ぼくのかんがえたさいきょうのてんのうせい

 日本国憲法第1条は

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

 っていう具合に「日本国民の総意に基く」わけだから、天皇という制度自体はそもそも基本的人権や平和主義のように「永遠に」動かせない原則じゃなくて、国民の意思で憲法を変えて制度をなくしたり根本的に変更したりすることもできる。

 だけど、憲法を変えず、今の憲法の範囲内でも、「日本国民の総意に基」いて、天皇のあり方をもっと自由にデザインできるし、してもいいんじゃねーか。

 めざすところは、

  1. 天皇個人・皇室のメンバーをもう少し自由に生きさせてあげたい。人としての尊厳=人権を保障するというか。
  2. 明治憲法を引きずるような神的性格・権威的性格を削って、実権のない、しかし親しみと実感のわくシンボルとしての役目=「1日駅長」「〇〇県ぶどう大使」くらいのゆるさにしたい。
  3. 政治家が政治利用をできないようにしながら、同時にその地位が国民の総意に基づくことを制度上きちんと組み入れたい。
  4. 「こいつこそ、ニッポン!」的な統合象徴性はできれば大事にしたい。

といったあたりだ。憲法で定まっていないことは、法律や皇室典範を変えたらいいんだから、思い切ってそこをゆるやかにやるべきだということである。

 

天皇をやめられる・キョヒれる

 まず、天皇がイヤになったら・しんどくなったら交代できる、お休みできる。そういう制度にしたい。即位も拒める。老舗の跡継ぎじゃないんだから「将来はお前に店をまかすぞ」ってな具合に人生を縛られるのは誰でもイヤだろう。

 そこで、女性天皇女系天皇などを取り入れる。

 だけど、それでも順番を強制的に回される方はたまったもんじゃない。「え、〇〇宮がイヤって言ってんの? じゃ、じゃあ次は俺しかいないじゃん!! ちょ、待って待って待って待って。やだよ、おれ……やりたいことあるもん」。

 町内会の輪番、PTAの役員と同じである。 

 

養子をOKにする

 しかし、そこでネックになるのが第2条だろう。

皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 世襲かあ。世襲じゃあなあ。

 たとえ女子や女系を許容しても、受け継げるメンバーは限られてしまう。

 そこで養子ですよ。

 皇室典範第9条、

天皇及び皇族は、養子をすることができない。

 を変えればいい。まあ、養子構想ってすでにあるみたいなんだけどね。

 民間人で天皇になりたい人がいたら手を挙げてもらって、民主的な手続きでそれを決めて、養子縁組をするのである。歌舞伎の芸養子っぽく。

 AKBメンバーとか、スーパーボランティアの人とか、清原和博とか、ホリエモンとか、イチローとかが手をあげるのである(決め方は後で言う)。

 そして、そういう民間人出身の天皇は、退位後天皇家にいたくなければ離脱する(養子離縁)。

 

天皇を休める

 「しばらく天皇、休みたい」。

 そういう場合は、摂政にやってもらうのである。

 摂政は皇室典範第16条で

第1項 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
第2項 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

となっているんだけど、これでは摂政を置く条件が狭すぎる。これを例えば「天皇が、やむを得ない事情で、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」とかに改正したらいいのでは。

 

天皇について選挙する

 今の天皇の制度は、天皇になる順番をあらかじめ厳格に決め、有無を言わさず生物的に死ぬまで天皇をやらせるところがあって、それゆえに政治が介入する余地が少ない。つまり首相などの政治家が国民にウケるタイミングで即位させたり、気に入らない天皇を退位させたりといった具合に、皇位継承や退位などで政治利用しにくいのである。

 これを皇族や天皇の自由意志でやらせたり養子を取ったりするようになると、今度は政治利用の可能性が高まってしまう。

 そのあたりのジレンマをどうするか。

 そこで、天皇の選挙、もしくは信任投票をしたら?

 3人くらいの候補者の中から選ぶ。

 もしくは1人について信任投票する。

 最高裁裁判官みたいに、直近の国政選挙のときに一緒にやる形で。

 まあ、元来皇室の人は信任投票にして、民間人出身で養子を取る場合は選挙にしたらいいのでは。

 こうすれば、政治家による政治利用も防げて、「日本国民の総意に基く」も制度に組み入れられるわけですよ!

 本当は退位もそういう選挙で認めるかどうか決めるのがいいんだけど、そこまでやると「もうしんどいからやめさせて……」的なことが無理になるので。そこは内閣が出したオッケーが政治利用でなかったかどうかを国政選挙で審判下すしかないわな。

 

 ここまでで、「ぼくのかんがえたさいきょうのてんのうせい」はだいたい終わり。

 あとは、「できれば実行したら?」程度のプラスアルファの提案。 

 

プラスアルファ1:国事行為だけやってね

 天皇の仕事は、本来、憲法に定められた「国事行為」だけにすべきだ。

 それ以外は「公的行為」とされている。例えば共産党だって、公的行為は“憲法の範囲を逸脱しないものはいい”という形で認めている。「公的行為」を認めるという憲法学者は「国事行為の憲法のリストはあくまで『例えば』ってことだから、それ以外もやっていい」と言っている。

 しかし、「公的行為」なんて憲法には規定されていない。「公的行為」なんて認めない、という憲法学者も少なくない。

 憲法第4条はわりとはっきり書いてある。

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 だから国事行為以外をやめさせたほうがいい。

 

プラスアルファ2:ニッポンの象徴にふさわしく

 「これぞニッポン」的な象徴のあり方を模索してほしい。

 さてここが難問である。

 例えば、民間養子天皇の場合、AKBメンバーが天皇になったり、スーパーボランティアが天皇になったりする。「オタクこそ今の日本だ」と思えばAKBのメンバーがやってもいい。スーパーボランティアの精神こそ日本的だと思うなら、尾畠さんみたいな人がやってもいい。天皇の仕事は憲法通りだから、国事行為しかやることはない。それ以上はやらなくていい。やってはいかん。でも、こういう元民間人の養子天皇の場合はすでにイメージがあるので、国事行為だけこなしていても大丈夫である。

 しかし、もともと皇室の人、つまり生まれながらに天皇家の人は、なかなかそういう具体的な象徴性を示しにくい。

 「天皇家の人というだけでいいじゃないか」という人がいるかと思うが、前天皇明仁)はそこから脱却し、狭義の「国事行為」のみならず、いろいろ「公的行為」を駆使して動き回って、「感情労働」をこなすことで「平和憲法の理念を受け継ぐ象徴」という、国民全体はもとより、左翼の中でもけっこう人気の統合イメージを得たわけだから、「公的行為」を禁じた上で「天皇家の人というだけでいいじゃないか」とするのは、何となく抵抗を覚えてしまうのである。

 だけど、しょうがないよね。そこは、がまんしてください。

 まあ、どうしてもっていうなら……「公的行為」を多少認めてもいいけど。

 

プラスアルファ3:元号をやめる

 「明仁天皇やめるってよ」みたいなことが頻繁に起きるかもしれないので、元号はコロコロ変わってしまう可能性がある。

 昔の元号みたい。ウィキペディアとかで確認しただけど、2年とかで変わるもんな。特に鎌倉時代のひどさに草。2年で終わった元号が12もある。「天福2年」だってw   三波伸介かよ。

 だから元号の公式利用をもうやめる。混乱するだけなので。西暦だけにする。

 元号は、天皇家が私的に発表するだけにしておく。LINEのメッセージとかでさりげなく使うと、「お、マニアなもん、知ってるね」みたいに、ちょっとおしゃれでプレミアなクール感☆が漂うかも!

 

 

大塚英志の問題提起

 大塚英志は『感情天皇論』(ちくま新書)のなかで、前天皇が「象徴としてのお務め」をビデオメッセージで発し「お気持ち」を表明した時、国民がそのメッセージを事実上スルーしたという旨のことを次のように書いていた(強調は引用者)。

 

この「お気持ち」発言をめぐって顕わになったのは、私たちが戦後憲法下における天皇について「考え」たくないという、「意志」でなく「感情」の国民的共有であった。それは、象徴天皇日本国憲法の定める「国民の統合の象徴」であるのなら、天皇が可能にする「国民の統合」という公共性のあり方について主権者である私たちはそもそも考えたくないぞ、というサボタージュの選択だった、と言える。(大塚前掲書、Kindle の位置No.83-87)

 

 大塚はこの本の中で、統合の象徴という公共性のあり方を主権者としてもっと議論しろよ、という問題提起からまず始めている。天皇は統合の象徴であることを担わされているのに、国事行為しかできないのではその役割は果たせないじゃん、という矛盾を指摘している。

 

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

 

 

 大塚は「公共性」を、近代になって生まれた課題だとして、

「村から東京にやってきたら、隣の人が何を考えているかも分からない。そういう状態から、社会はどうあるべきかという公共性をつくらなければいけなかった」(東京新聞2019年5月18日付)

と捉えているから、むしろドライに国事行為だけをこなす存在にしてもいいと思っているのかもしれないけど。でもそうすると「統合の象徴」という文言が死文化しちゃうんだよね。被災地に行く天皇をマスコミが映す、平和の慰霊をする天皇の姿をメディアが流すから、そして明仁は必死でそこに努力(大塚の謂で言えば、「感情労働」)したから「統合の象徴」っていうのは平成になってもなんとか保たれてきたわけだ。

 大塚は本書の終わりで、こうした矛盾を解決せず、人間疎外を引き起こす「感情労働」を天皇個人に課し続ける天皇制を「断念」すること、天皇を日本から切り離してバチカン化する方向を示している。詳しくは大塚の本を読んでほしい。

 大塚がそう言わざるを得ないのは、天皇制について国民の総意を確認する方法がないからである。

「国民の総意」に基づく「統合の象徴」としての天皇が置かれてしまった。「総意」を確かめる手続きは憲法に示されない。これは、大きな問題だ。難癖をつけているのではない。手続きを経ない合意形成は、議会制民主主義が目指す公共性形成の手続きと相容れないからだ。(大塚前掲書、Kindle の位置No.3341-3344)

 ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデル(天皇選挙)のようにすれば、その確認の手続きはできるのではないか?

 

 まあ、ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデルには「それは現行憲法では無理だよ」というものもあるかもしれない。あるいは「この点は許せない」「さらに問題がひどくなる」というのもあるかもしれない。むしろそういうツッコミが聞きたいような気がする。

 

 いずれにせよ、現憲法下の天皇のあり方は固定的に考えずに、もっと自由に議論してもいいんじゃなかろうか。今のくらいで十分じゃない? 親しみやすいよ、という結論になってもそれはそれでいい。

『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター問題を考える

 『宇崎ちゃんは遊びたい!』を使った献血ポスターとそれをめぐっての太田啓子弁護士のコメント・行動が炎上しているな。

togetter.com

 太田は詳しくは述べていないようだが、要するに宇崎ちゃんの「巨乳」強調のイラストが「無神経」であり「公共の場での環境型セクハラ」であるからという理由で赤十字に何らかの苦情を言ったものと思われる(くりかえすが、この理由は推測に過ぎない)。

 

 これに対するツイッターなどのネット上のコメントを見ると、「あいちトリエンナーレ」の騒動と重ね合わせて、これも表現の自由に対する攻撃ではないのか、という意見がけっこう目立った。

 

「巨乳強調」は女性の人権を侵すか

 そもそもの問題として、巨乳を強調したイラストを大勢の前に掲示するのは女性の人権を侵すこと、「環境型セクハラ」になるのか。

 

 結論から言えば、「環境型セクハラ」=法令上の人権侵害とは思えないが、女性を性的な存在とのみみなし、部分化・パーツ化した存在とみなす意識を強化するかもしれない。(ただ、どんな虚構作品でも政治的にみて公正でない意識を強化する可能性はありうる。)そして、その不公正を批判する意見を述べることはありうる、ということである。

 

 「環境型セクハラ」ではないことについては弁護士の吉峯耕平が書いている。ぼくなりに思うことについてはこの記事の末尾にまとめておくので、読みたい人はそちらをどうぞ。

 

 ただ、太田の言いたかったことは、『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題以来一貫していると思うけど、“個別女性の多くは豊かな全体性を備えた一人の人間であるのに、それを巨乳=胸だけ強調して性的なパーツのように扱い、部分化された、性的な存在としてのみ扱うことは、女性全体の尊厳を傷つけるもので、多くの男性(女性や他の性を含めた)の女性観に歪みをもたらす”ということなのだろう。たぶん。太田の気持ちを「忖度」*1して言えば。

 法的にみてアウトではないものの、政治的には公正ではないジェンダーの加圧を高くするものだ、というのがおそらく太田の主張じゃねーのか。

 

 これもぼくはこの種の性的なコンテンツを「楽しんでいる」一人として、前から言っているが聞いておくべき・受け止めておくべき警告ではあると思う。

 宇崎ちゃんは虚構の人物であり、性的パーツ化を「楽しんで」おけるのは虚構の領域だけだ。*2 そして、そういう虚構コンテンツがひょっとしたら、ぼくらの現実の意識の中にこっそりと侵入して、女性への偏見・誤解を広げるかもしれない可能性についてもきちんと認識すべきだ。

 

 そして、これも前から言っているように、その種の政治的公正さから外れたもの、いわばポリティカル・コレクトネスを備えていないと思われるものは、性的なテーマだけでなく、まさに無限に存在する(家族、戦争、犯罪、宗教、暴力、年齢などなど)。そうした無数の警告の一つひとつに、どれくらいの「注意」の資源を割けるかは、まさにその人次第なのだろう。

 

 例えば中川裕美は最近「しんぶん赤旗」で「少女漫画とジェンダー」の連載をやったけど、『NANA』『星の瞳のシルエット』『神風怪盗ジャンヌ』といった少女マンガの中にジェンダー上の不公正がどのように忍び込んでいるかについて語っている。

 

 あるいは、政府が最近、映画『宮本から君へ』に麻薬取締法違反で有罪となったピエール瀧が 主演 出演していることをもって、「国が薬物を容認するようなメッセージを発信する恐れがある」として補助金の不交付を決定した。政府による不交付の是非とは全く別に、作品の中にそういう不公正が入り込んでいると主張することは、一般的にありうるのである。

www.yomiuri.co.jp

 

 そして、もうまったくいま手近にあるだけだから例に挙げさせてもらうだけなんだけど、たかぎ七彦アンゴルモア 元寇合戦記』であっても「元・高麗軍の残虐さを創作上過度に強調することが、モンゴル人や朝鮮人の民族性に対する偏見を助長する可能性がある」という批判も成り立ちうる(ちなみに、ぼくはこの作品を「楽しんで」いる)。

 

 つまり、創作物はほとんどのものが大なり小なり政治的不公正を含んでいる。どこかで誰かを傷つけていることは避け難いと言ってもいい。

 しかし、これにすべて対応して不公正を除去しようとすれば「政治的に正しいおとぎ話」になってしまう。

 

政治的に正しいおとぎ話

政治的に正しいおとぎ話

 

 

 創作が成り立たないのである。

 政治的不公正を批判する指摘というものは、当たっている場合もあれば、外れている場合もある。また、当たっていても、影響がほとんどないという場合もある。

 「不公正だ」という指摘に対して、ひとつひとつ実際に不公正かどうかを検証していけばいい。そして、作家は、その指摘や検証(議論)を受け止めて、そのままにしておくか、作品を修正するか、撤回するか決めればいい。そしてその態度に対して……という無限の連鎖が続く。それが表現や言論の自由というものだ。

 

 「宇崎ちゃん」については「女はおっぱいだよな」的な見方、「女性は性的な存在である」「女性は性的なパーツである」という見方を強化するおそれはある。環境型セクハラではないが、不公正さが含まれていると思う。だから、そうしたポスターに「これはジェンダー的に不公正ではないか」と意見を言うことはありうる。というか、言うべきだ。

 

もっとていねいに説明すべき

 ぼくが思うのは、指摘する側(つまり太田)の「雑」さである。

 「環境型セクハラ」という形で指摘すれば、「厳密に言えばそうではない」という批判が返ってくるのはわかりそうなものだし、そうなれば「環境型セクハラでないから、太田の主張は間違い!」で話が止まってしまって、「女性は性的な存在であるというジェンダー上の不公正を助長する」という肝心な部分が聞いてもらえなくなる。

 「女性は性的な存在である」という主張・メッセージがなぜ不公正か、ということも、いつでもていねいに説明する必要がある。普通に考えると、セックスする場合、女性は性的な存在になる。おっぱいという「パーツ」を味わうセックスをする人だっている。「その一面を示すことがなぜいけないのか?」と思う人はいるはずだ。

 性的な存在だという側面は、ぼくらの人格の大切な一部だが、一部に過ぎない。その一部を切り取って誇張する(文学や創作とはそういうものだと思うけど)ことが、あまりにナイーブであればあたかもそれが女性の(あるいは男性や他の性の)全体であるかのような錯覚を広げてしまうことがある。

 そこを丁寧に説明してほしいのである。

 「なぜ説明の手間を我々が取るのか? 自分で考えろ!」という主張をする人がいるけど、ぼくはまったくそうは思わない。いくら虐げられた人であっても、社会運動をする側はいつでも理解が及ばない人にていねいに説明しなければ理解は広がらない。と、コミュニストの一人として思う。

 

 

表現を批判することと表現を撤去させることの差

 「環境型セクハラ」というふうに言えば、法令上の違反であることをイメージさせ、ほぼ自動的にその表現を封じ込める力が生まれる(かのようである)。

 ある表現を批判することは自由であり、旺盛にやるべきだ。しかし、表現を消させることは慎重でなければならない。「いま自分は一つの表現を取りやめさせるかもしれない」という自覚もなく、法令上のレッテルを、「便利な道具」のように扱われては困るのだ。

 

 憲法学者である志田陽子は表現の自由の前提として次のように述べている。

 

人類の発展には真理の探究がつねに伴ってきた。これを塞がず前進させていくためには、国が上から「正しい答え」を押し付けず、人々が自発的に切磋琢磨できる言論の場(思想の自由市場)が必要である。(志田「芸術の自由と行政の中立」/「議会と自治体」第258号所収p.45)

 

 「思想の自由市場」というイメージからすれば、流通を規制せず、できるだけ自由に流通させて、しかしその中で切磋琢磨して、価値のないものを淘汰していったほうがよいはずだ。

 ヘイトスピーチはその典型だけど、ヘイトスピーチ解消法はヘイトスピーチ(本邦外出身者に対する不当な差別的言動)そのものを「許されない」(前文)としつつも、それを罰則による禁止や規制はせずに、啓発や教育によって、つまり国民一人ひとりが「思想の自由市場」でよい「商品」を選び取る力をつけさせることで「解消」をめざしている。

 これが将来規制法・禁止法になったとしても、基本的な構成は同じだろう。緊急避難で規制することがやむをえないもの以外は国民一人ひとりの啓発や教育に待つことが根本なのである。

 つまりヘイトスピーチに対するポリコレ棒を国民の内側にビルトインすることが大切だというわけだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 同じように、安易に表現を抹殺してしまうのではなく、それを批判することによって克服していくことがこの問題での「大道」だと言える。 言い換えれば、表現そのものの存在を否定(展示取りやめ・撤去・公刊中止・回収など)することを求めるのは相当慎重であるべきだ。特に、左派やリベラルは「表現の自由」の価値を高く称揚しているだけに、安易に撤去や中止を求めるべきではない(あくまで「安易に」であって、撤去や中止を絶対に求めてはいけないわけではなく、効果的な場合もある)。

 

 前にも言ったけど、ある人の表現に対して批評する権利は当然にある。それを口にするのも自由だ。もちろんその中身が、政治的公正さを求めることを動機にしていたとしてもである。

 そして、政治的公正さから表現を批評することはただ権利として存在するだけでなく、その角度からの批判が正鵠を射ている場合もある。ぼくもよくやる。

 だから、太田が政治的公正さの角度から、民間団体である赤十字にポスターについて意見を述べたこと自体は、間違っていないと言える。

 

 ただ、単に批評にとどめず、「表現そのものをやめろ(公刊したり発表したりするのをやめろ)」というのはどうか。結論から言えばそのように要求することは権利としては存在するし、たとえ表現が法に触れていない場合であってもそれはありうる。言ったほうがいい場合すらあるだろう。

 しかし、民・民の関係の中で言えば、その表現が政治的公正さから言って非常によくないものですよ、と伝えるだけですでに十分に役割は果たしているはずだ。あえて表現そのものをやめろ・撤回せよと要求して、その表現の存在を「抹殺」してしまう必要はないのではないか。

 自民党がつくるポスターについて「戦争を正当化し煽るものだ」「ジェンダー上不公正だ」と仮にぼくが考えたとしても、それを「撤去せよ」とは、ぼくはあまり言いたくない。*3

 

 先に挙げた中川は『神風怪盗ジャンヌ』が処女信奉という不公正を忍ばせていると批判した。『ジャンヌ』が少女に与える影響の方が、おそらく宇崎ちゃんポスターより大きいだろうが、中川は決して「だから『神風怪盗ジャンヌ』は絶版にすべきだ」とは要求すまい(いや、もししてたらビックリだが)。

 

 今回のケースで言えば、「宇崎ちゃんの巨乳の強調は、女性蔑視である。このポスターを私は支持しない」と表明し、赤十字に伝えればそれで終わり(目的を十分に果たしている)であって、「ポスターを撤去せよ」とまでいう必要はないのだ(太田がそこまで求めたかどうかは知らないが)。

  民間団体や民間企業にとっては、批判されること自体が、この表現を不快に思う人がいるのだなという単純な投票になり、その結果、その民間団体・企業は勝手にポスターの撤去・存続を判断するからである。(ただし、それは「江頭2:50をポスターで使うと嫌悪する人が多いので使わないでおこう」という判断と同列なのだけど。)*4

 

公の場の表現だからいけない?

 次に、「公の場の表現だからいけない」という意見について。

 市民の批判を受けて、大勢の人がよく見るような表現(駅のポスターなど)を撤去することはある。しかし、それはあくまで作家や民間団体の自主的な判断に過ぎない。作家や民間団体は表現の自由を行使して、表現を公表し続ける権利はある。表現の自由はそれくらい重いものだ。政治的な不公正があったからという程度の理由で当然に撤去されるべきものだと批判する側が考えるのは、根拠がない。

 ちなみに、公的団体のポスターについてはどうか。

 赤十字は「日本赤十字社は国の関連機関ではなく、あくまでも独立した民間の団体」である。なので、当然それは表現の自由の行使の主体となる(出版社や政治団体表現の自由の保護を受けるのは当たり前であるように)。

 となれば、太田が赤十字にモノを言ったというのは、民・民での関係ということになる。市長や首相に請願して、ある表現活動をやめさせるように要請したわけではないのである。

 太田の行為はいかなる意味においても表現の自由の侵害ではない。

 

 公的な団体のポスターを、公的団体に要請して撤去させる行為はどう考えるべきか。

 先に紹介した志田陽子の次の指摘を読んでほしい。

 この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である。「公」はこれを保障するための仕事をする側に立っている。……その一環として、自治体が「自然豊かな郷土」とか「非核都市宣言」とか「ヘイトスピーチは許さない」など、その自治体の価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできる。これを広めるために自治体の長がみずから発言することもできる。これは行政サービスの一環としておこなわれることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない

 憲法の言葉で言えば、「公」は憲法尊重擁護義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。公人が公人の立場において発言をするときには、この仕事の一環として発言をしていることになる。

 とくに公人が、正当な権利を行使している人を指してその行為の価値を貶める発言をしたり、排斥的な発言をすることは、人権擁護のための責任(憲法尊重擁護義務)を負う公職として、慎むべき事柄である。(志田前掲p.46-47、強調は引用者)

 一般的に啓発ポスターを公の機関、例えば福岡市がつくったとしよう。それはものすごく単純化して言えば市長が公職として作成していることになる。そして市長は忙しいし、絵が下手なので、職員に任せ、職員も絵が下手なので、それを作家に委託した……というほどのものである。つまりできあがったポスターは、市長の仕事としての成果物であり、それは「表現の自由」を適用しないものである。

 となれば。

 市の責務を果たすものとしてのポスターに対して、市民が政治的公正さの角度からモノを言い、そのポスターをやめるように言うことは十分ありうることだ。市に対する請願と同じであり、憲法で保障された行為である。公権力によってポスターを撤回させることになるが、これは民間に対するものとは区別される必要がある。

 例えば『はだしのゲン』をポスターに使うことを、何らかの「政治的公正さ(自虐史観はおかしい)」を理由にして市長がやめる場合は、「表現の自由を侵す」からけしからんのではなく、市長が考えた「政治的公正さ(自虐史観はおかしい)」が間違っているのではないか、という角度から批判することができるのみである。

 これに対して、美術館に展示されたイラストは違う

 その場合、そのイラストは市長ではなく、あくまで作家のものであるから、市民の意見があったからということを理由に市長の指示で外したりすることは、その作家の表現の自由(厳密には、行政の一定の支援を受ける芸術における「芸術の自由」)を侵すことになる。

 もし、「宇崎ちゃん」が福岡市の美術館に展示されていて、「あれはセクハラだ」という意見をもとに市長がその撤去を命じたら、その市長の行為は文化芸術への干渉になる。

 

このポスターはアウト? セーフ?

 よく宇崎ちゃん献血ポスター擁護派が「じゃあ美術品のヌードはどうなんだ」と持ち出す。

 そうすると「美術館に飾られた芸術作品とは違う」「公衆の面前ではなく限定されている」式の反論が返ってくる。

 しかし、例えば、以下のような新聞広告はどうか。

 

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15日付西日本新聞夕刊

 モローは女性を「男性を誘惑する邪悪な存在」として描き続けた。そのような女性観をモロ出しにした(シャレではない)こんな「歪んだ女性観」にもとづく「扇情的ヌード」を何十万人もの人が読む新聞に載せるというのは「環境型セクハラ」ではないのか?

 

 そして、次のような広告はどうか(架空のものです。念のため)。

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 おそらくこの2つは太田からは批判されまい。

 なぜだろうか。

 それは、美術作品として扱われていることによって、この広告には作品に対する自覚的な取り扱いがある、と考えられているからである。つまり批評的に取り扱われていることがわかるパッケージなのだ。

 逆に言えば、「宇崎ちゃん」の性的なメッセージを無自覚に使っている献血ポスターには太田はモノを言いたくなるのである。「女はおっぱい」というメッセージを強化している可能性について製作側は毫も考えていないかのように思えるから。

 そして、そのような太田の心配はよくわかる。

 「ジェンダー上の不公正を助長する恐れがありますよ」という意見を知っておいてほしいのだろう。言われた方は「あっ、そうなんだ」と思ってくれれば、それで太田の目的は達成されるはずである。

 いや、もしこの2つも太田が「けしからん!」って言ったら、それはどうかしていると思うけど。

 

批判は旺盛に 表現はできるだけ自由に

 先の「思想の自由市場」という比喩からすれば、表現の領域はできるだけ自由であったほうがいい。

 だから批判はどんどんやればいいと思うけど(それは太田による宇崎ちゃん批判も、「平和の少女像」への批判も同様である)、撤去要求は慎重にすべきだ(くりかえすが、民間団体や作家に対しては、絶対にしてはいけないということはない。撤去判断をするのは畢竟作家なのだから)。

 

 左派やリベラルが「政治的不公正を含んでいるからその作品を撤去せよ」というふうに主張するのはあまりうまくない。まあ、世論喚起の問題提起としてはなくはないけど、表現の自由を損なう可能性についてよく考えた上で、要求してほしい。

 政治的不公正を含んでいるという批判の表明は旺盛にすべきだろう。しかしその説明は丁寧に。

 そして根本的には、政治的不公正、例えばジェンダー上の不公正さを批判するポリコレ棒を国民の中にビルトインするような啓発・教育・学習の方にもっと重点をおくべきじゃないのか。そうなれば、自然にそうした不公正な表現は減るし、もし出てきてもそれが虚構上のネタだと受けてもすぐにわかる。

 「地球環境にいいことをしよう」という意識が広がれば、地球環境にやさしい商品が売れて、良くない商品が淘汰されていくようなもので、環境に悪い商品をわざわざ差し止める必要はなくなる。

 

 

付録:ぼくなりに考えた「環境型セクハラ」とまでは言えない理由

 最初に述べた、今回の太田のツイートで言うところの「環境型セクハラ」には今回の「宇崎ちゃん」が該当しないのではないかと考える理由を以下に述べておく。

 以下、必要のない人は別に読まなくていい。

 ILO第190号条約「仕事の世界における暴力とハラスメントの除去に関する条約」では、ハラスメントは「人権を侵害し、あるいは人権を損なう可能性」があるもので環境型セクハラはその一形態であり、働く人の人権を侵す(可能性がある)。

 「『仕事の世界』の問題じゃないだろ」というツッコミはその通りだけど、同条約第3条では職場だけじゃなくて「(f)往復の通勤時」というのも入っているので、まあ、ここはそういう話として進める。*5

 環境型セクハラでよく例にあがるのは次のような「ヌードポスター」の例である(厚生労働省の事業主用啓発パンフから。もともとは「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針」による)。

 

「環境型セクシュアルハラスメント」とは

労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることです。

●典型例

……事務所内にヌードポスター掲示しているため、その労働者が苦痛に感じて業務に専念できないこと。

 

 しかし、例えば、「上目遣いにアヒル口で媚びている女性のポスター」はどうか。「女性を男性に媚びる存在として強調しており、女性の尊厳を侵している」ということから「苦痛であり仕事に集中できない」という訴えがあったら、それは「環境型セクハラ」と言えるだろうか。

 「言えない」と感覚的に思うのではないか。

 つまり「ヌードポスター」から「上目遣いにアヒル口で媚びている女性のポスター」までの間に「水着の女性」「服を着てはいるが、あられもないポーズをしている女性」「巨乳で服を着ている女性」など様々なバリエーションがある。

 

 そして、「『服を着て、巨乳を強調している女性のイラストが掲示されているポスター』が通勤途中にある」というだけでは、法的な意味では「環境型セクハラ」と言えないのではないか(条約による国内法が仮に整備されたとして、このイラスト掲示をハラスメントと断じることはできない)。

 こういうものは社会的な風潮、人間関係などで決まるものだから、一概に言いにくいけども、社会的にこれを「能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じる」ものとするのは難しいだろう。

 「不快」を感じる人には、通勤途中ではなく、職場に貼ってあったら「不快」さの度合いはさらに増すと思うけど、それでもやはりセクハラと断じるまでは難しかろう。

 したがって、環境型セクハラとはまで言えない

*1:言葉の正確な意味で。

*2:現実の人間関係に持ち込んでも良い。許されると合意された現実の人間関係なら。例えば、ある種のセフレみたいな関係は、普段の全面的な人格など関係なく、お互いを性的な存在(さらに言えば巨乳だからセックスしたいと言う理由だけでも十分)とだけ認識しあって関係を楽しむように合意しているわけで、それを他人からとやかく言われる筋合いはない。

*3:くりかえすが「絶対に言わない」とは言い切れない。

*4:なお、「宇崎ちゃんはオタクねらいで効果を上げているんだから問題ない」という意見もあるかもしれないが、赤十字の調査では献血者数(延べ人数)は2010年度の533万人から2017年度473万人と12%減少しており、同期間に16-69歳人口が8878万人から8472万人と5%しか減少(総務省人口推計より)していないことと比べると、献血者数は人口一般の倍以上のペースで減っている。つまりもし今年度のデータが出て献血者数が減っていた場合、“オタクは吸い込まれてきているが、他の層はドン引きしている”という仮説が成り立ってしまう可能性がある。まあそこまで言わなくても、検証なしには「宇崎ちゃんでオタク層が献血にきているから問題なし!」と単純に言うわけにもいかないのである。

*5:ちなみに日本は賛成したが未批准。条約にもとづく国内法は整備されていない。

「不自由展」には入れなかったけど「あいちトリエンナーレ」は観てきた

 あいちトリエンナーレに行った。むろん再開された「表現の不自由展、その後」に行くつもりだったのだが、3回抽選に挑戦し、結局当選できなかった。

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 抽選を待っている間、愛知芸術文化センター内にある、「表現の不自由展、その後」以外の展示を見て回った。

 これは、ぼくの目的からすると、実際に鑑賞してみて、とてもよかった。それは「政治的」であることときわどい境目を接している作品、あるいは「政治的」そのものである作品をたくさん見ることができたし、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品をたくさん見たからである。

 その二つの非難はいずれも「表現の不自由展、その後」の作品、とりわけ「平和の少女像」をはじめとする2、3の作品に向けられている言葉である。その非難の境目を曖昧にし、解体してしまう作用をぼくのなかでもたらした。

 

 現代のアートと言われるものが、人の感性に入り込んでそれをざわつかせようと思えば、政治に触れないわけにはいかない。企業あたりが作った「人畜無害」な「絵本」のような“ふんわりしたもの”だけに限定することなどできないはずである。そのような「政治的」かつ「これがアートなの?」的な作品をたくさん見ることができた。

 そして、「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品。〇〇にはいろんな言葉が入る。「プロパガンダ」「インタビュー動画」「描きなぐり」「広告」「いたずら」「教育フィルム」「朗読」……。

 山口つばさ『ブルー・ピリオド』に出てくるこの言葉を思い出す。

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

 

 

 主人公が同じ講習生が「あれも工夫の一つじゃん」と指摘したのを聞いて、反省する。

また表面的なところで思考停止するところだった

画材って絵の具とオイルのことだと思ってた

絵って思ってたよりずっと自由だ

 

政治的なもの

 例えばこういう作品を見た。体制に反対するなどして暴力を受け、母国や移動先の国にいられなくなった人たちのインタビュー動画である(キャンディス・ブレイツ「ラヴ・ストーリー」/A33)。あまりにも長すぎるので全部を「鑑賞」することはできなかった。

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 これは、ベネズエラのチェベス政権に反対し、しかも同性愛者である教授のインタビューである。それ以外にもシリアから逃れた女性のインタビュー動画があり、この教授と交互に映像が流れる。

 実は、これは演者が語っている「再演」である。*1

 この部屋の後ろに、同じ語りを、本人が語っている映像がある。「語る」という行為が客観視され、批評的になる。「語り」に共感し過ぎている自分や、逆に「演技だろう」と距離を置いてしまっている自分を発見することになる。

 ただ、奥の部屋の方は吹き替えも字幕もないので、(ぼくのような英語ができない日本人には)その意図があまり果たせていなかった。人も表の部屋ほどいない。ただ、声のトーン、容姿はわかる。写真の同性愛者である教授は、こんなに若く、たくましくない。むしろ年老いて、貧相なのである。演者の見た目、声質に左右されている自分を発見する。

 しかし、現実にその鑑賞室はどんなふうになっていたかというと、そんなキレイに、作者の意図通り、鑑賞者たちは“踊らせ”られないのである。

 鑑賞する人はこの部屋に釘付けになっていって、人の出入りが他の展示に比べて小さく、このインタビューを長い時間聞いている人が多かったように思えた。つまり暴力を受けた人間のインタビューに強く惹きつけられている状態になったのである。いわば普通のドキュメンタリーを見ていた状態のまま無批評にそこを出る人も少なくなかったように思われる。

 この作品は、例えばベネズエラやシリアの最も熱い「政治的なもの」を取り扱っている。政治的であるがゆえに、ぼくらはこの演者の再話映像の前でナイーブに聞き入ってしまわないかどうかテストされるのだと言える。

 そして、表の部屋だけで出ていく人がいれば、これは一種の「プロパガンダ」でしかない。あるいは、「ただのドキュメンタリー映像」に過ぎない。

 この作品一つをとっても、政治的なものを避けたり、「これは単なる〇〇であって、アートではない」式の非難をしたりすることは、説得力を失ってしまう。

 

 

 あるいはこれ(タニア・ブルゲラ「10150051」/A30)。

 鑑賞者は入り口で手にスタンプを押される。解説を読まない限り、その説明はない。

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 この数字は2019年に国外へ脱出した難民の数と、脱出が果たせずに亡くなった難民の数の合計だ。

 だがそんな数字を見せられても何も心は動かされないだろ?

 そこでこの作家はメントールの充満した部屋に鑑賞者を入れて無理やり涙を流させる。実際、俺も「泣いた」。「人間の知覚を通じて『強制的な共感』を呼び起こし、客観的なデータと現実の感情を結びつけるよう試みている」というのだが、この試みが大失敗している(結びつかない)ことによってむしろ数字=抽象化が引き起こす問題を突きつける。

 岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で語ったように、オゾン層破壊をいくら数字で示しても「だけどそれがどうした? 実感がわかない 現実感がない」(p.13)というのがぼくらの中に絶えず起こる問題なのだ。

 「広島を『数において』告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪と断定することに、私はなんの躊躇もない」と詩人の石原吉郎(「三つの集約」)は怒りを込めて告発し、その告発の系譜を、こうの史代『夕凪の街 桜の国』も引いているのだ、とする見方もある。

 タニア・ブルゲラは、そのような異常を、メントール部屋を企画することで表現している。

 

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 

 

海を流れる河―石原吉郎評論集

海を流れる河―石原吉郎評論集

 

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

  人によっては、「これがアート? ただのこじつけでは…?」と思うんじゃないか。少なくとも、河村市長を熱烈支持し、大村知事を非難した、うちの親はそう言うに違いない(決めつけ)。

 「難民」の扱いは日本では極めていま「政治的」な問題である。

mainichi.jp

 ここでも、冒頭に述べた、焦げ臭いほどの「政治的」な臭いと、「これがアート?」的な摩擦がある。

 

 

 あるいは、これ。

aichitriennale.jp

 袁廣鳴(ユェン・グァンミン)「日常演習」(A20)という作品で、ドローンで都市の上空を飛ばした映像である。

 全ての作品をそのように鑑賞したが、まず解説を読まずに展示を見る。その後、戻って解説を読み、再び作品を鑑賞した。

 この作品も、まず鑑賞してみた。すると、どこかで見たことがある光景だなあ…という思いが生じ、ビルの文字でどうも中国のようだと思うのだが、ぼくは中国本土に行ったことはない。しかし台湾になら行ったことはある。「ひょっとして台北では?」と思っていたら、河川敷の映像を見て、あっ、これは台北だとほぼ確信する。

 台北は人がたくさんいたから、街に一人も人がいないというこの映像がいかに異様かを実感する。早朝に撮ったのかな、とも思ったが、それにしても一人くらい外にいてもよさそうではないか。しかし一人もいないのである。

 鳥だけはいる。

 まるで、人間だけがいなくなったかのようなSF的な、そして不気味な光景である。

 実は、「台湾で1978年より続く『萬安演習』という防空演習を捉えたものです。この演習は毎年春先に実施され、日中の30分間人々は屋内へ退避し、自動車やバイクなどの交通も制限され」るのだという。

 ぼくは解説を読んでただちに福岡市で最近行われた北朝鮮のミサイル落下の避難訓練を思い出した。

www.youtube.com

 

 この不気味さ、異様さは、政治的なものと直ちに結びつく。

 なぜなら、高島市政を支持する人や安倍政権を支持する人なら、こう言うのではないか? 「北朝鮮のミサイルが飛ばされていて、そのことに備えるのは当たり前ではないか」。なるほどそれはそうかもしれない。少なくともこの当時はそうだった。

 しかし、それを「異様」と感じることまで、その人たちはおそらく文句を言いたいのではないか。「訓練は当たり前・当然なのだから、異様と感じる方がおかしい」と。

 だが、例えば、この福岡市での訓練は、核が炸裂して大量の死者が出るというシナリオは決して採用しない。そんなことをすれば世論が大騒ぎになるからである。あくまで政権のシナリオにそった範囲での「訓練」であり、そのために身体と精神を馴致させようとするものなのだ。

 その意図だけが強烈に迫ってきて、不気味さ・異様さを覚えるのである。

 この作品はある種の「政治的なもの」なのだ。そして、人によってはただ上空をドローンで飛ばしているだけの記録映像であり、「こんなものがアートなのかよ」と思うのではなかろうか。

 

 

「これがアートなの?」

 「政治的なもの」との際どい境界の上にある、もしくはどっぷりと「政治的なもの」に浸かっている作品はまだまだたくさんあった。紹介しきれないほどである。

 「政治的」かどうかは全然別にして、「これがアート?」と思うような作品はたくさんあった。

 まあ、もともと現代アートってそういうこと言われがちなもんだろ?

 例えば、文谷有佳里の一連の展示作品(A16)は、いかにも素朴にぼくらが想像する「現代アート」である。これはもうぼくにはまったく分からなかった。

 

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 ぼくが面白いと思ったのは、例えばこれ(澤田華「Gesture of Rally #1805」/A29)。

 あるオフィスの写真に写り込んだ「正体不明のぶよぶよした何か」をあれこれ想像し、その想像結果や調査結果をディスプレイしたという作品で、スライム状のおもちゃでは? とか、鶏肉では? とか、なんだか「オモコロ」あたりのネタブログを読んでいるような気分になった。

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アマゾンなどネットからプリントアウトした紙も展示してある…。

  

 他には、石場文子「2と3、もしくはそれ以外(わたしと彼女)」(A09)

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 「これ、ただの俺の家の写真やん」と笑い出しそうになる。

 輪郭線が写真の上からでなく、現実の物の上に描かれているらしい。すぐに「こんなもんがアートなのかよ」と思うわけだが、そういえば娘が水彩画で絵を描く時、輪郭線をつけたりつけなかったりするとふと思い出す。ぼくも水彩画を描くときに迷う。

 黒い縁は現実には存在しないよな、と。

 しかし、黒い縁取りを入れたくなるのだ。

 色ではなく、縁取り=輪郭線によって世界を再構成しようとする。

 輪郭線を入れることで、確かに変な認識の揺らぎがあることは認めざるを得ない。

 

 これらはほんの一部だ。

 要するに展示会場には、「政治的」な作品、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねない作品が溢れている。

 会場に行って実際に他の作品を見てみれば、「平和の少女像」だけを区別して「排除」するということの正当性が揺らいでしまうだろう。

 

最後に

 会場には、「日本のアジア侵略を正当化もしくは正当化に利用された戦前のアジア主義の言葉」が「展示」されている(高山明『パブリックスピーチ・プロジェクト』/A60b)。

 岡倉天心『東洋の理想』、孫文『大アジア主義』、柳宗悦『朝鮮の友に贈る書』の3つである。映像でテキストが流れ、それを朗読するのが聞けるのである。

 このうち、孫文柳宗悦を聞いたり見たりしてしまった。

 とりわけ柳宗悦

 娘が持っていた小学校の歴史教科書に紹介されているのだが、ぼくは全文を読んだことがなかった。

 しかしこれは……まさに「あいトリ」のテーマだし、「あいトリ」をめぐって起きた問題だよね!? とびっくりしてしまう。ちょっと紹介してみる。

この頃日に日に貴方がた〔朝鮮〕と私たち〔日本〕とは離れてゆく。近づきたいと思う人情が、離れたいと思う憎しみに還るとは、如何に不自然な出来事であろう。何ものかの心がここに出て、かかる憎しみを自然な愛に戻さねばならぬ。力の日本がかかる和合を齎し得ない事を私は知っている。しかし情の日本はそれを成し就げ得ないであろうか。(カッコと強調は引用者)

想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢う場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。(強調は引用者)

 しかし、解説では、孫文・柳・岡倉の3つの文章を次のように紹介している。

アジアの友情と連帯を志し、現代人の情にも訴える名文だが、他者を同化する危険を孕むものでもある

 これはあくまで「素材」であって、作家はこれを使って「その後2ヶ月半かけて、3つのテキストは複数のラッパーによって変奏されると同時に、アジア3都市のヒップホップ・コミュニティにも持ち込まれ、それぞれの言語とスタイルに変換される」のだという。

 これこそ「政治的」なものそのものであろうが、だからと言ってそこに干渉することは許されない。

 「アートは政治的なものやアートでないものとの境界がないのだから、アートには一切公金を支出すべきではない」という主張になれば、一種の論理一貫性は保てる。だけどそれは畢竟「美術館廃止運動」とならざるを得ない。

 

 行政は専門家に選定を委ね、市民は是非をふくめて心を騒がせながら鑑賞するという「行政の中立性」を確保することが一番いいと思う。

 

 ちなみに、会場では津田大介が歩いているのを何度も見た。鑑賞している市民に声をかけられて気さくに話していたり、握手をしていた。

『韓国の小学校歴史教科書』を読了してぼんやり思うこと

 また、前の記事の続き。

 きょうは、『韓国の小学校歴史教科書』(明石書店)を読み終わった。

 

韓国の小学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

韓国の小学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

 

 

抵抗や民族のエネルギーの記述多いなー

 現代史は、『まんが朝鮮の歴史』と比べて顕著な特徴がある。

 それは、「日本帝国主義に対する朝鮮民族抵抗の歴史」が書いてある分量が多いということだ。それも圧倒的に

 もっと言えば民族のエネルギーの強調。

 『まんが朝鮮の歴史』の方は、苦しめられる朝鮮の庶民の生活がこれでもかと描かれているのだが、教科書の方は「これは……?」と思うほどに植民地支配被害の具体的叙述が少ない。いや、もちろんあるよ。あるけど、抵抗の動きと比較してみるとホント少ないんだわ。これは副読本『社会科探求』の方も同じ、というかいっそう顕著。

 韓国併合から日本降伏までの期間の記述で、目につく見出し・項目を拾ってみる。

 

  • 銃とペンをとって戦った先祖たち
  • 義兵運動
  • 民族の力を養う努力はどのように展開されたか
  • 3.1運動
  • 日帝が我が民族をどのように弾圧したか調べてみよう(ここで具体的被害が描かれるが4分の1ページほどである)
  • 大韓民国臨時政府
  • 韓国光復軍
  • 代表的な武装独立運動
  • 国内での独立運動
  • 日帝の民族抹殺政策(ここで戦争期の被害が描かれる)

 

 『まんが朝鮮の歴史』は1992年ごろの教科書をもとにしている。これに対して、『韓国の小学校歴史教科書』は2005年である。この十数年の間に、韓国政府の国定教科書に対する方針転換が起きたのだろうと考えるのが自然だ。

 なんか、被害に苦しむ弱々しい存在じゃなくて、こう、抵抗し、自国文化に誇りを持ったエネルギッシュな民族、みたいな。そういう描き方。

 

 そして、子どもたちに考えさせる課題もなかなか日本では見られない(強調は引用者)。

  • もし、自分が日帝強占期に生きていたとしたら、日帝にどのような方法で抵抗したか話し合ってみよう。(p.123)
  • 自分が独立戦争に参加したと思い、その日に起きたできごとを一篇の日記に書いてみよう。(p.125)
  • つぎは、独立軍が命をかけて独立運動をしながら歌った独立軍かの一部分である。この歌にこめられた独立軍の心を思い、歌の続きを完成させてみよう。(同前)

 まあ、これだって2005年、今から14年も前の話だから、きっと今はまた別の方針があっても不思議ではない。

 

日本の小学生の教科書で「朝鮮」は?

 ところで、日本の小学校の教科書ではどうか。

 娘のを借りて読む(日本文教出版)。

 

小学社会 6年上 [平成27年度採用]

小学社会 6年上 [平成27年度採用]

 

 

 

 実は近代史での朝鮮・韓国の叙述は、関東大震災での朝鮮人虐殺を含め、あちこちにあるが、植民地支配について書かれたのは2ページほどである。

 一つは、「日露戦争後の朝鮮」(p.122)。

 日露戦争後、日本は韓国に対する支配を強め、1910年(明治43年)に韓国を併合して朝鮮とし、植民地にしました。朝鮮の人々のなかには、日本がおこなった土地調査により、土地を失う人もたくさんいました。そのため、仕事を求めて日本や満州に移り住む人がいました。また、朝鮮の学校では、日本語や日本の歴史の授業がおこなわれるなど、朝鮮独自の教育をおこなうことがむずかしくなりました。

 1919年(大正8年)3月、朝鮮の独立をめざす人々のあいだで、大きな抵抗運動がおこりました。日本は、この運動をおさえましたが、その後も独立運動は続けられました。

  そして、美術評論家柳宗悦が朝鮮にシンパシーを抱いていた文化人としてあげられ、日本の朝鮮支配を批判する柳の文章をコラムで紹介している。

 二つ目は、第二次大戦期についての記述で、「朝鮮や中国の人々と戦争」というコラム(p.138)。

 朝鮮では、朝鮮の人々の姓名を日本式に改めさせたり、神社をつくって参拝させたりする政策をおし進めました。さらに、朝鮮や台湾では、徴兵をおこなって日本の軍人として戦場に送りました。また、戦争が長引いて日本国内の労働力が不足すると、多くの朝鮮や中国の人々を、日本各地の鉱山や工場などで働かせました。

 まあ、分量としてはがんばっているのかもしれないが、やはりこの記述だけでは、朝鮮半島の人々がどれだけ苦しんだかとか、なぜ抵抗運動に立ち上がったかがよくわからないだろう。

 

断髪令と整形

 しかし、まあ、あれだ。

 韓国も日本も、これはあくまで教科書である。

 韓国についていえば、韓国人の考えそのものではないし、ましてや韓国人個人個人がどう思っているかということでもない。あまりそこはリンクさせすぎないことだ。「韓国人は民族主義的な歴史教育でガチガチだ」的な。

 例えば、この韓国の小学校教科書にだって、1895年の高宗の断髪令について次のようにコラムにはある。

父母から譲り受けた身体を大切にすることが孝行のはじまりだと考えている民衆は「私の首を切ることはできても髪を切ることはできない」として断髪令に激しく反発した。(p.100)

 ……とくれば、現代の韓国人の美容整形の「軽さ」にすぐに考えが及ぶであろう。ぼくも美容整形をしていようがしていまいがどうでもいいと思うタチなのだが、ある研究論文に次のような一節があった(強調は引用者)。

咸基善[「韓国における美容成形の推移」『化粧文化』36、1997 年、78-81 頁]によれば、韓国でも近代外科医学定着以前には、「身体髪膚」という儒教理念のために外科手術に対して拒否感を持っていたが、朝鮮戦争後外国人との交流が増加するにしたがって一部の階層から美容整形が始まった。筆者の聞き取り調査では、韓国では儒教規範に反するから美容整形はすべきでないとする意見はほとんどなかった。身体髪膚言説との関連については、川添[2003 年 前掲論文]を参照されたい。 なお韓国では当初から大学病院でも美容医療が実施されている。(川添裕子「流動的で相互作用的な身体と自己 日本の美容整形の事例から」/国立歴史民俗博物館研究報告 第 169 集 2011 年 11 月所収、p.52)

 

 だからまあ、歴史は歴史として学ぶし、教科書は教科書として読むけど、韓国人一人一人はまた別ですよっていうほどのこと。

『まんが朝鮮の歴史』を読み終えて

 前の記事の続き。『まんが朝鮮の歴史』を読み終える。

 巻末に「全16巻」とあるので、これで終わりのはずだけど、16巻のタイトルが「日本の軍国主義体制と独立の準備」なんだよね。

 だけど、常識的に考えて、それで終わる?

 だいたい、16巻の裏表紙、こんなだぜ。

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『まんが 朝鮮の歴史16』ポプラ社、裏表紙

 中を読むとわかるけど、これ、「徴用令」によってほぼ強制的に「北九州」に動員された朝鮮の人たちがあまりに過酷な労働に耐えかねて逃亡する様子である。このカットがシリーズのラストを飾るカットになるだろうか?

 

 ちなみに、本文の終わりはこちら。

 

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同前、p.157(朴賛勝監修、崔賢淑文、李熺宰画、安宇植翻訳)

 日本帝国主義の敗北が決定し、植民地支配が終焉したものの、独立運動家である呂運亨が「今後のことが心配だ。」って不安そうにつぶやいて終わる……そんな民族史ってある?

 いや、まあホントにこれで終わったら、ある意味、画期的なんだけど。

 

 冒頭にウンジン・メディア社の「刊行のことば」もあるし、日本での出版社であるポプラ社の「日本語版刊行のことば」もあるんだけど、そのへんの事情はほとんど書かれていない。

 ただ、わずかに、前者の中には、原題が『韓国の歴史』であり、「現在の中学校と高等学校で使用中の国史(韓国史)の教科書をもとにしながら」(p.2)という一文がある。

 

 つまり北朝鮮ではなく韓国側の歴史記述なのである。

 

 これは推測に過ぎないけど、終戦後は、朝鮮半島が南北に分割され二つの国家が誕生していくことになり、そこを書くと、韓国側からの「一方的」な歴史記述となってしまうために(=北朝鮮側の言い分が無視される)、そこまでで終わったのかなと思った。

 本書が刊行されたのが1992年であり、91年に南北朝鮮が同時に国連加盟している年だから、まあそのへんをおもんばかったのかもな。知らんけど。

 

水木流のリアリズムのために

 あと、近現代史まで読むと、やはり読者は「日本の朝鮮に対する植民地支配というのはなかなか苛酷なものだったのだな」というイメージを持つ。それは至極当然なのだが、植民地支配を強いてきた民族の側、すなわち日本人として、まずイメージのベースをこのあたりから始めることは必要なことじゃなかろうか。

 歴史研究の立場から「この記述はおかしい」とか「この描き方は間違っている」とか今後それを「修正」するにせよ、である。

 

 例えば「慰安婦」、例えば「徴用工」、例えば朝鮮の「近代化」の問題にしても(それぞれこの本で描かれている)、日本政府がどう関わったんだとか、もう裁判は無効ではないかとか、日本もいいことしたんじゃないかとか、そういう議論は確かにあるかもしれない。

 しかし、どこに責任があるかとかそんな話をまずおいておくとしても、「朝鮮の人たちは大変な苦労したんだろうな」と直感的とも言える歴史の認識を持っておくことは必要なことではないかということだ。

 

 前にぼくが書いたことだけど、水木しげるは「慰安婦」に対して、次のように描写している。

 

戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。
ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。
ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。
日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。
これを一人の女性で処理するのだ。
とてもこの世のこととは思えなかった。
兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。
兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と

  そして水木はそこにカタカナで「だからバイショウはすべきだろうナ」と付け加えていて、そういう人に何か償いはすべきじゃないかという感情も書き添えている。

 「賠償」と書いていない。カタカナの「バイショウ」である。

 漢字で「賠償」と書いたとたんに国家犯罪として国家の責任を認めた正式な用語としてのニュアンスが出てしまうからだろう。

 “よくわからないけども、日本政府が何か償いをすべきじゃないのかなあ”ほどのニュアンスを表すためにカタカナで「バイショウ」と書いたのではなかろうか。「賠償」については意見が分かれるかもしれないが、何かの償いは必要では……そういうふうにスルリとそこへ自然に流し込ませる描き方、説得力は水木一流のものだ。

 それこそが水木的なリアリズムである。こういうリアリズムを、ぼくら日本人は持っておくべきじゃなかろうか。

 

澄川嘉彦・五十嵐大介『馬と生きる』/「たくさんのふしぎ」2019年11月号

 つれあいの母、すなわち義母が契約をして、現在小6の娘に「月刊たくさんのふしぎ」を毎月送ってくる。小学1年生くらいまでは「こどものとも」だった。

 これらは福音館書店が毎月発行している雑誌で、「こどものとも」はいわば定期絵本であり、「たくさんのふしぎ」はノンフィクションを中心にした定期読み物である。

 

 保育園の頃から小学3年生くらいまでは、吸い付くように袋を開けていたが、近頃はそうでもない。届いたまま放っておかれることが多い。他に楽しいこと(今は「にじさんじ」)がいっぱいあるし、面白いマンガや本があるのだから、しょうがない。「読め」などと言ったって義務感が募るばかりで、そんなことを言えばいうほど、かえって読みたくなくなるというのが、子どもにとっての「本」というものだ。

 

 ただ、親が読んで面白そうにしていたら、子どもは興味は惹かれるものだと思う。実際、ぼくとつれあいが読んであれこれ話題にしていたら娘が手に取ることは多い。「今月はダメだな」などと思い、それを口にすると、確かに娘は読まない。娘は読んでくれないが、実際に面白くないのでぼくはそう述べるしかないのである。

 いや、娘が惹かれなくたって全然よい。

 親が楽しめたのだからそれでいいではないか。

 

 とはいえ、ぼくだってウキウキしながら封を開けるのではない。

 「娘に送られてくる教育系読み物」という一種の義務臭を感じてしまうのは事実だ。だから、まず、義務で開ける。そして、正直、ぼくだって、表紙とタイトルだけでは、読もうとは思わないことが多い。自分の興味の射程外にあるものが目に飛び込んでくるのである。

 たとえば、今年に入って送られてきたもののタイトルと内容の要約を福音館のHPから拾って見てもらおうか。

【小学3年生から】たくさんのふしぎ|月刊誌のご案内|福音館書店

  • 4月号 『家をかざる』(小松 義夫 文・写真):世界じゅうの、美しくかざりつけた家をたずねてみました。
  • 5月号 『日本海のはなし』(蒲生 俊敬 文 / いしかわ けん 絵):日本海にかくされた、おどろきのしくみを明かします。
  • 6月号 『珪藻美術館 ちいさな・ちいさな・ガラスの世界』(奥 修 文・写真):0.1ミリにも満たないガラス質の微生物でつくる、顕微鏡で見るアートの世界
  • 7月号 『ブラックホールって なんだろう?』(嶺重 慎 文 / 倉部 今日子 絵):なぞの天体、ブラックホール。その正体にせまります。
  • 8月号 『クジラの家族』(水口 博也 文・写真):クジラの家族は、赤ちゃんクジラをまん中にして敵からまもります。
  • 9月号 『一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして』(木原 育子 文 / 沢野 ひとし 絵):戦地に向かった息子。その写真にかくされた母の想い。
  • 10月号 『9つの森とシファカたち マダガスカルのサルに会いにいく』(島 泰三 文 / 菊谷 詩子 絵):マダガスカルには、「レム-ル」とよばれるサルがすんでいます。マダガスカルの9つの森をレム-ルたちを探してめぐります。

 どうだろうか。諸君は、「うわっ、すぐ読みてえ!」って思う?

 その中でさらに例を挙げてみると、『珪藻美術館 ちいさな・ちいさな・ガラスの世界』などは最初それだけ見ては何の感興も催さない。だから初めは読みもしなかったのだが、つれあいが先に読んで「ねえねえ、これ知ってた……? すごくない?」とぼくに見せたので読んだ。読んでみたわけだが、読んでみて本物の珪藻のガラス質を使ってこんな工芸ができることに驚かないわけにはいかなかった。

 『一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして』もそういう本の一つで、タイトルは興味をそそられたものの、残念ながら沢野ひとしの絵はぼくの食指を動かさないタイプの絵であり、これもある種の義務感で読み始めた。

 しかし、これはもともと東京新聞の記者が連載したものを子どもむけに書き直したもので、米兵が戦利品として持ち帰った、寄せ書きの日章旗の持ち主を探すという一種の「謎解き」感のあるノンフィクションであった。本書の終盤近くにある、「たいせつ」と書かれた一枚の写真をめぐるエピソード(このエピソードは新聞連載には出てこない)を読んだときは、胸が熱くなった。

sukusuku.tokyo-np.co.jp

 

 読後に、沢野の絵がこの本に合致した「リアリズム」であることをしみじみと感じた。記者(木原)もそう感じたようで、次のように記している。

丸みある独特の筆遣いは、戦時中のつつましくも温かな暮らしぶりを子どもたちに伝えるのにぴったりだと感じた。

 たぶん自分の興味の範囲で本を手に取ったり開いたりすることをしていたら、こういう出会いはなかった。さりとて、膨大な情報の洪水の中で、ぼくが接することのできる「興味のない情報」などは山のようにある。だから、自分の家に系統だって送られてくるこのシリーズを何かの「縁」だと思って、まずは義務感で封を開けてみるのである。

 

 その中の一つ。

 今月(2019年11月)号の「たくさんのふしぎ」は、『馬と生きる』である。

馬と生きる (月刊たくさんのふしぎ2019年11月号)

 うーん……正直これもあまり心に響かないタイトル。

 絵は……うん? これどこかで見たような……。

 「五十嵐大介/絵」。

 あっ、五十嵐大介ではないか。

 実は、この本は岩手県遠野市の「地駄引き」といって、切り出した木の運搬を、馬を使って行う話である。昔はこのような馬方は遠野にいっぱいいたのだが、どんどん減って、見方勝芳という馬方ひとりになってしまったらしい。

 本の中には、見方が馬の様子をよく観察し、その「気持ち」にたって、実にたくみにコントロールする様子が出てくる。あとがき的な解説に文を書いた澄川嘉彦が次のように述べている。

まず驚いたのは、見方さんの言葉を馬がよく理解することです。「危ない! おとなしくしてろ!」という単純な命令が伝わるのはまだわかります。けれど見方さんが「足を鎖の中に入れろ!」と言った時には無理だと思ったのですが、馬はからだの両脇からのびる鎖の間から外に出ていた後ろ脚をきちんと元に戻しました。そんな複雑な指示がなぜ通じるのか、とても不思議でした。

 本の中に、見方の半生記が出てくる。

 子どもの頃から馬とあそび、馬に乗って桃をとり、「見方さんの子ども時代は、馬といっしょにすごした思い出ばかりです」。そして、農作業での利用。

田んぼのすみずみまで同じように踏ませたいのですが、馬は楽をしたいので一度通って土がかたくなり、歩きやすくなったところを通りたがります。田んぼ全体を踏ませるにはどうしたらいいのか、馬と見方少年の知恵比べです。

 やがて地駄引きを生業としてからの話となるが、驚いたのは、家の造りである。

 遠野の旧家は馬屋と住家が一体になった「曲がり屋」なのだが、見方がくつろぐ座敷から馬が餌を食べる時の顔が常に見られるようになっているのだ。

 

自分はお酒を飲んでいても、こうやってお茶を飲んでいても、馬を眺め眺めすれば気もちが落ちつくというんだか安心するんだな

 

 生まれてから、そして老境になるまで馬のことばかりを考えているのである。それなら馬もコントロールできようと、ほとほと感じ入る。

 そのくせ、次の一文に目がいく。

見方さんはこの50年間でおよそ50頭の馬といっしょに働いてきました。けれど、どの馬にも名前をつけたことはありません。仕事の時も名前をよぶことはありません。

 馬に、ペットのような愛着で接するのではなく、あくまで家畜としてのドライさを保ったまま、しかし、徹底的にその動物と向き合う。馬の死に対する感情も描かれているが、愛玩動物の死ではなく同僚のそれに接するような距離感がある。というか、見方が馬の仲間、あたかも馬の一頭のようである。

 

 

 林業用の機械やトラックでは道路を造成し、森を切り開くために、山が荒れるという。そこで「地駄引きは森をいためつけることがすくない運び出しの方法として見直されはじめています」。

 しかし、ぼくが思ったのは、仮にそうだったとしても、ここまで馬をコントロールできるような人間でなければ地駄引きができないなら、もうそれは本当に職人技であって、そこまでして継承するのは困難だし、そのようなところに人手を割く必要はないのではないか、ということだった。そういうことをつれあいともちょっと議論したりした。

www.town.hokkaido-ikeda.lg.jp

 

 これはぼくの認識が浅いのかもしれない。

 だが、そういうことも含めて、地方の歴史、産業の変化、人口減少などに思いを馳せる一冊となった。いい本である。

 

 

 ただし。

 その話を聞いていた娘が、本書を手に取る様子は、未だないが。

 

『まんが朝鮮の歴史』『韓国の小学校歴史教科書』

 日韓関係がアレだというのに、韓国(朝鮮半島)の歴史のこと、なんも知らんなあ……と気づいた。

 少し勉強を、と思ったものの、知らない地名や人物が次々出てくるともういけない。

 こういうときは、自分が日本史でそうだったように、学習マンガでまず「物語&イメージ」を頭の中につくるといいかもね! と思い立つ。俺が日本史に興味を持ったのはカゴ直利の集英社版だった。

 

江戸幕府かたまる 江戸時代 (学習漫画 日本の歴史 9)

 いや、ぼくにとって「歴史を学ぶきっかけどころ」か、ぼくの頭の中の日本史知識はほとんどこの水準から更新されて無え…。

 物事を知ろうと思う時に子ども向けの本を活用するのは本当にいいよ。前にぼくもそう書いたことあるけど、最近読んでいた、ちゃくま『もっと簡単に暮らせ』(大和書房)でも(もっと詳しく)似たようなことを言っていた。

 

……検索を使わずに短時間で概要を把握する方法が必要になります。それは子供向けの本を調べることです。……子供向けの本は、要点がわかりやすくまとめられています。また、一方の見解に偏らない表現になっています。文字が大きく、イラストや図解が多いので、知らないことを知るにはちょうどよいのです。(同書p.32-33)

 

 というわけで韓国の歴史を描いた学習マンガを探したが、なかなかない。結局、すでに品切れになっている『まんが朝鮮の歴史』(ポプラ社、全16巻)を読むことにした。*1

 

朝鮮両班社会の発展 (まんが 朝鮮の歴史)

朝鮮両班社会の発展 (まんが 朝鮮の歴史)

 

 

 

原始社会から国家の誕生へ (まんが 朝鮮の歴史)

原始社会から国家の誕生へ (まんが 朝鮮の歴史)

 

 

 しかし全16巻である。

 売ってないので図書館で借りたが、重くて一度に借りられない。というわけで、今8巻まで読んでいる。ようやく李氏朝鮮である。

 まだ全部読んでいないので、中間での雑感めいたことを少しだけメモっておく。

  • カゴ直利もそうだったからしょうがないんだけど、こちらも顔が似ているような歴史上の人物の描き方がすごく多いなと思った。「明君」っぽいのが出てくるときは、◉で目を描いていて「クール」さを表しているのが面白い。日本のカゴ直利の場合は、そういう人物の場合、昔の手塚マンガっぽく「純粋」な感じの瞳を描くよね(下図参照)。

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『まんが朝鮮の歴史』8(ポプラ社)表紙、安宇植

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カゴ直利作画『日本の歴史 2』集英社、p.42
  • 民衆の苦労の話がすごく多いな。特に、奴婢。これが社会を支えているという描写・主張が実に印象的。古代における「総体的奴隷制」を実感する。
  • 韓国の悪口としてよくあるけども、まあ、でもこれ読むと古代から中世にかけても「改革者が実権を握って次第に堕落する」というのが結構あるよね。
  • 韓国(朝鮮半島)というのは、北方からくる異民族にさんざん苦労させられたんだな。
  • 高麗って高句麗を意識してつくられた国家なんだなあ。
  • 倭寇は横暴の限りをつくした、という描かれ方。北方異民族の侵入とはテイストが違って、そうですな、暴走族とかヤクザの激しいやつって感じ。いや、今世の中で喧伝されている「IS」のイメージかな。
  • 古代からずっと社会と政治が(李氏朝鮮の世宗の頃までは)めっちゃ不安定の連続のような気がしてしまうのだが、日本の歴史も、江戸時代になるまではけっこうそんな感じなのかなと思い直す。
  • 韓国の小学校の教科書には出てこないけど、こちらの学習マンガには、元とともに高麗が日本に侵攻した話は出てくる。
  • 確かに王室がこんなに変わったり、すぐ臣下が王の地位を脅かしたりするんだけど、異民族侵入で国家そのものが危機に瀕するっていう理由もあるんじゃないかなと思った。日本って、やはり海に囲まれているがゆえに、異民族侵入がなくて、国家そのものの土台はあまり揺るがないよね。
  • 古朝鮮三国時代→統一新羅渤海→後三国時代→高麗→李氏朝鮮という簡単な見取り図を頭の中に得た。

 

 あわせて、韓国の小学校の歴史教科書はないものかと思い、探したらあった。こっちは中学校の教科書といっしょに購入した。

 

韓国の小学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

韓国の小学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

 

 

韓国の中学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

韓国の中学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

 

  

 こちら(小学校教科書)もまだ李氏朝鮮のところまでしか読んでいないが、以下同様に雑感をメモしておく。

  • 檀君神話から古朝鮮の建国に至るまでが史実なのか神話なのかよくわからない書き方になっている。そして、「王の下にたくさんの官職があり、民衆を治める8カ条もあった」(小学校歴史教科書p.14)とあるんだけど、そのあとに馬韓弁韓辰韓ができたとして、「これらの国がおきるころにはすでに稲作がはじまり」(同前p.15)って変じゃないの? それって、縄文時代にあたるころに日本神話で非実在天皇の統治が始まったと書いてるのに似てると思うんだけど。あと、新羅百済の始祖が卵から生まれた話も書いてあって、それも真実かどうかわからないように書いてある。
  • 高麗時代の儒教のことを書いてあるところで「今日まで生きている伝統」として先祖供養とかを書いていたり、やはり高麗時代の政治改革案「時務二十八条」についても「この中から今日でも重要だと考えられる条項を探し、その理由について話し合ってみよう」とかいう課題が出されていたりする。これって、教育勅語は今日でも有効なものがある、とか、そういう超時代的な教え方じゃないの? 
  • 副読本(『社会科探求』)では、新羅時代の将軍である張保皐について「張保皐の精神を受けついで私たちの海を守っているわが海軍」(同前p.169)とか書いちゃうのに驚く。韓国だけじゃなくて、これって世界のいろんな国で当たり前にやられているナショナリズム教育なのだろうか。
  • 同じように、副読本で李成桂について「このような人柄によって、……民心を得ることができた」(p.185)とか、「このように訓民正音には民衆を愛する世宗大王の心がこめられている」(p.195)とか、勝手に言っちゃっていいわけ? と疑問に思った。
  • 全体的に「民族の物語」として描こうという意図を強く感じた。

 

 とはいえ、これがまず自分の韓国の歴史を学ぶ際の「基準の物差し」になるだろう。面白がりながら読んでいる。とにかく、高麗と高句麗の区別もあまりつかないような人間だったから、こういう基本的なことが知りたいのである。

*1:他にも『マンガ ものがたり韓国史』、『漫画韓国の歴史』がヒットした。