スターリンは意気消沈していたのか問題

 大木毅『独ソ戦』には独ソ開戦時のスターリンの様子については何も書かれていない。

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 独ソ開戦時に“スターリンが意気消沈していた”説について、不破哲三は『スターリン秘史』で批判をしようと企てていた。

 

 

 

 『スターリン秘史』4、p.88、「スターリン“意気消沈”説(フルシチョフ)の誤り」という節である。

 不破が自著で批判した“スターリン意気消沈”説とは、ここに「(フルシチョフ)」とあるように、基本的にはフルシチョフが秘密報告や回顧録で述べているもので、ドイツの侵攻に対して意気消沈し、

スターリンは長いあいだ実際に軍事活動を指導せず、一般に活動をやめてしまいました。(『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫、p.85)

というものである。不破はメドヴェージェフも『共産主義とは何か』(1968)でこの説を補強しているとしている。*1

 

共産主義とは何か〈下〉 (1974年)

共産主義とは何か〈下〉 (1974年)

 

 

 メドヴェージェフ的な定義で言えば、「六月二三日から七月はじめまでの数日のあいだ、国家と党の首長としての任務についていなかった」(メドヴェージェフ前掲書下巻、p.364-365)という部分であろう。

 

 後日自分の立場を改めたロイ・メドヴェージェフとその兄ジョセフ・メドヴェージェフによる共著『知られざるスターリン』(現代思潮社、原著2001)では、このフルシチョフの説に影響されている人々のリストがある。

 

知られざるスターリン

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 ジョナサン・ルイスフィリップ・ホワイト、アラン・ブロック、『オックスフォード第二次世界大戦百科事典』などである。

 すなわちフルシチョフによるスターリン“意気消沈”説は相当大きな影響力を持っているというわけだ。

しんぶん赤旗」(2015年10月19日付)紙上で、不破と鼎談している山口富男は次のように不破の連載の意図を語っている。

 山口 話を独ソ戦に進めましょう(第17章)。独ソ戦をめぐっては、スターリンが開戦時に“意気消沈していた”とか“戦争指導では無能だった”とかいう説が影響力を持ってきました。今度の研究で不破さんは、こういう俗論を打ち破ることに力を入れています。そうしないと、スターリン覇権主義の実相をつかみ出せないという問題意識が強くあったのではないでしょうか。

 

 つまり、スターリン“意気消沈”説への反論は、独ソ戦の中心の解明点の一つだと不破らは考えているようである。

 

 ただ、フルシチョフの回想録がろくでもない誇張や誤りを含んでおり、歴史の根拠資料としては使えない、ということはすでに専門家の間でも広く合意がある。

 例えば山崎雅弘は『新版 独ソ戦史』の「あとがき」でもこう述べている。

 

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

 

 

 

 独ソ戦史の研究では長い間、ドイツ軍の侵攻にショックを受けたスターリンが呆然自失の状態となり、丸々一週間近くも指導部の実務から離れていたと信じられてきた。これは、スターリンの政治的後継者であるフルシチョフが「スターリン批判」の文脈で述べた説明を、多くの歴史家がそのまま鵜吞みにした結果だったが、ソ連崩壊後に進んだ研究により、そのような説明は全く事実に反するものであることが確認された。

 例えば、パヴェル・スドプラトフ、アナトーリー・スドプラトフ『KGB衝撃の秘密工作』の巻末には、一九四一年六月二十一日から二十八日のクレムリンへの要人来訪を記した公式記録が収録されているが、スターリンは独ソ開戦の六月二十二日以降も、なぜか表舞台には出ないよう配慮しながら、党要人や軍の最高幹部に応対し、各方面からの報告を受けるなどの実務をこなしていたことが確認できる。

 六月二十九日にスターリンが国防人民委員部に乗り込み、ティモシェンコジューコフ相手に罵声を浴びせるくだりは、ConstantinePleshakovStalin'sFolly:TheTragicFirstTenDaysofWWIIontheEasternFrontや斎藤勉・産経新聞スターリン秘録』を参考にした(後者は当時のソ連政府要人ミコヤンの回想録などに基づいている)。(山崎雅弘『新版 独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌』Kindle 位置No.4203-4214)

 不破が反論に使っているのは、主に次の3つだ。

  1. ジューコフの回想録
  2. ディミトロフの日記
  3. 1990年代に明らかになったスターリンクレムリン執務室の訪問記録

 このうち1.と3.はメドヴェージェフ兄弟の『知られざるスターリン』(現代思潮社、原著2001)で詳述されている。2.は不破が手に入れてこの問題と関連づけて論じたものである。ロイ・メドヴェージェフはこの2001年の『知られざるスターリン』で1968年の自著『共産主義とは何か』の記述を事実上否定したのである。

 不破の反論は、要するに開戦から6月28日までスターリンは旺盛に指示を出し人と会っていて、およそ意気消沈などしていないというのである。

 そして、29日と30日にはクレムリンには出ていない。執務室の訪問記録にも訪問者名がないのである。

 しかし、ジューコフの回想では、29日にスターリンは国防人民委員部・最高総司令部を訪れ、ジューコフとやりあっている。この点では不破と山崎は一致している。

 そして30日夜については、不破は「別の文書で確認」と典拠を明らかにしていないが、郊外の別荘でモロトフ・ベリヤ・ミコヤンら党幹部と会い、国家防衛委員会の立ち上げを決めている。この「別の文書」とは、他の歴史家が典拠にしているのを考えるとおそらくミコヤンの回想メモであろう。

 この30日の状況は、ぼくが手にした『知られざるスターリン』、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち 下』(白水社)でも出てくる。これらはミコヤンの回想が根拠になっていると思われる。

 

スターリン―赤い皇帝と廷臣たち〈下〉

スターリン―赤い皇帝と廷臣たち〈下〉

 

 

 

 こう考えてくると、次の2つのことが見えてくる。

  1. フルシチョフを根拠にして「スターリンは開戦後1週間は“意気消沈”して公務を放棄していた」という説が誤りであることは、ほぼ決着がついた。
  2. しかし、6月29日と30日の「クレムリン不在」については事実であるが、その解釈は分かれており、そのために6月30日まではスターリンは不安定であり不安だったのではないかと考える人がいる。

 先ほど挙げた不破との鼎談者の一人である石川康宏は、その鼎談で、前述の山口の発言に続いてこう述べている。

 

 石川 昨年、“スターリンの実像に迫る”という新書本が出版されましたが、それもスターリン“意気消沈”説でしたね。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-19/2015101907_01_0.html

 

 石川が指摘する「昨年、“スターリンの実像に迫る”という新書本が出版」というのは、横手慎二『スターリン』(中公新書)のことであろう。

 これについて、直接不破が何かコメントはしていない。

 

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

 

 

 横手本には、このくだりはp.220-221に少し書かれているだけだが、こうある(強調は引用者)。

……開戦が事実だと確認されると、彼はショックを受け、しばらく陣頭指揮を取ろうとしなかった。そうではなかったと主張するロシアの歴史家もいるが……スターリンが立ち直り始めたのは六月三〇日のことで……

 横手が反証として持ち出しているのは、開戦の事実を伝える国民への演説をスターリン自身がせずにモロトフにやらせたことだ。「肝心なときに国民に訴える任務を回避したのである。この事実こそ、このときのスターリンの姿を示している」(同p.221)。

 言葉足らずなので、ぼくが解釈してやる必要はないが、横手はフルシチョフの回想録があてにならないことも知っており、そのことをめぐる論争も承知しているのではないかと思う。

 その上で、6月30日まではスターリンはショックを受けており、不安な中にいたのではないかと横手は推察しているのだろう。モロトフの代理演説は横手があげる根拠の一つであるが、もう一つ上げているのは、6月30日に党幹部が郊外の別荘を訪ねてきた時にスターリンは「自分は逮捕されるのではないか」と怯えている様子のエピソードである。

 これは先も述べたとおりミコヤンの回想が根拠となっており、ぼくが読んだほとんどの本で紹介されている。

 しかし、不破だけは紹介していない。根拠がはっきりしていないと考えたのか、それとも、スターリン“意気消沈”説批判には都合が悪いからだろうか。

 

 これらの情報を織り込んで、整合的な説明をしていると思われたのは、山崎である。

 山崎は、スターリンは戦況に怒りながらも初めの1週間は「クレムリンで通常どおりの執務」をしていた。

 しかし、

彼はまだ、ドイツ軍とソ連赤軍の間に存在する圧倒的な戦闘能力の差を認識しておらず、先の図上演習で見られたように、やがて赤軍の反撃が始まり、戦場は西へと移動してゆくだろうと予想していたのである。(山崎前掲書Kindle 位置No.1053-1055)

 それが6月28日の西部方面軍の壊滅、ベラルーシ制圧によって大ショックを受け、「激昂して『わしは指導部から手を引く』と言い残して、クレムリンを出てモスクワ郊外の別荘へと帰ってしまう」。29日にジューコフに会いに行くのも、報告は求めつつも、最終的にはわめき散らして帰ってくるのだ。そして車の中で党幹部らに「レーニンの遺産を台無しにしてしまった…」と弱音を吐く。

 こうして30日への流れとなる。

 クレムリンに出てこないスターリンモロトフ、ベリヤ、ミコヤンら幹部が訪問し、スターリンは初め自分が逮捕されるんじゃないかと怯えていたというのである。*2

 

 結局、今の時点でのぼくの結論はどうなのか。結論から言えば「6月30日は意気消沈していた」と言えるんじゃなかろうか。

  1. 当時モスクワにさえいなかったフルシチョフがひどく単純化したスターリン“意気消沈”説は明確な誤りである。
  2. しかし、開戦から28日までは「陣頭指揮」は取らずに様々な指示を出したものの、6月28日のドイツ軍のベラルーシ制圧でスターリンは大ショック。翌29日には状況を確認するけど悪化するだけで、国防人民委員部に出かけてジューコフらに話を聞きに行ったというか、怒鳴りつけに行った。そして、帰りの車で「もうわしゃ引退する」「レーニンの遺産、全部パー(ソ連は終わり)」と泣き言。30日は別荘で引きこもり。幹部らたちが国家防衛委員会による合議体制を提案しに行った……というところではないか。
  3. 国家防衛委員会は、スターリンを排除するのではなく、逆にスターリンがトップであることを確認するものだ。しかしスターリンが今回のようにショックを受けて引きこもってしまい決裁しないと何も進まない体制ではヤバいと感じ、もしスターリンが機能しなくなってもなんとか決裁は出せる仕組みを作ったのである。「国家防衛委員会はスターリンが一人で物事を決めることを妨げはしないが、その結果に対する責任は分かち合った」(『知られざるスターリン』p.405)。
  4. つまり28-30日についてはスターリンは意気消沈していたっぽく、30日はかなり深刻だったと言える。マジで逮捕・失脚の可能性も感じていたんじゃないかと思う。だから、ミコヤンやベリヤの証言が「意気消沈」的なもので一致するのである。*3

 

 

*1:なお、不破が『スターリン秘史』4(初版)でこの著作を「メドヴェージェフ兄弟」の著作としているが、正しくは双子の弟であるロイ・メドヴェージェフの方ではないだろうか。また、原タイトルも不破は『スターリン主義の起源と終結』としているが、「Let History Judge: the Origins and Consequences of Stalinism」での「Consequences」は「終結」よりも石堂清倫の訳通り「帰結」もしくは「結果」とした方がいいのではないだろうか。つうか「歴史の審判」「歴史に裁かせよ」がメインタイトルでは?

*2:横手が根拠の一つとしているモロトフの代理演説については、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』によればモロトフの回想的発言が紹介され、スターリンが演説を繰り返し拒否したのは事態の全容が明らかになってからするのがスターリン流だからだ、という趣旨の発言をモロトフがしている。

*3:ただ、モンテフィオーリはそれさえもスターリンの演技の可能性があったことをほのめかしているのだが。