あいちトリエンナーレの話はどこが問題なのか

 あいちトリエンナーレで「表現の不自由展、その後」の展示が中止になった事件について、いろいろ対立や分断もあるようなので、整理するために、いまぼくが理解している範囲で以下書いてみる。

構図1:脅迫者―作家

 この事件のもとになっている構造は、図1である。

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 テロ予告や脅迫、嫌がらせ電話などをする人たち(A)が、作品展示をした作家(B)たちの表現の自由を妨害したのである。*1

 

構図2:脅迫者―展示実行委員会・作家

 しかし、ぼくはよく知らなかったのだが、作家たちの展示を束ねている人たちの存在を報道で知った。企画展「表現の不自由展・その後」の実行委員会(C)である。

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 たぶん、作家たちを束ねて、展示企画を代表するような人たちなのであろう(図2)。

 この人たちが、抗議声明を出した。

www.asahi.com

 この人たちがどういう意向を持っていて、誰に抗議しているのか、が大事である。

 「私たちは、あくまで本展を会期末まで継続することを強く希望します」と述べている通り、この人たち(BとC)は展示の続行を希望している。つまり暴力や脅迫に屈せず、表現を続けたいと考えているのである。表現の自由を行使したいというわけだ。

 そして、この人たちは、誰に抗議しているか?

 大村秀章知事と津田大介芸術監督が、「表現の不自由展・その後」を本日8月3日で展示中止と発表したことに対して、私たち「表現の不自由展・その後」実行委員会一同は強く反対し、抗議します。

 トリエンナーレ全体を仕切っているのは、トリエンナーレ実行委員会(下図3のD)である。その会長は大村・愛知県知事だ。これを仮に「トリエンナーレ実行委員会が中止を発表した」としておこう。

 

構図3:脅迫者―トリエンナーレ実行委員会―展示実行委員会・作家

 こうして図3のような構図となる。

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 トリエンナーレ実行委員会は「テロ予告や脅迫、嫌がらせがあったから中止した」という旨の発表をしている。

 一般的に「混乱が起きるから中止した」という言い訳で表現や集会を中止させてしまうことは、「敵対的聴衆の法理」というもので、結果的に反対者に加担してしまう=表現の自由を侵してしまうことになるとされる。

「敵対的聴衆の法理」とは、「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法21条の趣旨に反する」というものである。これは平穏な集会を暴力で妨害しようとする者の存在を理由に、集会の会場を不許可とすれば、会場管理者が結果として妨害者に加担することになってしまうことを問題とするものである。(木下智史・只野雅人『新・コンメンタール憲法日本評論社p.252)

 これは公の施設での集会についての法理だから、単純に今回のものに適用できるかどうかはわからない。

 ただ、そこから推測してみれば、表現の自由や集会の自由を保障すべき機関は開催させる努力を最後まで続けるべきであり、混乱を理由に直ちに中止をしてしまうことは結局憲法21条(表現の自由の保障など)の趣旨に反することになってしまう。つまり、表現の自由を侵す側に回ってしまう。

 公的機関(ここではトリエンナーレ実行委員会)は中止しないように努力する義務があると考えられる

 判例では公の施設の提供を中止するのは、「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られる」(1996年上尾市福祉会館事件最高裁判決)とされる。

 となれば、「今回のケースは、『警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情』だったのか?」という疑問が起きる。

 匿名のファックスや電話でのテロ予告だけで「もう無理」ということになれば、例えばオリンピックでも同じようなことが起きるだろうかと不思議に思う。別に会場でテロを起こさなくても、「日本のどこかで企業をいつか爆破する」みたいな匿名ファクスが入ったら、日本の全企業活動は無期限で停止されるのだろうか。

  要は、仮に中止するにしても「本当に努力を尽くした」という検証・説明が必要だということである。

 

 展示実行委員会(C)からは代替の提案ができそうなものである。

 例えば、シロート考えだが、中止期間を置くにしても、「表現の不自由展、その後」だけを別会場に移し、厳格なボディチェックのシステムを設けたうえで再開するようなやり方はできないのだろうか、みたいな。

 しかし、そのような検討を行い、当事者たちと協議した形跡はない。

 Cの展示実行委員会の声明も次のように述べている。

今回の中止決定は、私たちに向けて一方的に通告されたものです。疑義があれば誠実に協議して解決を図るという契約書の趣旨にも反する行為です。 

  いまのところ、「本当に努力を尽くした」という説得力にある証拠はトリエンナーレ実行委員会からは示されていないのである。だとすれば「トリエンナーレ実行委員会は責任を果たさず、安易に表現の自由の保障をなくした」と言わざるを得なくなる。

 

トリエンナーレ実行委員会とは誰か? 中止決定は誰がどのように下したのか?

 ここで、別の問題がある。

 図3のD、「トリエンナーレ実行委員会」とは誰なのか、という問題だ。

 会長は大村・愛知県知事である。これがDに入ることは間違いない。

 河村・名古屋市長もトリエンナーレ実行委員会の会長代行だから、彼が「トリエンナーレ実行委員会」に含まれていることも間違いあるまい。

 2018年3月時点で「トリエンナーレ実行委員会運営会議」の「委員」には「名古屋市観光文化交流局長」が入っているし、開幕の段階で展示の中身を実行委員の一人である名古屋市側が全く知らないでOKしたとは考え難い。もし「中身を知らなくてもOKを出せる」体制なら、それ自体が問題であろう。

 全体に責任を持つ立場の河村が何か被害者然として突如展示の一つを中止させるように言いだすのは異常としか言いようがない。

 

 では芸術監督である津田大介はどうか。

 ここは全くよくわからない。中止発表後、津田はインタビューに答えているが、中止に同意する立場を表明しているから、少なくとも実行委員会会長である知事の決定には逆らっていない。

 しかし、津田=監督は実行委員会なのか? 知事と同等に中止を決定できる立場にあるのか? あるいは単に同意したという立場なのか? 

 津田はおそらく県知事と一体のDのポジション、つまり「トリエンナーレ実行委員会」の一人なのであろう。もしそうだとすれば、津田は、知事と一体の立場で作家たちに「中止」を通告したことになる。事実、B・Cの人々はそのように受け取っているわけである。

 ただ、繰り返すけど、津田がDに対してどの位置にいるのかは、現時点ではぼくはよくわからない。

 加えて、もう一つ、よくわからないのは、中止決定の判断は、誰との間でどのような協議を経て決定されたのか、ということだ。ぼくが報道を追いきれていないせいかもしれないが、「会長(大村知事)の決定」なのか、「実行委員会の実行委員全体での協議の結果の決定」なのか。そこに河村は入っていたのか、津田はどうなのか。反対意見はあったのか、どれくらいの(安全上の)検証がされたのか、などである。

 

 

河村市長と大村知事

 河村市長と大村知事の「バトル」も問題になっている。

abematimes.com

 慰安婦像という表現の中身がけしからんという理由で中止させれば、これは憲法が禁じる検閲ではないかと大村知事が批判したわけである。

 大村知事も河村市長もともにD(トリエンナーレ実行委員会)の責任者であろう。

 DはB・C(表現をした作家)に対して展示の中止を通知した。

 しかし、その中止通知は、河村の理由(慰安婦像は日本への冒涜だからやめろ的な)によるものではなく、大村が述べたように安全上の理由によるものだ。河村的理由は採用されず、大村的理由で中止は決定された。

 ぼくからみて河村的理由は最悪の中止理由であるが、これが採用されなかったことは、一つの良識の勝利ではあろう。

 しかし、かと言って、大村的理由での中止が「やむをえない」ものだったとは簡単には言い切れない。「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られ」たものだったかどうかを示してほしいし、それを表現の当事者とよく協議したかどうかを示してほしいのである。

 

 大村知事が河村的なレベル(表現の自由への公然たる、露骨な侵害)としっかり闘争したことについては高く評価したい。かつて大村の、上半身裸で大声をあげている選挙用ポスターを見てきた元愛知県民としては、彼がここまで良識を発揮したことは想像以上であり、同時に今の悪い空気の中で、この点では本当に勇気のある行為だったと感じる。

 しかし、だからと言って大村知事がB・Cの人々の表現を奪ってしまった問題(中止決定を通知した問題)については決してあいまいにできない。安全上の検証と、当事者との合意・協議がしっかりなされたのかが、冷静に検証がされなくてはなるまい。もしそれが不十分なものであれば、やはり展示を復活させることが大村の義務だ。

 

官房長官の問題はどこに位置するのか

 そして、菅官房長官の問題である。

 企画展には従軍慰安婦を象徴する「平和の少女像」が展示されていた。菅氏は2日の会見で、芸術祭は文化庁の助成事業であると説明。補助金交付の可否決定に関し、「事実関係を確認、精査した上で適切に対応していきたい」と語っている。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080500481&g=pol

 ここでの問題は、(1)菅が語ったことが中止に影響を与えたかどうかという問題と、(2)菅がこのように発言したこと自体が表現の自由を脅かしたのではないかという問題に分かれる。

 (1)は津田自身が否定している。

――河村たかし名古屋市長や菅義偉官房長官の発言は影響したのか。

 「一切関係ない。そういう状況がある中でこそ生きてくる企画だと思っていた。

https://www.asahi.com/articles/ASM8362Q8M83OIPE024.html%3Firef%3Dcomtop_8_02

 これはこれで議会・国会で検証されるべきだとは思うが、ぼくは(2)のほうが問題だと思っている。

 というのは、菅の発言は、「表現の内容次第で補助金を引き揚げる」という趣旨になっているからである。もっと言えば「補助金支給要件に合致しているかどうかではなく、表現の内容次第で補助金をやめる可能性がある」という趣旨の発言だからである。

 これはネット上でよくみる、「コイツらの表現はどこか好きなところで自費でやればいい。補助金をもらっているのだから、政府や自治体の意向に従うのは当然」という論理と同じだ。河村市長の発言もこの一味である。

 

 

 すでに、大村知事がこの論理を簡潔に批判している。

最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う

https://abematimes.com/posts/7013626

  完全に正しい。

補助金を出したイベントでこそまさに「表現の自由」が問われる

 2001年に文化芸術振興基本法ができた際に、前文に「我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重する」という一文が入った。

 審議では、共産党の議員(石井郁子)がさらに詳しく、補助金などの振興策を行う際に表現によって差別が起きないように、「行政の不介入」という原則を書き込んでほしいという質問を行い、提案者(中野寛成)が“おっしゃる通りでその趣旨は入れてあります”という趣旨の答弁をしている(2001年11月21日衆院文教科学委員会)。

石井 私は、当法案でも、行政の不介入の原則をやはり条文として立てる、明瞭にすべきだというふうに考えてきたところでございます。重ねてで恐縮ですけれども、伺います。

〔…中略…〕

中野 我々としては、芸術振興についての、文化振興についての積極的な姿勢をこの法律にいかに強く表現するかという気持ちでつくったことを申し上げましたが、そういう意味でも、前文、それから第一条の「目的」、第二条の「基本理念」等に、この芸術活動を行う者、文化活動を行う者の自主性を尊重する、また創造性を尊重するということを書くことによって、行政の不介入をむしろ明記した、その意味も含まれている、こういうふうに私どもは考えております。

  この趣旨をより具体化するために衆参の委員会で附帯決議がつけられている。

文化芸術の振興に関する施策を講ずるに当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性を十分に尊重し、その活動内容に不当に干渉することないようにすること

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/shokan_horei/kihon/geijutsu_shinko/futaiketsugi_sangiin.html

 そして、2017年に同法が改正されて文化芸術基本法になった際に、先ほどあげた前文の箇所は

我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重する

と改められた。

 そして、同法は、2条でこの自主性の尊重を基本理念としてうたいなおし、それにのっとることを国と地方自治体に「責務」として定めている。

第三条 国は、前条の基本理念にのっとり、文化芸術の振興に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する。

第四条 地方公共団体は、基本理念にのっとり、文化芸術の振興に関し、国との連携を図りつつ、自主的かつ主体的に、その地域の特性に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する。

  これらは「文化芸術の振興を図るためには」という前提がつけられている。つまり、ネット上でよく言われているように、「補助金を出しているんだから表現の自由などない」というのは明らかな間違いで、補助金などの振興策をやる際にも、やはり表現の自由を尊重して、その中身に行政が立ち入って補助金を左右するようなことをやってはいけない、自主性を尊重しないといけないよ、と述べているのである。

 菅が内容に関わって補助金を出す・出さないを問題にしたことは、明らかにこの文化芸術基本法の基本理念に反し、表現の自由を侵すものとなる。ついでに言えば、河村市長の発言はこの文化芸術基本法に反しているという角度から、表現の自由を踏みにじっていると考えることができる。*2

 ゆえに、ここでは構図はさらに次のようになる。

 

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 ①はすべての人が共通して反対すべき、「表現の自由」への卑劣な挑戦である。国・県・市・社会全体がテロ・脅迫などの犯罪許さない共通した世論を盛り上げるべきである。警察は犯人を一刻も早く捕まえるようにしてほしいし、市民社会の一員として協力したい。

 ②は国会議員が国会で追及してほしい。菅の言動は文化芸術基本法の精神に反し、表現の自由を奪うものではないかということである。河村発言の追及はぜひ名古屋市議会でやってもらいたい。こうした追及はただの「あらさがし」ではなく、「表現の自由を守って補助金を支給する」という原則の確立、行政の真の中立性の確立のための、議員の大事な仕事である。

 ③は今回の焦点であると考える。

 今現在、表現を奪われている人がいるのだから、それを再開させる努力をするのがトリエンナーレ実行委員会の役割である。

 もとの企画展示実行委員会(図2・3・4のC)の抗議には、表現者が表現を奪われていることの告発と、表現を欲しているという切実さがある。だからこそ③についてその人びとは批判するのであろう。

 あいちトリエンナーレ参加アーティストたちによるステートメント

私たちの作品を見守る関係者、そして観客の心身の安全が確保されることは絶対の条件になります。その上で『表現の不自由展・その後』の展示は継続されるべきであったと考えます

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20295

 としているのも、まさにその精神であろう。

 この場合、何よりも表現者の表現そのものが守られることが焦点でなくてはならないとぼくは思う。

 

 その点で、

  1. 展示の「中止」ではなく、 「一時中止」にして、テロや嫌がらせ対策案ができ、当事者と合意が得られるまで「凍結」とするよう実行委員会に働きかける・実行委員会に提起する。
  2. すべての手立てを尽くして、それでも無理であり、「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情」があったとするなら、トリエンナーレ実行委員会はそれをていねいに示して説明する。

という2点が今からでも努力できるはずのことではないのか。特に津田は。*3

 その2点がないうちは、トリエンナーレ実行委員会の「中止決定通知」は表現の自由を奪った不当なものだと言われても仕方がない。ぼく自身は今の時点(8月6日)でその2点についてのトリエンナーレ実行委員会の努力を認識できないでいる。

 

自分がダメだと考えた表現に対して抗議することについて

 ついでに、この際、「自分がダメだと考えた表現に対する抗議」について述べておこう。

 ぼくの基本スタンスは、すでに書いている。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 ぼく自身はできるだけ、「抗議してやめさせる」のではなく、ダメな言論・表現に対しても、自由な言論と表現によってそれを批判していくという立場に立っているので、たとえそれが民族偏見的なものであっても障害者蔑視であってもギリギリまでは表現を止めさせる・規制させるという行動はとらないつもりでいる。*4

 しかし、「抗議する」「抗議して相手にやめてもらう」という考えは、一概に否定しない、意義のある場合もある、ということを上記の記事で概ね書いている。そして、必要ならその行動にぼく自身も加わったり協力したりすることもある。

 新日本婦人の会(他に文学者の団体など)が『はじめてのはたらくくるま』という子ども向け図鑑に抗議し、出版社がその増刷をやめた事件があった。

www.jcp.or.jp

 この事件は、対話的なやりとりの見本のようなもので、市民運動側が問題を提起し、出版社が冷静にそれを受け止め、増刷ではなく、改善させていく形で問題を引き取った。

 特に、分断や亀裂が入りがちな昨今、自らと違う立場のものにかくも知的に接せられるという出版社側の自省的な態度に深く感銘した。

 

 今回の事例でも、「慰安婦像は展示すべきではない」「昭和天皇の写真を焼くような作品は不快だ」「もっと幅広い立場の『不自由』を示す展示をすべきではないか」などの意見を出す自由はもちろん、表現者(作家)に対して抗議・要請することもありうる。あくまで、平穏に、そして作家がそれに応じる範囲に限定されるが。

 そのことによって対話的状況が示されたなら、むしろ大いに希望が持てる話ですらあるのだ。

 今からでも遅くはないので、「表現の不自由展示・その後」を安全な形で復活し、作家が対話的に応じられる環境を取り戻す努力をすべきではなかろうか。

*1:「嫌がらせ電話をする人」というのは、例えば「慰安婦像などの展示をやめるべきではないか」という意見を述べる人や、それを電話で伝えようとした人は相当しない。職員の名前をさらしてわざと業務を妨害するような人のことをいう。

*2:これは「文化芸術」への振興策問題ではないが、福岡市では、市民が開くイベントに「市が後援」する際の条件をめぐって「国論を二分する問題は扱わない」というルールを設けているために、市側が“胡散臭い”と思ったイベントについては展示物や配布物をねちねちと調べ上げて「ここに原発反対という言葉がある」とか「ここに憲法9条を守れと書いてある」などという「表現狩り」「思想調査」をやることが横行している。「市後援」と言っても、そういう名義が借りられて、チラシが公共施設に置けるというほどの便宜しか図られておらず、いわば単なる「振興」策に過ぎないのだが。このように、振興策を与えるために、その内容にまで立ち入ってチェックを始めてしまうと、まさにそのような「思想チェック」状態になるのだ。ぼくは福岡市でこの状況をいやというほど見てきた。これを避けるには、イベントが右であろうが左であろうが市民の自主的な活動であれば「後援」するという、本当の意味での行政の中立性を確立すべきである。

*3:もちろん、ぼくは今「安楽」な立場からこのブログを書いている。当事者である津田が深刻な重圧を背負っている立場にあることはよくわかる。おそらく自分がその立場にいたら、もうとっくにグロッキーしているかもしれない。布団をかぶって寝ているかもしれないのである。そういう意味でこの注文が安穏としたものでないことは承知しているつもりである。いわば「がんばってほしい」と思う。

*4:ヘイトスピーチも本来は権力が規制すべきものではないと思う。権力が乗り出して言論の規制に及ぶことは本当に危険なことであって、本来は健全な市民の言論の力で反撃し封じ込めるべきものだ。しかし、ぼくは最近『戦争は女の顔をしていない』を読んだ時、ロシアの少なからぬ人びとが個々のドイツ兵ではなく「ドイツ人」を憎むように憎悪を掻き立てられるなかで、戦争末期に「見よ、これが憎むべきドイツだ」という立て札ととともにドイツに進攻し、ドイツ市民に暴虐の限りをつくしたように「民族」という括りでの偏見煽動がいかに危険なものかを改めて感じた。だとすれば、本当に緊急避難的な意味でやむをえないものに限ってのみ「違法」とされることはありうるとは思う。だが、本当にその発動は徹底して抑制的でなければならない。

スターリンは意気消沈していたのか問題

 大木毅『独ソ戦』には独ソ開戦時のスターリンの様子については何も書かれていない。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 独ソ開戦時に“スターリンが意気消沈していた”説について、不破哲三は『スターリン秘史』で批判をしようと企てていた。

 

 

 

 『スターリン秘史』4、p.88、「スターリン“意気消沈”説(フルシチョフ)の誤り」という節である。

 不破が自著で批判した“スターリン意気消沈”説とは、ここに「(フルシチョフ)」とあるように、基本的にはフルシチョフが秘密報告や回顧録で述べているもので、ドイツの侵攻に対して意気消沈し、

スターリンは長いあいだ実際に軍事活動を指導せず、一般に活動をやめてしまいました。(『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫、p.85)

というものである。不破はメドヴェージェフも『共産主義とは何か』(1968)でこの説を補強しているとしている。*1

 

共産主義とは何か〈下〉 (1974年)

共産主義とは何か〈下〉 (1974年)

 

 

 メドヴェージェフ的な定義で言えば、「六月二三日から七月はじめまでの数日のあいだ、国家と党の首長としての任務についていなかった」(メドヴェージェフ前掲書下巻、p.364-365)という部分であろう。

 

 後日自分の立場を改めたロイ・メドヴェージェフとその兄ジョセフ・メドヴェージェフによる共著『知られざるスターリン』(現代思潮社、原著2001)では、このフルシチョフの説に影響されている人々のリストがある。

 

知られざるスターリン

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 ジョナサン・ルイスフィリップ・ホワイト、アラン・ブロック、『オックスフォード第二次世界大戦百科事典』などである。

 すなわちフルシチョフによるスターリン“意気消沈”説は相当大きな影響力を持っているというわけだ。

しんぶん赤旗」(2015年10月19日付)紙上で、不破と鼎談している山口富男は次のように不破の連載の意図を語っている。

 山口 話を独ソ戦に進めましょう(第17章)。独ソ戦をめぐっては、スターリンが開戦時に“意気消沈していた”とか“戦争指導では無能だった”とかいう説が影響力を持ってきました。今度の研究で不破さんは、こういう俗論を打ち破ることに力を入れています。そうしないと、スターリン覇権主義の実相をつかみ出せないという問題意識が強くあったのではないでしょうか。

 

 つまり、スターリン“意気消沈”説への反論は、独ソ戦の中心の解明点の一つだと不破らは考えているようである。

 

 ただ、フルシチョフの回想録がろくでもない誇張や誤りを含んでおり、歴史の根拠資料としては使えない、ということはすでに専門家の間でも広く合意がある。

 例えば山崎雅弘は『新版 独ソ戦史』の「あとがき」でもこう述べている。

 

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

 

 

 

 独ソ戦史の研究では長い間、ドイツ軍の侵攻にショックを受けたスターリンが呆然自失の状態となり、丸々一週間近くも指導部の実務から離れていたと信じられてきた。これは、スターリンの政治的後継者であるフルシチョフが「スターリン批判」の文脈で述べた説明を、多くの歴史家がそのまま鵜吞みにした結果だったが、ソ連崩壊後に進んだ研究により、そのような説明は全く事実に反するものであることが確認された。

 例えば、パヴェル・スドプラトフ、アナトーリー・スドプラトフ『KGB衝撃の秘密工作』の巻末には、一九四一年六月二十一日から二十八日のクレムリンへの要人来訪を記した公式記録が収録されているが、スターリンは独ソ開戦の六月二十二日以降も、なぜか表舞台には出ないよう配慮しながら、党要人や軍の最高幹部に応対し、各方面からの報告を受けるなどの実務をこなしていたことが確認できる。

 六月二十九日にスターリンが国防人民委員部に乗り込み、ティモシェンコジューコフ相手に罵声を浴びせるくだりは、ConstantinePleshakovStalin'sFolly:TheTragicFirstTenDaysofWWIIontheEasternFrontや斎藤勉・産経新聞スターリン秘録』を参考にした(後者は当時のソ連政府要人ミコヤンの回想録などに基づいている)。(山崎雅弘『新版 独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌』Kindle 位置No.4203-4214)

 不破が反論に使っているのは、主に次の3つだ。

  1. ジューコフの回想録
  2. ディミトロフの日記
  3. 1990年代に明らかになったスターリンクレムリン執務室の訪問記録

 このうち1.と3.はメドヴェージェフ兄弟の『知られざるスターリン』(現代思潮社、原著2001)で詳述されている。2.は不破が手に入れてこの問題と関連づけて論じたものである。ロイ・メドヴェージェフはこの2001年の『知られざるスターリン』で1968年の自著『共産主義とは何か』の記述を事実上否定したのである。

 不破の反論は、要するに開戦から6月28日までスターリンは旺盛に指示を出し人と会っていて、およそ意気消沈などしていないというのである。

 そして、29日と30日にはクレムリンには出ていない。執務室の訪問記録にも訪問者名がないのである。

 しかし、ジューコフの回想では、29日にスターリンは国防人民委員部・最高総司令部を訪れ、ジューコフとやりあっている。この点では不破と山崎は一致している。

 そして30日夜については、不破は「別の文書で確認」と典拠を明らかにしていないが、郊外の別荘でモロトフ・ベリヤ・ミコヤンら党幹部と会い、国家防衛委員会の立ち上げを決めている。この「別の文書」とは、他の歴史家が典拠にしているのを考えるとおそらくミコヤンの回想メモであろう。

 この30日の状況は、ぼくが手にした『知られざるスターリン』、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち 下』(白水社)でも出てくる。これらはミコヤンの回想が根拠になっていると思われる。

 

スターリン―赤い皇帝と廷臣たち〈下〉

スターリン―赤い皇帝と廷臣たち〈下〉

 

 

 

 こう考えてくると、次の2つのことが見えてくる。

  1. フルシチョフを根拠にして「スターリンは開戦後1週間は“意気消沈”して公務を放棄していた」という説が誤りであることは、ほぼ決着がついた。
  2. しかし、6月29日と30日の「クレムリン不在」については事実であるが、その解釈は分かれており、そのために6月30日まではスターリンは不安定であり不安だったのではないかと考える人がいる。

 先ほど挙げた不破との鼎談者の一人である石川康宏は、その鼎談で、前述の山口の発言に続いてこう述べている。

 

 石川 昨年、“スターリンの実像に迫る”という新書本が出版されましたが、それもスターリン“意気消沈”説でしたね。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-19/2015101907_01_0.html

 

 石川が指摘する「昨年、“スターリンの実像に迫る”という新書本が出版」というのは、横手慎二『スターリン』(中公新書)のことであろう。

 これについて、直接不破が何かコメントはしていない。

 

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

 

 

 横手本には、このくだりはp.220-221に少し書かれているだけだが、こうある(強調は引用者)。

……開戦が事実だと確認されると、彼はショックを受け、しばらく陣頭指揮を取ろうとしなかった。そうではなかったと主張するロシアの歴史家もいるが……スターリンが立ち直り始めたのは六月三〇日のことで……

 横手が反証として持ち出しているのは、開戦の事実を伝える国民への演説をスターリン自身がせずにモロトフにやらせたことだ。「肝心なときに国民に訴える任務を回避したのである。この事実こそ、このときのスターリンの姿を示している」(同p.221)。

 言葉足らずなので、ぼくが解釈してやる必要はないが、横手はフルシチョフの回想録があてにならないことも知っており、そのことをめぐる論争も承知しているのではないかと思う。

 その上で、6月30日まではスターリンはショックを受けており、不安な中にいたのではないかと横手は推察しているのだろう。モロトフの代理演説は横手があげる根拠の一つであるが、もう一つ上げているのは、6月30日に党幹部が郊外の別荘を訪ねてきた時にスターリンは「自分は逮捕されるのではないか」と怯えている様子のエピソードである。

 これは先も述べたとおりミコヤンの回想が根拠となっており、ぼくが読んだほとんどの本で紹介されている。

 しかし、不破だけは紹介していない。根拠がはっきりしていないと考えたのか、それとも、スターリン“意気消沈”説批判には都合が悪いからだろうか。

 

 これらの情報を織り込んで、整合的な説明をしていると思われたのは、山崎である。

 山崎は、スターリンは戦況に怒りながらも初めの1週間は「クレムリンで通常どおりの執務」をしていた。

 しかし、

彼はまだ、ドイツ軍とソ連赤軍の間に存在する圧倒的な戦闘能力の差を認識しておらず、先の図上演習で見られたように、やがて赤軍の反撃が始まり、戦場は西へと移動してゆくだろうと予想していたのである。(山崎前掲書Kindle 位置No.1053-1055)

 それが6月28日の西部方面軍の壊滅、ベラルーシ制圧によって大ショックを受け、「激昂して『わしは指導部から手を引く』と言い残して、クレムリンを出てモスクワ郊外の別荘へと帰ってしまう」。29日にジューコフに会いに行くのも、報告は求めつつも、最終的にはわめき散らして帰ってくるのだ。そして車の中で党幹部らに「レーニンの遺産を台無しにしてしまった…」と弱音を吐く。

 こうして30日への流れとなる。

 クレムリンに出てこないスターリンモロトフ、ベリヤ、ミコヤンら幹部が訪問し、スターリンは初め自分が逮捕されるんじゃないかと怯えていたというのである。*2

 

 結局、今の時点でのぼくの結論はどうなのか。結論から言えば「6月30日は意気消沈していた」と言えるんじゃなかろうか。

  1. 当時モスクワにさえいなかったフルシチョフがひどく単純化したスターリン“意気消沈”説は明確な誤りである。
  2. しかし、開戦から28日までは「陣頭指揮」は取らずに様々な指示を出したものの、6月28日のドイツ軍のベラルーシ制圧でスターリンは大ショック。翌29日には状況を確認するけど悪化するだけで、国防人民委員部に出かけてジューコフらに話を聞きに行ったというか、怒鳴りつけに行った。そして、帰りの車で「もうわしゃ引退する」「レーニンの遺産、全部パー(ソ連は終わり)」と泣き言。30日は別荘で引きこもり。幹部らたちが国家防衛委員会による合議体制を提案しに行った……というところではないか。
  3. 国家防衛委員会は、スターリンを排除するのではなく、逆にスターリンがトップであることを確認するものだ。しかしスターリンが今回のようにショックを受けて引きこもってしまい決裁しないと何も進まない体制ではヤバいと感じ、もしスターリンが機能しなくなってもなんとか決裁は出せる仕組みを作ったのである。「国家防衛委員会はスターリンが一人で物事を決めることを妨げはしないが、その結果に対する責任は分かち合った」(『知られざるスターリン』p.405)。
  4. つまり28-30日についてはスターリンは意気消沈していたっぽく、30日はかなり深刻だったと言える。マジで逮捕・失脚の可能性も感じていたんじゃないかと思う。だから、ミコヤンやベリヤの証言が「意気消沈」的なもので一致するのである。*3

 

 

*1:なお、不破が『スターリン秘史』4(初版)でこの著作を「メドヴェージェフ兄弟」の著作としているが、正しくは双子の弟であるロイ・メドヴェージェフの方ではないだろうか。また、原タイトルも不破は『スターリン主義の起源と終結』としているが、「Let History Judge: the Origins and Consequences of Stalinism」での「Consequences」は「終結」よりも石堂清倫の訳通り「帰結」もしくは「結果」とした方がいいのではないだろうか。つうか「歴史の審判」「歴史に裁かせよ」がメインタイトルでは?

*2:横手が根拠の一つとしているモロトフの代理演説については、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』によればモロトフの回想的発言が紹介され、スターリンが演説を繰り返し拒否したのは事態の全容が明らかになってからするのがスターリン流だからだ、という趣旨の発言をモロトフがしている。

*3:ただ、モンテフィオーリはそれさえもスターリンの演技の可能性があったことをほのめかしているのだが。

拙著『マンガの「超」リアリズム』が大東文化大学の一般入試に

 拙著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)の『この世界の片隅に』評が大東文化大学の2019年度一般入試「国語」の問題文として出題されました。私の町内会系新書はこれまでも入試・模試などに使われたことがありましたが、マンガ評からは初めてです。

https://www.daito.ac.jp/cross/admissions/pasttest/file/exam_general_0206.pdf

 

www.daito.ac.jp

 これは呉市立美術館での講演を出発点にして、「ユリイカ 詩と批評」(青土社)2016年11月号で発展させて書いた文章を加筆・補正したものです。

 

マンガの「超」リアリズム

マンガの「超」リアリズム

 

 

 そう言えば、「しんぶん赤旗」7月25日付のコラム「潮流」は、

はずかしい話ですが受験から数十年たっても、入学試験の夢を見ることがあります。

 で書き出しされていた。

 ぼくも、中学・高校卒業、受験から数十年たっても、いまだに「数学の課題ができていない」「入試の数学に何も備えていない」という夢をくり返しくり返し見る。どんだけ苦しめられてたんだよ、と思う。

 

大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』

 専門家でもない、当該問題のシロートであるぼくは何を期待してこの本を手にしたのか。

 

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

 

 

 

シロートであるぼくが本書に期待した3つのこと

 一つは、独ソ戦の概略が知りたかったという理由である。いわば独ソ戦入門書としての役割だ。

 本書は新しい研究の到達がどうなっているかに目配せした記述が多い。だが、シロートのぼくにはそのようなことは二の次の話であって、とにかく「ざっくり独ソ戦が知りたい」と思っていた。

 ふだんはそういう際に、まず戦史を扱ったビデオとかDVDを探してそれを観て大雑把な地理感覚を得るのだが、あいにくそのような適当なビデオ(動画)がない。

 そこで本を探したのである。

 その点で、本書に入門書としての期待を込めた。

 

 二つ目は、ぼく独自の問題意識に応えてくれているかどうかであった。

 例えば「スターリンは開戦期に意気消沈したのかどうか」という問題だ。これは不破哲三スターリン秘史』を読んで、それとドイッチャー、横手慎二、そして山崎雅弘がどうそれぞれを記述していたのかをみてきたので、たまたま興味を持った問題だったからである。

 

 あるいは、「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」という問題である。これは「スターリンおよびスターリン体制は国内で支持されていたのか」という問題にもつながってくる。

 もうひとつあげれば、「スターリンはドイツの侵攻になぜ備えられなかったのか」という問題である。これは論者によって様々な意見があるので、これも期待を持っていた。

 他にもいくつかあるが、このような問題に応えてくれるかどうかという期待をもって本書を手にした。もちろんこのような「期待」はぼくの勝手な期待でしかない。

 

 三つ目は、本書を読み始めて気づいた、本書の独特の問題意識への期待である。

 本書の問題意識は、ソ連側の死者2700万人、ドイツ側の死者、戦闘員444〜531万、民間人150〜300万人*1とされる犠牲を出した「人類史上最大の惨戦」(本書ⅳ)となったのは、「戦闘のみならず、ジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられた」(同前)からであり、「こうした悲惨をもたらしたものはなんであったか」(同前)ということで貫かれている。

 この点で、著者・大木毅はドイツ側がこの戦争を「世界観戦争」とみなしたこと、そして世界観戦争とは「『みな殺しの闘争』、すなわち絶滅戦争」を意味したからであるという指摘している(本書ⅴ)。また、対するソ連側が「大祖国戦争」という位置付けをして、その報復感情を正当化したこともあわせて指摘している。

両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映した蚊のように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈していったのである。(本書ⅵ)

 この点をどのように論証していくのかについて興味を持った。

 そして、読み終えてみてこれら3つの、いわばぼくの勝手な期待がどうなったかを書いてみる。

 

 (1)独ソ戦の入門書としてはどうか

 まずひとつめの、独ソ戦の入門書としての役割である。

 ビデオがないので、本を探した。

 最初に見つかったのは、山崎雅弘『新版 独ソ戦史』(朝日文庫、2016)である。

 

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

 

  山崎の本には、最新の到達がどこまで反映されているのかを別として、この「入門」という目的に照らして大変参考になったが、それでもまだ山崎の記述は現地の地理に多少とも心得がないと、両軍の動きが把握しにくい。

 ぼくが本書(大木本)より前に山崎の本を読み始めた段階で、独ソ戦において重要な地名となる「クルスク」「ハリコフ」「スターリングラード」「レニングラード」「キエフ」「スモレンスク」「モスクワ」の位置関係すらよくわかっていないかった。

 分厚い独ソ戦の本を手に取ると、地図もないままこうした地名と部隊の名前が大量に書かれていて全く読める気がしなかったのである。開くなり「無理!」と思ってしまうものが多かった。

 山崎の本は、地図がかなり加えられていて、だいぶ助かったのだが、それでも本文の記述と地名を照合させるのが一苦労で、照合していない部分(書いていない部分)もあって、地理を知らない者には煩雑だったことは否めない。

   この点で、本書(大木本)はどうだったか。

 大木本では、山崎のような詳細な地名や部隊の動きが大胆に省略されている。

 この点だけでも、「入門書」としてはありがたかった。

 そんなことがと笑われるかもしれないが、初心者にとっては至極重要なことで、初学者がこのテーマに近づく上では欠かせないことだった。

 本書(大木本)のアマゾンのレビューには次のようなものがある。

 

スターリングラード攻防戦」や「クルスク戦車戦」等の個々の戦役や、アウシュビッツ等の絶滅戦争の側面を詳細に記した高価な(研究)書籍は存在する一方で、「第二次世界大戦史」のタイプの書籍では数ページしか記述がなく、価格を含めて手軽なテキストが存在せず不満でした。中間を埋める事に成功している書籍です。〔強調は引用者〕

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R39VP8LDF4UT0L/

 

 ああ、これこれ、と思った。「中間を埋め」てくれたわけですよ!

 

 

 (2)ぼくのいろんな疑問に答えてくれるものか

 二つ目の「ぼく独自の問題意識に応えてくれているかどうか」について。つまりぼくのいろんな疑問に答えてくれるものかどうかということ。いわばぼくの一方的で勝手な期待である。

 まず、「スターリンは開戦期に意気消沈したのかどうか」。これは全く記述がなかった。まあ、しょうがない。

 次に「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題。

 これは第3章第四節からの記述が対応している。

 本書にも書かれているが、ヒトラーが「ソ連軍など鎧袖一触で撃滅できる」(本書p.32)と考えており、「純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画」(同前)を立ててしまったように、スターリン支配のもとで国はボロボロだろうと思われていたわけである。

 ところが、頑強に抵抗し、ついにはドイツを倒してしまった。

 この点では、本書は、「おおかたの西側研究者が同意するところ」(p.114)としてスターリニズムへの拒否意識があったがゆえに緒戦では数百万の捕虜を出したが、ドイツ側の残虐が明らかになるにつれ民衆も反ドイツになっていたという紹介をまずしている。しかし、これは大木がツッコミを入れているように、多くの人がドイツとの戦争に志願している実態と合わない。

 ぼくも、本書「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。

 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 

 

 本書(大木本)では、アメリカのソ連研究者、ロジャー・R・リースの説明を紹介して、内的要因(「内発的要因」というべきだろうか)と外的要因(「外在的要因」というべきだろうか)に分け、前者について、

自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛(p.116、強調は引用者)

 と書いている。

 「大祖国戦争」という命名に象徴される「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与」(p.117)という規定を大木は行なっている。

 「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。

 スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか? と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。

 加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか。

 さらに加えておけば、本書はそもそも「ソ連の人的・物的優位」は「勝利の一因」として認めつつも、「作戦術にもとづく戦略次元の優位」(p.224)という原因を提示している。本書の新たな「意義」という側面からすれば、この点の指摘の方が実は重要なのだが(ぼくにとってはそれほど関心を持てない点でもあった)。

 何れにせよ、この「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題については、対応する記述が本書にはある。その点をどう評価するかは、読む人がそれぞれ判断すればいい。

 

 そして「スターリンはドイツの侵攻になぜ備えられなかったのか」問題。

 ドイツが攻めてくるぞという情報が山のように寄せられていたのに、なぜスターリンは準備をしなかったのか、という問題である。

 これは歴史上大変有名な問題なので、諸説ある。

  これについても、本書(大木ほん)は第1章第1節「スターリンの逃避」で書いている。7ページにその結論ともいうべき部分を書いているのだが、ぼくは全然納得できない。これはまあ、どんな結論が書いてあるかはここでは明かさないので、それを含めて本書を読んで、皆さんが考えてみてほしい。

 ちなみに先に紹介した山崎本ではこの問題は「独ソ戦史における最大の謎」(Kindle 位置No.694)とされている。山崎のいう一つの「可能性」の指摘はこうである。

謀略に長けたスターリンが、実体のよくわからない一連の政治的事件や、諜報機関から寄せられる情報を「深読み」しすぎた結果、事態を必要以上に複雑に解釈してしまい、その結果として史実のような不可解で非合理的な振る舞いを見せたという可能性は、きわめて低いにせよ完全に否定することはできない。(山崎前掲書、Kindle 位置No.749-752)

 「待てあわてるな これは孔明の罠だ」状態。

 不破哲三の場合は、スターリン覇権主義的な本質ゆえに、ヒトラーの「4国(独ソ日伊)による世界再分割」構想に惑わされ続けた結果、というものである。

 

(3)なぜ独ソ戦はこれほどの惨禍をもたらしたのか問題を考える

 三つ目。本書を読み始めて気づいた、本書の独特の問題意識への期待。つまりなぜ独ソ戦は地上戦としての最大の惨禍をもたらしたのか、ということだ。

 本書はこの理由について世界観戦争=絶滅戦争という性格を持っていたからだという説明をする。

 本書はこの角度からドイツ側がソ連軍・ソ連住民に対して行った絶滅戦争・収奪戦争の性格を明らかにする。それが本書第3章だ。また、それが戦争の終盤になってどのように変化したかを第5章でも追っている。

 特に第3章は「なぜ独ソ戦は地上戦としての最大の惨禍をもたらしたのか」の回答として、入門者としては学ぶことが多かった。

 なお、戦争の末期に世界観戦争(絶滅戦争)・収奪戦争・通常戦争という3要素のうち、通常戦争の要素が後退して「絶対戦争」化するという大木の規定については、問題の理解をかえって難しくしてしまっているのではないかと感じた。

 というのは、相手を絶滅させるという戦争の仕方が実はクラウゼヴィッツの「絶対戦争」のカテゴリーに当てはまっていると規定した大木の本書での提案よりも、要は通常戦争ができなくなり、絶滅戦争・収奪戦争としての性格だけが残ったと考えた方が理解しやすいからである。ヒトラーの戦争中盤以降の軍事的非合理な戦争指導は絶滅戦争への固執ゆえに起きたとする大木の論述にはあまり説得力を感じなかった。

 シロート考えで言わせてもらえば、ヒトラーの戦争指導の非合理化というのは、ドイツの支配層の意思でもなく、ナチの意思でもなく、ただヒトラー個人が非合理になったという話ではないのだろうか。つまり戦争の性格から説明されるべきものではなく、個人の誤りとして説明されるべきだということ。

 本書にも記述があるように、ドイツ軍周辺でヒトラーの暗殺計画が繰り返し企てられていることは、通常戦争を戦おうとする意思がドイツ軍やその周辺にあり、ヒトラーの無謀な戦争指導への反抗・反逆の力が働いていたと見るべきだ。つまり戦争中盤以降ヒトラーの個人的な戦争指導の誤りが累積していき、それに反抗する運動はあったが、是正(暗殺)が間に合わなかった、ということである。

 大木は、こうした軍周辺の反ヒトラーの動きとは別に、絶望的な戦況になってもドイツ全体が抗戦を続けた理由を「近年の研究」(p.211)の成果として第5章で書いている。一言で言えば、ドイツの占領・併合地からの収奪によって特権的な経済水準を得ていたドイツ国民全体がナチ体制の「共犯」であったがゆえに敗北必至となっても戦争以外に選択肢がなかったというのである。

 しかし、大木自身が、ドイツ国民がその共犯性について「意識していたかどうかは必ずしも明白ではないが」(p.212)と留保をつけているのに、その結論はおかしくないだろうか。しかもそれが「今日の一般的な解釈」(p.212)なのかいなとちょっと驚いた。いや本当にそういうものが通説なのかもしれないけど、そこの理屈は残念ながらよく見えなかった。

 「なぜこんなに(ドイツ側)犠牲者を増やしてしまったのか」という点についての、ソ連側に関する説明もやはり3章と5章で行なっている。一言で言えば、イデオロギーナショナリズムを融合させることで、無制限の暴力を発動させたからだ(p.211〜212)。特に報復感情をそのままナショナリズム、というかショービニズムに結合させて、憎悪を煽った手法を指摘している。

 作家イリア・エレンブルグの扇動文は本書(大木本)で2度も引用されている。前述の『戦争は女の顔をしていない』でもエレンブルグの文章については「誰もが読んでいた。暗記したものさ」という女性兵士の証言が載っている(同書p.175)。ついでに言えば、ドイツに攻め入ったソ連軍の女性兵士は「見よ、これが憎むべきドイツだ!」という札があちこちに立てられているのを見たという複数の証言が『戦争は女の顔をしていない』の中で登場する。ソ連軍が憎悪を掻き立てるために意図的に行ったのではないか。

 まあ、いろいろ書いてきたのだが、「なぜこんなに史上類を見ない惨禍をもたらしてしまったのか?」ということについて、ドイツ側については「絶滅戦争」という観点から、ソ連側はイデオロギーナショナリズムを融合させた報復感情の正当化という観点から説明する。

 これは批判するにせよ賛同するにせよ、ぼくのような独ソ戦についての入門者・初学者にとっては大事な出発点になりうる。

 

 以上、シロートであるぼくの勝手な三つの観点からの本書の感想である。

 関連してであるが、最近ある新書についてその記述の正誤が取りざたされ、それで評価を著しく下げるという話が世の中で出ている(もちろん本書の話ではない)。一般論として、専門家の目から見るとそうなのかもしれないが、ぼくのような初学者からすると、新書に期待していることは「問題の骨格」がわかることであって、その骨格を得れば、それに新しい研究成果などを付け加えたり組み替えたりしていけばいいのだから、「細かい正誤」というものはあまり気にならない。あえて語弊があるように言えば「多少間違っていても、わかりやすく骨格が理解できる方がいい」程度の思いがある。だから最新研究の反映かどうかも、あまり強い関心はない。いやまあ、わかりやすくて、なおかつ正確で、さらに最新研究が反映されていれば言うことなしですけどね!

 本書について言えば、上記でいろいろ異論や納得できない点を書いたけども、それはある意味「細かい話」であって(むろん「間違っている」という指摘をぼくのような初学者ができるわけはない)、初めてこのテーマを学ぶ人が骨格を得るためにはとても役に立つ本だと感じた。

*1:本書ⅳ、ただしドイツ側は他の戦線も含む。

有間しのぶ『その女、ジルバ』

 「しんぶん赤旗」日曜版2019年7月28日号で今年連載している、もしくは刊行が完結した「戦争マンガ」を書評した。

 以下の4作。

 

 有間しのぶ『その女、ジルバ』は不思議な作品である。その不思議さについては、同紙の方で書いたので、ぜひ読んでほしい。

 40になってデパートの売り場から「姥捨て」と言われる倉庫係に異動させられた主人公が、超高齢のホステスしかいないバーで夜のアルバイトを始める物語だ。

 1巻37ページに次のようなコマがある。

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有間前掲書、1、小学館、37ページ

 「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」と語る客の一人は表情を見せない。見せないことでこのセリフに普遍性が生まれる。

 直接にはおそらく福島であろうが、原発事故によって年老いた両親が暮らせなくなったことが暗示されている。

 しかし、このセリフは、単に原発事故だけではなく、その右下で主人公(アララ)が自分の境遇に引き寄せた共鳴をしているように、いろんなことが仮託できる。

 ぼくは年金のことを直ちに思い出した。

 老後のために2000万円貯める必要がある、というレポートが話題になったが、これをめぐって「年金だけで暮らせるわけないじゃないか」という意見も出た。

 実際日本の高齢者の働く率は高い。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20190727161405j:plain

 働くことは社会とつながる方法であり、好きで働く人はそれでいいのだが、働かないと生きていけないという人たちにとって、なかなか過酷なことだと思う。

 前に都留民子『失業しても幸せでいられる国フランス』を紹介したことがあるが、その中に「フランス人にとって定年・リタイアは?」という節がある。

 

 これはね、フランスの退職者に対するカードです。訳すと、こう書いてあります(一部省略)。

 

 退職年金の時!

 

 自由な君がいる。

 自由と時間を支配する君が

 自分の時間を費やす君が

 フルタイム生活の君が…

 

 いつも二十歳(はたち)

 永遠の春のまっただなかの生活

 風が吹くまま時の流れに身をまかせる時…

 退職・自由・ルネッサンス

 君のために、すべてが再生する。

 そこは、快晴! 定刻どおり、それを享受したまえ!

 獲得したのだ、君は…

 ずっと…

 

 「ルトレット」って退職っていうこと、年金をもらうことになったね、おめでとうって。こういうカードをみんなが贈るんです。

 カード屋さんでいろいろな種類のカードを売っています。

 もっと素敵なものもいっぱいあったんですけど、みんなにあげたの。〔…中略…〕

 フランスでは定年退職が非常な喜びなんです。定年後再就職なんて聞いたことがありません。日本だったら定年後どうやって暮らしていこうとか不安がいっぱいじゃないですか。〔…中略…〕

 フランスでは65歳過ぎて働いているのは、1.3%しかいません。*1管理職、それも社長とか副社長、それに政治家かしら。働いていない人はみんな悠々自適ですよ。(都留前掲書p.80-83)

 老後になったら、もう年金だけで悠々自適に暮らしたい、と思うことはぜいたくだろうか。 貯金が尽きる心配をしながら、働くかどうしようか迷う日本社会のことを思い、「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」というセリフを噛み締めるのである。

 

 戦前のブラジル移民の過酷な人生と、現代のアラフォー女性である主人公・アララ(笛吹新)の人生は重ならないように思える。しかし、例えば、この客のセリフ「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」を媒介にして物語を見直し、人生というものを見直すと、そこに奇妙な重なりが生まれてくる。

 その「妙」を味わう作品である。

*1:これは2010年の本なので、今は上記グラフのようにもう少し上がっている。

えっ、「野党5党派で政権交代を目指す」!?

 これホントに言ったの?

立憲民主党枝野幸男代表は21日夜、野党共闘について「3年前に(参院選で)初めてこういった形を取った時よりは、いろいろな意味で連携が深まっていると思っている」と評価した。そのうえで「この連携をさらに強化して、次の総選挙ではしっかりと政権選択を迫れるような状況を作っていきたい」と述べ、立憲民主、国民民主、共産、社民、衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」の野党5党派で政権交代を目指す考えを示した。

https://www.asahi.com/articles/ASM7Q00R4M7PUTFK016.html

  っていうか、直接それを示す文章がないけど、「野党5党派で政権交代を目指す考えを示した」っていう含意で解釈していいの?

 いや、批判しているわけじゃなくて、これはなかなかスゴいことだと思う。

 共産党が加わっての政権協議が始まれば、それは歴史的なことだ。

 

 今回の選挙は改憲に必要な3分の2を割らせたし、野党共闘をした1人区で3年前とほぼ同じ10の区で勝利した。それはそれで大事な成果である。

 ただ、現状では限界があることも確かである。

 自公を少数にできていないのだから。なぜか。

 

 前からずっと言ってきたことだけど安倍政権が続いている一番大きな原因は、野党側が「政権」という形のオルタナティブを示せていないからだ

 ある意味で、安倍首相が言う「安定か混迷か」「当選したらまたバラバラ。あの混乱の再現」という野党批判には「道理」がある。

 それができてこなかったのは、野党内に「共産党が入った政権」を嫌がる向きがあって、話が進まなかったのである(ゆえに2017年総選挙直前に「共産党外し」をして野党共闘を壊す「希望の党」騒動が起きたのだ)。

 ところが、今回の枝野の言明は額面通りであれば、これを乗り越えるものだ。画期的。すばらしい。

 

 

 野党は、まず「共通した代替の政権像」を示せて初めて政権交代の第一歩を踏み出せると思う。

 逆にいうと、これが示せていない段階で「若者が安倍支持をするのは……だからで〜」とか「リベラル・左派がしょうもないのは……だからであって〜」的な意見にあまり過剰に付き合う必要はない(もちろん、聞くべき点はあるし、それはそれで参考にして改善すればいいとは思うが、とらわれすぎないほうがいい)。そんなことより、まず政権合意をつくるほうが先だ。確かな代替案が見えないから安倍政権支持が続くことが主要な問題であって、示せれば状況は変わると思う。

 

 実は、今回の参院選で、市民連合を通じた「共通政策」は合意されている。

shiminrengo.com

 

 「まだ具体的ではない」という意見もあるとは思うが、これは、自民党公明党が政権を奪取した時の政権合意と比べても、具体性にそれほど遜色があるとは思えない。

https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/pdf083.pdf

 

 しかし、これは政権合意ではない。あくまでもこの選挙での候補者が今後6年間どう活動するかということの縛りでしかないのだ。

 しかも、前述の通り、野党に対する「混迷」「バラバラ」という安倍・自公の批判には一定の「道理」があり、国民の意識(不安)が反映していることはしっかり見ておくべきで、細かいことをあれこれ詰めるのではなく、次のような原則や戦略方向がきちんと確認されておくべきだ。

 

 (1)政権の戦略・イメージ

 まず、政権の戦略・イメージである。

 要は、松竹伸幸が指摘する「どういう未来を見せられるか」問題だ。

 もともと野党連合政権は、「安保法制廃止・立憲主義の回復」から出発した。いわば「暫定的政権」「緊急避難的政権」が議論のスタートだった。つまり、「基本政策はぜんぜん一致しないけど、安保法制をなくし、現憲法下での集団的自衛権の行使を再び禁じるまでとにかく戻すということで緊急避難的に政権つくろうぜ」という性格の政権(構想)だったのである。

 しかし、もはやそういう緊急避難的政権をとりあえずつくろうという話ではなくなっている。「安倍政権に代わる政権をどうつくるか」っていう話に発展しているのだ。だとすれば、それはすでに経済、外交・安全保障、民主主義など全般にわたる「本格政権をどう作るか」という議論でなければならない。

 「共通政策」は消費税増税中止などを盛り込んでいてけっこう問題の根幹に触れているものの、一体その野党連合政権は何を目指しているのか(どんな日本を作ろうとしているのか)、は今ひとつである。それを国民にわかりやすく示さなければならない。

  それは一言で言えば、国民民主党が掲げている「家計第一」、つまり、安倍政権が大企業サイドの歪んだ成長を追求しているのに対して、野党政権側は、分配と持続的成長を対置する…などの方向ではなかろうか。

  「薔薇マーク」キャンペーンなどが指摘するように、経済についての戦略方向を鮮明にしてそこをメインにした政権イメージを示すべきだと思う。

 市民連合との「共通政策」で言えば「消費税増税中止・原発再稼働中止・改憲中止の緊急政権」的な打ち出しになってしまうかもしれないが(この3テーマはもちろん国政上の根幹をなす政策だから、決して瑣末なものでないことは確かだが)、狭い左翼業界はそれで良くても一般国民からはそれが一体どういう日本を目指している政権であるのかはわかりにくい。

 ただ、これだって単純にはいくまい。なぜなら、安倍政権は曲がりなりにも「最低賃金のアップ」「幼児教育の無償化」「大学の無償化」「相対的貧困率の改善」などを進めているからだ。もちろんそれへの批判はある。が、まだ政権を担当していない側が、その批判を込みで、説得的な対案として示せるかどうかが次の問題なのだ。

 「一致点にもとづくことが大切であって、無理に政権イメージまで共有させる必要はない」という意見もあろう。もちろん「一致点にもとづく共闘」という原則を壊す必要はないし壊してはいけない。しかし、政権が何を目指すのかというイメージが簡単かつ効果的に伝えられない場合は、自公を超える評価を得ることは難しいのもまた事実ではないだろうか。できればそこまで進んで欲しい。

 

(2)財源の大きな方向性

 次に財源の大きな方向性についての確認が必要だ。

 国民はこのことを気にしている。そしてそれは健全な心配だ。野党はそれぞれなりに対案を出しているが、問題は、それを一致した方向性の合意にできるかどうかだ。

 例えば、国民民主党の政策というのは、経済政策を見るとぼくなどはかなり納得できるし、ぼくが選挙に出た時に打ち出した政策とすごく近いなと思って見ていたが(家賃補助とか家計第一とか)、財源論で急に不安になった。「こども国債」の発行だからだ。

 今合意されている「共通政策」には「所得、資産、法人の各分野における総合的な税制の公平化を図る」しかない。このあたりは大企業・富裕層への課税方向を明確にするなどのもっとしっかりした確認がいる。

 例えば立憲民主党枝野幸男)は次のような踏み込みをしている。

「過去最高の利益をあげている企業が法人税を十分に払っていない。法人の所得税、金融所得、こうしたところへしっかりと課税をして、まず払える人から払っていただく」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-07-11/2019071101_04_1.html

 しかし国民民主党は必ずしもそうではあるまい。そこはどうするのか。

 

(3)安全保障はメインではないが不安を解消すべき

 先述の通り、野党共闘はもともと「安保法制廃止・立憲主義の回復」から出発しているので、ついそれをメインに打ち出したくなるが、しかし、「国民が強く望んでいること」との関係ではメインとは思われない。もちろん、政権構想の中にはきちんと入れる必要はある。あくまで「食いつき」問題である。

 ただし、安全保障分野は、野党に対する国民の「不安」の中心点であり、メインに打ち出す話とは別に、その不安を払拭できるようにしっかりと原則を確認しておく必要はある。

 例えば、共産党は安保条約廃棄や自衛隊解消・違憲論は取らないことをすでに明確にしているが、そのことを再確認すべきだろう。

 しかし、それだけでは十分ではない。

 国民が本当に心配しているのは、松竹伸幸らが指摘しているが、自衛隊や安保をきちんと運用できるかどうかなのだ。例えば核兵器禁止条約一つとってみても、核抑止力論への賛否が絡んでくるので、野党内で合意ができなければ、新たにできる野党連合政権はこの条約を批准をしないことになる。そこを国民に説明できねばならない。

 「安保条約廃棄をしない」とは安保条約を「凍結」することだが、「凍結」とは動かさないことではなく、現政権(安倍政権)と同じ運用をするということだ。新政権内で合意できる改善(例えば思いやり予算の削減など)はすればいいが、それすら合意にならない場合は、安倍政権と同じ方針で運用することを正直に国民の前に言っておく必要がある。

 ただ、共産党は前々からそのことは言っている。

安保条約の問題を留保するということは、暫定政権としては、安保条約にかかわる問題は「凍結」する、ということです。つまり安保問題については、(イ)現在成立している条約と法律の範囲内で対応する、(ロ)現状からの改悪はやらない、(ハ)政権として廃棄をめざす措置をとらない、こういう態度をとるということです。

https://www.jcp.or.jp/jcp/yakuin/3yaku/FUWA/fuwa-iv-0825.html

 「現在成立している条約と法律の範囲内で対応する」とは安保条約を使うということである。 

 

(4)戦略が合意できないなら変えないことも

 安全保障に限らず、合意できないものは変えてはいけないのは当然である。

 しかし、仮に野党内の合意ができても、問題によっては戦略(大きな方向)が合意できない場合には、いたずらに動かすべきではないものもある。

 例えば年金問題はその一つだろう。

 共産党マクロ経済スライドの廃止を掲げ、財源論として高額所得者優遇の保険料是正などを掲げた。これに対して立憲民主(枝野)は次のように述べている。

「年金制度は、どういう制度に変えていくにしても、幅広い与野党の協議が必要。志位さんのおっしゃっている提案は、まだわれわれは精査できていませんが、一つのアイデアだと思っている」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-07-06/2019070605_02_1.html

 あくまで検討課題に過ぎない。国民民主も同じだろう。

 つまり、未だこれは合意ではないのである。

 「共通政策」の中にも年金はない。

 だとすれば、年金は動かさない方がよい。年金のようなものは、野党として共通して確認できるビジョンがあるなら切り替えてもいいと思うが、中途半端な部分合意で動かすのは確かにあまりよくないからである。

 動かさないということは、マクロ経済スライドすなわち共産党のいう「減る年金」を野党連合政権になっても続けるということだ。

 金融緩和も同じである。野党内でこれをどうするかについて合意ができなければ、黒田金融緩和の方向は続けるしかあるまい。

 

 もちろん、共闘は一致点に基づいて行うものだから、一致できないものを無理に一致させることはできない。

 しかし、上記の4点については原則をどうしておくかよく確認しなければ、国民の不安には応えられまい。超具体的に言えば、テレビ討論で安倍にツッコミを入れられるのは間違いない。

 

*     *     *

 

 総選挙は政権を選択する選挙になる側面を必ずもつ。

 それは決して遠くない。

 そうだとすれば、政権合意をつくって国民に示し、それに基づいて小選挙区の統一候補を決め、活動を浸透させていくことを考えると、残された時間はあまりない。

 共産党も入れて協議を開始すると決めたのなら、いち早く協議に入るべきだ。もちろん「れいわ新選組」も基本方向に合意できるなら、一緒にやっていった方がいい。

 1回では変わらないかもしれない。だが、まずは政権協議を始めることだ。

 

*     *     *

 

 以下は余談。

 今回の参院選挙でぼくが自分の直接関係する選挙区以外で注目していたのは、高知・徳島選挙区の松本けんじであった。

 松本はもともと共産党候補であったが、野党統一候補となって、合意によって無所属となった候補である。それが今回40%得票したのに正直驚いた。

 「共産党出身」でも、統一候補としてここまでやれるんだという意味で、なのだが、それだけではない。

 演説は(音楽の)ライブに似たところがあり、いい演説には、人が立ち止まったり振り向いたりする。中身だけでなく、声質とか口調とか見た目とか、そういう総合的なもので決まる。

 ぼくはネットで見ただけだったが、演説がぼく好みなのだ。こういう感じで訴えたいものである。

  中身についても、安倍政権の「働き方改革」について、それ自体は反動的な性格を持っているのに、同時にそれが世の中の進歩の表現だと把握する見方(12分14秒あたり)に深く同意する。

www.youtube.com

 

オカヤイヅミ『ものするひと』

 あるテレビ番組に出演したとき、自分の肩書きを「作家」と紹介されたことがある。

 事前に「肩書きは何にしましょうか?」と問われ、著作の名前を挙げて「『……を書いた紙屋高雪』ではどうでしょう」と提案したのだが、相手は「ご著書は紹介するんですけどね…」と「今ひとつ」感を隠さなかった。

 そして「作家」を提案してきたのである。

 「ライター」なども対案として出してみたけど、結局「作家」という肩書きになってテロップが出た。もちろん、最終的には承諾したわけだから、ぼくの責任なんだけど。

 おそらく名だたるタレントがいるところにゲストとして呼ぶので、「ライター」という「軽い」感じの肩書きでは「なんでコイツ呼んでんの?」的な不釣り合いさが出てしまうため、番組側がいろいろこだわったのではないかと今になって推測する。

 しかし……。

 「作家」ですか……。

 拭えない違和感。

 

 『大辞泉』にはこうある。

芸術作品の制作をする人。また、それを職業にする人。特に、小説家。

 いやいやいやいや、「芸術作品」は制作していない。小説も書いていない。

 『旺文社国語辞典』では

詩歌・小説・戯曲・絵画など、芸術作品を創作する人。特に、小説家。

とあり、やっぱり「芸術作品」だ。やってません。

 しかし、一縷の望みが『大辞林』にある。

詩や文章を書くことを職業とする人。特に、小説家。 「放送-」

 あっ、これならイケる。「文章」だもん。

 「職業」を規定している辞書とそうでない辞書があるようだが、少なくともぼくはお金を得ているので「職業」と言っていいだろう。全然メイン収入じゃないけど。

 辞書は何かのお墨付きではない、と叱られそうだが、世の中の言葉の使い方の一つの観察結果には違いない。うんうん、俺は嘘は言ってないよね。作家だ作家。とまあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアクロバティック極まる「定義の綱渡り」を使い、「作家」という船の端っこに潜り込んで密航した気分であった。

 

 肩書きに偉ぶらなさを出そうとしたり、規定の枠を越えようと意識しすぎたり、従来のイメージを拒否しようとしすぎたりして、「まちあるきアナリスト」とか「政治経済ソムリエ」とかみたいな、謎肩書きになってしまうのもどうかとは思うが、本当に新しい肩書きを用意するしかない時に「珍奇」さを避け過ぎようとするのも逆に「高二病」っぽくてアレである。

 飯の種、すなわち「ライス・ワーク」の職業上の肩書きはなんの外連味もなく紹介できるのに、こういう副業感溢れる仕事の肩書きにはどこかしら面はゆさが残る。

 

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

 オカヤイヅミ『ものするひと』の主人公スギウラは小説家である。

 小説家。

 ちゃんといい肩書きがあるじゃん、とは思うけど、純文学の新人賞を取ったほどで、締め切りがあるというわけでもなく、バイトで生計を立てているスギウラにとっては「作家」という肩書きには違和があるようだ。

 本作を批評した富永京子は「生計を立てる活動を仕事と見なす感覚は、私たちに深く根付いてもいる」*1として、スギウラの次の逡巡に注目する。

今 事件をおこしたら「東京都中野区30歳アルバイト」かな

賞をとったら? 雑誌に載ったら? 本を出したら? 生活できたら? 「職業/作家」ですか? 

 しかし、「たほいや」という辞書を使った遊びを楽しみ、ネオンの文字を見て物思いにふけってしまうその主人公の所作を、富永は本作で注目し、次のように評している。

それこそが、彼が毎日「言葉のことを考え」、「書いて読まれる仕事」をしている他ならない証左でもある。

  富永が指摘するように、本作は最後まで読んでもスギウラに明確な「作家」の自覚が訪れるわけでもなく、はっきりしたオチがあるわけでもない。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

 作家という「普通じゃないもの」と「普通のもの」との線引きの曖昧さを「ゆるやかに揺るがす」(富永)だけなのである。

 「ものするひと」というタイトルの秀逸性はそこと関連している。

 「ものする」は、辞書(大辞林)で引けば、

文章・詩を作る

 という意味もあるが、

何らかの動作・行為や存在・状態を、それを本来表す語を用いずに遠回しにいう語

 でもあり、それは「何かの動作・行為をする」ことであったり「移動する」ことであったり「存在する」ことであったり、要はまことに茫漠としている。この言葉自体が、文章にたずさわるという特殊性(普通でなさ)と、世の中の行為全般を曖昧に指す一般性(普通さ)とを一語で体現しているのだ。

 

ものするひと 3 (ビームコミックス)

ものするひと 3 (ビームコミックス)

 

 

 だけど、「作家」などという肩書きをあやふやに持ち込んでいる、五十近いオジサンであるぼくは、この物語をゲヘヘとか思って読んでいる。

 スギウラみたいになりたいな、という欲望として。

 一つには主人公スギウラがそうした世俗的な「作家」自意識から超然としていることである。言葉にだけこだわってつい目が向いてしまうなどという姿って、カッコよすぎじゃないですか? 

 そして、もう一つは、女子大生でシロートのアイドル活動などもしている(つまり「かわいい」のである)ヨサノがそうしたスギウラに惹かれていくくだりである。自意識が全くないわけではないスギウラだが、やはり基本は俗世から距離を置いている。言葉のことを考え続ける「普通でなさ」がヨサノには魅力に映る。家に来て、スギウラを押し倒そうとしちゃうんだぜ……?

 結局は、スギウラにあこがれながらコンプレックスを抱いている、マルヒラあたりが自分の似絵にはちょうどいいだろう。まさに「スギウラみたいなものになりたいな」と思いながら、スギウラになれはしない自分がそこにいる。

 

*1:朝日新聞2019年7月8日付夕刊。