日野雄飛『理想と恋』

 ある仏教書を読んでいると、次のような章・節タイトルに出会った。

「生命を生かしているもの」

「だれに生かされているのか」

 仏教の本を読んでいて、このタイトル。

 誰がどう考えてもこの章には、「宗教」じみた、「説教」くさい話が書かれているのだろうと考える。

 ところがこの著者は、「神さまでしょうか、なにか外部の存在でしょうか」と問いかけながら、次のように書くので、笑ってしまう。

 

わたしたちを生かしているものは、「不満」なのです。不満が、わたしたちを生かしているのです。/不満が「ああしなさい、こうしなさい」と命令して、わたしたちの生きるパターンを形づくっているのです。不満は、エンジンのようなものです。ジェット機が動くためには、エンジンが必要でしょう。いくら大きな両翼がついていても、エンジンがなければ一ミリたりとも動きません。(A・スマナサーラ『わたしたち不満族国書刊行会p.44-45、強調は原文)

 

 さすが仏教書!

 無神論としての、そして精神コントロールの宗教としての、面目躍如である。

 

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

 

 

 その上、「スリランカ初期仏教長老」の肩書を持つこの著者は、「満足は『死』を意味する」として、

「生きることに満足した」なら、生きることができなくなり、生きることが終了します。人生に満足したということは、人生が終わったということです。やることもないし、がんばれなくなります。/これは冗談ではなく、ほんとうに停止するのです。つまり「死」なのです。すべての機能がストップするのです。(スマナサーラ同書p.38) 

「満足すること」と「生きること」は敵同士です。(同p.42)

と説く。

 

 ちなみに、最も原初的な欲望、例えば食べてもまた食べたくなる、セックスしてもまたセックスしたくなる、というのは、動物として生き残った人間(ホモ・サピエンス)というものの自然選択の結果であり、バグではなく仕様なのだ、というのはロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』(早川書房)で読んだ(以下の引用に出てくる「章」は同書の章)。

 

 人間は目標を達成することで、長続きする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。この錯覚とそこから生じるあくなき欲望という心の傾向は、自然選択の産物と考えると納得がいくが(1章を参照)、かならずしも生涯にわたる幸せの秘訣ではない。(ライト同書p.329)

ドゥッカは、普通に生きていれば容赦なくくり返しやってくる人生の一部だ。ドゥッカを従来どおり純然たる「苦しみ」と訳すだけではそれを実感しにくいが、「不満足」という大きな要素を含めて訳すとよくわかる。人間をはじめ生物は、自然選択によって、ものごとが(自然選択の観点から)「よりよく」なるような方法で環境に反応するように設計されている。つまり、生物はほとんどいつも、楽しくないこと、快適でないこと、満足できないことを探して地平を見渡しているようなものだ。そして満たされないことは必然的に苦しみをともなうため、ドゥッカに不満足が含まれると考えることは、結局、苦しみという意味でのドゥッカが人生に浸透しているという思想の信憑性を高めることになる(1章、3章を参照)。(ライト同前)

四聖諦で明らかにされるドゥッカの原因――タンハー(「渇き」「渇愛」「欲望」などと訳される)――は、進化を背景にすると納得がいく。タンハーは、どんなものに対する満足も長くつづかないように自然選択が生物に植えつけたものといえる(1章を参照)。(ライト同前)

 

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

 

 何かコンプレックスを抱えていたり、それを人生の「欠損」だと考えたり、そうした広い意味での「不満」を抱えていることは、実は特殊なものではなく人間にとって当たり前のことであって、こうしたある種の仏教系の本にかかれば、むしろそれこそが逃れがたい人間の本質なのだとさえ言えるのだ。

 仏教は、もともとはこのような気持ちを、すなわち「渇き」を受け入れ、出家者にはその消滅(まさに「涅槃」に入る)、世俗の者にはそのマイナスの気持ちへの対処・軽減を教えようとする宗教であった。

 

 足りないものを埋めようとして、埋められずにもがいたり、かつえたり、苦しんだりすることは、初めから矛盾を抱えた概念とも言える。だって、それは「愛する人を失った」とか「才能がない自分に絶望した」というような最大にマイナスの感情から、「必死で工夫して新しい道具を作った」とか「愛する人の愛を得た」とか言ったような最大にプラスの感情までをも含むものだからである。不満は絶望の原因であるととともに理想や進歩のテコでもある。

 

 百合マンガ、日野雄飛『理想と恋』(KADOKAWA)に所収の短編連作「れんげがさいた」には、「普通の人」になりたいと願う主人公・新垣真由子(まゆこ)が登場する。バイト先でもらったチケットで見に行った劇に出ていた大門留梨(るり)の演技に強く惹かれて、そのアマチュア劇団に入団までしてしまう。(以下、ネタバレがあります)

理想と恋

 

 平日は居酒屋でバイトをして帰ったら寝るだけ。実家のご飯を食べ、休日はだらだらとテレビを見て過ごす。仲の良かった高校の友人たちはみんな大学に行ってしまった。それがまゆこの日常である。

 「満足」というのか、例えば貧困から抜け出そうというような意味の必死さもなく、まさに生きる意味において「死」を迎えているかのように描かれているのが、まゆこの生活なのだ。満足のように見える生活は根本的な不満を抱えている。

 そこに全く新しい刺激としての、るりの属している劇団(百花)の生活が新鮮に登場してくる。別人のようにアクティブに動くまゆこが描かれる。

 まゆこは同性愛者である。

 同性愛者である自分を隠し、それを負い目のように受け取り、なおかつ、生活において根本的な不満を抱えている。だからこそ、まゆこは、「普通の人」になりたいとるりに打ち明ける。

 まゆこは、るりとの二人劇を通じて、そしてその劇のための観察を通じて、誰もが不満を抱え、コンプレックスを抱え、欠損を抱えて、それを埋めようとしていることに気づく。

 「普通の人」とは、欠損やコンプレックスや不満がなくなった人、マイナスではないゼロ値のような人としてまゆこにはイメージがあったに違いない。だが、そんなものは「普通」ではなかった。

 まゆこが気づいたかどうか知らないが、そんな意味での「普通の人」というのは、「不満でない人」であり、それはすなわち劇団をやめ、まゆこの元の日常に戻ることである。また、同性愛者であることをやめてしまう(というか厳密に言えば「やめる」ことはできないから、その点に関して他人には閉じてしまう)ことでもある。さらに、るりという愛の対象を諦めることでもある。

 まゆこは結論として「普通でない人」を生きることによって(実はそれこそが本当の意味での「普通の人」なのだが)、仏教が言うところの「渇き」の中に放り出され続ける。しかし、それは見方を変えれば、進歩や理想を求める生き方を選ぶことであり、愛を追い求める生き方を選ぶことでもある。

 

 るりがまゆこにつぶやく才能論がある。

 

人より楽にできることがあって――

それを磨く努力を継続できるなら

それを「才能」って言うと思う

 

 

 それは「素質」ではないか、とも思うが、続けてるりが

 

それに「ある」って思わないと

やってられないでしょ

なんでも

 

 

と言っていることに絡めて言えば、自分や他人を励ます言葉としての「才能」なのかな、とも思う。

 ぼくは年に1回だけ娘の保育園時代のクラスの家族たちと旅行に行くのだが、小6の今年が最後で、子どもたちの「将来の夢、もしくは、いまがんばっていること」を聞く機会があった。

 総じて、どの子もまだ「才能」と呼べるようなものはまだ何もないのだが、ここにあるるりの唱える才能論を足がかりにしてみれば、子どもたちはこれから「自分の才能」というものを「根拠」にできるのかもしれないなと思った。るりの語る「才能」は、萌芽にある人たちをエンパワーメントするための言葉だ。

 

 ぼくはまゆこを眺めるとき、性的な対象である女性としての要素で多少見つつも、むしろ自分とある程度ダブらせて読んだ。自分を変えていこうとする姿に、ぼくもこんな前向きな気持ちで自分を変えられたらいいなと感じたのである。少し眠たそうな目と、コンプレックスを抱える姿が、この女性の謙虚さや弱さを示していて、ぼくの中の似た部分にすっと入ってきた。

 すなわち、まゆこのようになりたいな、と思ったのである。

「行政の政治的中立」をはき違えると何が起きるか

 「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展、その後」についてのNHK番組「クローズアップ現代」を見た(「『表現の不自由展・その後』 中止の波紋」2019年9月5日放映)。

 ここで、「“公的な場での表現”どこまで?」というテーマで、行政の「政治的中立性」について扱われていた。

 この報道の中で

今、政治的中立に行政が、より配慮する動きが全国で広がっています。内容の変更を求めたり後援を断ったりするケースは、この5年あまりで分かっただけでも43件に上っていました。

 として、そして「平和のための戦争展」という言葉とともに、福岡市のところにタグがつけられた日本地図が掲げられていた(下図、強調のため画像を一部加工)。

f:id:kamiyakenkyujo:20190908144241j:plain

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190907/k10012067491000.html

 

 この問題はNHKニュースでも報じられたようである。

www3.nhk.or.jp

 ブログで福岡市の名義後援については以前で書かせてもらった(注の部分)。ぼくは文化芸術の振興問題と、市民の自主活動に対する自治体の後援問題は少し区別されるのではないかと思っているが、NHKがこう報じたのはいい機会なので、「平和のための戦争展」の名義後援をめぐり福岡市でどういうことがおきたのかを書いておく。行政が「中立性」をはき違えるとどんなことが起きるのかを見てほしいのだ。

 

名義後援とは何か

 そもそも名義後援とはどういうものだろうか。

 以下の資料(仙台市市民活動サポートセンター「市民活動お役立ち情報」2010年4月1日号)がわかりやすく解説してくれているので、それを参考にしたい。

 皆さんは「後援」という言葉から、どんなイメージ がわきますか?
 後援とは「仕事や計画などの後ろだてとなって、資金を提供したり便宜を図ったりして援助すること」という意味です。具体的には、実施するイベントの趣旨や目的に賛同したマスコミや団体などから、お金や物資・人材の援助を受ける事を言います。
 しかし、今回テーマとなっている「名義後援」の場合は、お金や物資、人材などの援助は一切ありません。 ただし、後援先が企画やイベントの趣旨に賛同していることを表すため、イベントのチラシなどの広報媒体に「後援 〇〇放送」という団体の名称を入れることができるようになります。

 名義後援を得るメリットとして、下の表のように 「1、団体の行う事業への社会的信用が増す」「2、 活動の公共性をよりアピールできる」という事があります。

 具体的な物質的援助はほとんどないが、「後援してます」という名義のみを与えることで社会的信用を増し、公共性をアピールできる、というものだ。「具体的な物質的援助はほとんどない」と書いたが、例えば行政の後援の場合は、公共施設などでチラシを置いたりしてもらえるメリットがある(自治体によって違う)。

 

 「だとすれば、政治的に偏ったものを排除するのはやむを得ないのでは…?」という疑問が湧くかもしれない。しかし、「偏っている・いない」「論争問題になっている・いない」「政治的である・ない」という区分自体が(1)センシティブかつ曖昧なものであるから、その基準自体に「偏り」が生じてしまう。(2)そのあやふやな基準のままイベントや事業の中身に立ち入り出すことで行政が事細かに内容に口を出すことになる。

 まあ、「政治的に偏ったものを排除するのはやむを得ないのでは」という気持ちでもまずは結構。

 福岡市ではどういうことになったのかを見てほしい。

 

 

「平和のための戦争展」の名義後援拒否

 市民団体が開いてきた「平和のための戦争展」は従来福岡市の名義後援を受けてきたが、それが突如2015年に拒否された。

 その後援拒否をめぐり市議会で論戦となっている(中山郁美は共産党議員、2015年09月11日本会議)。

 

◯50番(中山郁美)……市民団体などが共同で成功させる会を結成し、毎年取り組まれている平和のための戦争展について、市長は3年連続名義後援してきたものを、ことしは一転して拒否しました。その理由についてお尋ねします。


◯総務企画局長(中村英一) 今回の平和のための戦争展ふくおかの名義後援の審査に当たりましては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局が所管する業務の行政目的に合致していることを前提といたしまして、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利を目的としていないかなどを審査し、福岡市の後援名義の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しております。
 今回、審査過程の中で、催事の一部である漫画展におきまして、原発は要らない、消費税増税やめろ、原発再稼働反対といった表現があること及び講演会の講師の方の基本的立場として、脱原発をしなければならないと主張されていることが確認されましたので、特定の政治的立場、特定の主義主張に立脚している内容が含まれると判断をいたしました。
 このような国政レベルで国民的な議論が存するテーマである原子力発電や消費税等に関しまして、一方の主義主張に立脚する内容が含まれている催事を後援することといたしますと、その主義主張を福岡市が支援していると誤解され、行政としての中立性を保てなくなるおそれがあると判断いたしましたので、名義後援については不承諾としたものでございます。以上でございます。

 

マンガが標的に

 まず、マンガ家の西山進のマンガが標的にされる。

◯50番(中山郁美) まず、具体的に述べられました1点目の、漫画展にかかわる理由については、西山進さんが過去つくられた作品の内容を調べ上げ、これを問題にしたということですね。確認いたします。


◯総務企画局長(中村英一) お尋ねの漫画展につきましては、当日展示される内容が不明であり、申請者に確認したところ、既に提出された既存資料が当日展示されるものと同様であると理解してよいとのことでございましたので、当該資料には、原発は要らない、消費税増税やめろ、原発再稼働反対といった表現がございましたので、特定の主義主張に立脚している内容が含まれると判断し、不承諾の理由といたしました。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 局長は、わかっておられないようですけれども、漫画というのは文化芸術のジャンルの一つです。文化芸術振興基本法では「文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」とされています。今回のあなた方の対応でいけば、後援を受けようと思えば作品の表現まで制限されることになります。

 

思想チェック

 次に、吉岡斉・九大副学長(当時、故人)が槍玉に挙げられる。

◯50番(中山郁美) ……次に、理由の2点目について。ここでは、ジョイント企画として予定されていた、核戦争防止・核兵器廃絶を求める福岡県医師・歯科医師の会総会の記念講演の講師である吉岡斉九大大学院教授が脱原発をしなければならないと主張されている基本的立場だからということを先ほど問題にされました。
 吉岡教授の過去の発言を調べ脱原発という思想や基本的立場を問題にしたということですね。お尋ねします。


◯総務企画局長(中村英一) お尋ねの講演会につきましては、その趣旨や内容が不明であり、講師の方の講演につきましても仮の演題のみでございましたので、申請者に確認いたしましたところ、内容については把握していないとのことでありましたので、当方で調査し、判断材料とすることについて申請者に意向を打診したところ、異存がございませんでした。このため、当方で調査を行い、講師に関する情報を確認したものでございます。その結果、講師の方の基本的立場として、脱原発をしなければならないと主張されていると判断いたしましたので、特定の主義主張に立脚している内容が含まれると判断し、名義後援に関しまして不承諾理由の一つとしたものでございます。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 要するに、この方の思想や基本的立場を調べ上げて、これを後援しない理由にしたと。これは、憲法が何人にも保障している思想、信条の自由を侵す重大問題だということを指摘しておきたいと思います。
 しかも、これは戦争展そのものでなくてジョイント企画、つまり関連行事で講演される講師ですよ。平和のための戦争展そのものではないんですね。その方の基本的立場を理由に、戦争展そのものの名義後援を拒否したということです。
 70年前、長崎で被爆をして、核兵器廃絶と平和への願いを漫画という芸術を通して市民に訴え続ける漫画家、西山進さん。きょうも傍聴にお見えですよ。市長、あなたは、この方の思想と作品を裁いた。吉岡教授については、原発による被害を二度と繰り返してはならないと、政府の要請に応えて、東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の委員、これを務められてきた方ですよ。この方のこれまでの発言や思想を裁いた。

  この発想が恐ろしいのは、吉岡が当日の名義後援の企画ではなく関連行事での講師だったという点と、もう一つは、今回の企画そのものでの発言ではなく過去の吉岡の発言から吉岡の「基本的立場」、つまり思想が調べ上げられて、それを理由に拒否がされているという事実である。

 仮に福岡市の発想に立つにしても、普段はどういう役職や主張であろうとも、その講師がTPOをわきまえて当時に喋ることをコントロールすることはできるはずである。しかし、福岡市は過去の発言から「思想」を問題にしたわけである。

 

百田尚樹講演会はチェックなし

 福岡市はすべての後援イベントについてこんな検閲まがいのことをやっているのだろうか?

 

◯50番(中山郁美) ……次にお尋ねしますが、昨年の5月26日、アクロス福岡シンフォニーホールにおいて、福岡・文化振興会が企画した百田尚樹氏の講演会が行われました。経済観光文化局が所管し、名義後援しました。百田氏の基本的立場や思想について言うなら、南京大虐殺はなく、従軍慰安婦はうそだ、日本はアジア諸国を侵略した、これは大うそですなどと発言されている立場です。この立場は、国民的には議論になるところです。しかし、これは文化事業だから、作家としてのこの方の主張や政治的立場まで踏み込んで事前に調べることはしなかったし、問題にもしなかった。だから、名義後援できたんでしょう。経済観光文化局長の答弁を求めたいと思います。

 

◯経済観光文化局長(重光知明) 文化振興事業に関する後援名義の使用承諾につきましては、申請者から提出されます申請書などによりまして、使用承諾基準を満たしているかどうか審査をいたしているところでございます。
 お尋ねの講演会につきましては、申請者がほぼ毎年、定期的に文学作品の作家等を招き、その著書などをテーマにした講演会等を開催している文化団体であり、これまでの実績もございますこと、また、映画化やテレビ化もされ、広く話題となりました「永遠の0」という文学作品についての講演会であり、その著者を招き、日本人の心、生き方等を語っていただくという内容でありましたこと、そして広く一般市民を対象としたものであることなどを確認いたしまして、市民文化の振興に資するものと判断をし、後援名義の使用を承諾したものでございます。以上でございます。


◯50番(中山郁美) ちょっとね、いろいろ言われましたけど、確認しますけど、この百田尚樹氏の思想とか基本的立場をあなたたちは調べてないでしょう。調べたんですか、答えてください。


◯経済観光文化局長(重光知明) おただしの内容が、具体的に、この方についてどのようなものかは、その時点で確認したかどうかについては、今ちょっと申し上げられません。
 確認をいたしましたのは、先ほど申し上げましたとおり、内容につきましては、映画化やテレビ化もされ、広く話題となった「永遠の0」という文学作品についての講演会であり、その著者を招き、日本人の心、生き方等を語っていただくという内容でありましたこと、この内容は確認いたしております。


◯50番(中山郁美) これね、調べてないんですよ。

……

◯経済観光文化局長(重光知明) 失礼いたしました。私ども、使用承諾をいたすかどうかにつきましては、提出されました申請書など、あるいは添付文書などに基づきまして判断をいたしておりまして、その中に、先ほど先生がおただしのような内容は入っておりません。したがいまして、そういった内容については判断をいたしておりません。以上でございます。

 局長はすっとぼけようとしたが、追及が激しくて、答弁をやり直させられている。

 百田はノーチェック。「平和のための戦争展」は厳しく思想チェック。

 

産経記者・財界人もノーチェック

 同じ団体は翌年も申請し、取消にあっている。このときも議会で論戦されていて、「百田的ノーチェック」はくり返されている。

◯50番(中山郁美) ……具体的に聞きますが、昨年12月、市は福岡市役所退職者の会、芙蓉会が行った講演会の名義後援をしています。講師は田村秀男氏、産経新聞社特別記者・編集委員ですが、この方は「消費増税の黒いシナリオ」というみずからの著書の中で、アベノミクスのもとでの消費税10%増税反対を主張しておられます。この方の主張は、あなた方の言う特定の主義主張には当たらないんですか。


◯総務企画局長(中村英一) 一般社団法人福岡市芙蓉会は、福岡市退職職員を会員として構成されておりますが、お尋ねの講演会につきましては、会員が社会の時事問題の把握に努め、社会の発展に寄与していくことを目的として開催されたものであり、経済に関する観点から、中国マネー、爆買いの効果、TPP等を事例としながら、ジャーナリストの視点から時代の変革期にあるという内容で構成されているものでございました。
 名義後援の承諾に当たりましては、事業の内容等により判断を行うものとしておりますが、特定の主義主張にとらわれない内容により、広く一般市民も参加対象として開催されたものであったことから、高齢者が社会において活躍されることは福岡市の行政施策にも寄与するものであるため、名義後援を行ったものでございます。以上でございます。


◯50番(中山郁美) もう一つ聞きますが、市が名義後援した昨年7月の九州未来会議in唐津というイベント、これは元JR会長の石原進さんが実行委員長を務めたものですが、この申請添付書類の中に、未来を拓くという文書があり、その中に次のような記載があります。よく聞いてくださいよ、局長。オブラートに包まれた利己的な個人主義を価値観とした現憲法。日本人としての誇りを取り去った自虐史観、偏狭な社会主義思想、明治以来の廃仏思想云々、こういう記載があるんですね。これはあなた方の言う特定の主義主張には当たりませんか。


◯総務企画局長(中村英一) 九州未来会議in唐津につきましては、九州地域が我が国の経済社会を先導する魅力と活力に満ちた地域となれるよう、30年後のあるべき姿を考えることを会議の開催趣旨として、九州の経済界を中心に、行政、大学などの多くの関係者が参加し、人材育成や基幹産業づくりなどが議論されるものでございまして、経済活動を初めとして九州全体、ひいては福岡市の活性化にも寄与するものであることから、九州経済産業局などの国の機関や大学、九州の全ての県を含む多くの自治体など、30を超える団体とともに名義後援を行ったものでございます。
 御指摘の記述につきましては、会議の主催者である九州経済フォーラムから平成27年度の名義後援の申請が行われた際、参考に添付されていた平成26年度の配付資料に含まれていたものであり、名義後援の判断に当たり、平成27年度もこうした記述がある資料を配るのか確認したところ、そのような資料は配付しない旨を確認したものでございます。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 苦しい答弁されますけどね、おかしくないですか。昨年の戦争展の名義後援を拒否した際、関連行事の講師の過去の発言や考え方まで調べ上げて、脱原発だからということを理由の一つにしたではないですか。

 

 財界と産経もノーチェック。

 当たり前である。むしろそれこそ「普通」ではないのか。

 

 

先に結論ありきで材料探しか

 福岡市がいかにこの「平和のための戦争展」の思想チェックの「材料探し」に血眼であり、どんなにずさんな審査をしてきたかは、この問題に関しての高島市長謝罪事件からもわかる。

 実は福岡市は当初「平和のための戦争展」とは関係のない団体(反核医師の会)のホームページを見て、それも後援拒否の理由としてあげていた。ところがそれは同展とはまったく関係のない団体で、あとで反核医師の会から抗議を受け、市長が謝罪に追い込まれているのだ。

市民団体主催の「平和のための戦争ふくおか」を巡り、福岡市から同展の関係団体として名義後援しない理由の一つに挙げられた「核戦争に反対する医師の会(反核医師の会)」(事務局・東京)は13日、「戦争展には全く関与していない」と高島宗一郎市長宛てに抗議文を送付した。市は事実誤認を認め「迷惑をかけて申し訳ない」としたが、「展示内容が名義後援にふさわしくないとの判断は変えないと拒否の姿勢を貫いている。(「毎日」8月14日付)

 

 問題があって調査を始めたのではなく、政治的意図が先にあり、材料を揃えることが自己目的化してしまったために、こんな無様なミスを起こしたのだと考えることができる。

 

 

身分を隠して職員が潜り込む

 2016年の後援取消の際には、書類審査という慣例を破り*1、職員が身分を隠して展示に入り込み、写真を撮るなどして内容をチェックし、特定の主義主張に基づいていたじゃないかということで「虚偽申請」と決めつけて取消にした。

 

◯50番(中山郁美) そこで、異例のことを行った。どのような手続を行ったのか、確認をしていきたいと思います。
 まず、戦争展会場に調査に行ったとされる日付、担当職員の職名、命令したのは誰か、そして、そもそも何のために調査に行ったのか、答弁を求めます。


◯総務企画局長(中村英一) 当該催事につきましては、主催者から見に来てほしいと言われたこと、複数の市民から、戦争法廃止、原発要らないといった偏った内容の展示があるなどの問い合わせやクレームを受けたこと、同様の報道があったこと、また、昨年の経緯もございますことから、総務企画局総務課長の指示により、催事内容を確認するため、8月25日は総務係長及び係員、27日は総務係長、28日は総務係員が会場に行っております。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 一旦名義後援したのに、現地では写真を撮りまくって、展示物を細かにチェックするなど、戦争展にだけ特段の体制をとって調査しています。大体ですね、身分を明らかにして、市から調査に来たことを主催者に断って入ったんですか、お尋ねします。

 

◯総務企画局長(中村英一) 8月25日に展示物を確認した際には、受付において写真撮影の承諾はいただきましたが、福岡市の職員として訪問したことはお伝えをいたしておりません。27日の講演会では受付名簿に氏名を記帳いたしております。以上でございます。


◯50番(中山郁美) なぜ市役所から来たというのを明らかにしないで展示会場に入ったんですか

 

◯総務企画局長(中村英一) 開催期間中でもあり、催事に配慮いたしまして、市職員が確認に行ったことについて、主催者も含め、積極的に公にすることを控えたものでございます。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 下手な言いわけはだめですよ。やり方が卑劣です。

命令に基づいて担当職員が職務の一環で調査に行ったのに、全て秘密で調べ上げた。おかしいでしょう。このような現地調査は名義後援を決定したもの全てに行っているんですか。


◯総務企画局長(中村英一) 名義後援を承諾した催事につきましては、市民等からの連絡などにより申請内容と異なる内容が含まれている可能性があると認識された場合や、過去に申請内容と異なる展示がなされた場合などに実施状況を確認しております。以上でございます。


◯50番(中山郁美) なぜこの戦争展だけ特別に調査したのか、もう一度お答えください。


◯総務企画局長(中村英一) 現地確認につきましては、複数の市民から、戦争法廃止、原発要いらないといった偏った内容の展示があるなどの問い合わせやクレームを受けたこと、同様の報道があったことなどから実施したものでございます。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 複数と言われましたが、何人の市民からか、お答えください。


◯総務企画局長(中村英一) 今、手元に資料がございませんので、正確な数字は申し上げられません。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 一人でもそういう苦情をすれば、あなたたちは調査に行くんですかね産経新聞も確かに報道しましたからね。こういうのをいいことに、ここだけ狙い撃ちしたということではありませんか。


◯総務企画局長(中村英一) 先ほども申し上げましたが、名義後援を承諾した催事につきましては、市民等からの連絡などにより申請内容と異なる内容が含まれている可能性があると認識された場合や、過去に申請内容と異なる展示がなされた場合などに実施状況を確認いたしております。今回、複数の市民から、戦争法廃止、原発要らないといった偏った内容の展示があるなどの問い合わせやクレームを受けたこと、同様の報道があったことなどから、申請内容と異なる内容が含まれている可能性があると認識いたしましたので、実施したものでございます。以上でございます。

 

  職員が身分を隠して写真を撮る。それをもとに「特定の主義主張」のものを選び出して「根拠」にするのである。

 

250点の展示物のうち7点が「問題」

 そして、そのうち、どれだけのものが「特定の主義主張に立脚」していたのであろうか。

 

◯50番(中山郁美) …別の角度で聞きますが、あなた方の言う特定の主義主張が全体の展示の中に一つでも含まれていればだめだということなんですか。


◯総務企画局長(中村英一) ことしの戦争展は、昨年と異なり、展示内容に特定の主義主張に立脚した内容は含まれないという説明がございましたので、名義後援を承諾したものでございます。しかしながら、複数の市民から、戦争法廃止、原発要らないといった偏った内容の展示があるなどの問い合わせやクレームを受けたこと、展示会を確認に行ったところ、実際に特定の主義主張と認められる展示があり、このような主義主張を福岡市が支持していると見られ、行政の中立性が損なわれることになると判断し、名義後援の承諾を取り消したものでございます。以上でございます。


◯50番(中山郁美) ごちゃごちゃ言われるので、具体的に聞きますが、戦争展の展示物全体の中で、あなた方の言う特定の主義主張に当たらない、問題ないものはどのくらいあったんですか。


◯総務企画局長(中村英一) 繰り返しになりますが、今回は主催者の申請を信じて名義後援を承諾したにもかかわらず、実際には申請内容と異なり、特定の主義主張と認められる展示があったため、名義後援の承諾を取り消したものでございます。
 なお、不承諾事由に当たる個々の展示物の割合いかんのみをもって後援の可否を判断するものではございません。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 今の答弁だとね、一つでもあったらあなた方はだめという、そういう答弁ですよ。全体の展示品の数は約250点です。当局から事前に受けた説明によると、問題にされた展示は7点ですよ。250点の中からわずか7点、2.8%を見つけ出して、企画そのものが何か問題があるかのように描き出して後援を取り消した。でたらめな判断、対応ではありませんか、御所見を伺います。


◯総務企画局長(中村英一) 何度も申し上げますが、主催者にはこれまで審査基準等を十分説明しており、事前の確認においても特定の主義主張は含まれないとのことであったため名義後援を承諾したにもかかわらず、実際の展示内容に特定の主義主張に立脚した内容が含まれていたことは申請が虚偽であったと言わざるを得ず、取り消したものでございます。以上でございます。


◯50番(中山郁美) 極めて意図的です。

 

 「割合」ではない、一つでも問題があればそれを口実に取り消しができる。写真を撮って250点の内容を細部にわたって必死でチェックし、これは使えない、これも使えない、あった! ここなら潰す口実になる!……そういうことに血道をあげている役人の姿が思い浮かぶ。

 

 

「特定の主義主張」に立脚していないものなどあるのか

 福岡市が繰り返している「特定の主義主張に立脚」とは何か。

 そもそも「特定の主義主張」に立脚していないものなどありはしない。「生ゴミコンポスト化を進めましょう!」という講演会だって「特定の主義主張に立脚している」のである。

 そこで福岡市が持ち出すのは「国論を二分する問題」である。

 しかし、それはどこで線引きされるのか? 与党と野党がある以上、多くの問題で「国論を二分」しているではないか。そして、それは民主主義社会の健全な証でもある。

 

◯50番(中山郁美) ……具体的に聞きますが、例えば、憲法を守りましょう、こういう集会が企画されて、後援申請が出たとしたら、どうされますか。


◯総務企画局長(中村英一) 憲法など国政にかかわるテーマの催事におきましては、過去の事例からも、政治的な立場や特定の主義主張がなされる可能性が高いため、行政の中立性を保つ観点から、慎重に判断することになると考えておりますが、申請される催事ごとに催事の趣旨や全体としての内容が所管する業務の行政目的に合致していることを前提といたしまして、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するものが含まれていないか、営利を目的としていないかなどを審査し、福岡市の後援名義の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断することになると考えております。
 したがいまして、憲法を守ろうという集会のテーマだけでは、名義後援の可否を判断することはできないものと考えております。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 恐ろしい発想ですよね。憲法は国の最高法規ですよ。全ての法律は、これに基づいてつくらないかん。しかも、公務員には99条で憲法遵守義務が課されています。これに合致したものを後援しないというのは、これは地方公務員法にも、あなた方は触れる行為ですよ。全くおかしい、大問題です。
 もう一つ聞いてみますが、マイナンバー制度についてですね。今、国は導入しようとしていますが、日弁連の会長さんが反対声明を出されるなど、国民の中では実施反対の意見も多く、いわば国論は二分されています。
 マイナンバー制度を大いに活用しよう、こういうテーマの企画なら後援しますか。


◯総務企画局長(中村英一) 先ほども答弁させていただきましたとおり、名義後援につきましては、申請される催事ごとに催事の趣旨や全体としての内容が所管する業務の行政目的に合致していることを前提といたしまして、その内容について個別具体的に審査いたしますので、マイナンバー制度を活用するという集会のテーマだけでは、名義後援の可否を判断することはできないと考えております。以上でございます。

 

 ここで指摘されている通り、外形的にほとんど判断することができないのだ。

 ハイエクソ連などの計画当局による裁量次第の経済を批判して述べたように、あらかじめ誰でもわかるルールとして示されそれをもとに人々が行動を予見できる社会ではなく、「ダメ」「よい」は行政の「総合的観点からの判断」というサジ加減一つなのである。

 

 右でも左でも自主活動であれば名義後援を与えるべきだろ

 解決策はどこにあるのか。

 そもそも教育基本法は、政治教育について次のように定めている。

第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。

 政治的な教養を尊重するよう定めているのである。

 だとすれば、論争的な政治問題も教育――それは学校教育はもとより、社会教育(成人教育)の場で十分に尊重されねばならない。

 社会教育法では公民館の活動について次のように定めている。

第二十三条 公民館は、次の行為を行つてはならない。……
二 特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること。

  つまり、例えば今度の選挙で自民党の候補を支持してください、共産党に一票をお願いしますとか、そういうことをやってはいけないし、候補者を講師にして事実上の応援とかになってはいけない、ということである。*2

 これに準じればいい。

 つまり、「右」であろうが「左」であろうが、特定の政党を応援する事業や特定候補の応援以外は、大いにやればいいのだ。もちろん百田でも。*3

 どのような政治主張であっても、様々な立場の活動を市が「後援」することで、言論や表現は活発になる。だからこそ、自治体が内容を問わずに応援する意味があるのである。内容を粗探しして「人畜無害」(行政から見て)のものだけを「後援」することは社会にタブーを生み出し、自由な言論を停滞させる。そして教育基本法が定める「必要な政治的教養」を尊重しない結果にもなる。*4

 

 

 

*1:産経の報道をきっかけにしている

*2:「特定の政党の利害に関する事業」とはよく「政党の演説会などには公民館は貸せない」という解釈が取られることがあるが、政府の回答(1950年2月10日の千葉県教育委員会教育長あての文部省社会教育局長の回答)で次のように書かれている。「特定政党に貸すという事実のみを持って直ちに社会教育法第23条第1項第2号に該当するとはいえない」「当該事業の目的及び内容が特定の政党の利害にのみ関するものであって社会教育の施設としての目的及び性格にふさわしくないと認められるものである場合、又はこれに該当しないものであっても当該使用が一般の利用とは異なった特恵的な利用若しくは特別に不利益な利用にわたるものである場合、若しくは以上の場合に該当しないものであっても特定の政党にその利用が偏するものである場合には、いずれも社会教育法第23条第1項第2号の規定に該当すると解せられるから注意を要する」。つまりある政党に貸して他の政党に貸さないのはダメ、政治教養を高めるっていう目的ならいいじゃない? ということだ。

*3:こう書けば、「お前らは百田の講演会の中止を求めただろう」というかもしれない。まず事実としてぼく個人はそうしたことを求めたことはない。また、個人や市民が個別の講演会を「中止すべきだ」と表現し、「やめろ」と行政に申し入れること自体は権利として存在する。ぼくがここで問題にしているのは行政の名義後援の話であり、行政がどういう立場でのぞむのかという問題である。混同しないでほしい。

*4:ヘイトスピーチはどうなるのか、という問題がある。ぼくは以前の記事でも書いたが、原則的に言論は自由であるべきで、行政はできる限り規制すべきではないと考える。その克服は基本的に啓発と教育に待つべきである。ただし、民族的憎悪は戦争やテロにつながる恐ろしさがあるので、ヘイトスピーチ規制法が定めるような厳密な定義にそってヘイトスピーチが行われ、緊急性が高い場合に限っては、行政によって違法と断じられ、何らかの手立てが取られるべきだと思う。

雁須磨子『名前をつけて保存しますか?』

 ぼくは今PTAに入っていない。少し前に退会したのだ。PTAは任意加入が原則なので、それを規約で定めたり、加入届で確認したりしてほしかったのだが、その要望がかなわないので脱けることにしたのである。

 誤解のないように言っておけば、喧嘩別れしたわけではない。校長先生はぼくの質問や意見にも丁寧に答えてくれたし、PTAの役員は退会にあたってぼくのPTA委員活動について心のこもった労いの手紙までくれた。いわば「円満退会」である。

 世の中では、PTAや町内会を脱けたりすると、陰で「ずるい」と言われることがある。他の人のそういう悩みを聞くこともある。

 一体「ずるい」とはどういう感情だろうか。「しなければならぬことを巧みになまける」と『広辞苑』にはある。

 冒頭に述べたように、PTAも町内会も任意加入である。入っても入らなくてもよい団体なのだ。俳句のサークルに入るのと変わるところはない。「この俳句サークルは自分に合わないな」と思って退会するとき、ふつう「ずるい」とは言われないだろう。子ども食堂のボランティアならどうか。やはり同じだ。「本業が忙しくなったので、一年ほど手伝いは休みます」と言って脱けたとしても、誰もそれを「ずるい」とは責めないだろう。

 同じ任意加入、つまり「しなければならぬこと」ではないはずなのに、PTAや町内会の場合は「ずるい」と言われてしまうのである。

 PTAの中にはポイント制をやっているところもある。「大変な役職」をやればポイントが大きく、一定以上貯めると役職を免除されるという。ポイント制は「ずるい」という感情の噴出を抑え、管理する道具なのだ。

 

 雁須磨子という福岡県出身のマンガ家に『名前をつけて保存しますか?』(講談社)という短編集がある。

 

 

 その中の収録作品の一つ(「手の鳴るほうへ」)に、キホという妹を姉が諭すシーンがあり、「キホ あんたしんどいの? ズルいって出ちゃうとき 人ってそれに我慢してるから出てくるんだよ 自分がしんどいことは キホ やめちゃってもいいんだよ」というセリフが出てくる。

 至言ではないか。

 生活保護を受給している世帯に対して「ずるい」という責め言葉を投げつける人がいる。生活保護は貧困に陥ったとき、つまりある所得・資産条件以下になったとき、誰でもそれを受ける権利がある制度だ。「病気になったら医療保険が使える」のと何ら選ぶところはない。その正当な権利に「ずるい」という気持ちを抱いてしまう人は、自分がつらくて、何かを我慢しているのだろう。

 もしも本当に不正があって「ずるい」というなら「ずるい」などと言わずに堂々とその不正を告発すればいい。だが、大抵それは思い過ごしだ(相続税の非違行為は申告件数全体の二〇%もあるのに、生活保護の不正受給は支給総額の〇・五%程度である)。だから陰にこもった「ずるい」という言い方になってしまう。

 PTAや町内会の活動で「ずるい」という言葉を使ってしまう人は、PTAや町内会がつらいのかもしれない。そう思うなら、楽しいものにすればいい。活動も任意だ。余計な事業はリストラして、自分たちのやりたい仕事・やりがいを感じられる必要な事業だけやればいいではないか。どうやっても楽しくならず、つらいのであれば、PTAや町内会を脱ければいい。

 「やらなきゃいけない仕事ばかりだ。減らせるわけがない」と思うのは、思い込みにすぎないこともある。例えば町内会の防犯灯。あれは町内会がお金を出すものだと信じて疑わない人がいるが、LED化で費用が半減するのを契機に行政に移管する自治体もある。もともと公共インフラである防犯灯を町内会が負担している方がおかしいのである。

 「ずるい」という言葉で表現される現実は、まさしく不当なものか、実は正当なものか、どちらかしかない。その明確な判定を避けようとするがゆえに「ずるい」という表現にとどまってしまうのである。「ずるい」という言葉には表立っては相手に言えない自信のなさがうかがえる。

 「ずるい」という言葉をやめてみてはどうだろうか。

 

 ……という、以上の文章は、実は少し前に、あるメディアからの依頼で書いたエッセイの没稿の一つである。

 「『ずるい』という言葉をやめてみてはどうだろうか。」でこの文章を結んでいるけども、実は雁の作品(「手の鳴るほうへ」)のラストでは、その姉が、「ズルい」という言葉を母親に軽い調子で連発するというオチを用意している。姉自身がキホに告げた「ズルい」論が解毒されていると言ってもいいだろう。どの短編もそうなのだが、家族の関係を、ある価値観で裁定することを避け、基本的に許し合おうとする雁の態度がこの短編集にはベースに流れている。

 もし雁のその態度に学ぶなら、むしろ「ずるい」と言ってしまうPTA・町内会関係者をこそ、ぼくは「そうかもしれませんね〜」的に許してしまうべきかもしれない。

ナディア・ムラド『THE LAST GIRL』

 「イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語」というサブタイトルの通りで、性暴力のすさまじい実態が告発されている。書名は「この世界で私のような体験をする女性は、私が最後であってほしい」という意味である。著者は昨年ノーベル平和賞を受賞した。

 

 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

 

 

 

 だが、ぼくは、本書を読む際に、日本人のぼくらが心しないといけないことがあると強く感じた。それは「こんなひどい国に生まれなくてよかった」――本書を日本のぼくらと切り離してしまう罠に、いかにも陥りそうだからだ。

 

 性暴力は性欲を動機とするのではなく、支配欲――支配と抑圧を中心動機としている。本書の記録において性暴力が「武器」として使われていることからもそれはわかる。痴漢やセクハラのような日本の日常にある性暴力と地続きなのだ。

 

 「こいつを支配したい」という欲望は、「その人間は支配してもよい・どう扱ってもよい二級市民である」という人間観につながっている。

 その「二級市民」が「ヤズィディ教徒」であったり「日本の職場にいる女」であったりするという、それだけの違いに過ぎない。

 

 「職場のハラスメント研究所」代表理事の金子雅臣は、セクハラをする人(ここでは男性)は「特別な人ではありません」と言う(「しんぶん赤旗」2018年10月15日付)。酒の席で、なりゆきで……などと言い訳にもならない言い訳でやってしまう。金子はその理由を二つ挙げている。

 

ひとつは職場でも異性を「性的対象」と見る傾向が男性に強いことです。それは性差ではなく、社会的な刷り込みによるものだと考えます。日本では女性の「性の商品化」が著しく、幼いころから女性を性的対象としてみる機会が非常に多く提供され、後天的にその性向がつくられてしまっています。(前掲)

 

もうひとつは女性差別の構造です。日本社会に根深い女性蔑視を背景に、職場でも女性にはサポート役や「職場の潤滑油」的業務を求める性的役割分業意識が強い。また子育てなど家庭の役割のため、残業が当たり前の「男社会」の働き方ができない女性は、労働力として「二流」だという思いがある。さらに管理職比率は圧倒的に男性優位です。職場のドアを開けたとたん、普通のお父さんが部長や専務になると、自分が格段の権力を持ったと錯覚し、部下を見下す視線が生まれます。(前掲)

 

 「その人間は支配してもよい・どう扱ってもよい二級市民」の出来上がりである。ぼくはこの金子の話を読みながら、ナディア・ムラドの本書にそれを重ねた。

 

 ナディア・ムラドが連行されるときに、戦闘員である男に胸を執拗になぶられ、ナディアが激しい憤りを覚える描写がある。

 この箇所は、あとのレイプのエピソード以上にぼくらの日常と「地続き」であることを感じた。

 人間としての全体性を持っているはずのナディアは性的な存在にだけ矮小化され、性的な対象とされ、しかもその全体から胸というパーツだけをあたかも切り取られるように徹底的に部分化される。まさに「モノ」となる瞬間である。

 これは「おっぱいを過剰に大きく、して性的に強調するイラスト」(画像)などのように、日本の日常できわめてよく目にする物象化だとすぐ気づくだろう。

 

 ぼくも何度も書いていることだけど、ぼく自身がそれを虚構だという線引き・エクスキューズのもとに、日常的に「楽しんでいる」。一応「理屈」としては、現実の女性ではなく、空想・虚構・つくりごとの女性であるから、日常の制約から解放されてそういう妄想として「楽しめる」のだ、ということになる。したがってそこで「楽しんだ」規範――「女性を性的な対象として、特にそれとしてのみ見て、楽しむ」――は現実に持ち帰っては絶対にならない。1グラムでも。

 

 だが、それは建前であろう。

 絶対に持ち帰っていないといえるだろうか?

 虚構世界での許されたはずの女性観はぼくらの現実の規範のどこかに巣食っていないだろうか。あるいは少しでも影響を与えていないだろうか。あるいは、999人は影響されていなくても、1人は影響されていないだろうか。

 「虚構作品は現実に影響を与えるよ。そんなのはどんな作品でも同じじゃないか。戦争を肯定するマンガが現実の戦争観に影響を与えるからといってぜんぶ禁止・規制されたら何も表現できなくなるぞ」というのがもう一つの反論としてある。まったくその通りである。

 しかし、だからと言って、ぼくらは開き直りっぱなしにいるわけにはいかない。

 そもそもお前はその「楽しみ」を手放す気はないのかと言われれば、今のところは「ない」。

 ならば“あなたが「楽しんでいる」ポルノは、現実の男性の女性観に悪影響を与えている”という批判に向き合うべきなのだが、どのようにして向き合うべきなのかは、何か確立されたものがあるわけではない。ぼく自身も手探りでそれをやるしかないのである。

 

ちばてつや『ひねもすのたり日記』

 前にも書いたかもしれないが、まもなく傘寿を迎える父の生い立ちの聞き取りをしている。これが滅法面白い。

 あまりにたくさんのエピソードがあってどれも興味深い話ばかりなのだ。

 戦後の食糧事情から、自分がどのように農家をやめ商人になっていったかという話などを聞く。

 三河地震についても聞いた。1945年1月に起きたマグニチュード6.8のこの大地震震度7と言われ、愛知県の三河地方南部周辺に大被害をもたらした(死者2306人)。

 

戦争に隠された「震度7」: 1944東南海地震・1945三河地震

戦争に隠された「震度7」: 1944東南海地震・1945三河地震

 

 

 「三河地震第二次世界大戦末期の報道管制下で発生したため、被害の詳細な調査や報道が困難だった」(木村玲欧『戦争に隠された『震度7吉川弘文館、p.20) 。したがって当事者がまだ生きている今でなければ証言は聞けない。

 

 ぼくの家には犠牲者は出なかった。それは不幸中の幸いであった。しかし家は壊れはしなかったものの、傾いてしまった。家には入れないので、藁を屋根にして「コンバリ」(おそらく「棍張り」=太い丸太ではないか)を組み、「仮設住宅」を作ったようで、それで1年ほど暮らしていたという。終戦詔勅もその家で聞いたらしい。

 家をどうやって直すのかといえば、昔は家を建て直すのではなく、「シャリキ」(おそらく「車力」=車を引くような力仕事をする人夫であろう)を呼んで、家を引っ張ってもらって直した。「家を引っ張る」だって!?  そんな、工作みたいな……。

 それだけではなく、「コンバリ」が家の内外に無数に掛けてあって、倒れないようにしているのだ。「コンバリの間で餅をついたりした」(父)。それが一本外れ、二本外れ、藁の「仮設住宅」から本宅に戻り、「コンバリ」の間で生活し、それが次第に外れていき、とうとう父が結婚する直前に全て外れたという。十数年かかっている。

 

 他にも、戦後になって農家を継いだ父だったが、どうも山っ気が抜けず、商売への憧れが強かった話なども印象的である。

 三河地方から、名古屋へ梨を車に積んで売りに行く。実家の周辺は梨をたくさん栽培していたのである。

 父によると名古屋に行くと、その地域のボス格の主婦を見つける。その主婦に「コマセ」をまくつもりで、傷んだ二級品の梨をたくさん無料で分けて味方につける。するとそのボス主婦がオルガナイザーになって、人をどんどん集めてきてくれるのである。梨は飛ぶように売れたのだが、堅実を絵に描いたような父の父、すなわちぼくの祖父は山師のようなこの父の商売に不安を感じたようで、祖父の反対に遭い、やめざるを得なかったという。

 

 目玉が飛び出るほど珍しいエピソードというわけではない。むしろ平凡な人生なのだろうが、戦争から四半世紀もたってから生まれたぼくのような人間からすると、その平凡な日常が興味深いのである。

 

 そして、最近、ちばてつやひねもすのたり日記』を読む。

 

 

 満州からの引き揚げはすでに別の作品で読んではいるのだが、やはり壮絶なものである。しかし、それ以外の戦後の日常を綴った部分も、率直にいって、やはり目玉が飛び出るほどの珍しさではない。平凡な日常の一コマなのである。しかし、そういう平凡な日常そのものが興味深いのである。

 

 例えば2巻では、ちばてつやが千葉に引き揚げ、その学校でいきなり九九の授業を受ける話が出てくる。

 

 

 スイカすら見たことのない文化ギャップを抱えていたちばは、自信のなさげな子どもであったように描かれている。日本の学校の授業とも大きなギャップがある。

 そこへきていきなり九九なわけだが、実は母親が内地に戻ったら九九ぐらいはできなくては、というので、引き揚げの最中にてつやに九九を唱えさせ続けたのである。

 したがって、まだ3の段しかやっていないクラスで、どうやら全部言えるらしいということで前に出されて全段を暗唱するように教師から促される。

 ちばは初めは自信がないのであるが、しかしやがて大きな声で全段を唱え終わると、クラス中の猛烈な賞賛を浴びるのだった。

 

勉強のことでほめられたのは、

生涯これが最初で最後でありました。

 

という謙遜の言葉とともに、この思い出の誇らしさが伝わってくる。

 どうということのない思い出には違いない。誰でもこの種の思い出は持っているはずなのだと思う。

 しかしそこに引き揚げの際の生活の匂い、女性教師の粗雑ながら温かい人柄、人生のごく小さな誇らしさの記憶が巧みに織り込まれている。

 ちばという一級の作家のなせる技とも思えるが、同時に、この種の「平凡な思い出」はどの人にも存在し、それを今のぼくらの世代が新鮮に受け止める素地があるんじゃなかろうかとも思う。

 だとすれば、今こそぼくらはこの世代に聞き取りをしたり、それを素材にマンガや創作の「ネタ」にすべきではなかろうか。人生史をつくればどんな人でもそれが1冊の本になるような気がする。まあ、それはよく言われるように「誰でも生涯に1冊は自分の人生を本として書くことができる」的な意味なのだろうけども。

上西充子『呪いの言葉の解きかた』

 昨年ぼくは「ご飯論法」の命名者の一人として流行語大賞をいただいた。「朝ごはんを食べましたか?」という問いに、米飯は食べていないがパンは食べたという事実を隠して「ご飯は食べておりません」と答弁する……このタイプのごまかしを安倍政権がやっているのではないか、という欺瞞の告発が形になったものが「ご飯論法」というネーミングであった。

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 だがぼくの方の受賞はおまけみたいなもので、実際には、共同受賞した上西充子・法政大教授がこの手法を見抜き、暴いたことがまさに受賞の中心である。

 受賞の時に会場の近くのスタバで初めてお会いしたが、その時も、上西はこの論法が従来の霞ヶ関文学による単なる「ごまかし答弁」「あいまい答弁」とはどう違うかを厳密にぼくに語っていた。ぼくのツイッターのタイムラインに上西のツイートが流れてくるが、“リベラルっぽいツイート”に雰囲気で同調したりせず、言葉を緻密に分析する言語感覚の鋭さがある。

 まあ、「ご飯論法」という批判の実体を99.9%作った上で、命名だけの部分を律儀に区別して、ぼくに受賞の栄誉を浴させてくれるなんていうこと自体がその緻密さの現れだと思うけど。

 

 その言語感覚の鋭さを縦横に発揮したのが本書である。

 

 

呪いの言葉の解きかた

呪いの言葉の解きかた

 

 


 まるで魔法のおとぎ話のような題名だが、職場で、家庭で、政治の場でぼくらを一瞬して縛り、動けなくしてしまう「呪いの言葉」が本当にあるのだ。
 「嫌なら辞めれば?」「デモに行ったら就職できないよ」「母親なんだからしっかりしなきゃ」「野党はモリカケばっかり」……その「呪い」をどう解くのかを本書で考察する。

 


呪いが解ける瞬間

 ぼくが注目したのは、彼女自身が自民党議員から「捏造」にかかわる攻撃をされたくだりだ(p.156〜)。

 裁量労働制の実態をめぐり、安倍首相が“裁量労働制で働く人の方が一般労働者よりも「平均なかた」で比べれば労働時間が短い”という趣旨の答弁をしたものの、実はその「根拠」となったデータは政権の方向性に合わせて都合よくねじまげたものだったことが判明し、安倍は答弁を撤回した。

 しかし厚労省側はデータを撤回したものの、一番本質的な点では謝らずに、非常に瑣末的な部分についてのみ謝っていた。

 上西は、これに対して

この比較のデータが、うっかりミスで作れるようなものではないこと、これは政権の意図に合うように「捏造」されたものと考えられること、この比較のデータには、捏造と隠蔽の痕跡が多数認められること、そして同年二月の問題の表面化以降に政府が不誠実な対応を繰り返したことを、連載記事で示そうとした。(本書p.165)

 ところが、これに自民党橋本岳衆院議員がかみつく。

……ここまで「意図した捏造」と指摘するからには、「捏造を指示した連絡」などがそのうちきっと証拠として示されるものと期待してます。

 

このシリーズで上西教授が改めてとりあげている論点は、「その不適切な表の作成が、誰かの指示により意思を持って捏造されたものなのではないか」にあるのだと認識しています。ひらたく言ってしまえば、総理なり厚労相なりが指示して捏造したのではないか、と疑われているのでしょう。

 

 橋本は、上西が連載記事であたかも「指示」という言葉を使っていたかのように引用符(カギカッコ)を使って誤解させ、“捏造を指示した連絡が出てこなければお前=上西の言ったことはデマじゃねーの?”と言わんばかりの圧力をかける。

 ぼくだったら相手のロジックにハマって動けなくなっただろう。しかし上西は、相手が呼び込もうとしている土俵の欺瞞を見抜き、打ち砕く。

 上西は、相手が“捏造を指示した文書の有無”に土俵を持って行こうとしていることを見抜き、自分がそのようなことを書いてはいない正確に事を分ける。その正確さはまさに上西の面目躍如たるものがある。

 さらに弁護士らに相談し、記者会見を開くところまで準備を整える。

問題は単にやりすごすのではなく、不当な圧力に対してきちんと異議申し立てをすべきだと、この中原さん〔東京過労死を考える家族の会――引用者注〕の姿を見ていて私も思った。(本書p.171)

 橋本はあわてて表現の周辺を削除したり、修正したりする。

 しかし、上西は次のように判断する。

そうしている間に、カギ括弧内が引用ではない旨を追記したとの連絡が橋本議員からツイッターで入った。けれども、それが引用ではないことが追記されただけで、カギ括弧はつけられたままだった。その修正についても記録を保存したうえで、記者会見はそのまま開くことにした。削除や修正があっても、最初の投稿の事実が消えるものではないと、助言されたからだ。(本書p.171-172)

 ここも上西らしい厳格さだ。スタバで話を伺った時の上西を思い出す。

 そして記者会見で、同席弁護士からこれは政治家による「学問の自由」の侵害だという指摘を聞いて、それ自体が上西自身になかった観点だと気づく。

 相手の土俵を打ち砕く、まさに「呪い」が解かれる現場を見る思いがした。

 このエピソードには、本書で書かれている“呪いを解く”という点で重要な問題がいくつも詰まっている。

 

理論武装

 一つは、“呪い”を解くためには、理論武装、学ぶことが必要ではないかということだ。

 巻末に「呪いの言葉の解き方文例集」という“一口切り返し”が載っている。確かに「呪いの言葉」はまるで通り魔のように突然どこからともなくやってきて、ぼくらを傷つけ、支配する。自分が傷つかないようにするためには、とっさに切り返すことは結構大事なことだとは思う。

 しかし、根本的には、その呪いが持っている「実感」の強さ、「理論」的体裁の強度を打ち砕く知性がないと呪いは解けないことを、上西の本書は物語っている。

 例えば、本書のp.38からある、「そんなことをしたら店が回らなくなる!」的な呪い(経営側からの過剰な要求にも労働者は従う義務があるという呪い)については、上西はドラマ『ダンダリン!』の主人公・段田凛の言葉を紹介しながら、労働基準法をはじめとする労働法の精神を解いていく(労働条件を壊すような過剰な要求には従う必要がないし、労働者自身がそれを主体的に変えていける)。逆に言えば、労働法を知らなければ、この呪いは解けないのである。

 先ほどの裁量労働をめぐるエピソードでは、相手の土俵の欺瞞を見抜く論理の力、これが学問の自由への侵害だと認識する力、相手の“修正”に腰砕けになってしまわない戦略力などだ。そうした知恵がなければ呪いは解けない。

 

サポートの存在

 二つ目は、その知恵は、必ずしも一人ではなく、他人からのサポートや気づきがあって初めて得られるものも多いということだ。

 先ほどの裁量労働をめぐるエピソードを見ても、上西でさえ気づかなかったことは少なくない。記者会見でしっかり異議申し立てを行うこと、相手からの“修正”があっても最初の投稿の事実は消えないこと、これが学問の自由の侵害にあたることなどは、他人からの助言・指摘を受けて、初めて気づいている。

 一人で気づきを得ることは難しい。

 たとえ気づいたとしても本当にそれでいいのか、自信をもって主張し続けられるかはわからない。相当厳しいと思う。

 ぼくも、高校生の頃、全く組織とか仲間とかを持たずに、学校の校則押し付けに反対しようとしていた時、教師から一喝されて、泣きながら作ったビラを廃棄したことがある。自分のやっていることは間違っていないと思うだけに、誰からも肯定されないしサポートされない不安によって、ぼくは涙を流しながら自分の信念を破棄せねばならなかったのである。

 しかし、いったん組織(サヨ組織)を知り、知り合い・仲間ができたとき、自分の主張と行動にびっくりするような力強さが生まれた。同じことを主張していても、そこには理論の裏付けがあるし、自信がなくなりそうな部分をいろいろサポートしてくれる仲間ができたからである。

 

 ぼくは、この一つ目の部分は本書でいう自分の中から湧き上がってくる「湧き水の言葉」、二つ目の部分は他人から励まされたり気づかされたりする「灯火の言葉」に対応するのではないかと思って読んだ。

 

どうしたら「湧き水の言葉」を得られるか

 ただ、上西のいう「湧き水の言葉」はもっと奥深いもので、自分の生き方の肯定によって得られる確信を意味している。それを理論武装によって得られることもあるであろうが、上西が紹介しているのは、『カルテット』というドラマを題材にしたもので、「自分の生きかたを自分の言葉で肯定す、受け入れ合う」(p,253)という自己肯定である。このドラマに出てくる人たちは別に勉強して理論武装したわけではない。登場人物の4人が支えあうようにして生きかたを認めるのである。

 呪いというのは、ある種の生き方の否定であり抑圧なのだから、そのような呪いにかからない肯定感があれば、呪いはかけられないのだとも言える。たとえ反論できなくても、「何言ってんだコイツ? アホなの?」と思えれば、呪いにはかからない。

 アカネチャンのような態度。

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 だが、それを方法論として示そうとすると存外難しい。この最後の「湧き水の言葉」は、結論としてはその通りなのだが、ではそのために自覚的にぼくらが何をやればいいのかと言えば、はたと困ってしまうのではないだろうか。

 ぼくはまず、学ぶこと、理論武装することから始めたらどうかと言ってみたい。それによって自分の生きかたを肯定し、呪いから抜け出せるのではないかと思うからだ。

 

 

 

 

萩原あさ美『娘の友達』1巻

 必死に出世街道を走っていたサラリーマンであると同時に、不登校になりかけた高校生の娘をもつシングルファーザーでもある主人公・市川晃介が、喫茶店でバイトをしていた娘の友達・如月古都と知り合い、二人きりのカラオケで抱きしめられたり、職場放棄して二人で新幹線で逃避行したりと、あたかも破滅をそそのかされるように、慰め・癒されるという物語である。

 

娘の友達(1) (モーニングコミックス)

娘の友達(1) (モーニングコミックス)

 

 

 「疲れませんか?」などと言って、上司であり父親であるという役割を全部捨てて、ただの「市川晃介」になってみてくださいと一体そんなことをいう女子高生がいるわけないじゃないか。おかしいだろ、これ。これはエロゲーの分岐画面なのか、セクサロイドなのか。

 ……などと賢しらに抗してみてもダメだな。何度でも読んじゃうんだよこの作品。こういうふうに癒されてみたいって思っちゃって、晃介目線で古都の顔とか体とかをじろじろみている自分がいる。

 

 逃避行へ誘われる前に、ここから逃げ出したいという心のつぶやきを口にしてしまう晃介に向ける古都の言葉、「おいで」ってなんだよ。素晴らしすぎるだろ。

 この瞬間、古都が実は女子高生ではないという錯覚を植え付けられてしまう。そう、これは女子高生じゃないんだよ。女子高生の姿をしただけの、すばらしい男性甘やかし機能を備えた別の何かなんだよ。

 

 連載の方がどうなっているのか知らないんだけど、1巻までのところは、キスしかない。しかし、晃介にとって、古都っていう癒しは、性的な存在でしかないんだから、別にこれからの展開においてキスで留めておく必然性はすでに全くないわけで、当然セックスまで進んでほしい。

 そして、晃介については、理性を取り戻して日常に戻るなんているヌルい流れにせず、できれば日常のしがらみを全て放棄して、どこかに流れ着いて、そこで古都と爛れた日常を送ってほしい。そして、破滅せず、漂着先で幸せになってほしい。そうなってこそ、理想的な癒しの妄想として完成する。頼むから、そうして……。