オカヤイヅミ『ものするひと』

 あるテレビ番組に出演したとき、自分の肩書きを「作家」と紹介されたことがある。

 事前に「肩書きは何にしましょうか?」と問われ、著作の名前を挙げて「『……を書いた紙屋高雪』ではどうでしょう」と提案したのだが、相手は「ご著書は紹介するんですけどね…」と「今ひとつ」感を隠さなかった。

 そして「作家」を提案してきたのである。

 「ライター」なども対案として出してみたけど、結局「作家」という肩書きになってテロップが出た。もちろん、最終的には承諾したわけだから、ぼくの責任なんだけど。

 おそらく名だたるタレントがいるところにゲストとして呼ぶので、「ライター」という「軽い」感じの肩書きでは「なんでコイツ呼んでんの?」的な不釣り合いさが出てしまうため、番組側がいろいろこだわったのではないかと今になって推測する。

 しかし……。

 「作家」ですか……。

 拭えない違和感。

 

 『大辞泉』にはこうある。

芸術作品の制作をする人。また、それを職業にする人。特に、小説家。

 いやいやいやいや、「芸術作品」は制作していない。小説も書いていない。

 『旺文社国語辞典』では

詩歌・小説・戯曲・絵画など、芸術作品を創作する人。特に、小説家。

とあり、やっぱり「芸術作品」だ。やってません。

 しかし、一縷の望みが『大辞林』にある。

詩や文章を書くことを職業とする人。特に、小説家。 「放送-」

 あっ、これならイケる。「文章」だもん。

 「職業」を規定している辞書とそうでない辞書があるようだが、少なくともぼくはお金を得ているので「職業」と言っていいだろう。全然メイン収入じゃないけど。

 辞書は何かのお墨付きではない、と叱られそうだが、世の中の言葉の使い方の一つの観察結果には違いない。うんうん、俺は嘘は言ってないよね。作家だ作家。とまあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアクロバティック極まる「定義の綱渡り」を使い、「作家」という船の端っこに潜り込んで密航した気分であった。

 

 肩書きに偉ぶらなさを出そうとしたり、規定の枠を越えようと意識しすぎたり、従来のイメージを拒否しようとしすぎたりして、「まちあるきアナリスト」とか「政治経済ソムリエ」とかみたいな、謎肩書きになってしまうのもどうかとは思うが、本当に新しい肩書きを用意するしかない時に「珍奇」さを避け過ぎようとするのも逆に「高二病」っぽくてアレである。

 飯の種、すなわち「ライス・ワーク」の職業上の肩書きはなんの外連味もなく紹介できるのに、こういう副業感溢れる仕事の肩書きにはどこかしら面はゆさが残る。

 

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

 オカヤイヅミ『ものするひと』の主人公スギウラは小説家である。

 小説家。

 ちゃんといい肩書きがあるじゃん、とは思うけど、純文学の新人賞を取ったほどで、締め切りがあるというわけでもなく、バイトで生計を立てているスギウラにとっては「作家」という肩書きには違和があるようだ。

 本作を批評した富永京子は「生計を立てる活動を仕事と見なす感覚は、私たちに深く根付いてもいる」*1として、スギウラの次の逡巡に注目する。

今 事件をおこしたら「東京都中野区30歳アルバイト」かな

賞をとったら? 雑誌に載ったら? 本を出したら? 生活できたら? 「職業/作家」ですか? 

 しかし、「たほいや」という辞書を使った遊びを楽しみ、ネオンの文字を見て物思いにふけってしまうその主人公の所作を、富永は本作で注目し、次のように評している。

それこそが、彼が毎日「言葉のことを考え」、「書いて読まれる仕事」をしている他ならない証左でもある。

  富永が指摘するように、本作は最後まで読んでもスギウラに明確な「作家」の自覚が訪れるわけでもなく、はっきりしたオチがあるわけでもない。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

 作家という「普通じゃないもの」と「普通のもの」との線引きの曖昧さを「ゆるやかに揺るがす」(富永)だけなのである。

 「ものするひと」というタイトルの秀逸性はそこと関連している。

 「ものする」は、辞書(大辞林)で引けば、

文章・詩を作る

 という意味もあるが、

何らかの動作・行為や存在・状態を、それを本来表す語を用いずに遠回しにいう語

 でもあり、それは「何かの動作・行為をする」ことであったり「移動する」ことであったり「存在する」ことであったり、要はまことに茫漠としている。この言葉自体が、文章にたずさわるという特殊性(普通でなさ)と、世の中の行為全般を曖昧に指す一般性(普通さ)とを一語で体現しているのだ。

 

ものするひと 3 (ビームコミックス)

ものするひと 3 (ビームコミックス)

 

 

 だけど、「作家」などという肩書きをあやふやに持ち込んでいる、五十近いオジサンであるぼくは、この物語をゲヘヘとか思って読んでいる。

 スギウラみたいになりたいな、という欲望として。

 一つには主人公スギウラがそうした世俗的な「作家」自意識から超然としていることである。言葉にだけこだわってつい目が向いてしまうなどという姿って、カッコよすぎじゃないですか? 

 そして、もう一つは、女子大生でシロートのアイドル活動などもしている(つまり「かわいい」のである)ヨサノがそうしたスギウラに惹かれていくくだりである。自意識が全くないわけではないスギウラだが、やはり基本は俗世から距離を置いている。言葉のことを考え続ける「普通でなさ」がヨサノには魅力に映る。家に来て、スギウラを押し倒そうとしちゃうんだぜ……?

 結局は、スギウラにあこがれながらコンプレックスを抱いている、マルヒラあたりが自分の似絵にはちょうどいいだろう。まさに「スギウラみたいなものになりたいな」と思いながら、スギウラになれはしない自分がそこにいる。

 

*1:朝日新聞2019年7月8日付夕刊。