ぼくは1980年代の終わり頃に共産主義者になったので、すでにそのころにはスターリンやソ連に対する憧れというものはほとんどなかった。*1
スターリンとは「共産主義の大義を貶めた極悪人」であるから、ほとんど近づきもしなかったのだ。
この点は毛沢東とは違った事情がある。
藤子不二雄Aが『毛沢東伝』を描いて毛沢東を「英雄」として扱っていたり、本多勝一がかなりの毛沢東や「文革」を肯定的に描いていたり、『銀河英雄伝説』登場人物(ヤンやハイネセン)の下敷きの一人が毛沢東であったり、コミュニストではない知識人に、毛沢東ファンが多い。
しかし、スターリンファンというのはあまり聞かない。「共産趣味」「ソ連趣味」として「スターリン好き」という人々を最近になってネットで見るようになったが、まあアレだ。「愛国戦隊大日本」を一生懸命つくってしまうメンタリティと同じであろう。
したがって、コミュニストになってから読んだスターリンの著作というのは『レーニン主義の基礎』のほか2〜3の小論文しかなく、それらもほとんど覚えていない。
本書・横手慎二の『スターリン』を評した田所昌幸が
西側陣営からは暴虐な独裁者として、また理想主義的な左翼陣営の側からは、国際共産主義運動の理想に対する裏切り者として、スターリンほど広く恐れられ憎悪されてきた独裁者は少ない。(「読売」2014年9月7日付)
と述べた、まさに後者の部類がぼくである。
なぜロシア国民の中にいまもスターリンへの評価があるのか?
本書は、サブタイトルに「『非道の独裁者』の実像」とあるように、日本人の中に広くある「スターリンは『非道の独裁者』だ」という平面的な認識への斬り込みをかけている。
もちろん、「スターリンはいい人でした」というわけではなく、ぼく流に言わせてもらえば、「スターリンを歴史の合理性・必然性の中においてみる試み」である。著者である横手の言い方を借りれば、
ロシア国民の少なからぬ人々が今もなおスターリンに思いをはせ、愛着の気持ちを抱くのはなぜなのか、彼の人生を改めてたどることによって考察することを目指している。(本書iv)
ということになる。
この問いへの直接の回答はそれほど複雑なものではないし、これまで提出されなかったものでもない。
スターリンなしに、ソ連はヒトラー軍との戦争に勝てたのか。フルシチョフが評価を与えなかった一九三〇年代の急進的工業化なくして、ソ連は第二次世界大戦を戦うことができたのか。〔中略〕このとき農民を犠牲にした穀物供出による急激な工業化が第二次世界大戦で決定的な意味を持ったことも否定できなかった。(本書p.288-289、強調は引用者)
独ソ戦を勝利することは、ロシアのナショナリズムから考えても誇りであろうが、ファシズムに勝利したという普遍的な進歩主義から見ても意義がある。
独ソ戦勝利→ソ連の(急速な)工業化→工業化の原資となる農業収奪・集団化→その過程で出る矛盾や軋轢を抑圧するための大量弾圧・「粛清」
独ソ戦勝利を認めるなら、上記の「→」を次々に認めてしまうことになる…。むろん、横手は大量弾圧や集団化が引き起こした問題を絶対に肯定はしない。しかし本書の終わり頃で、最近のソ連の歴史学界のスターリン評価の状況などを紹介しているように、旧ソ連・ロシアでフルシチョフ以後から現在にいたるまでスターリンを評価する動きとして出てくるのはこのような問いの流れなのである。
毛沢東の場合、彼の「偉業」として讃えられる抗日戦勝利・革命成功の後に、彼の大犯罪である「大躍進」「文革」がやってくるので、抗日戦勝利・革命成功のために「大躍進」「文革」があった、とは到底言えないことが実に明瞭だ。
これに対して、スターリンの場合、独ソ戦の前に工業化・集団化・大量弾圧があるので、すべては独ソ戦勝利のためにあったかのように見えてくる。
「独ソ戦勝利」という結論以外にも、第二次世界大戦前後の狡猾で覇権主義的な対外政策も、「ソ連の安全保障」という目で見てしまえば「合理化」「必然化」できると言えなくもない。また、第二次大戦後についても、「ソ連の安全保障」の立場からソ連の勢力圏を確保し、そのためにアメリカと対抗し、超大国であり続けた、という見方に立てば、何がしかの「合理化」はできる。ただ「独ソ戦勝利」ほどの強いインパクトはないけども。
いずれにしても、ロシアのナショナリズムという目をはずしてしまえば、これらのほとんどは肯定できるものではなくなる。「別にソ連がドイツに負けようが知ったことではない。戦争で千万人単位の犠牲者を出すより、大人しく降伏して、そのあと平和的方法で占領体制を変えた方がよかったんじゃね?」「だとすれば、何が何でも独ソ戦勝利する必要はないよね。そうなれば、工業化も集団化も大量餓死も大量弾圧も肯定できなくなるよね」という流れにはなる。そうなれば、スターリンはいくらでも非難できる。
しかし、さっきも述べたように「じゃあ、ナチズム・ファシズムが勝利してよかったんですか」という反問をつきつけられたときはどうだろうか。うーん、難しいなあ、となるのではないか。
まあ、本書でここまでつきつめてはいないけども、そういう問いの中にいったん自分をおいてみてスターリンを「評価」する気持ちを味わってほしい――そのように本書は言っているように思われる。
くり返しになるが、上記のような問いは、学問世界ではそれほど目新しいものではないが、いわゆる「冷戦」の影響が遠のいた今、日本人の多くがこの問いの中でスターリンを考えてほしいと言われることは、「目新しい」のではないか。日本人の多くはこのような角度でスターリンの「合理性」「必然性」を考えたことはないのではなかろうか。
本書の意義の一つは、そこにある。
権力者になる前のスターリン像が(ぼくにとって)新しい
もう一つの本書の意義は、革命前・直後(つまり権力者となる前)のスターリン像の変革であろう。
ただ、
本書は未公刊の史料に基づいて書かれたものではない。(本書iv)
とあるように、みんなの知らない史料を「ジャジャーン!」と出して、見たことも聞いたこともない新しいスターリン像を打ち出すというものではない。せいぜい「マイナー・チェンジ」「バージョン・アップ」程度のものだ。
公刊されたものではあるが、ソ連崩壊後に公表された新しい、そして膨大な史料を前提に、「大きな木の根が地中に広がるように、どこにどのように伸びているか定かでない個々の歴史家の専門的研究についてできるかぎり目を配り、積み上げられてきた研究成果を取り入れることを目指した」(本書iv)という立場で書かれている。
いわば、目の覚めるような目新しさはないけども、のっぺりしたスターリン像を最新研究で立体彫刻しますよ、と言っているのである。
しかし、革命後のスターリン像については、あまりこれが効いていない。
ぼくが自分自身のもっていたスターリン像を書き換えられたのは、革命前・直後についてである。
“スターリンは、粗暴で、学問素養が(レーニン、トロツキー、ブハーリンらと比べて)乏しく、実務屋でしかなかった”的なイメージである。トロツキーはよくそういうスターリンの描き方をするし、本書にもそうしたトロツキーのスターリン像は紹介されている。
また、スターリンが一国社会主義の理論を披歴したとき、学者で古参のボルシェビキであるリャザノフ(マルクス・エンゲルス研究所の初代所長。獄死)は「コーバ〔「スターリン」を名のる前の変名〕、止めろ。バカな真似をするな。理論的なことがお前の持ち場でないことはだれでも知っているぞ」と野次ったという(ドイッチャー『スターリン』上、p.233)。
いやまあ、それだけじゃないだろうとは思っていたけど、スターリンのキャラクターについてぼくはあんまり深く考えたことはなかったってこと。
本書でスケッチされた(権力者となる前の)スターリンのキャラクターは、ぼく自身に重なる部分をたくさん見出す。そして、コミュニストとしていろんな活動家を身近に見てくると、「ああ、スターリンのこの部分って、身近にいる○○さんみたいだな」と思えるのである。
たとえば、本書では、スターリンの蔵書についての記述がある(144〜147ページ)。
スターリンが蔵書の分類を秘書に指示している文書(1925年)があるのだが、その分類をみるとスターリンが何に関心をもっていたのかがわかる。そして、数万冊の蔵書のうち、明白な読書痕跡のある400点を調べると、その関心の角度も見えてくるのだという。
この指示は、スターリンの蔵書がきわめて実務的性格を持っていたことを示している。また同時に、彼の関心が非常に広かったことを示している。明らかに彼は、国家統治に関わるあらゆる分野に通じたいと考えていた。さらに言えば、高等教育を受けていなかった彼は、まさに独学で、役立つと思われる知識を貪欲に吸収していたのである。(本書p.146)
米研究者・タッカーのスターリン伝で、スターリンが権力者となって以後の1930年代から急に知識をひけらかすようになったとしているが、横手は蔵書の存在を指摘してこの研究を批判している。
この主張は一面的である。スターリンはどう見ても権力者になる以前の時期から、人文・社会科学の広範な領域での当時の専門的知識を求めており、高度な書物を読むだけの知的能力を発揮していたからである。ただ、彼の場合にはあくまで実践的姿勢が優勢で、抽象的な論理に終始する理論的著作を読む知的訓練(高等教育)を受けていなかったというのが実情に近かったと思われる。彼が原理的演繹的に考えることを得意としたトロツキーやブハーリンに知的劣等感を抱いていたすれば、おそらくこの程度のことであった。(本書p.147)
ぼくは「高等教育」は受けたものの、大学の先輩たちのひそみに習ってマルクスやエンゲルスをいくらか読んだ程度であった。むしろ社会人になってから実践的必要に迫られて読書をして、そのことが自分の身についた武器となり、思考の道具になっている。マルクスやエンゲルスもそれから再読した。大学時代に一度読んでいたことは、一つのアドバンテージになったのではあるが。
実務のための読書は、実務に本当に必要な狭い範囲だけで終わることが多い。
しかし、実務から分け入って近辺の領域までを踏破する知的作業は、小さな体系を頭の中につくりだす。ちょっとした眺望や俯瞰といったようなキモチよさを得られる。そしてそれは自分にとって「得意分野」となり、自信となる。そうしたものが積み重なって普遍へと迫っていく――本来これは、大学の一般教育・教養課程が採用している方法論である。専門教育を少しばかり深く立ち入ってみることを、何種類も重ねることで、自然観や社会観といった普遍的なものを鍛え上げるという、アレである(実際には、浅薄なガイダンスにとどまってしまう場合がほとんどであるが)。
スターリンがその結果どのような知的水準に達したかはホントのところはわからないが、後でみるように、課題となった実務を徹底してとりくむ彼の集中力から考えれば、とりくんだ問題について、相当な鍛練が積まれたのではないかと想像する。
ぼくの周囲のコミュニストでも、高卒であったり、偏差値ランク上は大したことのない大学の出であっても、こうした実務の必要から読書などの知的経験を重ねて、相当なレベルに達する人を知っている。
このような、権力者になる前のスターリンのキャラクターに親しみを覚えてしまうのだ。「こういう人、身近にいるいる」みたいな。
インテリ左翼が「革命がおきれば民族問題なんて解決しちゃうさ」みたいな感じでほとんど重きをおいていない時代に、自分の体験や現場感覚から民族問題を重視し、そのための理論的方向付けを生み出していたのがスターリンだと、横手は言う。「民族問題や組織問題に詳しい男」として頭角を現してきたのがスターリンなのだろう。
以上述べてきたように、コーバ〔「スターリン」を名のる前の変名〕からスターリンへと変貌していくヨシフ・ジュガシヴィリは、客観的に見れば、ひたすら現実の運動に集中することによって将来のソヴィエト・ロシアの統治者となるための基本的素養を蓄積していた。付け加えておけば、このような彼の方が、現在のロシア人の多くにとって、当時の最先端のヨーロッパ的教養を持ってロシアに社会主義革命を実現しようとしていた人々よりも、はるかに身近で、理解しやすい存在なのである。(本書p.93)
実務への集中力
「こういうコミュニスト、身近にいるいる」パターンでもう一つ言えば、今述べた、実務や課題への集中ぶりがあげられる。
スターリンが裏方の実務屋であったことは、すでに前から言われていることだが、革命運動において実務をこなすということは、「官僚的機構・システムの歯車となって右から左へ指示を忠実にこなす」ということではない。むろん、そのような正確さを求められる部署もある。
スターリンがとりくんだ実務というのは、直面している実際的な問題、組織的な課題に対して、必要な資源を動員してそれを解決してしまうというタイプのものである。
大衆や社会が大きく動く時に、それをどういうスローガンで方向づけ、その波を大きくしながら自分たちもそれに乗っていくのか、というような分野は、おそらくヘタだったのだろう。十月革命で情勢が大きく、そして瞬時に変動した際には、本書でも「精彩を欠いた」(p.102)と評されるように、右往左往してはっきりした方針を打ち出せないでいた。レーニンが帰国してやっとブレがおさまったという程度である。「振幅の激しい事態となればなるほど、そのなかで占めるスターリンの役割はますます小さくなる」というトロツキーの1917年時のスターリン評価は一面的ではあるけど、文字通り事態の一面を鋭くついている。
内戦期になって農民からの穀物の徴発が重要課題になってくると、そのような分野でこそスターリンは活き活きと働いた。
以上のような一九一七年の状況と比較すれば、その後の内戦の過程でスターリンが見せた言動ははるかに精彩に富んでいた。それは、スターリンが英雄的役割を果たしたという意味ではなくて、彼が内戦期にしばしば独自の才覚で問題を解決して、周囲の人々に強い印象を与えたという意味である。(本書p.107)
横手はこのようなスターリンの報告文書をひいて、彼の性格を次のようにまとめている。
それは当面の課題への集中力、強い意志、実務的な判断力などからなるもので、彼がほぼ生涯にわたって保持し続けたものであった。彼の集中力は目的への確信から生じていた。明らかにこのときスターリンは、自分に課せられた任務〔農民からの徴発〕に政権の命運がかかっていることを確信していた。だからこそ、短期間で大量の穀物を首都に送ることができると、何度も請け合ったのである。(本書p.112)
絶対に必要であるがゆえに正しいその目的のために、度外れた集中力をもってあたるという実務家。こういう人、います。いるいる。
コミュニストに限らず、会社にもいるよね、こういう敏腕営業みたいな人。
演説の凡庸さ、非公開報告の非凡さ
スターリンやトロツキーの伝記作家として有名な、アイザック・ドイッチャーもスターリンの内戦時の報告文書に注目している。彼は公開の場でのスターリンのアジ演説の凡庸さと、彼が非公開の報告文書でみせる鋭さを対比している。
彼の弱点が一番はっきり現れるのは檀上と新聞紙上である。ここでの彼の言葉は政治家の間でさえ稀な、驚くほどの想像力の乏しさを暴露する。彼の言葉は平板、無味乾燥で、精彩がない。トロツキーによると“眠気を呼ぶ”文である。(ドイッチャー『スターリン』上p.173)
だが、秘密報告から浮かび上がってくる彼の姿は別人の感があった。その文体は明瞭、直截、簡潔、正確であった。ここで語っている人は衆目が彼に強いた束縛から解放された偉大な行政官であった。退屈な反復、奇怪な矛盾、的外れの例えのあとはほとんど見出されない。ここでは危険点の査察官、冷静な調査官が飾り気のない事務的な言葉で調査の結果を報告していた。われわれは彼の働きぶりをほとんど心に画くことができよう。彼は目的地に着くと、すぐ幻影を知らない、冷い目を問題点に投げかける。軍事機構の弱点、指揮系統、党委員会、現地ソヴェトの混乱その他さまざまに彼の目がひかる。まず自分の意見をまとめてモスクワに報告する。ついで彼の周囲の人たちを“かりたて、しかりつけ”はじめ、調査を続け、またも現地あるいは上級司令部の欠点、怠慢をみつけ出す。次に、信頼できると感じた人たちで団結の固い小グループをつくり、この人たちを引きたてて他の人を追い払う。なかには軍法会議に回されるものもいる。こうして補給の手はずをきめ、またモスクワに報告する。(同前)
横手はこのスターリンのキャラクターを「ほぼ生涯にわたって保持し続けたもの」とし、これこそがスターリンであるとするのだが、横手によれば、それは革命運動に参加してからもずっと弱気で、迷い続けた時期があり、ジュガシヴィリがスターリンとしての基本形をつくるのは、1910年前後ということになる。
昔からスターリンはスターリンなのではなく、歴史的につくられてきた、ということだ。
スターリン的な飛躍の秘密
迫られる課題への並外れた集中は、きっと課題を解決する弁証法的で、飛躍した思考を必要とするだろう。その限りではスターリンのような実務家は天才的である可能性がある。
しかし、政治のように、それを理想とつなげ、大義を見失わないようにする演繹力が乏しいと、こういう実務解決は「目的のために手段を選ばず」のような悲惨をもたらすし、あるいは「政治理念を実務の下僕として扱う」傾向を助長する。
たとえば独ソ不可侵条約というのは、「ソ連の安全保障」という点からは、驚くべき飛躍をふくんだ弁証法である。
だが、こういうやり方は反ファシズムの大義を失わせるし、結果的に1千万人ものソ連国民を犠牲にする戦争となってしまったということもいえる。
実際には「独ソ不可侵条約」は弁証法ではなくて功利的な変節にすぎなかったわけだが。
ドイッチャーは、スターリンが不意に見せる「弁証法」=飛躍の秘密を非常にうまく表現している。ドイッチャーによればスターリンは基本的に行政官であり、飛躍のできない中庸をこのむ活動家である。
スターリンは主として中庸の人であった。〔中略〕スターリンは過激な見解を本能的にきらった。彼独自の役割は、対立する過激な見解を妥協させると思われる方式を打ち出すことであった。(ドイッチャー『スターリン』下巻p.2)
革命中に中道を歩もうとするものは大抵の場合、足下の大地が割れるのに気づく。スターリンは時に応じて道路の最左端または最右端に、突然ことのほか激しく跳び移らねばならない羽目にしばしば立たされた。われわれは彼がその時々で、右派の批判者よりはるかに右に、または左派の批判者よりはるかに左に、いるのを幾度となく見出すだろう。彼の定期的な急転回は時代の大変動のさなかにあって均衡を保とうとする中庸の人が試みる発作的仕業であった。〔中略〕彼は革命後の社会に現れた、すべての反抗的な思想と主義を抑圧する中庸主義的独裁の権化であった。(前掲書p.2-3)
スターリンを「身近」と感じるとともに、そこに落ち込まないようにするには何が必要なのか、と本書を読みながら考えた。答は出ていないが。
どっかの新興IT企業みたいじゃね?
最後に、スターリンの片腕であったガガノヴィッチの証言は、実務家スターリンの「魅力」を伝えており、横手の本はそれを紹介している。
彼は鉄のようで、不屈で、落ち着いていて、私に言わせれば、冷静沈着で、いつも何かに集中している人物であった。彼はあらかじめ考えることなく、言葉を口にすることはけっしてなかった。それが私にとってのスターリンである。(本書p.136-137)
そして、1922-1925年頃にスターリンが書記長になったころの、様子の描写が興味深い。スターリンの周りに若い組織活動家・スタッフが集まり、入り浸り、熱心に組織活動をしているのである。ガガノヴィッチは「最も楽しく、最も興味深い時期」としている。
ワハハーと笑いあって、彼が何かを語り、我々が語る、お互いに冗談を言い合う、賑やかな集団だった。周りで見ていた者は『なんだ、こいつたちは』と思っただろう。護衛はほとんどいなかった。本当に僅かだった。いても、一人か二人だろう。護衛が少なかったのだ。スターリンも非常に機嫌がよかった。我々は時に宴席に居座ることもあった(本書p.137)
革命集団から、権力担当機構への切り替えを図る時期であり、その大転換を若いスタッフたちと賑やかにやっているスターリンらが思い描かれる。
どっかの新興IT企業の職場みたいじゃね?
横手自身が言っているように、この本でスターリンの犯罪が何ら免罪されるわけではない。しかし、いったん彼を合理性・必然性のうちに扱ってみて、彼がなぜ魅力的存在であったのかということを味わうには、本書は役に立つに違いない。
また、あまり日本ではなかった手軽なスターリン伝としても役に立つだろう。ぼくは本書と不破哲三『スターリン秘史』を足がかりにして、買ってから20年ほど手がついていなかった500ページもある大部、ドイッチャーの『スターリン 政治的伝記』を夢中で読みとおすことができた。