松竹伸幸『慰安婦問題をこれで終わらせる。』


慰安婦問題をこれで終わらせる。: 理想と、妥協する責任、その隘路から。 この本はひとことでいえば、慰安婦問題についての左翼による韓国批判である。日本の右派がやる韓国批判では何の新鮮味もないだろうが、左翼、しかも「日本帝国主義の植民地支配」と厳しく闘争してきた日本共産党の元政策スタッフ(現在は退職している)がやる韓国批判なのだから、一度はのぞいてみたいと思わない方がおかしい。

シロウトの日本国民にとっての慰安婦問題

 いわゆる「慰安婦」問題は、「難しい」というのが第一印象である。定義やカテゴライズをよく知らないと発言できないような雰囲気がある。
 たとえば

政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった

という命題は正しいだろうか、正しくないだろうか。
 「正しくない」が正解である。
 なぜなら、インドネシアのジャワ島でのいわゆるスマラン事件や中国・桂林での事件では、日本側の公文書はなかったが、外国側の公文書(バタビア臨時軍法会議の記録、極東軍事裁判の判決)があることはすでに河野談話の資料収集時にわかっており、「日本占領軍当局は」「日本軍は」をそれぞれ主語として強制連行を「直接示すような記述」が、モロに存在しているからである。


 先の命題は、実は第一次安倍政権での政府答弁書の一部であり、そういう点ではこの答弁書は実に間違っているのである。しかし(1)アジア全域ではなく朝鮮半島に限定して、(2)日本側の公文書に限定して、(3)記述ではなく文書的証拠、という条件をつけると話は違ってくる


 このように、いったん論争に分け入ると、とても「面倒くさい」。少し違うことを言うとたちまち左右から反論されるからだ。


 ただ、「慰安婦」問題は、あまり難しいことを考えずに、水木しげるが『本日の水木サン』で描いたような体験的感覚が大事ではないかな、と思う。

戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。
ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。
ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。
日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。
これを一人の女性で処理するのだ。
とてもこの世のこととは思えなかった。
兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。
兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と

http://alfalfalfa.com/archives/7847972.html

 国が連れ去ってきたのか、「商売」だったか、国ではなく業者がだまして連れてきたか、そういうことにかかわりなく、悲惨な体験だった。よその国でもやっていたかどうかは別にして「あれはもう二度とやってはいけないことだ」というそういう感覚である。このあたりが、日本人の平均的な慰安婦問題についての感情ではないのか。


 水木はそこにカタカナで「だからバイショウはすべきだろうナ」と付け加えていて、そういう人に何か償いはすべきじゃないかという感情も書き添えている。「賠償」と書いていない。「賠償」と書いたとたんに国家犯罪として国家の責任を認めた正式な用語としてのニュアンスが出てしまうからだろう。“よくわからないけども、日本政府が何か償いをすべきじゃないのかなあ”ほどのニュアンスを表すためにカタカナで「バイショウ」と書いたのだろう。「賠償」については意見が分かれるかもしれないが、何かの償いは必要では……そういうふうにスルリとそこへ自然に流し込ませる描き方、説得力は水木一流のものだ。

シロウトにとっての読みどころ=右派と左派の共通項をさぐる

 『慰安婦問題をこれで終わらせる。』(小学館)を著した松竹伸幸は、本人が左翼を自称し、しかも右派や保守との共通項=合意をいつも探している「超左翼」だと認じている。


 松竹は問題をすべて朝鮮半島に限定して書いている(p.17)。
 冒頭にぼくが書いた問題を一番論争的な部分だけにしぼったのである。


 この本の白眉は、何と言っても、この「慰安婦」問題での代表的な右派論客(秦郁彦西岡力櫻井よしこ)の著作を丹念に読み、彼・彼女らが左派との間で事実関係については「意外に大きな差はない」(p.65)と気づいた点だ。

  1. 慰安婦という制度に国家・軍が深くかかわっていたことについては、誰も否定する人がない」(p.59)
  2. 慰安所にいる女性の状態をどう捉えるかである。三人とも、人権が侵された屈辱的な状態に慰安婦がおかれていたという認識で共通している」(p.61)
  3. 「要するに、国家が指示して強制的に慰安婦にしたことは、誰も認めない。だが、慰安婦にとっては強制的なものがあったこと(どの程度の数かは別にして)は、誰も認めているのである」(p.63)


 松竹は国家が指示して命令したという点(そしてそれに付随する賠償)以外の事実認識では、右派の代表格の3人と左派は差はそんなに大きくない、というのだ。
 このような共通項をつなぎあわせてみると、水木しげる的な素朴な(しかしその実リアルで鋭い)認識と同じものが浮かび上がってくる。

 さっき書いたことだが、つまりこういうことだ。

国が連れ去ってきたのか、「商売」だったか、国ではなく業者がだまして連れてきたか、そういうことにかかわりなく、悲惨な体験だった。よその国でもやっていたかどうかは別にして「あれはもう二度とやってはいけないことだ」というそういう感覚である。

よくわからないけども、日本政府が何か償いをすべきじゃないのかなあ

 松竹の本書は、おそらく問題をトコトンやりぬきたいという左派の一部にも不人気だろうし、慰安婦「問題」などという問題はなかったとする右派の一部にも不人気だろう。スカッとさせてくれないからだ。
 しかし、このような立場で右と左を眺め回している本はまずあるまい。まず、右派と左派の事実認識を照らしあわせて、共通している部分を浮かび上がらせるという作業をしている。多くの日本国民の中に歴史の共通像をつくりあげるという点で、本書は大きな役割を果たしているし、少なくともこの部分についてはぼくのようなこの問題のシロウトにこそ広く読まれるべきだと思う。


 特に左派のシロウトにはぜひ読んでほしい。松竹が本書で書いているように、左派のシロウトは(ぼくをふくめて)ろくすっぽ相手の主張など読んでいないだろうから。いや、右派のシロウトの「相手の主張を読んでいなさ」も相当だけどね。左派が理知的にふるまおうとするなら、相手の本を読まなくてもだね、せめてこれくらいは読んでおこうか。まあ、この本を読んで右派系の本を読むと心穏やかに読めるんじゃないかな…。


 以上は、シロウト向けの部分。

国家主導の強制連行があったとは言えない

 この本の特徴は、もう1つの面、クロウト向けの提言がある。これが冒頭にのべたような「左翼による韓国批判」ともいうべき部分だ。
 なんで「クロウト」向けかというと、多くの日本国民にとっては、たとえば冒頭にぼくが書いたような「朝鮮半島は別だが、アジア全域を対象にしたら話がちがう」とか「国家の指示による強制連行があったかどうか」というような話題はなかなか馴染みにくいからだ。
 「日本の戦争犯罪なのになんだ『馴染みにくい』とは!」と言いだすむきもあろうが、善し悪しは別にして「うーん……まあいいや」っていかにもなりそうな部分だということだ。
 別の言い方をすれば、この部分の議論に立ち入らなくても、仮に前半の「シロウト」向け部分だけでも本書の意味はありますよ、ってこと。



 まず、朝鮮半島におけるこの問題での事実認識。先ほど「シロウト向け部分」と言った右派の主張と左派の主張の共通項の探求の部分である。


 松竹はもっとはっきり書くべきだと思うが、要は“朝鮮半島については国家が主導して慰安婦を強制連行したとはいえない”ということだ。文書が見つからないというだけにとどまらず、植民地であった朝鮮半島はそのような指示をだす必然性がない、という趣旨のことまで言っている。


 朝日新聞は、吉田証言を撤回した検証記事を載せたとき“慰安婦の問題は強制性に本質があるんだからそこは変ってない。問題ない”という論説を載せた。リアルタイムでぼくも読んで、「ふんふん、そうだよなあ」とつりこまれて流されてしまった。
 しかし、松竹はこの論説の「本質はかわっていない」論を問題にする。
 なぜか。
 この「強制性」と「強制連行」は用語のあいまいさがある、というのだ。実は左翼であるぼくも長いことなにかあいまいにされてきたことの一つはコレだった。
 この点について松竹は詳しく書いている。
 「強制(的に連れ去る)」は本人の意思に反しているかどうが焦点になっている用語であるが、その強制を誰がしてるかについてはあまり意識がむけられない用語である。他方で「強制連行」は長年国家やそれに準ずるものが組織的・制度的に連れ去ってきたニュアンスがある。しかし、言葉の本来の意味、もとの意味ではそれほど差があるわけではない。
 このようにして、ニュアンスの差を利用して、問題の焦点をずらしてしまうことができるのだ。
 また、松竹は民間業者がだました以外に個々の「官憲」が本人の意思に反して連れ去っていったことと、制度として国家が連れ去りをしていた(もしくは容認していた)ということの区別も論じている。ぼくもこの点は同じだと思っていたので、この区別は確かに重要であった。
 「強制連行」の否定は、国家主導の強制連行(松竹の言葉では「国家命令型制度」)の否定でなければならない。朝鮮半島では(新たな証拠がでてくれば話は別だが)国家主導の強制連行は主張できない、というわけだ。*1


 ゆえに、韓国側が「国家主導の強制連行があった」と主張することには道理がない。また、日本の左翼や朝日新聞が「国家による強制連行」という主張を「強制性」があったという問題に「すり替えてしまう」……というのは言いすぎかもしれないが、何も言わずにそこに移行していしまうのはダメじゃねーの、ハッキリと「朝鮮半島については国家主導の強制連行はなかった(現時点では認められない)」とすべきではないのか――松竹はここまではっきり書いてないが、こう言っているものだとぼくは解釈した。



 最近の朝日バッシングに対するカウンター言論の中で「右派は慰安婦問題を狭い『国家主導による強制連行があったかどうか』だけの論点に矮小化している」という批判がある。だから、松竹がここで国家主導の強制連行にのみ問題をフォーカスしているのは、この右派のキャンペーンに乗っかっている、もしくは右派の論点矮小化に乗せられているのではないか、という疑念をもつ人もいるかもしれない。
 この懸念を持つ人は、「慰安婦問題は、国家主導による強制連行があったかどうかだけが問題の焦点ではなく、広い意味での強制性が問題なのだ」「多面的な点で女性への人権侵害があったかどうかが問題なのだ」と主張しているので、朝日の論説の言い分は(ぼくのように)スルリと入ってしまう。そして、松竹の問題整理に同意しないかもしれない。
 しかし、そうではないのだ。
 他の論点を認めるためにも、まず朝鮮半島においては、現時点では国家主導の強制連行を示す文書的根拠がない、すなわち国家主導の強制連行は(現時点の研究では)なかった、という点をはっきり認めた方がよいのである。
 

 ここまで書いておくと、「いや研究者は早い段階からその説をとっていないかったよ」的な反論があるかもしれないが、マスコミ・政治レベル(世論レベル)でもそこの明確な否定が必要だったんじゃないかということだ。




この水準は河野談話と一致し、河野談話以外に日韓の合意点はない

 そして、河野談話もこの国家の主導の強制連行を決して認めておらず、その点以外の多くの問題(国家の関与、人権の侵害、強制性)を認め、政府によるお詫び=謝罪をおこなっていると松竹は見る*2


 松竹は、河野談話についての過去の評価を調べて、左派と右派は本来このポイントで合意できるはずであり、日韓両政府ももともとここで手打ちしようとしていたわけだから合意できずはずだと考える。
 まさに、「これで終わらせる」ことができる基準が河野談話(+アジア女性基金)なのである。松竹の本書のタイトルの「これで終わらせる」の「これ」はちょっとわかりにくいが、要は河野談話・女性基金(+歴史的責任という表現の採用と新モニュメント)ということなのである。


 終わらせられないのは、韓国政府が韓国のNGO「挺対協」(韓国挺身隊問題対策協議会)、およびその水準の韓国国民の世論に引きずられているからだ、と松竹は見る。
 挺対協の主張をそのまま日韓合意ラインにもっていこうとすれば河野談話の否定にまで行き着く……と松竹は危惧しているように見える。左からの河野談話否定である。それでいいのだろうか、と。


 松竹の本書は、全体がこの挺対協の主張批判、それに引きずられている韓国政府および韓国国民への批判だと言ってよい。
 そして、植民地支配に対する日本の謝罪のありようが、国際的にみて先進的なものだとまで断じる。日本で「左翼」と称する人がここまで言っていることに驚くむきもあるのではないだろうか。
 裏返せば、挺対協の主張が日韓合意にとってはいかに無理筋かということが浮かび上がるようになっている。


 松竹の主張は、右派のそれにすごくよく似ている。下記の右派ブログ(「ぼやきくっくり」)のような認識の細部を左派的に正確にしていい直した、みたいだ。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1713.html

 君たちは、河野談話+女性基金で手を打ちますって言ってたよね? あとはぼくたちのなかでやりますって。という感じの。
 松竹が「左派からの提起を右派に学びながらおこなう」(p.15)というのはこういうことだろう。


 冒頭のくり返しになるが、これを右派ではなく、植民地支配と闘った歴史をもつ日本共産党の政策部門にいた経歴のある人間が言っていることに本書の「面白さ」があるのだ。


 ぼくは本書のこの部分を読んで、河野談話が「お詫び」=謝罪の体裁にになっていて、どこまでを認め、どこまでを認めていないのか、日韓でそれぞれどこまで読み取れるような「ガラス細工」の「芸術作品」(p.103)となっているかがよくわかった。


 また、日本側に「謝罪をしろ」という要求は、河野談話を謝罪と認めているのか認めていないのかという問題にもつながることもわかった。新たな謝罪が必要だとすれば、河野談話を「上書き保存」することになり、それはすなわち「河野談話見直し」の主張になってしまうのである。

日本の左翼にもメッセージを出している?

 松竹は、本書のおまけにあたる部分(「補論」)で自分が共産党中央にいた時代に宮本顕治に教わった頃の昔話を書いている。「おまけ」と今書いたけども、「補論」は50ページにも及んでいておよそ「おまけ」ではない。宮本顕治は市民団体の言い分をそのまま政策にしろとはいわなかったよなあ、とか、自分が政権についたときのことを考えろとか言ってたよなあ、良いこと言うなあ、みたいな「昔話」である。
 当然これは単なる「昔話」などではない。
 今の日本国内の左翼へのメッセージである。
 “おまえら政策をつくるさいに「挺対協」にも意見を聞いてるんだろ。聞くのは良いけど、それに引きずられるだけじゃダメだよ。自分が政権についたとき戦後補償の問題をどうするのかしっかり考えなよ”……みたいなメッセージなのだ。深読みかもしれんけど、ぼくはそう読んだ。


 こちらのクロウトむけ部分については、刺激的であることは間違いない。
 特に左派系の人たちには一度読んでみることをお勧めする。

ぼくの覚えた違和感

 ぼくが本書に対して違和感を覚えているのは個人補償の問題である。
 松竹はこの問題で日本政府が今後新たに国家賠償をするのは難しいだろうと考えている。いったん個人補償を認めたら他の戦争被害者の問題にすべて波及する、現実的ではない、という理由を述べ、原爆被害者がアメリカではなく日本政府がかわりに払う方式を求めていることなども例にあげている(つまり日本政府に代わる、韓国政府による補償の支払いを示唆している)。
 しかし、原発被害の補償と同じように、補償がいい加減であること自体が「また事故ってもハシタ金払えばいいんじゃね?」みたいなモラルハザードを引き起こしかねないように、「現実的ではない」という理由で切って捨てることには違和感がある。巨額すぎては困るが、やはりある程度は苦労して払うことに意味がある。
 額の多寡が問題ではないのであれば、とにかく公金が少しでも入る形で民間基金をつくる方式もあるのではないか(アジア女性基金には公金が入っているがそれは医療などの生活支援部分だけで、「償い」の部分には入っていないタテマエになっていた)。極端な言い方だが「1円」でも公金を入れたら性格がかわる。
 松竹は先にアジア女性基金からおカネをうけとった元「慰安婦」たちとの均衡を心配していたのだが、仮に少額でも国家による補償が出るのであれば、それはどの元「慰安婦」も受け取っていないのだから、国家補償については平等になる。基金から出たおカネとの均衡は、たとえば韓国政府がカバーすることはありうるのではないか。


 いずれによせ、松竹の提案が絶対に受入れられない反動的な提案とは皆目思わない。松竹が言うように、女性基金を変質させて、「原理は変えないが内容は実質的に国家賠償にする」というような戦略もありえただろう。松竹提案を対話の相手としながら左翼は今後の政策を考えていくべきだろう。

「原理を変えずに実態を変える」という戦略

 なお、このような「変質」戦略を松竹は左翼の戦略として相当重視している。逆に言えば、そのような熟達が左翼には足りない、と見ているのだろう。
 このようなやり方は、かつては左翼の間では原則放棄の修正主義の臭いがしたのでいろいろ非難された。
 だが、松竹が紹介しているのは“いやあ、実際にはいろいろこの「変質戦略」ってやってますよね?”という事例である。それも、けっこう重要な。
 資本主義を修正するような制度一つひとつは、おそらく運動によって現体制(ブルジョア国家)の中に組み入れていくことができる。ただ、それを広範囲・系統的・合理的に組み入れられるのは革命政権なのだろうが、ブルジョア的政権であっても一つひとつの改良はできないわけではないのだ。*3


 「慰安婦」問題・河野談話の問題に限らず、このような(なし崩し的)変質は、広範な社会合意を調達するうえでは、きわめて有効な戦略である。松竹が紹介している一例でいえば、自衛隊憲法の関係もその一つだ。
 戦後長い間日本社会がつくってきた自衛隊憲法の関係は「個別的自衛権の範囲、つまり急迫不正の侵略に対する自衛手段としては自衛隊は認めてよいが、外国で日本の防衛とは関係ない戦争に巻き込まれるような集団的自衛権はダメだ」というものだ。9条はこのような「個別的自衛権OK、集団的自衛権ダメ」という関係を非常に具体的に律する規定として作用し、自衛隊はそこに強く縛り付けられてきた。
 このような現実的な「9条護憲(活用)」として9条をみるべきで、左翼の一部ではようやくそのことが理解されてきたにもかかわらず、現場にいる左翼たちにはまだまだ完全なる「非武装」としてのみ9条を理解する傾向が強い、と松竹は嘆いている。
 もし左派が政権を今後担っていこうとするなら、こうした「原理をそのままにして実質を変更させる」的戦略にもっと熟達せねばならないのではないか。その点は松竹の意見に大いに賛同する。

*1:松竹は同時に「『慰安婦の強制連行はなかった』という主張と、『本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある』という主張は矛盾しない」(p.67)と述べている。

*2:河野談話は国家主導の強制連行を認めている」とする主張について松竹は本書で検討を加え、批判している。

*3:革命がなくても十分だという立場になればそれはかつての構造改革論と同じだが、革命によって社会の性格を変えるほどの広範囲・系統的・合理的な変革が可能だとすればそれとは一線を画するのではないか。