ、という問題だ。*2

 それは労働一般に関しても同じで、マルクスは、労働者は自分の労働力商品を「売らざるを得ない」というある種の「強制」的状況に置かれているのであるが、当の労働者は必ずしも「嫌々」労働しているわけではない。もちろん『蟹工船』のような現場もある。しかし、自分の労働に誇りや生きがいを持って労働者が働いていることは非常によくあることである。

 「誇りや生きがいをその労働者が感じながら働いていること」と、「その労働者が搾取されている現実」は両立する

 逆に言えば、「やりがいを持って働いているんだ! 『お前は搾取されている』なんて失礼じゃないか!」とマルクスを怒鳴ることはできない。主観的にどう思おうが、学問の目で見て客観的な状況を規定することはできるからだ。

 マルクスは、搾取を法律によって「根絶」「禁止」しようとしたのではなく、社会そのものを大きく変えることで解決しようとしたし、また、社会が発展して法則的に解決されるだろうという見通しを示した。

 ノンフィクション系のコミックである蛙野エレファンテ『AV男優はじめました』には、筆者(蛙野)が仲良くなったAV女優としっぽりと飲んで話している時に、その女優が、

「騙されて嫌々やらされているんでしょ?」って言う人いるの!(略)

嫌々やってできるような仕事じゃないのに!

と憤るシーンがある(4巻p.122)。

 「騙されて嫌々やらされている」と言う人、そうでなく誇りを持ってやっている人、その中間の人――意識の状況では様々であろう。それは労働一般にも言えるはずである。「誇りを持ってやっている」という事実や意識を否定する必要もないし、逆に「騙されて嫌々やらされている」という事実や意識を否定する必要もない。

 その上で、性を商品とする産業に対する理論的な評価はお互いに探求すればいい。

 だけど、問題は、当の(ぼくをふくめた)共産主義者が、そうした労働・仕事についての根源的な理論的評価がさまざまあったとしても、当面の具体的な問題で共同するという「仕草」が実際に取れるかどうかがものすごく大切なのだと思う。

 

 「中小企業の社長というのは、資本家であり搾取者ではないか!」などと言って、敵対する態度をもし日本共産党がとってきたら今日の日本共産党はないだろう。民主商工会中小企業家同友会の人たちと真剣に手を組んでいる同党の姿が今日の到達を築いてきた。他方で、労働者を違法にいじめる「ブラック企業」に対しては容赦がない。

 そういうような使い分けが性産業でもできるはずであり、このナイト産業をめぐる請願の経緯はその明るい可能性を感じさせるものであった。

 

 

 『マンガ論争24』における荻野幸太郎・うぐいすリボン理事との対談の際に、左派やリベラルの界隈から紙屋のような立場への反発はないのかという問いに対して、ぼくは次のように答えた。

最近、ちょっとあったのは、セックスワーカーの問題についてですね。セックスワークは絶対駄目なのかっていうことについて同人誌に書いたことがあったんですが、そうしたらセックスワークの容認は絶対に駄目だという反論みたいなものがあった。しかしそれはぼくから見ると性急な感じがするんです。いろいろな立場の学者がいて、考え方も分かれているのに、特定の立場の学者の意見だけを引用して、容認は絶対にあり得ないと簡単にまとめてしまうというのは、キツいなと感じました。(p.35-36)

 「セックスワーク(容認)論は絶対にダメ」という原理論を先に立ててしまって、共同の可能性をふさいでしまうのは、あたかも「資本主義的搾取容認は絶対にダメ」という原理論を先に立てて、共同の可能性を否定してしまうことに似ている、とぼくは危惧したのである。

 

 このような一部に生まれた「原理主義的態度」は克服されていくのではなかろうか。政治は根源的な理論の見通しを持ちながら、それと整合性を保ちつつ、共同を広げ、「敵・友」のうちの「友」を広げていく技術である。*3

 克服されつつあるし、克服されるに違いない。

*1:現在は「緑の党と市民ネットワークの会」に改称。

*2:先の共産党の福岡市議の討論でもこの論点は出てきているが、これは性風俗で働いている当事者が請願審査の場で「やむなくこの仕事をしている人が多い」と実際に語ったことを紹介しているわけだからなあ…。また、セックスワーク裁判の準備書面の中にもこの論点は出てくる。無理やり働かせるような業者には給付金は出せないかもしれないがそういうことはない、という趣旨で。

*3:「政治に固有な区別は、敵・友という区別にある」というカール・シュミットの考えが念頭にある。