有間しのぶ『その女、ジルバ』

 「しんぶん赤旗」日曜版2019年7月28日号で今年連載している、もしくは刊行が完結した「戦争マンガ」を書評した。

 以下の4作。

 

 有間しのぶ『その女、ジルバ』は不思議な作品である。その不思議さについては、同紙の方で書いたので、ぜひ読んでほしい。

 40になってデパートの売り場から「姥捨て」と言われる倉庫係に異動させられた主人公が、超高齢のホステスしかいないバーで夜のアルバイトを始める物語だ。

 1巻37ページに次のようなコマがある。

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有間前掲書、1、小学館、37ページ

 「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」と語る客の一人は表情を見せない。見せないことでこのセリフに普遍性が生まれる。

 直接にはおそらく福島であろうが、原発事故によって年老いた両親が暮らせなくなったことが暗示されている。

 しかし、このセリフは、単に原発事故だけではなく、その右下で主人公(アララ)が自分の境遇に引き寄せた共鳴をしているように、いろんなことが仮託できる。

 ぼくは年金のことを直ちに思い出した。

 老後のために2000万円貯める必要がある、というレポートが話題になったが、これをめぐって「年金だけで暮らせるわけないじゃないか」という意見も出た。

 実際日本の高齢者の働く率は高い。

 

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 働くことは社会とつながる方法であり、好きで働く人はそれでいいのだが、働かないと生きていけないという人たちにとって、なかなか過酷なことだと思う。

 前に都留民子『失業しても幸せでいられる国フランス』を紹介したことがあるが、その中に「フランス人にとって定年・リタイアは?」という節がある。

 

 これはね、フランスの退職者に対するカードです。訳すと、こう書いてあります(一部省略)。

 

 退職年金の時!

 

 自由な君がいる。

 自由と時間を支配する君が

 自分の時間を費やす君が

 フルタイム生活の君が…

 

 いつも二十歳(はたち)

 永遠の春のまっただなかの生活

 風が吹くまま時の流れに身をまかせる時…

 退職・自由・ルネッサンス

 君のために、すべてが再生する。

 そこは、快晴! 定刻どおり、それを享受したまえ!

 獲得したのだ、君は…

 ずっと…

 

 「ルトレット」って退職っていうこと、年金をもらうことになったね、おめでとうって。こういうカードをみんなが贈るんです。

 カード屋さんでいろいろな種類のカードを売っています。

 もっと素敵なものもいっぱいあったんですけど、みんなにあげたの。〔…中略…〕

 フランスでは定年退職が非常な喜びなんです。定年後再就職なんて聞いたことがありません。日本だったら定年後どうやって暮らしていこうとか不安がいっぱいじゃないですか。〔…中略…〕

 フランスでは65歳過ぎて働いているのは、1.3%しかいません。*1管理職、それも社長とか副社長、それに政治家かしら。働いていない人はみんな悠々自適ですよ。(都留前掲書p.80-83)

 老後になったら、もう年金だけで悠々自適に暮らしたい、と思うことはぜいたくだろうか。 貯金が尽きる心配をしながら、働くかどうしようか迷う日本社会のことを思い、「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」というセリフを噛み締めるのである。

 

 戦前のブラジル移民の過酷な人生と、現代のアラフォー女性である主人公・アララ(笛吹新)の人生は重ならないように思える。しかし、例えば、この客のセリフ「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」を媒介にして物語を見直し、人生というものを見直すと、そこに奇妙な重なりが生まれてくる。

 その「妙」を味わう作品である。

*1:これは2010年の本なので、今は上記グラフのようにもう少し上がっている。

えっ、「野党5党派で政権交代を目指す」!?

 これホントに言ったの?

立憲民主党枝野幸男代表は21日夜、野党共闘について「3年前に(参院選で)初めてこういった形を取った時よりは、いろいろな意味で連携が深まっていると思っている」と評価した。そのうえで「この連携をさらに強化して、次の総選挙ではしっかりと政権選択を迫れるような状況を作っていきたい」と述べ、立憲民主、国民民主、共産、社民、衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」の野党5党派で政権交代を目指す考えを示した。

https://www.asahi.com/articles/ASM7Q00R4M7PUTFK016.html

  っていうか、直接それを示す文章がないけど、「野党5党派で政権交代を目指す考えを示した」っていう含意で解釈していいの?

 いや、批判しているわけじゃなくて、これはなかなかスゴいことだと思う。

 共産党が加わっての政権協議が始まれば、それは歴史的なことだ。

 

 今回の選挙は改憲に必要な3分の2を割らせたし、野党共闘をした1人区で3年前とほぼ同じ10の区で勝利した。それはそれで大事な成果である。

 ただ、現状では限界があることも確かである。

 自公を少数にできていないのだから。なぜか。

 

 前からずっと言ってきたことだけど安倍政権が続いている一番大きな原因は、野党側が「政権」という形のオルタナティブを示せていないからだ

 ある意味で、安倍首相が言う「安定か混迷か」「当選したらまたバラバラ。あの混乱の再現」という野党批判には「道理」がある。

 それができてこなかったのは、野党内に「共産党が入った政権」を嫌がる向きがあって、話が進まなかったのである(ゆえに2017年総選挙直前に「共産党外し」をして野党共闘を壊す「希望の党」騒動が起きたのだ)。

 ところが、今回の枝野の言明は額面通りであれば、これを乗り越えるものだ。画期的。すばらしい。

 

 

 野党は、まず「共通した代替の政権像」を示せて初めて政権交代の第一歩を踏み出せると思う。

 逆にいうと、これが示せていない段階で「若者が安倍支持をするのは……だからで〜」とか「リベラル・左派がしょうもないのは……だからであって〜」的な意見にあまり過剰に付き合う必要はない(もちろん、聞くべき点はあるし、それはそれで参考にして改善すればいいとは思うが、とらわれすぎないほうがいい)。そんなことより、まず政権合意をつくるほうが先だ。確かな代替案が見えないから安倍政権支持が続くことが主要な問題であって、示せれば状況は変わると思う。

 

 実は、今回の参院選で、市民連合を通じた「共通政策」は合意されている。

shiminrengo.com

 

 「まだ具体的ではない」という意見もあるとは思うが、これは、自民党公明党が政権を奪取した時の政権合意と比べても、具体性にそれほど遜色があるとは思えない。

https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/pdf083.pdf

 

 しかし、これは政権合意ではない。あくまでもこの選挙での候補者が今後6年間どう活動するかということの縛りでしかないのだ。

 しかも、前述の通り、野党に対する「混迷」「バラバラ」という安倍・自公の批判には一定の「道理」があり、国民の意識(不安)が反映していることはしっかり見ておくべきで、細かいことをあれこれ詰めるのではなく、次のような原則や戦略方向がきちんと確認されておくべきだ。

 

 (1)政権の戦略・イメージ

 まず、政権の戦略・イメージである。

 要は、松竹伸幸が指摘する「どういう未来を見せられるか」問題だ。

 もともと野党連合政権は、「安保法制廃止・立憲主義の回復」から出発した。いわば「暫定的政権」「緊急避難的政権」が議論のスタートだった。つまり、「基本政策はぜんぜん一致しないけど、安保法制をなくし、現憲法下での集団的自衛権の行使を再び禁じるまでとにかく戻すということで緊急避難的に政権つくろうぜ」という性格の政権(構想)だったのである。

 しかし、もはやそういう緊急避難的政権をとりあえずつくろうという話ではなくなっている。「安倍政権に代わる政権をどうつくるか」っていう話に発展しているのだ。だとすれば、それはすでに経済、外交・安全保障、民主主義など全般にわたる「本格政権をどう作るか」という議論でなければならない。

 「共通政策」は消費税増税中止などを盛り込んでいてけっこう問題の根幹に触れているものの、一体その野党連合政権は何を目指しているのか(どんな日本を作ろうとしているのか)、は今ひとつである。それを国民にわかりやすく示さなければならない。

  それは一言で言えば、国民民主党が掲げている「家計第一」、つまり、安倍政権が大企業サイドの歪んだ成長を追求しているのに対して、野党政権側は、分配と持続的成長を対置する…などの方向ではなかろうか。

  「薔薇マーク」キャンペーンなどが指摘するように、経済についての戦略方向を鮮明にしてそこをメインにした政権イメージを示すべきだと思う。

 市民連合との「共通政策」で言えば「消費税増税中止・原発再稼働中止・改憲中止の緊急政権」的な打ち出しになってしまうかもしれないが(この3テーマはもちろん国政上の根幹をなす政策だから、決して瑣末なものでないことは確かだが)、狭い左翼業界はそれで良くても一般国民からはそれが一体どういう日本を目指している政権であるのかはわかりにくい。

 ただ、これだって単純にはいくまい。なぜなら、安倍政権は曲がりなりにも「最低賃金のアップ」「幼児教育の無償化」「大学の無償化」「相対的貧困率の改善」などを進めているからだ。もちろんそれへの批判はある。が、まだ政権を担当していない側が、その批判を込みで、説得的な対案として示せるかどうかが次の問題なのだ。

 「一致点にもとづくことが大切であって、無理に政権イメージまで共有させる必要はない」という意見もあろう。もちろん「一致点にもとづく共闘」という原則を壊す必要はないし壊してはいけない。しかし、政権が何を目指すのかというイメージが簡単かつ効果的に伝えられない場合は、自公を超える評価を得ることは難しいのもまた事実ではないだろうか。できればそこまで進んで欲しい。

 

(2)財源の大きな方向性

 次に財源の大きな方向性についての確認が必要だ。

 国民はこのことを気にしている。そしてそれは健全な心配だ。野党はそれぞれなりに対案を出しているが、問題は、それを一致した方向性の合意にできるかどうかだ。

 例えば、国民民主党の政策というのは、経済政策を見るとぼくなどはかなり納得できるし、ぼくが選挙に出た時に打ち出した政策とすごく近いなと思って見ていたが(家賃補助とか家計第一とか)、財源論で急に不安になった。「こども国債」の発行だからだ。

 今合意されている「共通政策」には「所得、資産、法人の各分野における総合的な税制の公平化を図る」しかない。このあたりは大企業・富裕層への課税方向を明確にするなどのもっとしっかりした確認がいる。

 例えば立憲民主党枝野幸男)は次のような踏み込みをしている。

「過去最高の利益をあげている企業が法人税を十分に払っていない。法人の所得税、金融所得、こうしたところへしっかりと課税をして、まず払える人から払っていただく」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-07-11/2019071101_04_1.html

 しかし国民民主党は必ずしもそうではあるまい。そこはどうするのか。

 

(3)安全保障はメインではないが不安を解消すべき

 先述の通り、野党共闘はもともと「安保法制廃止・立憲主義の回復」から出発しているので、ついそれをメインに打ち出したくなるが、しかし、「国民が強く望んでいること」との関係ではメインとは思われない。もちろん、政権構想の中にはきちんと入れる必要はある。あくまで「食いつき」問題である。

 ただし、安全保障分野は、野党に対する国民の「不安」の中心点であり、メインに打ち出す話とは別に、その不安を払拭できるようにしっかりと原則を確認しておく必要はある。

 例えば、共産党は安保条約廃棄や自衛隊解消・違憲論は取らないことをすでに明確にしているが、そのことを再確認すべきだろう。

 しかし、それだけでは十分ではない。

 国民が本当に心配しているのは、松竹伸幸らが指摘しているが、自衛隊や安保をきちんと運用できるかどうかなのだ。例えば核兵器禁止条約一つとってみても、核抑止力論への賛否が絡んでくるので、野党内で合意ができなければ、新たにできる野党連合政権はこの条約を批准をしないことになる。そこを国民に説明できねばならない。

 「安保条約廃棄をしない」とは安保条約を「凍結」することだが、「凍結」とは動かさないことではなく、現政権(安倍政権)と同じ運用をするということだ。新政権内で合意できる改善(例えば思いやり予算の削減など)はすればいいが、それすら合意にならない場合は、安倍政権と同じ方針で運用することを正直に国民の前に言っておく必要がある。

 ただ、共産党は前々からそのことは言っている。

安保条約の問題を留保するということは、暫定政権としては、安保条約にかかわる問題は「凍結」する、ということです。つまり安保問題については、(イ)現在成立している条約と法律の範囲内で対応する、(ロ)現状からの改悪はやらない、(ハ)政権として廃棄をめざす措置をとらない、こういう態度をとるということです。

https://www.jcp.or.jp/jcp/yakuin/3yaku/FUWA/fuwa-iv-0825.html

 「現在成立している条約と法律の範囲内で対応する」とは安保条約を使うということである。 

 

(4)戦略が合意できないなら変えないことも

 安全保障に限らず、合意できないものは変えてはいけないのは当然である。

 しかし、仮に野党内の合意ができても、問題によっては戦略(大きな方向)が合意できない場合には、いたずらに動かすべきではないものもある。

 例えば年金問題はその一つだろう。

 共産党マクロ経済スライドの廃止を掲げ、財源論として高額所得者優遇の保険料是正などを掲げた。これに対して立憲民主(枝野)は次のように述べている。

「年金制度は、どういう制度に変えていくにしても、幅広い与野党の協議が必要。志位さんのおっしゃっている提案は、まだわれわれは精査できていませんが、一つのアイデアだと思っている」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-07-06/2019070605_02_1.html

 あくまで検討課題に過ぎない。国民民主も同じだろう。

 つまり、未だこれは合意ではないのである。

 「共通政策」の中にも年金はない。

 だとすれば、年金は動かさない方がよい。年金のようなものは、野党として共通して確認できるビジョンがあるなら切り替えてもいいと思うが、中途半端な部分合意で動かすのは確かにあまりよくないからである。

 動かさないということは、マクロ経済スライドすなわち共産党のいう「減る年金」を野党連合政権になっても続けるということだ。

 金融緩和も同じである。野党内でこれをどうするかについて合意ができなければ、黒田金融緩和の方向は続けるしかあるまい。

 

 もちろん、共闘は一致点に基づいて行うものだから、一致できないものを無理に一致させることはできない。

 しかし、上記の4点については原則をどうしておくかよく確認しなければ、国民の不安には応えられまい。超具体的に言えば、テレビ討論で安倍にツッコミを入れられるのは間違いない。

 

*     *     *

 

 総選挙は政権を選択する選挙になる側面を必ずもつ。

 それは決して遠くない。

 そうだとすれば、政権合意をつくって国民に示し、それに基づいて小選挙区の統一候補を決め、活動を浸透させていくことを考えると、残された時間はあまりない。

 共産党も入れて協議を開始すると決めたのなら、いち早く協議に入るべきだ。もちろん「れいわ新選組」も基本方向に合意できるなら、一緒にやっていった方がいい。

 1回では変わらないかもしれない。だが、まずは政権協議を始めることだ。

 

*     *     *

 

 以下は余談。

 今回の参院選挙でぼくが自分の直接関係する選挙区以外で注目していたのは、高知・徳島選挙区の松本けんじであった。

 松本はもともと共産党候補であったが、野党統一候補となって、合意によって無所属となった候補である。それが今回40%得票したのに正直驚いた。

 「共産党出身」でも、統一候補としてここまでやれるんだという意味で、なのだが、それだけではない。

 演説は(音楽の)ライブに似たところがあり、いい演説には、人が立ち止まったり振り向いたりする。中身だけでなく、声質とか口調とか見た目とか、そういう総合的なもので決まる。

 ぼくはネットで見ただけだったが、演説がぼく好みなのだ。こういう感じで訴えたいものである。

  中身についても、安倍政権の「働き方改革」について、それ自体は反動的な性格を持っているのに、同時にそれが世の中の進歩の表現だと把握する見方(12分14秒あたり)に深く同意する。

www.youtube.com

 

オカヤイヅミ『ものするひと』

 あるテレビ番組に出演したとき、自分の肩書きを「作家」と紹介されたことがある。

 事前に「肩書きは何にしましょうか?」と問われ、著作の名前を挙げて「『……を書いた紙屋高雪』ではどうでしょう」と提案したのだが、相手は「ご著書は紹介するんですけどね…」と「今ひとつ」感を隠さなかった。

 そして「作家」を提案してきたのである。

 「ライター」なども対案として出してみたけど、結局「作家」という肩書きになってテロップが出た。もちろん、最終的には承諾したわけだから、ぼくの責任なんだけど。

 おそらく名だたるタレントがいるところにゲストとして呼ぶので、「ライター」という「軽い」感じの肩書きでは「なんでコイツ呼んでんの?」的な不釣り合いさが出てしまうため、番組側がいろいろこだわったのではないかと今になって推測する。

 しかし……。

 「作家」ですか……。

 拭えない違和感。

 

 『大辞泉』にはこうある。

芸術作品の制作をする人。また、それを職業にする人。特に、小説家。

 いやいやいやいや、「芸術作品」は制作していない。小説も書いていない。

 『旺文社国語辞典』では

詩歌・小説・戯曲・絵画など、芸術作品を創作する人。特に、小説家。

とあり、やっぱり「芸術作品」だ。やってません。

 しかし、一縷の望みが『大辞林』にある。

詩や文章を書くことを職業とする人。特に、小説家。 「放送-」

 あっ、これならイケる。「文章」だもん。

 「職業」を規定している辞書とそうでない辞書があるようだが、少なくともぼくはお金を得ているので「職業」と言っていいだろう。全然メイン収入じゃないけど。

 辞書は何かのお墨付きではない、と叱られそうだが、世の中の言葉の使い方の一つの観察結果には違いない。うんうん、俺は嘘は言ってないよね。作家だ作家。とまあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアクロバティック極まる「定義の綱渡り」を使い、「作家」という船の端っこに潜り込んで密航した気分であった。

 

 肩書きに偉ぶらなさを出そうとしたり、規定の枠を越えようと意識しすぎたり、従来のイメージを拒否しようとしすぎたりして、「まちあるきアナリスト」とか「政治経済ソムリエ」とかみたいな、謎肩書きになってしまうのもどうかとは思うが、本当に新しい肩書きを用意するしかない時に「珍奇」さを避け過ぎようとするのも逆に「高二病」っぽくてアレである。

 飯の種、すなわち「ライス・ワーク」の職業上の肩書きはなんの外連味もなく紹介できるのに、こういう副業感溢れる仕事の肩書きにはどこかしら面はゆさが残る。

 

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

 オカヤイヅミ『ものするひと』の主人公スギウラは小説家である。

 小説家。

 ちゃんといい肩書きがあるじゃん、とは思うけど、純文学の新人賞を取ったほどで、締め切りがあるというわけでもなく、バイトで生計を立てているスギウラにとっては「作家」という肩書きには違和があるようだ。

 本作を批評した富永京子は「生計を立てる活動を仕事と見なす感覚は、私たちに深く根付いてもいる」*1として、スギウラの次の逡巡に注目する。

今 事件をおこしたら「東京都中野区30歳アルバイト」かな

賞をとったら? 雑誌に載ったら? 本を出したら? 生活できたら? 「職業/作家」ですか? 

 しかし、「たほいや」という辞書を使った遊びを楽しみ、ネオンの文字を見て物思いにふけってしまうその主人公の所作を、富永は本作で注目し、次のように評している。

それこそが、彼が毎日「言葉のことを考え」、「書いて読まれる仕事」をしている他ならない証左でもある。

  富永が指摘するように、本作は最後まで読んでもスギウラに明確な「作家」の自覚が訪れるわけでもなく、はっきりしたオチがあるわけでもない。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

 作家という「普通じゃないもの」と「普通のもの」との線引きの曖昧さを「ゆるやかに揺るがす」(富永)だけなのである。

 「ものするひと」というタイトルの秀逸性はそこと関連している。

 「ものする」は、辞書(大辞林)で引けば、

文章・詩を作る

 という意味もあるが、

何らかの動作・行為や存在・状態を、それを本来表す語を用いずに遠回しにいう語

 でもあり、それは「何かの動作・行為をする」ことであったり「移動する」ことであったり「存在する」ことであったり、要はまことに茫漠としている。この言葉自体が、文章にたずさわるという特殊性(普通でなさ)と、世の中の行為全般を曖昧に指す一般性(普通さ)とを一語で体現しているのだ。

 

ものするひと 3 (ビームコミックス)

ものするひと 3 (ビームコミックス)

 

 

 だけど、「作家」などという肩書きをあやふやに持ち込んでいる、五十近いオジサンであるぼくは、この物語をゲヘヘとか思って読んでいる。

 スギウラみたいになりたいな、という欲望として。

 一つには主人公スギウラがそうした世俗的な「作家」自意識から超然としていることである。言葉にだけこだわってつい目が向いてしまうなどという姿って、カッコよすぎじゃないですか? 

 そして、もう一つは、女子大生でシロートのアイドル活動などもしている(つまり「かわいい」のである)ヨサノがそうしたスギウラに惹かれていくくだりである。自意識が全くないわけではないスギウラだが、やはり基本は俗世から距離を置いている。言葉のことを考え続ける「普通でなさ」がヨサノには魅力に映る。家に来て、スギウラを押し倒そうとしちゃうんだぜ……?

 結局は、スギウラにあこがれながらコンプレックスを抱いている、マルヒラあたりが自分の似絵にはちょうどいいだろう。まさに「スギウラみたいなものになりたいな」と思いながら、スギウラになれはしない自分がそこにいる。

 

*1:朝日新聞2019年7月8日付夕刊。

山本章子『日米地位協定』

この参院選でも日米地位協定は争点

 日米地位協定って、実は今回の参院選挙でほとんどの政党が重点公約にかかげてるんだよな。

 

自民党

米国政府と連携して事件・事故防止を徹底し、日米地位協定はあるべき姿を目指します。

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/manifest/20190721_manifest.pdf

公明党

日米合同委員会合意に基づき運用されている凶悪犯に関する起訴前身柄拘束移転の日米地位協定明記の検討や、基地周辺自治体と基地司令官等の定期協議の開催、また日本側の基地への立ち入り権の確立などを推進し、日米地位協定のあるべき姿を不断に追求していきます。

https://www.komei.or.jp/campaign/sanin2019/_assets/pdf/manifesto2019.pdf 

立憲民主党

在日米軍基地問題については、地元の基地負担軽減を進め、日米地位協定の改定を提起します。

https://special2019.cdp-japan.jp/rikken_vision_05/

国民民主党

日米地位協定の諸外国並みの改定を目指すとともに、辺野古基地建設を見直します。

https://www.dpfp.or.jp/election2019/answer/12

日本共産党

日米地位協定を抜本改正します。

https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/2019-saninsen-seisaku.html

日本維新の会

普天間基地の負担軽減と日米地位協定の見直し

https://o-ishin.jp/sangiin2019/common/img/manifest2019_detail.pdf

社会民主党

米軍、米軍人・軍属に特権、免除を与え、基地周辺住民の市民生活を圧迫している日米地位協定の全面改正を求めます。

http://www5.sdp.or.jp/election_sangiin_2019 

れいわ新選組

真の独立国家を目指します〜地位協定の改定を〜

https://v.reiwa-shinsengumi.com/policy/ 

市民連合と5野党・会派の「共通政策」

日米地位協定を改定し、沖縄県民の人権を守ること。

https://shiminrengo.com/archives/2474

 

「あるべき姿をめざす」ってなんだ?

 ほとんどが「改定」「改正」をめざしているのに、自民党は「日米地位協定はあるべき姿を目指します」となっている。公明党にもこの文言が出てくる。

 あ……あるべき姿……?

 これについて衆院議員・本村賢太郎民進党時代に出した質問主意書で「安倍総理は、(2016年)五月二十五日に行われた日米首脳会談において、『地位協定のあるべき姿を不断に追求していきたい』と述べているが、必要であれば抜本的な見直しも行うと解釈してよいのか」と尋ねたのに対して、答弁書では、

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三十五年条約第七号)は、合意議事録等を含んだ大きな法的な枠組みであり、政府としては、同協定について、これまで、手当てすべき事項の性格に応じて、効果的かつ機敏に対応できる最も適切な取組を通じ、一つ一つの具体的な問題に対応してきているところであり、引き続き、そのような取組を積み上げることにより、同協定のあるべき姿を不断に追求していく考えである。

 と返している。

 なんだかぼくらシロートにはわかんねー話なんだが、要するに「取組を積み上げる」こと、つまり協定を変えるのではなく、「運用の改善」でやっていくという話なのである。*1

 

 地位協定を明文で改定するのか、それとも運用改善でいくのか、が争点になる。

 

 沖縄タイムズは「不平等性が強く指摘される日米地位協定では、自民以外の全政党が改定を掲げた」という見方をした。

www.okinawatimes.co.jp

 「今の地位協定でいい」という人は自民党、改定を望む人は他の党に投票しよう。 

 

密約としての合意議事録

 昔から日本共産党がいってきたことであるし、最近では矢部宏治とか前泊博盛なんかも書いていることだけど、日弁安保条約や日米地位協定の歴史というのは、基本的に占領の、形を変えた継続なのである。条約や協定の明文では、改定によって占領の継続であることを「否定」しつつ、実際には密約や非公開の合意などによって「占領の継続」を保障するというものなのだ。

 

 本書・山本章子『日米地位協定』(中公新書)も、これに近い把握をしている。

 

日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年 (中公新書)

日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年 (中公新書)

 

 

 日本政府の言うように、日米地位協定は、すでに条文として他国並み=NATO並みになっているのかもしれない、と山本は言う。

だが、日米地位協定が「NATO並み」だという主張は、条文の文言については当てはまるが、実際の運用については当てはまらない。(「はじめに」ⅳ)

 あっ、それなら、運用改善のほうがいいんじゃないの……と思うかもしれない。しかし山本はその理由についてこう続ける。

日米安保改定の際に日米両政府が別途作成し、長らく非公開だった「日米地位協定合意議事録」では、日米行政協定と変わらずに米軍が基地外でも独自の判断で行動でき、米軍の関係者や財産を守れる旨が定められているからだ。

 日米地位協定は、条文ではなくこの合意にもとづいて運用されてきた。ここに最大の問題がある。

 日米地位協定への批判は、より対等な改定の要求へと結びついてきた。だが、二一世紀初頭まで非公開だった日米地位協定合意議事録に従って運用されてきた事実は、日米地位協定の改定によって問題は解決されないことを意味する。(同前)

  山本は、合意議事録の撤廃により、協定を明文の通りに厳格に守らせれば「不完全ではあるが協定が抱える問題の大部分は改善されるだろう」(p.211)とする。山本の提案は地位協定改正でもなく、運用改善でもなく、その「中間」のような形をとっている。

 山本は合意議事録が一種の「密約」だから、正統性を持ち得ず、国会審議もされていないので政府間合意とは言えないとしている。つまり、改定・交渉しやすいというのが山本の意見である。

 だが、「日米地位協定」とは「合意議事録等を含んだ大きな法的な枠組み」(先の質問主意書への政府答弁)だ。合意議事録の撤廃は、ほとんど協定の改定、というか協定の本質をいじることになる。山本が「協定の改定ではなく合意議事録の撤廃という形であっても、米国の同意を得ることが困難であることには変わりはない」(p.211)と認めるように、こういう角度から攻めたとしても、闘争がやりやすくなるわけではないだろう。

 

 ただ、本書を読むとよくわかるが、これまで秘密だった(現在は公開されている)合意議事録を完全に撤廃することは、確かに“本文の明文によって正体を隠し、合意議事録でこっそり付け足しをする”という地位協定の本質に触れることになってしまう。だとすれば合意議事録を撤廃することと、地位協定本体を改定することをどちらも追求すればいい。

 特に野党は内容にはあまり詳しく踏み込まずに「地位協定の改定」というのを公約しているのだから、逆に言えば、そこまで進めていくことはできる。

 

 

アメリカが引き揚げてしまうことを「恐れる」がゆえに

 本書を読むともう一つ示唆的なのは、ソ連崩壊以後、安保の意味を見失った日本の支配層が、部分改定を提起したら結局アメリカが引き揚げてしまうのではないか、ということを本当に恐れていることだ。

 そして、NATOでは改定に応じても日本については改定に応じないのは、良くも悪くも憲法9条がある限り、対等で双務的な軍事同盟など期待できないために、アメリカは地位協定の改定には応じないと山本は見ている。日米安保条約とは、軍事同盟とはいうものの、本質的には「基地協定」なのだと山本は指摘している。

同盟条約と基地協定を分離する日本の要望はすべて米国から全面的に拒絶されてきた。このため、在日米軍の撤廃はそのまま同盟関係の解消を意味し、冷戦終結後には日米同盟関係の維持について外務省の不安を著しく煽り、日米安保の再検討につながる一切の動きを自主規制させたのである。(p.172)

 最近、トランプが「安保条約やめよっかなー♪」と言ったと伝えられたが、あれが現実になることを本当に恐れているわけである。

 山本は「日米安保条約を支持する立場」(p.214)である。

 しかし、日米地位協定の現状に批判的な気持ちを持っている。

 日米安保体制を壊さずに、地位協定の見直しを図る道を模索した山本が出した結論は、地位協定本体には手をつけずに、付属している合意議事録の撤廃だった。

 しかしこれはあまりに無理筋である。

 結局、日米地位協定の改定は、安保体制(日米軍事同盟)そのものの見直しにまでいくことを覚悟して進むか、さもなくば、いまトランプが求め、安倍政権がそれに呼応しようとしている「憲法9条を改定して、アメリカとともに戦える双務的な関係に変える」ところにまで突き進むしかないのである。

 本書はどちらかの覚悟が必要であることを教えてくれる。

 

 例えば、これは先の話だが、野党連合政権ができたとして、日米地位協定の改定を提起することはできるだろう。その時、アメリカが拒むに違いない。さらに「これ以上は応じられない。さもなくばもう引き揚げる」と言い出した時に、どういう対応を取るのかという問題になってくる。

 ぼくとしては、その時にアメリカとの軍事同盟をやめていく道を説くのが左翼の役目だと思っている。まあ、今はそこまで心配する必要はないのだが(共産党の役割は、そこに見通しを持っていることだと言えるだろう)。

 だが、沖縄の苦しみの解消だとか、米軍基地をなくしていくという地元自治体の切望(例えば福岡市だって高島市長や自民党を含めてオール福岡で基地返還を推進している建前になっている)だとかに応えようとすれば、ゆくゆくはそこは避けてとおれない。

 

 日米軍事同盟を抜け出す選択肢もあるんだよ、という道を説得的に示せるかどうかが、沖縄の米軍基地問題、本土の米軍基地返還の展望を(左翼的に)切り開くことになる。

 

 

本書を読んで他に知ったこと・感じたこと

 さて、最後に、本筋とは別に、本書で知ったこと、感じたことなどについて簡単にメモしておく。

  • 第二次世界大戦後の日本では「アメリカの占領の継続という状態をいかに避けるか」ということが大きな課題であり、少なくとも保守政治家たちはその体裁や世論をずいぶん気にしていた。そして反基地闘争は実際に政治を動かした。戦後日本の骨格はこのような闘争とそれへの配慮によって出来上がっている。
  • 逆に言えば、今の日本には「別にアメリカに占領されていても、守ってくれるのならそれでいいのでは」という意識が増えてきていないか、と思った。
  • 日米合同委員会には合意を決定する権限はなく、そこで密約が生まれることはない。
  • 思いやり予算の区分について勉強になった。また、その公式の語源は、1978年6月29日の参院内閣委員会での金丸答弁だった。
  • 日米地位協定24条に照らして米軍の移転費用を日本政府が負担することは協定違反だという声があるが、これに対して、新築でない代替施設の建設は24条を逸脱しないという「大平答弁」によって24条違反でないと強弁するようになった。これは個人的に、今福岡空港の滑走路拡張で米軍の倉庫を移転する際に、そのお金を支出すべきなのはもともと誰なのかという論争が、議会で行われたのを見たので、興味を持っていた。

*1:公明党のは、すでに運用しているとされている「凶悪犯に関する起訴前身柄拘束移転」についてのみ「明記」を求めるものであるが、これを改定というかどうかは微妙である。

ヤマシタトモコ『違国日記』

 祖父母・父母・兄弟の6人で暮らしていた田舎の実家を「暮らしにくい」と思ったことはその当時なかったが、家を出て一人暮らしを続け、やがて家族を持つ身となってみて、今あの実家に戻りたいかといえば、やはりもう戻って生活する気はない。つうか、もうできんだろ。

 ぼくが実家で生活をしていた頃、父はよく遠くへトラックで出かけていたし、戻ってきても夜中までお客さんと飲みに出ていた。つまりぼくの私生活とはほとんど交わらなかった。母は父の仕事を手伝うのに忙しく、ぼくの生活態度への指導とか注意は細々としたことを機関銃のようにしてぼくに伝えたが、ほとんどそれはホワイトノイズと化していた。要するに聞き流していた。だから、ぼくが実家で生活してた頃は、父母からのうんざりすような介入がなく、「こんな家にいたくない!」などとはほとんど思うことはなかった。

 しかし、ぼくが家をいったん出て、遠くから相対するようになった両親からは、ぼくに理解できない価値観がだしぬけに突きつけられるような場面にしばしば遭遇することとなった。

 こういうことがあった。

 ある日、突然母からぼくに電話がかかってきた。全くの普通の日。平日の昼間のタイミングである。しかし電話口で母はややかしこまった口調である。何事であろうかと話を聞いてみると、お前が実家に帰るときに持ってくるお土産の「安さ」に、本当は腹わたが煮えくりかえる思いがしているという、思い詰めた電話であった。

 そのとき、よく「めんべい」の数百円程度のものを買って実家に帰っていたのであるが、そのような土産は両親への軽侮であり侮辱であり、人を人とも思っていないやり口であり、社会人失格のクズのような態度だと密かに思われていたのである。それが爆発しての電話だった。

 これまでも父母が贈り物の多さを誇り、ぼくらにもよく贈り物をしてくれているのは感謝していたが、まさかそんな気持ちを抱えていたとは夢にも思わなかった。むしろ「贈り物が多すぎて腐っちゃう」と言っていたことを真に受けて、日持ちのするものを、軽く渡すことは、両親への配慮のようなつもりでいたのだが。

 ぼくは一応謝った。次からは帰省のたびに数千円の土産物を渡すように切り替えた。しかし、ことほど左様に、両親が本当に考えている礼儀やら道徳とやらのいくつかはぼくには理解できない「違国」のものであり、その「違国」で再び暮らしたいとはまるで思わないようになっていた。

 

 実家に戻ることはもう想像もつかない。

 代わりに、自分がそこを出て、つれあいや娘と築いてきた今の家庭での、メンバー相互(夫と妻、父と子、母と子)の距離感とか、そこでのルールとか、自分たちなりにこれが最適だと思うように仕上げてきた文化なので、ここから離れることこそ、もはや到底考えられない。

 

 だけど、小学生の娘にとってはどうなのかしら。

 ぼくら夫婦は「国定哲学」を押し付けたり、強圧政治をしたりするようなことがない「寛容な民主国家」のつもりでいるのだが。

 

 もし彼女が今わが家を出て、他の家に行くようなことがあったとしたら、元のわが家の文化や価値観はなんと偏狭なものだったのかと呆れることもあるのだろうか。

 

 

 

 ヤマシタトモコ『違国日記』は、突然両親を失った中学生・朝(あさ)が小説家をしている、独身の叔母(32歳)・高代槙生(こうだい・まきお)に引き取られて暮らすことになる話である。

 朝が、突然違う文化と生活に放りこまれる様は、「違う国」=「違国」に来た人のようである。

 しかし、率直に言って、ぼくは槙生が示す共同生活の距離感はまことにすばらしいと思った。ここはユートピアですか? とさえ思う。一緒に(結婚)生活を送りたいくらいだとさえ感じた。

 槙生自身が内省的・思索的・知的である。だって、自分に湧き上がってくる欲情でさえ理知的に眺めて、それを制御しようとするんだぜ?

 自立していて、それで同居人=子ども=朝への介入にわきまえがある。自分の一言が子どもを縛ったり、のちのちまで影響を与えてしまう「呪い」になったりするのではないかと恐れている。それはとってもとっても大事なわきまえではないだろうか。

 食事などの用意について「生活ができればいい」という構わなさは、ぼくとよく似ている。特にあの、昼食!

 レンチン米に大和煮の缶詰と茹でたほうれん草(夕べの残り)を食べるなんて、お前は俺か、とさえ思った。*1

 

 

 人に生き方を押し付けないが、倫理や正義、責任についての線引きがある。子どもを誰が引き取るかなどという無遠慮な会話の中に放置しない、両親の遺体の確認を子どもにさせないなどといった線引きが。

 家族であった姉への憎しみは、特別と思えるほどのこだわりがあるのだが、それを槙生は自覚してよく飼い慣らしていると思う。だからこそ、その感情を脇に置いてその姉の娘を引き取ったのである。

 朝の友人・えみりが家族から「いずれ(誰でも)結婚するんだから」と言われたことに違和感を覚えたことを、槙生は解いてしまう。朝にとっても、えみりにとっても、その家の文化に長いこととらわれていて、それを覆せないでいるのだが、槙生の家・槙生の言葉という「違国」はそのナショナリズムを解毒してしまうのである。

 なんという開明的な君主であろうか。

 4巻で、元の恋人だった笠町とラインをしながら笑うところの表情がとてもストイックでいい。

 まさしくユートピアだと思う。

 その心地よさゆえに何度も読み返したくなる。

 

 4巻において、槙生が職業としている小説=虚構=物語というものは、「初めての違う国に連れていってくれるような……」と形容されている。それは「かくまってくれる友人」とも比喩されていて、「違国」が、槙生の人生において必要欠くべからざるものとして肯定的にとらえられていることは疑いない。

 

 

 「違国」は、現実の呪いを解き、相対化してしまう。この作品の中で積極的に素晴らしい土地として示されている。

 

砂漠

わたしにさみしく

見えた彼女の砂漠は

わたしには蜃気楼のように

まぼろしめいて遠かったが

本当は豊かで潤い

そしてほんのときどきだけ

さみしいのかもしれない

 とは4巻における朝による、槙生=「違国」イメージである。

 しかしながら、3巻ではまだ、

久しぶりの

たぶん両親をなくして

以来はじめての

おだやかな

いうなれば 幸せな夜だったように思う

わたしだけが 知らない国にいるのだと

いうような心地で眠らないのは 久々だった

 と朝の心情吐露を読んで、ぼくはびっくりしてしまった。

 えっ! 3巻だよ!? ここで「はじめて」!? おだやか!? 幸せ!? それまではそうでなかったのか!

 

 

 

 家族という共同体には、本当はこういう「違国」のような距離感やわきまえが必要なのではないか。「毒親」のような呪いができてしまう親密な空間を一旦なかったことにしたいと多くの人が思っているからこそ、この物語に憧れる人、心地よさを感じる人が少なくないのだろう。

 

*1:いつもだいたいぼくの昼は、レンチン米or夕べの残りのご飯、鯖缶、納豆、残りのサラダである。

災害で2階に逃げればそれでいいのか? 立退くべきなのか?

 先ほどNHKスペシャル「誰があなたの命を守るのか  “温暖化型豪雨”の衝撃」を見ていた。

 学んだことは多かったが、疑問もいろいろ感じた。

 避難情報を流しても住民が避難しない問題が取り上げられていた。

 この問題は以前ぼくはブログに書いたし、同趣旨のことを拙著『どこまでやるか、町内会』でも書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)
 

 

 ぼくは身近な市政、福岡市のとりくみを見ていて、不思議に思うことがある。避難指示を出して住民の避難率が0.17%とかそんな数字なのにそれを全く問題に感じていないことだ(2018年9月10日本会議)。

◯50番(中山郁美) …まず、豪雨時における避難、災害対策についてです。
 7月5日から6日を中心に西日本地域を襲った、これまで経験したことのない豪雨による被害は甚大なものとなりました。…
 そこでまず、今回、本市において避難準備情報、避難勧告、避難指示が発出された経緯と住民の実際の避難行動について、その人数も含めお尋ねします。…

 

◯市民局長(下川祥二) 7月5日から6日にかけての避難情報につきましては、河川の水位の状況や土砂災害の危険度情報などをもとに対象区域を指定し、7月5日の16時30分に避難準備・高齢者等避難開始を、6日の6時45分以降、順次、避難勧告を発令しております。さらに、土砂災害の発生または発生のおそれが高まった箇所については、6日の11時5分以降、順次、避難指示を発令しております。また、実際に避難所等に避難された方の人数につきましては1,179人でございます。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 避難勧告に照らせば、実際の避難者はわずか0.17%と相当少なかったと言えますが、これは問題ではないか、御所見を伺います。

 

◯市民局長(下川祥二) 避難勧告及び避難指示の対象となった世帯数及び人数につきましては、避難勧告が36万7,369世帯、65万7,969人であり、避難指示が1,151世帯、3,715人となっております。避難所に避難しなかった方の中には建物の2階以上の安全な場所へ垂直避難された方も数多くいらっしゃったと考えており、約8割が共同住宅であるという本市の特徴も影響しているものと考えております。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 今の認識は、避難が少なくても問題がないと言わんばかりのとんでもない答弁だと思います。そんな姿勢では住民の命は守れません。避難勧告や避難指示が発出されても、本人の判断で避難しなくてもよい、結果的に避難者がゼロでも問題ないということですか、もう一度答弁を求めます。

 

◯市民局長(下川祥二) 答弁の前に、訂正しておわびします。先ほど避難指示が、1,551世帯が正確なところを1,151世帯と申しました。おわびします。
 今回の豪雨におきましては、広島県岡山県などにおいて避難がおくれたことで被害が拡大したことを受け、国においても住民避難のあり方の検証を行うワーキンググループが設置されております。本市としましても、今回の避難に関する分析を行うとともに、国における検討状況や専門家の意見等も踏まえ、実際の避難行動に結びつけるための検討を行ってまいりたいと考えております。以上でございます。

 

 問題はないのかと正され、問題・課題があるという認識を示そうとしない。つまり、市は、「垂直避難すればよい(2階以上に逃げればよい)」「マンションが8割なのであまり問題ない」と考えているわけだ。

 ここにはけっこう大事な問題があると思う。

 結局、止むを得ない場合は2階にいればいいのか?

 マンションだから避難行動を起こさなくてもいいのか?

 

 

2階以上に逃げればいいのか? 立退くべきなのか?

 まず前者である。

 災害対策基本法には避難指示についてこう規定されている。

第六十条 災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、人の生命又は身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立退きを勧告し、及び急を要すると認めるときは、これらの者に対し、避難のための立退きを指示することができる。

 Nスペでは避難行動を起こさずに結局家から出られなくなり、2階に避難していた広島の家族が紹介されていた。「出ろ」と言っているのである。

 しかしこういうふうにも書かれている。

第六十条3 災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、避難のための立退きを行うことによりかえつて人の生命又は身体に危険が及ぶおそれがあると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、屋内での待避その他の屋内における避難のための安全確保に関する措置(以下「屋内での待避等の安全確保措置」という。)を指示することができる。 

 どうしようもないときは外に出るより屋内の安全な場所で退避することも止むを得ない、というわけである。

 ただ、常識的にこれを読めば、まず逃げること。しかし、逃げることが逆に危険である場合は屋内に退避しろ、と考えるべきではないのか。

 福岡市(高島市政)が「災害が起きても家の中にいればいい」と考えているのは染み付いた考え方であることは、他の答弁からもわかる(2015年10月8日決算特別委員会総会)。

◯堀内委員 避難対象者3万9,979人に対して避難者は125人で、避難者は対象者の0.2~0.3%、西区だけで見ると0.02%~0.03%であり、少な過ぎると思わないか。また、市民が避難しなかった理由をどのように考えているのか。

 

△市民局長 避難者の数が少なかった理由については、住民の避難行動は、災害対策基本法では、避難所など安全な場所に移動するだけではなく、建物の構造や状況に応じて屋内や近隣の2階以上の安全な場所に移動を指示することができるようになっている。今回の台風第15号に関しては、マスコミや防災メール、広報車などにより、屋外に出ることが危険であると感じる場合は、自宅や近くのできるだけ安全な建物の2階以上に避難することを呼びかけている。また、避難指示を発令して以降、雨が小康状態となったことから、避難指示を受けた住民の多くが避難所へ移動しなかったものと考えている。

 

◯堀内委員 大事な問題であるため確認するが、災害対策本部長である市長も局長と同じ認識なのか。

 

△市長 市民局長の答弁と同様の認識である

 

◯堀内委員 これは非常に重大な認識である。災害対策基本法第60条第1項には何と書いてあるか。

 

△市民局長 災害が発生し、または発生するおそれがある場合において、人の生命または身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立ち退きを勧告し及び急を要すると認めるときはこれらの者に対し避難のための立ち退きを指示することができると規定されている。

 

◯堀内委員 避難指示は立ち退きの指示であると明確に規定されている。屋内の安全な場所への避難ではない。市民が避難しなかった理由について、降雨が小康状態となったためと局長は答弁したが、避難指示は解除されていなかったのではないか。とりわけ土砂災害において避難指示は重要である。平成27年8月に内閣府が策定したガイドラインの8ページの2段落目を読み上げられたい。

 

△市民局長 国が平成27年8月に策定した避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドラインにおいては、避難勧告等が発令された場合、そのときの状況に応じてとるべき避難行動が異なることから、指定緊急避難場所や近隣の安全な場所へ移動する避難行動を立ち退き避難と呼ぶこととし、屋内にとどまる安全確保を屋内での安全確保措置と呼ぶこととする。立ち退き避難は指定緊急避難場所に移動することが原則であるが、指定緊急避難場所へ移動することがかえって命に危険を及ぼしかねないと避難者みずからが判断する場合には、緊急的な待避、近隣のより安全な場所、より安全な建物等への避難をとることとなる。さらに外出することすら危険な場合には屋内での安全確保措置、屋内でもより安全な場所への移動をとることとなると記載されている。

 

◯堀内委員 マニュアルにおいては立ち退き避難が原則であると記載されており、土砂災害においては特に立ち退きが原則であるとされている。

 

 避難者数が少なくても全く問題はない、家の中にいればいい、という考えがこのご時世の福岡市の危機管理意識の水準であるということに絶望的な気持ちすら覚える。

 しかも、市は自分たちで避難指示を出しておきながら、「当日は雨が小降りになったから避難しなかったんでしょ」と平気で答えているのである。小降りで大丈夫ならすぐ避難指示は解除すべきである。避難指示を出しっぱなしにしておいて、逃げないことになんの問題意識も感ぜず、なんという言い草なのか。「『市はちゃんと避難指示出しましたよ?』という責任逃れ」のために出しているのかとさえ思う。

 

マンション住民は逃げなくていいのか?

 もう一つ。マンションは避難しなくていいという問題はどうなのか。

 市は「住民が逃げない理由はマンションも多いからだろう」と答えているだけであるが、それを問題視している様子はない。0.17%という数字が問題であるという認識はどこにも答えられていないのである。

 

 マンションに住む人は本当に避難しなくていいなら、それはそれでよい。そうはっきりと避難情報を出すべきである。

 だがそうではあるまい。

 しかし、1階ではダメじゃないのか? あるいは2階でもダメな時は当然あるのではないのか? そのあたりの判断が常識的には必要になってくるはずである。

 本当は科学的予測が立てられる行政がそれを判断して情報を出すべきではないかと思う。2階まで浸水しそうだから、大事をとって4階までの住民を避難させるとか、そんな感じで。

 もしその情報が現時点で難しければ、仕方がない。

 ただ、災害が終わってみて、「本来事前に避難すべき住民はどれくらいであり、そのうち実際にどれくらい避難行動をしたか」を行政としては検証すべきではないのか。つまり検証のための分母を確定して、さらに分子を確認する作業が必要だろう。福岡市のこの答弁からはその姿勢が全く伝わってこない。0.17%でも0.02%でも「問題なし」としているのである。

 

 少なくとも福岡市は(1)2階以上の屋内退避でもOK、(2)マンション住民は必ずしも逃げなくてもいい、としているわけで、その問題をどう整理するのか、真剣に考えるべきだろう。

 

 「本物と偽物の違いは有事にわかる」とは高島・福岡市長の言葉なのだが、まさにその通り。高島市長自身が試されている。

 

Nスペへの違和感

 災害の時に避難行動を起こす3つの要素がビッグデータの分析から浮かび上がったと報じられていた。

  1. 避難情報
  2. 環境の異変
  3. 他者の行動/働きかけ

である。この3つのうちの2つがあると避難行動を起こすスイッチが入る人が多かったという。

 ところが、最後は子どもたちに「自分の身は自分で守ろう」と唱和させる映像が流れて番組は終わる。また、識者がこのスローガンを叫ぶところも映されていた。

 いや、1.と3.って「自分」ではないよね? 特に1.は公的な責任が大きい部分だよね?

 自分の身は自分で守るというけども、「災害で死にたい」と思っている人などまずいない。わざわざこのスローガンを子どもにまでしみこませようというのは、例えば防災情報の提供、例えば堤防の整備、例えば消防体制の整備、そういった公的責任をあいまいにするためにくりかえし教育しようとしているのではないかと思えるほどだ。

 

 「自分の身は自分で守ろう」を善意に解釈してみれば、「消防署や警察とか自衛隊とか、誰かが助けに来てくれると思っているという甘い意識を追放するためだ」という反論があるかもしれない。

 しかし、まさにNスペで問題になったのは、「誰かが来てくれる」という思い込みではなかったはずである。

 いざとなったら消防やレスキューなんか、必ずしも自分のところに来てくれないことは百も承知だろう。

 そうではなくて、自分の身は自分で守りたいとは思っているが、「まだ大丈夫」というバイアスがかかることが避難行動をとらせない問題の根源ではなかったのか。そんなところに「自分の身は自分で守ろう」などと唱和させても意味はない。公的な責任への批判意識を眠りこませるだけだ。

 避難行動を起こさせるための具体的な手立てこそ考えるべきではないのか。そしてそれこそは行政の責任で知恵を出すべきもののはずだ。

 福岡市の地域防災計画を見ても、避難誘導は行政の責任である。

避難の誘導者
避難の誘導者は原則として,市長又は福岡県知事の命を受けた職員等,警察官,海上保安官消防団員,自衛官とし,実施要員が不足する場合においては,自主防災組織要員その他地域住民に協力を求める。 なお,避難誘導に際しては誘導を行う者の安全確保に留意する。 

 避難行動を起こさせるために本当に必要なことは、もしその3つがスイッチであるとすれば、ぼくならこうする。

  1. 避難情報を確実に届ける。Nスペで問題になった災害弱者は高齢者ばかりでそういう人たちがスマホやホームページを確認するすべが弱い以上、倉敷市が始めた水位計をネットで確かめるようなやり方ではなく、もっとアナログな方式で避難情報を届ける方法を考えるべきである。
  2. 他者の行動/働きかけが促しやすいよう、町内会のハードルを下げる。町内会の組織だった避難行動ではなく、気軽な近所づきあいが必要なわけで、そのためにも町内会やPTAの仕事を減らして気軽に入って人間関係がゆるやかに広がるようにすべきである。

 

 

 

プールカードはなぜハンコでないとダメ?と質問したらクレーマーなのか

togetter.com

 このtogetterについて、話に入る前に言っておきたい。

 このまとめのタイトルが「電話してみた」になっているけど(2019年6月29日17時時点)、まとめを読めばわかる通り、この保護者は学校に「電話して」などいない。「担任から電話がかかってきたし、校長から電話がかかってきたので、質問してみた」というのが正しい。

 あたかも学校に積極的に電話して「ハンコでなくサインにせよ」と要求したかのように題名がつけられ、それをもとに「モンペ」などとコメントされている。事実と違うのである。まことに気の毒としか言いようがない。

 もちろん学校に積極的に要求すること自体が悪いわけではないし、それ自体が「モンペ」ではない(後述する)。少なくともこの保護者(ぺたぞう)はそのようなことをしていないという事実の問題である。

 

 さてその上で中身に入る。

 

ハンコでないとダメってどこかで決まってんの?

 うちの娘の小学校にもプールカードはある。そしてハンコである。サインは不可であることが明記されている。

 おとといもぼくはカードにハンコを押した。ハンコ押しておいたのに、食卓の上にカード忘れてプール入れないでやんの。

 「ハンコ押したよ。ここに置くけど、今ここでランドセルにしまわないと絶対忘れると思うよ」と警告したけど、生返事して『にじさんじ学園!』読んでやがる。見事に忘れていった。草。

 

 ぼくが小学生のときにはこのようなカードはなかった。

 文部科学省が『水泳指導の手引』というマニュアルを作っている。

www.mext.go.jp

 その第4章に「水泳指導と安全」という項目があり、保護者からの情報を集める「健康カード」の活用を推奨している。

 指導者は、健康管理上注意を必要とする者に対して、医師による検査、診断によって水泳が可であること を確かめておく必要があります。このため、児童生徒の健康状態について多面的に観察することが大切です。
(1)保護者による健康情報の活用 保護者による健康情報については、問診票や健康カード等によって把握することができます。問診票は、 体温、食欲、睡眠、活動状況などから健康の状態が分かるように、具体的な調査項目を設定します。

 健康カードの具体的な項目例が載せられ、そこに「保護者印」とあるではないか!

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 これが元凶か!

 ……と言いたいところだが、それは早とちり

 だいたい、娘の学校はこんな詳細な質問項目を記入させないし、体温なども記入させない。入れるか入れないかと簡単な理由を聞くだけである。

 つまりこのマニュアル(『手引き』)は単なる参照に過ぎないのである。

 事実、いろんな学校のプールカードがネット上に転がっているが、例えば以下はある愛知県の小学校の校長名で出されているカード記入についての保護者宛の文書では、こうある。

ご面倒ですが、授業でプールに入ることが予定されている日の朝に、各家庭で検温と健康観察を行ってください。その結果、「泳ぐ」「泳がない」のいずれかに○を付け、保護者印またはサインをして担任まで提出してください。

 どっちでもいいのである。

 ハンコか、サインかは、本当に重要ではない要素だとわかる。

 むしろ、健康状態について実質的に保護者がよく観察して子どもを送り出してくれているかどうかが学校側としては心配すべき点であり、文科省の『手引き』もうるさいようだが、そのような配慮から書かれているものである。

 学校の保健関係の先生たちのサイトでは次のような座談会がある。

www.gakkohoken.jp

並木 私が学校にいた頃なので古い話ですが、初めて家庭で検温してくるようにしたところ、いちいち学校が保護者にそこまで要求するのか、要は事件事故が起こったら学校は責任を逃れたいからだろうと突き上げられた経験がありましたが、いまは協力が得られていますか。


富永 いまはそれほど極端な方はいません。検温やプールカード使うことは当たり前になっています。子どものためにやっているということで浸透しているのではないでしょうか。


並木 いまは徹底しているということですね。


富永 徹底はしています。ただ、カードを使うにあたっての課題がありまして、保護者の判断を主としているのですが、徹底しているがためにプールカードに保護者の印やサインがないとプールに入れさせていません。そこで、児童が前日に学校に忘れてしまった場合など、連絡帳で代替したり、保護者からの電話があればまだいいですが、連絡がない場合、プールに入らせなくて後になってトラブルになる場合があります。


並木 そのようないろいろ課題もありますが、それでもおおむね保護者との連携はうまくいっているということですね。永田先生はいかがでしょうか。


永田 保護者の方は協力的ですがいろいろな考え方がおありなので、小学校のように継続してやるのは大変だと思います。中学校でのプール指導は保健体育教科の中の時間ということで限られています。生徒が授業を欠課した場合、担任、教科担任、養護教諭で判断した場合もあります。が、保護者が欠課届けを本人に持たせる場合もあり、養護教諭がすべてに関わるわけではありません。本校では毎日検温することは行っていません。

 

 責任逃れじゃなくて、本当に安全管理上大事だからお願いしているんだよ、というわけである。

 いずれにせよ、保護者の確認の形式について、学校以外のどこかで決められた、抗い難いルールがあるというわけではないのだ。決めたのは学校のはずである。

 

質問しただけだろ? 説明すればいいのに

 んでその上で、元々のツイートを見てみる。

 このツイッタラー(ぺたぞう)が不思議に思ったのは、ハンコ以外はダメというルール、なぜサインではダメなのかということである。

 ぼくも同じ。不思議に思ったもん。

 そして、その理由について、向こう(学校)からたまたま電話がかかってきたことをきっかけに質問したに過ぎない

 担任や校長は、決めた理由を説明すればいいのである。

「宿題の朗読はサインでいいのですが、プールは事と次第では命にもかかわるので、特別にしっかりと確認していただきますためにハンコにしております」

とか、

「サインは偽造が可能で、そうなるとその判別に担任が相当時間を食ってしまうので、申し訳ありませんがハンコとさせていただいております」

とか、

「サインは一見すると大人が書いたか子どもが書いたかわかりません。ハンコでも三文判などを子どもが買ってきて押せるとは思いますが、一般的にはそこまでする子どもはなかなかいないので、やはり保護者にしっかりと確認してもらっていることが即座にわかるハンコをお願いしております」

とか。

 学校や職員会議で判断した理由をそのまま話してくれればいいのである。

 その説明を担任も校長もやっていないのである

 説明をしないという点でもうダメだろうと思う。質問したのにどうして説明してくれないのだろうか。*1

 「会社でも役所でもハンコを要求される時いちいち『サインでも可能か』と聞くのかよ」という反論が返ってきそうだが、不思議なら聞いてもいいんじゃないの? 法令で決まっている場合は「法令で決まっています」と言って、自分たちの説明責任の範囲外であることを答えればいいのである(「〇〇という法律の第◯条です」と法令根拠まで示してあげられれば親切だがそこまでする必要はない)。

 

質問したり説明を求めることはクレーマーか

 質問したり説明を求めること自体がクレーマーである、という意見はどうだろうか。

 親はどこかのレストランに行くかのように自分の趣味で子どもを学校に行かせているのではない。憲法で義務を課されているがゆえに子どもを小・中学校に行かせているし、教育を受ける権利の実現のために子どもを送り出しているのである。

 その関係の中で、学校機関側が子どもの健康状態の確認について親に「カードをかけ」という仕事をさせているわけである。その方式や手順について親が質問したら、それで「モンペ」扱いされる謂れはあるまい。

 そういう奴は、アレか。会社の仕事を依頼されても、手順の質問とか絶対にしないクチか。質問したら「モンスターワーカー」とかいうのか。

 

さらに言えば

 以下は、「さらに言えば」というほどのもの。最初の「ぺたぞう」のケースを超えた話だと思って聞いてくれ。

 ぼくは教育という営為はマニュアル的な対応ではない、と思っている。一人一人の子どもの発達と成長にあわせた対応が教育のはずで、だからこそ画一的な中央統制ではなく、教育委員会は独立した行政機関なのだし、学校は一つ一つが独立した権限を持っているし、教師は専門家として広範な裁量を持っている。

 であれば、子どもも保護者も学校に質問していいし、「こうしてほしい」と積極的に要求してもいいはずだ。

 というか、そういうことをしなくて、全部質問禁止・要求禁止の画一対応マニュアルでやれ、というのは間違っている。もちろん時間の制約があるから、無限に付き合うわけには行かないが、子どもを成長させ、あわせて「親育ち」(親を教えて成長させる)をさせるのは学校教育の重要な役割の一つである。説明したり、要求に応えて変えたりすることが旺盛なほどいい、と言っても過言ではない。学校は消費者相手の「店」ではない。

 現実には学級の人数が多すぎるし、教員は仕事に追われ過ぎている。そういう中で塩対応になってしまうことはあり得るし、保護者の側も遠慮するということはあり得る。また、教育の中身そのものでないことだと判断する事項なら、教師でなく別の人員が説明してもいいとは思う。

 しかし、もともとのところを言えば、教育について保護者は学校に対して質問すべきだし、要求すべきである。それでクレーマーと言われる筋合いはない。

 

*1:ただ、これは、あくまで「ぺたぞう」からの叙述であって、ひょっとしたら実際には学校側は簡単にでも理由を説明したのかもしれない。その上で「そういう決まりですから」と言ったのかもしれない。ぼくの立論はあくまで「ぺたぞう」の話を信用すれば、という前提である。