専門家でもない、当該問題のシロートであるぼくは何を期待してこの本を手にしたのか。
シロートであるぼくが本書に期待した3つのこと
一つは、独ソ戦の概略が知りたかったという理由である。いわば独ソ戦入門書としての役割だ。
本書は新しい研究の到達がどうなっているかに目配せした記述が多い。だが、シロートのぼくにはそのようなことは二の次の話であって、とにかく「ざっくり独ソ戦が知りたい」と思っていた。
ふだんはそういう際に、まず戦史を扱ったビデオとかDVDを探してそれを観て大雑把な地理感覚を得るのだが、あいにくそのような適当なビデオ(動画)がない。
そこで本を探したのである。
その点で、本書に入門書としての期待を込めた。
二つ目は、ぼく独自の問題意識に応えてくれているかどうかであった。
例えば「スターリンは開戦期に意気消沈したのかどうか」という問題だ。これは不破哲三『スターリン秘史』を読んで、それとドイッチャー、横手慎二、そして山崎雅弘がどうそれぞれを記述していたのかをみてきたので、たまたま興味を持った問題だったからである。
あるいは、「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」という問題である。これは「スターリンおよびスターリン体制は国内で支持されていたのか」という問題にもつながってくる。
もうひとつあげれば、「スターリンはドイツの侵攻になぜ備えられなかったのか」という問題である。これは論者によって様々な意見があるので、これも期待を持っていた。
他にもいくつかあるが、このような問題に応えてくれるかどうかという期待をもって本書を手にした。もちろんこのような「期待」はぼくの勝手な期待でしかない。
三つ目は、本書を読み始めて気づいた、本書の独特の問題意識への期待である。
本書の問題意識は、ソ連側の死者2700万人、ドイツ側の死者、戦闘員444〜531万、民間人150〜300万人*1とされる犠牲を出した「人類史上最大の惨戦」(本書ⅳ)となったのは、「戦闘のみならず、ジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられた」(同前)からであり、「こうした悲惨をもたらしたものはなんであったか」(同前)ということで貫かれている。
この点で、著者・大木毅はドイツ側がこの戦争を「世界観戦争」とみなしたこと、そして世界観戦争とは「『みな殺しの闘争』、すなわち絶滅戦争」を意味したからであるという指摘している(本書ⅴ)。また、対するソ連側が「大祖国戦争」という位置付けをして、その報復感情を正当化したこともあわせて指摘している。
両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映した蚊のように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈していったのである。(本書ⅵ)
この点をどのように論証していくのかについて興味を持った。
そして、読み終えてみてこれら3つの、いわばぼくの勝手な期待がどうなったかを書いてみる。
(1)独ソ戦の入門書としてはどうか
まずひとつめの、独ソ戦の入門書としての役割である。
ビデオがないので、本を探した。
最初に見つかったのは、山崎雅弘『新版 独ソ戦史』(朝日文庫、2016)である。
[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)
- 作者: 山崎雅弘
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2016/12/07
- メディア: 文庫
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山崎の本には、最新の到達がどこまで反映されているのかを別として、この「入門」という目的に照らして大変参考になったが、それでもまだ山崎の記述は現地の地理に多少とも心得がないと、両軍の動きが把握しにくい。
ぼくが本書(大木本)より前に山崎の本を読み始めた段階で、独ソ戦において重要な地名となる「クルスク」「ハリコフ」「スターリングラード」「レニングラード」「キエフ」「スモレンスク」「モスクワ」の位置関係すらよくわかっていないかった。
分厚い独ソ戦の本を手に取ると、地図もないままこうした地名と部隊の名前が大量に書かれていて全く読める気がしなかったのである。開くなり「無理!」と思ってしまうものが多かった。
山崎の本は、地図がかなり加えられていて、だいぶ助かったのだが、それでも本文の記述と地名を照合させるのが一苦労で、照合していない部分(書いていない部分)もあって、地理を知らない者には煩雑だったことは否めない。
この点で、本書(大木本)はどうだったか。
大木本では、山崎のような詳細な地名や部隊の動きが大胆に省略されている。
この点だけでも、「入門書」としてはありがたかった。
そんなことがと笑われるかもしれないが、初心者にとっては至極重要なことで、初学者がこのテーマに近づく上では欠かせないことだった。
本書(大木本)のアマゾンのレビューには次のようなものがある。
「スターリングラード攻防戦」や「クルスク戦車戦」等の個々の戦役や、アウシュビッツ等の絶滅戦争の側面を詳細に記した高価な(研究)書籍は存在する一方で、「第二次世界大戦史」のタイプの書籍では数ページしか記述がなく、価格を含めて手軽なテキストが存在せず不満でした。中間を埋める事に成功している書籍です。〔強調は引用者〕
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R39VP8LDF4UT0L/
ああ、これこれ、と思った。「中間を埋め」てくれたわけですよ!
(2)ぼくのいろんな疑問に答えてくれるものか
二つ目の「ぼく独自の問題意識に応えてくれているかどうか」について。つまりぼくのいろんな疑問に答えてくれるものかどうかということ。いわばぼくの一方的で勝手な期待である。
まず、「スターリンは開戦期に意気消沈したのかどうか」。これは全く記述がなかった。まあ、しょうがない。
次に「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題。
これは第3章第四節からの記述が対応している。
本書にも書かれているが、ヒトラーが「ソ連軍など鎧袖一触で撃滅できる」(本書p.32)と考えており、「純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画」(同前)を立ててしまったように、スターリン支配のもとで国はボロボロだろうと思われていたわけである。
ところが、頑強に抵抗し、ついにはドイツを倒してしまった。
この点では、本書は、「おおかたの西側研究者が同意するところ」(p.114)としてスターリニズムへの拒否意識があったがゆえに緒戦では数百万の捕虜を出したが、ドイツ側の残虐が明らかになるにつれ民衆も反ドイツになっていたという紹介をまずしている。しかし、これは大木がツッコミを入れているように、多くの人がドイツとの戦争に志願している実態と合わない。
ぼくも、本書「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。
本書(大木本)では、アメリカのソ連研究者、ロジャー・R・リースの説明を紹介して、内的要因(「内発的要因」というべきだろうか)と外的要因(「外在的要因」というべきだろうか)に分け、前者について、
自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛(p.116、強調は引用者)
と書いている。
「大祖国戦争」という命名に象徴される「ナショナリズムと共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与」(p.117)という規定を大木は行なっている。
「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。
スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか? と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。
加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか。
さらに加えておけば、本書はそもそも「ソ連の人的・物的優位」は「勝利の一因」として認めつつも、「作戦術にもとづく戦略次元の優位」(p.224)という原因を提示している。本書の新たな「意義」という側面からすれば、この点の指摘の方が実は重要なのだが(ぼくにとってはそれほど関心を持てない点でもあった)。
何れにせよ、この「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題については、対応する記述が本書にはある。その点をどう評価するかは、読む人がそれぞれ判断すればいい。
そして「スターリンはドイツの侵攻になぜ備えられなかったのか」問題。
ドイツが攻めてくるぞという情報が山のように寄せられていたのに、なぜスターリンは準備をしなかったのか、という問題である。
これは歴史上大変有名な問題なので、諸説ある。
これについても、本書(大木ほん)は第1章第1節「スターリンの逃避」で書いている。7ページにその結論ともいうべき部分を書いているのだが、ぼくは全然納得できない。これはまあ、どんな結論が書いてあるかはここでは明かさないので、それを含めて本書を読んで、皆さんが考えてみてほしい。
ちなみに先に紹介した山崎本ではこの問題は「独ソ戦史における最大の謎」(Kindle 位置No.694)とされている。山崎のいう一つの「可能性」の指摘はこうである。
謀略に長けたスターリンが、実体のよくわからない一連の政治的事件や、諜報機関から寄せられる情報を「深読み」しすぎた結果、事態を必要以上に複雑に解釈してしまい、その結果として史実のような不可解で非合理的な振る舞いを見せたという可能性は、きわめて低いにせよ完全に否定することはできない。(山崎前掲書、Kindle 位置No.749-752)
「待てあわてるな これは孔明の罠だ」状態。
不破哲三の場合は、スターリンの覇権主義的な本質ゆえに、ヒトラーの「4国(独ソ日伊)による世界再分割」構想に惑わされ続けた結果、というものである。
(3)なぜ独ソ戦はこれほどの惨禍をもたらしたのか問題を考える
三つ目。本書を読み始めて気づいた、本書の独特の問題意識への期待。つまりなぜ独ソ戦は地上戦としての最大の惨禍をもたらしたのか、ということだ。
本書はこの理由について世界観戦争=絶滅戦争という性格を持っていたからだという説明をする。
本書はこの角度からドイツ側がソ連軍・ソ連住民に対して行った絶滅戦争・収奪戦争の性格を明らかにする。それが本書第3章だ。また、それが戦争の終盤になってどのように変化したかを第5章でも追っている。
特に第3章は「なぜ独ソ戦は地上戦としての最大の惨禍をもたらしたのか」の回答として、入門者としては学ぶことが多かった。
なお、戦争の末期に世界観戦争(絶滅戦争)・収奪戦争・通常戦争という3要素のうち、通常戦争の要素が後退して「絶対戦争」化するという大木の規定については、問題の理解をかえって難しくしてしまっているのではないかと感じた。
というのは、相手を絶滅させるという戦争の仕方が実はクラウゼヴィッツの「絶対戦争」のカテゴリーに当てはまっていると規定した大木の本書での提案よりも、要は通常戦争ができなくなり、絶滅戦争・収奪戦争としての性格だけが残ったと考えた方が理解しやすいからである。ヒトラーの戦争中盤以降の軍事的非合理な戦争指導は絶滅戦争への固執ゆえに起きたとする大木の論述にはあまり説得力を感じなかった。
シロート考えで言わせてもらえば、ヒトラーの戦争指導の非合理化というのは、ドイツの支配層の意思でもなく、ナチの意思でもなく、ただヒトラー個人が非合理になったという話ではないのだろうか。つまり戦争の性格から説明されるべきものではなく、個人の誤りとして説明されるべきだということ。
本書にも記述があるように、ドイツ軍周辺でヒトラーの暗殺計画が繰り返し企てられていることは、通常戦争を戦おうとする意思がドイツ軍やその周辺にあり、ヒトラーの無謀な戦争指導への反抗・反逆の力が働いていたと見るべきだ。つまり戦争中盤以降ヒトラーの個人的な戦争指導の誤りが累積していき、それに反抗する運動はあったが、是正(暗殺)が間に合わなかった、ということである。
大木は、こうした軍周辺の反ヒトラーの動きとは別に、絶望的な戦況になってもドイツ全体が抗戦を続けた理由を「近年の研究」(p.211)の成果として第5章で書いている。一言で言えば、ドイツの占領・併合地からの収奪によって特権的な経済水準を得ていたドイツ国民全体がナチ体制の「共犯」であったがゆえに敗北必至となっても戦争以外に選択肢がなかったというのである。
しかし、大木自身が、ドイツ国民がその共犯性について「意識していたかどうかは必ずしも明白ではないが」(p.212)と留保をつけているのに、その結論はおかしくないだろうか。しかもそれが「今日の一般的な解釈」(p.212)なのかいなとちょっと驚いた。いや本当にそういうものが通説なのかもしれないけど、そこの理屈は残念ながらよく見えなかった。
「なぜこんなに(ドイツ側)犠牲者を増やしてしまったのか」という点についての、ソ連側に関する説明もやはり3章と5章で行なっている。一言で言えば、イデオロギーとナショナリズムを融合させることで、無制限の暴力を発動させたからだ(p.211〜212)。特に報復感情をそのままナショナリズム、というかショービニズムに結合させて、憎悪を煽った手法を指摘している。
作家イリア・エレンブルグの扇動文は本書(大木本)で2度も引用されている。前述の『戦争は女の顔をしていない』でもエレンブルグの文章については「誰もが読んでいた。暗記したものさ」という女性兵士の証言が載っている(同書p.175)。ついでに言えば、ドイツに攻め入ったソ連軍の女性兵士は「見よ、これが憎むべきドイツだ!」という札があちこちに立てられているのを見たという複数の証言が『戦争は女の顔をしていない』の中で登場する。ソ連軍が憎悪を掻き立てるために意図的に行ったのではないか。
まあ、いろいろ書いてきたのだが、「なぜこんなに史上類を見ない惨禍をもたらしてしまったのか?」ということについて、ドイツ側については「絶滅戦争」という観点から、ソ連側はイデオロギーとナショナリズムを融合させた報復感情の正当化という観点から説明する。
これは批判するにせよ賛同するにせよ、ぼくのような独ソ戦についての入門者・初学者にとっては大事な出発点になりうる。
以上、シロートであるぼくの勝手な三つの観点からの本書の感想である。
関連してであるが、最近ある新書についてその記述の正誤が取りざたされ、それで評価を著しく下げるという話が世の中で出ている(もちろん本書の話ではない)。一般論として、専門家の目から見るとそうなのかもしれないが、ぼくのような初学者からすると、新書に期待していることは「問題の骨格」がわかることであって、その骨格を得れば、それに新しい研究成果などを付け加えたり組み替えたりしていけばいいのだから、「細かい正誤」というものはあまり気にならない。あえて語弊があるように言えば「多少間違っていても、わかりやすく骨格が理解できる方がいい」程度の思いがある。だから最新研究の反映かどうかも、あまり強い関心はない。いやまあ、わかりやすくて、なおかつ正確で、さらに最新研究が反映されていれば言うことなしですけどね!
本書について言えば、上記でいろいろ異論や納得できない点を書いたけども、それはある意味「細かい話」であって(むろん「間違っている」という指摘をぼくのような初学者ができるわけはない)、初めてこのテーマを学ぶ人が骨格を得るためにはとても役に立つ本だと感じた。
*1:本書ⅳ、ただしドイツ側は他の戦線も含む。