避難指示が出ているのに誰も逃げない問題


 朝日新聞デジタル町内会・自治会特集が始まっている。
 町内会について意見を集約しており、すべて読める。
 すべて読んだ(9月20日時点)。


 いろんな意見があるわけだが、大雑把にいって、(1)町内会は必要であるという意見、(2)強制され、負担を背負い込むのはいやだという意見の対立となっている。アンケートのうち「自治会・町内会に課題があるとすれば何だと思いますか」で半分近くは「会員の高齢化、役員のなり手不足」をあげている。他方2位の「活動内容がわかりにくい、負担が大きい」が2割にとどまっているというのは、この回答者がどちらかといえば町内会を実際に担っている側からの意見が多いことをうかがわせる。


 (1)町内会必要論と(2)強制・負担反対論は、ぼくの本『“町内会”は義務ですか?』で両立しうることが示されているが、(2)の強調は町内会否定へと結びつくことが多い。町内会の現実を知っていれば、改革はそう簡単にできるものではないという絶望やあきらめがあるからだろう。


 「いろんな意見があるね」で終わらずに、両者が解決にあゆみよれるのは、合意点や共通認識を築くことである。
 その共通認識となる合意は、まずは(2)のポイントとなる点だ。つまり、自治会は任意であり決して強制はできない、という点をどの立場の人もおさえなければならないということだ。「町内会は必要である」という意見はこの論点(町内会は入会を強制できない)を否定することはできない。「入るのは嫌だ」といえばそれまでである。極端な例であるが、もしも裁判をやられたら、入会強制派はほぼ必ず負けるだろう。
 「必要だから入れ」ということは義務づけられない。だとすれば「必要だ」ということだけを5万回繰り返しても、問題は解決しない。「入りたくありません」といわれれば終わりだからである。


 これを(1)と(2)の共通認識、合意の出発点におかねばならない。
 否定できないんだから。


 そのうえで、(1)町内会必要論者は必ず「いやでも町内会(コミュニティ)は必要だよ」と主張する。そしてそれはぼくもそのとおりだと思う。
 町内会は義務化や強制はできない、あくまで任意が出発であることをおさえつつ、問題は、「町内会は必要である」といったときの「必要」とはどこまでの範囲なのか、ということなのだ。つまり「必要」の範囲を明確にする必要があるということだ。
 この特集で、多くの意見を受けて、識者がしなければならない知的な腑分けというのは、「どこまでが町内会の最小限度、ミニマムなのか」ということを、具体的に、もしくは何らかの原則として示すことである。
 言い方を替えると、いまの町内会の仕事をどこまでリストラできるのか、その基準を示すということである。町内会の仕事をどんどん削減して、負担を減らすことで「やってもいいだろう」と思えるほどになる。あたかも価格の調整で需要と供給が一致するように。しかし、町内会としての本質を失ってしまうほどに仕事をリストラしてはいけない。では、そのリストラしていって残る、最後の一線とはどこであろうか? 何を失ってはいけないのだろうか?


 ぼく自身はそのミニマムの基準を『“町内会”は義務ですか?』の中で示した。防災、防犯、街灯、高齢者見守りなどが本当に「自治会がやるべき必要最小限のことであるか」を本の中で検証していった。インタビューでは、地域の交通安全(子どもの登下校の見守り)などについても意見をのべた。


 この問題は「どうしたら後継者ができるか?」という問いへの本質的な答でもある。自治体が補助金を出している「地域デビュー」支援事業などで町内会のなかでも「面白そう」な行事には顔くらい出してくれるかもしれない。しかし、そうした人が必ずしも町内会の担い手として育っていってくれないのは、そんなハンパな好奇心では背負いきれないような、ハンパない、膨大な仕事量が背後に控えているからである。*1 それを劇的に減らすことができて、はじめて後継者の展望が開かれる。
 負担・仕事をどこまで減らせるのか? そのことへの原則を示す必要がある。朝日の企画が最終的にそれを見いだせるかどうかをぼくは楽しみにしている。


「防災」において町内会は絶対不可欠なのか

 朝日新聞の特集の意見の中では、そして一般的に町内会の必要性を説く時にまっさきにあげられるのが、「防災」である。
 ぼくも本の中で「本当に防災のために町内会はぜひともなくてはならないのか?」ということを検証した。

“町内会”は義務ですか? ~コミュニティーと自由の実践~ (小学館新書) 鬼怒川の氾濫で地域一体が水没したことが最近あったわけだけど、あのとき町内会はどう動いたのだろうか。
 いま、ぼくの手元に、今年やってきた台風で、ある自治体が「避難指示」を出したときの資料がある。その自治体の議員が調査して取り寄せたのを見せていただいたものである。実数を、意味がかわらない範囲で少しだけ変更して紹介する。


 避難指示が出た世帯は、約1万5千世帯、3万人
 避難指示は災害対策基本法第60条に定められており、「避難勧告」との違いについては、鹿児島県肝付町のホームページがわかりやすく出ているように、避難してほしいと「促す」のではなく、確実に避難させるという強い拘束力を持つものである。



 ところが、ぼくが資料をもらったその自治体では、実際に指定された避難場所に避難したのはなんと5世帯、10人だけだった。もちろん他に逃げたことも考えられるのだが、その自治体の地域防災計画をみると、避難指示においては、避難先・場所、避難経路も具体的に指示されることになっている。指示された避難場所には対象世帯の0.03%しか来なかったのである。
 その自治体の地域防災計画では、避難誘導は原則として市長の命を受けた職員(他に知事の命を受けた警察官や自衛官など)が行うのであるが、実施要員が足りない場合には「自主防災組織」などの地域住民に協力を求めることができるのだという。


 では、地域の「自主防災組織」はどうしたのか。
 これを、小学校区ごとにどう動いたか、自治体が調査したリストも見た。
 自主防災組織という括りは独自ににはなく、町内会や自主防災組織が一体となった校区の自治団体の集まりでまとめられていて、対象となった6校区の対応は次の通りである(多少情報をかえて書いています)。

  • A校区:校区会長は公民館で情報収集。X地区の班長が集会所で避難について協議。
  • B校区:校区会長は公民館で情報収集。自治会長を公民館に集め情報収集を協議。
  • C校区:校区会長は公民館で情報収集。Y地区で自治会長に状況確認。
  • D校区:校区会長は公民館で情報収集。自治会長にP川へ状況確認を指示。
  • E校区:校区会長はP川へ状況確認後、公民館で情報収集。P川流域の自治会長に状況確認を指示。
  • F校区:校区会長は公民館で情報収集。町内会長へ自宅待機を指示。

 驚愕の結果だった。
 これらはいずれも自治体の首長が避難指示を出す前ではなく、発令後の中身である。
 にもかかわらず、校区の会長はそろって、「確実に避難させる」という災害基本法および地域防災計画にもとづく行動をまったくしていないのである。校区の会長はそろいもそろって、校区にある公民館で「情報収集」しているだけなのだ。個別町内会の会長に対して、避難を指示していない。避難を急がせるどころか、逆に、氾濫の危険もある川を見に行かせたりしている。自宅にいろ、と指示さえしている。
 「情報収集」……?
 すでに自治体が避難指示を出しているのに、そのことを個別町内会に伝達もせずに何の「情報収集」をしているのだろうか。「お上の言うことなど鵜呑みにはしない」という自治精神の発露であろうか。


 これは推測にすぎないが、おそらく、P川の様子を見て「ああ、あふれる心配はないな」と校区会長が自分で判断して、個別町内会にも連絡もしなかったのではないか。F校区のように「何か大事になったらまた電話するから。それまでは連絡のとれる家にいてくれ」と電話したのだろう。土砂災害の心配がありそうなY地区については、「ちょっと見て来てくれんか」と言ったのではないか。また、やはり土砂災害の心配がありそうなX地区では町内会の班長が集まって「逃げる? どうする?」「まあ、とりあえず様子をみようや」みたいになったのではないか。翻訳するとそのような感じなのでは。いわゆる「正常化バイアス」である。
 なるほど、これはある意味で「常識的」な対応である。俗な行動、すごく日常的な行動の風景だ。だが「避難指示」の発令下ではそれは実に危険ではないのか。ヤバすぎる。死ぬ。


 たしかに、この自治体では結局川の氾濫も、土砂災害も起こらなかった。
 「ほら、住民の判断は正しかった」というわけだが、それは結果論である。
 自治体が避難指示を出し、それにもとづいて自主的な防災の住民組織が的確に稼働して避難を成功させる、という機能は完全に失われているとみてよい。この自治体では統計上実に8割以上が町内会に加入するという「強固なコミュニティ」があるという建前をとっており、校区の防災訓練も毎年のようにあるにもかかわらず、である。


 災害は事態が急変するのだから、自治体が避難指示まで出している場合は、それに従わない手はないだろう。大水害となった茨城県常総市では「水はここまで来ないだろう」と高をくくっていた住民が孤立し、ヘリで救助されている(2015年9月17日付読売)。


 ぼくが言いたいことは、「防災にとって、町内会組織は絶対に必要なのか」ということである。上記の例をみてもわかるように、町内会や自主防災組織が組織できればそれにこしたことはないが、あったからといって必ずしも機能するわけではない、「町内会があれば防災時に機能する」という命題は必ずしも成り立たない、ということだ。



 9月12日付の西日本新聞が群馬大の片田敏孝教授(災害社会工学)のコメントを載せている。

1人で避難するのは難しい。特に効果的なのは、近所や顔見知りの声掛けだ。……日頃からの付き合いが何よりも大切だ

 だとすれば、町内会が防災組織化するかどうかよりも、「日頃からの付き合い」が生まれるようなきっかけ自体があればいいのではないか。「日頃からの付き合い」をうながすような最小限のことができれば、町内会のやることはしっかりできているということになる。それは単なる夏祭り(共同体の祭礼)、その準備作業だけでもいいさえとぼくは思う。
 何度も会議に出て、リストをつくって、訓練をやって、土のうを作って、積んで……という作業負担ができなくても、「日頃からの付き合い」を促進できるのであれば、それで十分最小限の町内会は成立するように思う。*2

防災は「住民一人ひとりの責任」なのか?

 町内会組織を強化して「日頃からの付き合い」を強めたとしても、そして町内会や自主防災組織における系統的な防災体制をいくら完備しても、それがいざというとき動くとは限らない。
 任意団体である以上、そこに「義務」や「責任」を課すことはできない。
 たとえばいくら連絡網をつくっても、あるいは要援護者の担当を決めても、昼間仕事に出ていたらどうなるのか。そこに穴が空いても、そのことを責めるわけにはいくまい。


 防災は「住民一人ひとりの責任」などと言われる。あるいは、よく防災は「自助・共助・公助」などといわれ、それを補完性の原理から説明する人がいるが(「まず自分でがんばる、できなければ仲間で、それでもできなければ最後は公に頼る」みたいなやつ。朝日のコメント欄にもたくさん登場する。)今回の鬼怒川の氾濫をみても、むしろ、大前提となる大きな基盤を整える責任が行政にあり、その基盤自体が壊れている、ダメになっている場合は、個別の住民や町内会の組織ではどうにもならないことがよくわかる。


 たとえば、堤防。
 ぼくの住んでいる福岡では、治水と言えばすぐダムということになり、県レベルでは巨額の予算が投じられ、河川整備自体は遅れてきた。
 読売新聞は9月12日付ので「弱い堤防 整備遅れ」という記事を出した。

ダムがせき止められるのは、それより上流部に降った雨水だけ。……上流から下流にまんべんまく降り続いた雨にダムの効果は限定的だったといえる。(読売前掲)

国交省では、相い次ぐ豪雨を受け、堤防の詳細点検を実施し、河川改修を進めてきたが、全国の河川で必要な整備目標に達した河川は「ほとんどない」(国交省幹部)のが実情だ。(同前)

 また、当該地区に、市の避難指示が遅れたこともすでに明らかになっている。

浸水が広がった鬼怒川東側全域に市が避難指示を出したのは、堤防決壊から2時間以上も後になり、大勢の住民が逃げ遅れた。(同前)

 9月13日付日経新聞には次のような記述がある。

(決壊し、避難指示が出た)同地区の会社員男性(23)は決壊直前、自治会の依頼で土手に土のうを積んでいた。

 午前10時半にこの地区に避難指示が出されているが、この男性は昼休み、つまり正午ごろまで土のうを積んでいて、そこを昼休みで離れた瞬間に決壊に遭っている。避難指示の徹底という「公助」が実行されずに、逆に町内会という「共助」にかかわって危険な目に遭っているといえないだろうか。
 そもそも堤防の整備が遅れているという全般状況の中で、あるいは避難指示の遅れ、不徹底の状況下で「土のうを積む」ことの虚しさを感じるのはぼくだけではあるまい。*3


 
 誰も災害で命を落としたいという人はいない。自分の命は自分で守るというのは言われなくても誰でも心がけている。
 「自助・共助・公助」論がそこをくり返し説こうとするのは、「公助」の責任を本当は外してしまいたいからだろう。社会保障での議論でもこれはよく使われる。だが国や地方政府が憲法生存権保障をサボって、社会保障に大穴をあけていたのでは、個々人の努力で生存権を確保することには限界がある。それと同じように、災害における生存権の保障としての防災が怠られていながら、個々人が災害から命を守ることは難しい。

*1:もちろん地域デビュー支援事業などで担い手が生まれている例があることは否定しない。問題はそれがごく一部にとどまっていることなのだ。

*2:ただし、「日頃からの付き合い」が促進できたとしても、それで防災が漏れなく、万事うまくいくわけでもない。ご近所で声をかけて「逃げよう」ということが全ての世帯でできるわけではないはずだから。自主的な任意団体のやることである以上、必ず漏れはある。

*3:侵略戦争を起こしておいて、その返り討ちとしての空襲に遭い、「隣組のバケツリレー」にがんばらせるような感覚にも似ている。