災害で2階に逃げればそれでいいのか? 立退くべきなのか?

 先ほどNHKスペシャル「誰があなたの命を守るのか  “温暖化型豪雨”の衝撃」を見ていた。

 学んだことは多かったが、疑問もいろいろ感じた。

 避難情報を流しても住民が避難しない問題が取り上げられていた。

 この問題は以前ぼくはブログに書いたし、同趣旨のことを拙著『どこまでやるか、町内会』でも書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)
 

 

 ぼくは身近な市政、福岡市のとりくみを見ていて、不思議に思うことがある。避難指示を出して住民の避難率が0.17%とかそんな数字なのにそれを全く問題に感じていないことだ(2018年9月10日本会議)。

◯50番(中山郁美) …まず、豪雨時における避難、災害対策についてです。
 7月5日から6日を中心に西日本地域を襲った、これまで経験したことのない豪雨による被害は甚大なものとなりました。…
 そこでまず、今回、本市において避難準備情報、避難勧告、避難指示が発出された経緯と住民の実際の避難行動について、その人数も含めお尋ねします。…

 

◯市民局長(下川祥二) 7月5日から6日にかけての避難情報につきましては、河川の水位の状況や土砂災害の危険度情報などをもとに対象区域を指定し、7月5日の16時30分に避難準備・高齢者等避難開始を、6日の6時45分以降、順次、避難勧告を発令しております。さらに、土砂災害の発生または発生のおそれが高まった箇所については、6日の11時5分以降、順次、避難指示を発令しております。また、実際に避難所等に避難された方の人数につきましては1,179人でございます。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 避難勧告に照らせば、実際の避難者はわずか0.17%と相当少なかったと言えますが、これは問題ではないか、御所見を伺います。

 

◯市民局長(下川祥二) 避難勧告及び避難指示の対象となった世帯数及び人数につきましては、避難勧告が36万7,369世帯、65万7,969人であり、避難指示が1,151世帯、3,715人となっております。避難所に避難しなかった方の中には建物の2階以上の安全な場所へ垂直避難された方も数多くいらっしゃったと考えており、約8割が共同住宅であるという本市の特徴も影響しているものと考えております。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 今の認識は、避難が少なくても問題がないと言わんばかりのとんでもない答弁だと思います。そんな姿勢では住民の命は守れません。避難勧告や避難指示が発出されても、本人の判断で避難しなくてもよい、結果的に避難者がゼロでも問題ないということですか、もう一度答弁を求めます。

 

◯市民局長(下川祥二) 答弁の前に、訂正しておわびします。先ほど避難指示が、1,551世帯が正確なところを1,151世帯と申しました。おわびします。
 今回の豪雨におきましては、広島県岡山県などにおいて避難がおくれたことで被害が拡大したことを受け、国においても住民避難のあり方の検証を行うワーキンググループが設置されております。本市としましても、今回の避難に関する分析を行うとともに、国における検討状況や専門家の意見等も踏まえ、実際の避難行動に結びつけるための検討を行ってまいりたいと考えております。以上でございます。

 

 問題はないのかと正され、問題・課題があるという認識を示そうとしない。つまり、市は、「垂直避難すればよい(2階以上に逃げればよい)」「マンションが8割なのであまり問題ない」と考えているわけだ。

 ここにはけっこう大事な問題があると思う。

 結局、止むを得ない場合は2階にいればいいのか?

 マンションだから避難行動を起こさなくてもいいのか?

 

 

2階以上に逃げればいいのか? 立退くべきなのか?

 まず前者である。

 災害対策基本法には避難指示についてこう規定されている。

第六十条 災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、人の生命又は身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立退きを勧告し、及び急を要すると認めるときは、これらの者に対し、避難のための立退きを指示することができる。

 Nスペでは避難行動を起こさずに結局家から出られなくなり、2階に避難していた広島の家族が紹介されていた。「出ろ」と言っているのである。

 しかしこういうふうにも書かれている。

第六十条3 災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、避難のための立退きを行うことによりかえつて人の生命又は身体に危険が及ぶおそれがあると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、屋内での待避その他の屋内における避難のための安全確保に関する措置(以下「屋内での待避等の安全確保措置」という。)を指示することができる。 

 どうしようもないときは外に出るより屋内の安全な場所で退避することも止むを得ない、というわけである。

 ただ、常識的にこれを読めば、まず逃げること。しかし、逃げることが逆に危険である場合は屋内に退避しろ、と考えるべきではないのか。

 福岡市(高島市政)が「災害が起きても家の中にいればいい」と考えているのは染み付いた考え方であることは、他の答弁からもわかる(2015年10月8日決算特別委員会総会)。

◯堀内委員 避難対象者3万9,979人に対して避難者は125人で、避難者は対象者の0.2~0.3%、西区だけで見ると0.02%~0.03%であり、少な過ぎると思わないか。また、市民が避難しなかった理由をどのように考えているのか。

 

△市民局長 避難者の数が少なかった理由については、住民の避難行動は、災害対策基本法では、避難所など安全な場所に移動するだけではなく、建物の構造や状況に応じて屋内や近隣の2階以上の安全な場所に移動を指示することができるようになっている。今回の台風第15号に関しては、マスコミや防災メール、広報車などにより、屋外に出ることが危険であると感じる場合は、自宅や近くのできるだけ安全な建物の2階以上に避難することを呼びかけている。また、避難指示を発令して以降、雨が小康状態となったことから、避難指示を受けた住民の多くが避難所へ移動しなかったものと考えている。

 

◯堀内委員 大事な問題であるため確認するが、災害対策本部長である市長も局長と同じ認識なのか。

 

△市長 市民局長の答弁と同様の認識である

 

◯堀内委員 これは非常に重大な認識である。災害対策基本法第60条第1項には何と書いてあるか。

 

△市民局長 災害が発生し、または発生するおそれがある場合において、人の生命または身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立ち退きを勧告し及び急を要すると認めるときはこれらの者に対し避難のための立ち退きを指示することができると規定されている。

 

◯堀内委員 避難指示は立ち退きの指示であると明確に規定されている。屋内の安全な場所への避難ではない。市民が避難しなかった理由について、降雨が小康状態となったためと局長は答弁したが、避難指示は解除されていなかったのではないか。とりわけ土砂災害において避難指示は重要である。平成27年8月に内閣府が策定したガイドラインの8ページの2段落目を読み上げられたい。

 

△市民局長 国が平成27年8月に策定した避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドラインにおいては、避難勧告等が発令された場合、そのときの状況に応じてとるべき避難行動が異なることから、指定緊急避難場所や近隣の安全な場所へ移動する避難行動を立ち退き避難と呼ぶこととし、屋内にとどまる安全確保を屋内での安全確保措置と呼ぶこととする。立ち退き避難は指定緊急避難場所に移動することが原則であるが、指定緊急避難場所へ移動することがかえって命に危険を及ぼしかねないと避難者みずからが判断する場合には、緊急的な待避、近隣のより安全な場所、より安全な建物等への避難をとることとなる。さらに外出することすら危険な場合には屋内での安全確保措置、屋内でもより安全な場所への移動をとることとなると記載されている。

 

◯堀内委員 マニュアルにおいては立ち退き避難が原則であると記載されており、土砂災害においては特に立ち退きが原則であるとされている。

 

 避難者数が少なくても全く問題はない、家の中にいればいい、という考えがこのご時世の福岡市の危機管理意識の水準であるということに絶望的な気持ちすら覚える。

 しかも、市は自分たちで避難指示を出しておきながら、「当日は雨が小降りになったから避難しなかったんでしょ」と平気で答えているのである。小降りで大丈夫ならすぐ避難指示は解除すべきである。避難指示を出しっぱなしにしておいて、逃げないことになんの問題意識も感ぜず、なんという言い草なのか。「『市はちゃんと避難指示出しましたよ?』という責任逃れ」のために出しているのかとさえ思う。

 

マンション住民は逃げなくていいのか?

 もう一つ。マンションは避難しなくていいという問題はどうなのか。

 市は「住民が逃げない理由はマンションも多いからだろう」と答えているだけであるが、それを問題視している様子はない。0.17%という数字が問題であるという認識はどこにも答えられていないのである。

 

 マンションに住む人は本当に避難しなくていいなら、それはそれでよい。そうはっきりと避難情報を出すべきである。

 だがそうではあるまい。

 しかし、1階ではダメじゃないのか? あるいは2階でもダメな時は当然あるのではないのか? そのあたりの判断が常識的には必要になってくるはずである。

 本当は科学的予測が立てられる行政がそれを判断して情報を出すべきではないかと思う。2階まで浸水しそうだから、大事をとって4階までの住民を避難させるとか、そんな感じで。

 もしその情報が現時点で難しければ、仕方がない。

 ただ、災害が終わってみて、「本来事前に避難すべき住民はどれくらいであり、そのうち実際にどれくらい避難行動をしたか」を行政としては検証すべきではないのか。つまり検証のための分母を確定して、さらに分子を確認する作業が必要だろう。福岡市のこの答弁からはその姿勢が全く伝わってこない。0.17%でも0.02%でも「問題なし」としているのである。

 

 少なくとも福岡市は(1)2階以上の屋内退避でもOK、(2)マンション住民は必ずしも逃げなくてもいい、としているわけで、その問題をどう整理するのか、真剣に考えるべきだろう。

 

 「本物と偽物の違いは有事にわかる」とは高島・福岡市長の言葉なのだが、まさにその通り。高島市長自身が試されている。

 

Nスペへの違和感

 災害の時に避難行動を起こす3つの要素がビッグデータの分析から浮かび上がったと報じられていた。

  1. 避難情報
  2. 環境の異変
  3. 他者の行動/働きかけ

である。この3つのうちの2つがあると避難行動を起こすスイッチが入る人が多かったという。

 ところが、最後は子どもたちに「自分の身は自分で守ろう」と唱和させる映像が流れて番組は終わる。また、識者がこのスローガンを叫ぶところも映されていた。

 いや、1.と3.って「自分」ではないよね? 特に1.は公的な責任が大きい部分だよね?

 自分の身は自分で守るというけども、「災害で死にたい」と思っている人などまずいない。わざわざこのスローガンを子どもにまでしみこませようというのは、例えば防災情報の提供、例えば堤防の整備、例えば消防体制の整備、そういった公的責任をあいまいにするためにくりかえし教育しようとしているのではないかと思えるほどだ。

 

 「自分の身は自分で守ろう」を善意に解釈してみれば、「消防署や警察とか自衛隊とか、誰かが助けに来てくれると思っているという甘い意識を追放するためだ」という反論があるかもしれない。

 しかし、まさにNスペで問題になったのは、「誰かが来てくれる」という思い込みではなかったはずである。

 いざとなったら消防やレスキューなんか、必ずしも自分のところに来てくれないことは百も承知だろう。

 そうではなくて、自分の身は自分で守りたいとは思っているが、「まだ大丈夫」というバイアスがかかることが避難行動をとらせない問題の根源ではなかったのか。そんなところに「自分の身は自分で守ろう」などと唱和させても意味はない。公的な責任への批判意識を眠りこませるだけだ。

 避難行動を起こさせるための具体的な手立てこそ考えるべきではないのか。そしてそれこそは行政の責任で知恵を出すべきもののはずだ。

 福岡市の地域防災計画を見ても、避難誘導は行政の責任である。

避難の誘導者
避難の誘導者は原則として,市長又は福岡県知事の命を受けた職員等,警察官,海上保安官消防団員,自衛官とし,実施要員が不足する場合においては,自主防災組織要員その他地域住民に協力を求める。 なお,避難誘導に際しては誘導を行う者の安全確保に留意する。 

 避難行動を起こさせるために本当に必要なことは、もしその3つがスイッチであるとすれば、ぼくならこうする。

  1. 避難情報を確実に届ける。Nスペで問題になった災害弱者は高齢者ばかりでそういう人たちがスマホやホームページを確認するすべが弱い以上、倉敷市が始めた水位計をネットで確かめるようなやり方ではなく、もっとアナログな方式で避難情報を届ける方法を考えるべきである。
  2. 他者の行動/働きかけが促しやすいよう、町内会のハードルを下げる。町内会の組織だった避難行動ではなく、気軽な近所づきあいが必要なわけで、そのためにも町内会やPTAの仕事を減らして気軽に入って人間関係がゆるやかに広がるようにすべきである。

 

 

 

プールカードはなぜハンコでないとダメ?と質問したらクレーマーなのか

togetter.com

 このtogetterについて、話に入る前に言っておきたい。

 このまとめのタイトルが「電話してみた」になっているけど(2019年6月29日17時時点)、まとめを読めばわかる通り、この保護者は学校に「電話して」などいない。「担任から電話がかかってきたし、校長から電話がかかってきたので、質問してみた」というのが正しい。

 あたかも学校に積極的に電話して「ハンコでなくサインにせよ」と要求したかのように題名がつけられ、それをもとに「モンペ」などとコメントされている。事実と違うのである。まことに気の毒としか言いようがない。

 もちろん学校に積極的に要求すること自体が悪いわけではないし、それ自体が「モンペ」ではない(後述する)。少なくともこの保護者(ぺたぞう)はそのようなことをしていないという事実の問題である。

 

 さてその上で中身に入る。

 

ハンコでないとダメってどこかで決まってんの?

 うちの娘の小学校にもプールカードはある。そしてハンコである。サインは不可であることが明記されている。

 おとといもぼくはカードにハンコを押した。ハンコ押しておいたのに、食卓の上にカード忘れてプール入れないでやんの。

 「ハンコ押したよ。ここに置くけど、今ここでランドセルにしまわないと絶対忘れると思うよ」と警告したけど、生返事して『にじさんじ学園!』読んでやがる。見事に忘れていった。草。

 

 ぼくが小学生のときにはこのようなカードはなかった。

 文部科学省が『水泳指導の手引』というマニュアルを作っている。

www.mext.go.jp

 その第4章に「水泳指導と安全」という項目があり、保護者からの情報を集める「健康カード」の活用を推奨している。

 指導者は、健康管理上注意を必要とする者に対して、医師による検査、診断によって水泳が可であること を確かめておく必要があります。このため、児童生徒の健康状態について多面的に観察することが大切です。
(1)保護者による健康情報の活用 保護者による健康情報については、問診票や健康カード等によって把握することができます。問診票は、 体温、食欲、睡眠、活動状況などから健康の状態が分かるように、具体的な調査項目を設定します。

 健康カードの具体的な項目例が載せられ、そこに「保護者印」とあるではないか!

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 これが元凶か!

 ……と言いたいところだが、それは早とちり

 だいたい、娘の学校はこんな詳細な質問項目を記入させないし、体温なども記入させない。入れるか入れないかと簡単な理由を聞くだけである。

 つまりこのマニュアル(『手引き』)は単なる参照に過ぎないのである。

 事実、いろんな学校のプールカードがネット上に転がっているが、例えば以下はある愛知県の小学校の校長名で出されているカード記入についての保護者宛の文書では、こうある。

ご面倒ですが、授業でプールに入ることが予定されている日の朝に、各家庭で検温と健康観察を行ってください。その結果、「泳ぐ」「泳がない」のいずれかに○を付け、保護者印またはサインをして担任まで提出してください。

 どっちでもいいのである。

 ハンコか、サインかは、本当に重要ではない要素だとわかる。

 むしろ、健康状態について実質的に保護者がよく観察して子どもを送り出してくれているかどうかが学校側としては心配すべき点であり、文科省の『手引き』もうるさいようだが、そのような配慮から書かれているものである。

 学校の保健関係の先生たちのサイトでは次のような座談会がある。

www.gakkohoken.jp

並木 私が学校にいた頃なので古い話ですが、初めて家庭で検温してくるようにしたところ、いちいち学校が保護者にそこまで要求するのか、要は事件事故が起こったら学校は責任を逃れたいからだろうと突き上げられた経験がありましたが、いまは協力が得られていますか。


富永 いまはそれほど極端な方はいません。検温やプールカード使うことは当たり前になっています。子どものためにやっているということで浸透しているのではないでしょうか。


並木 いまは徹底しているということですね。


富永 徹底はしています。ただ、カードを使うにあたっての課題がありまして、保護者の判断を主としているのですが、徹底しているがためにプールカードに保護者の印やサインがないとプールに入れさせていません。そこで、児童が前日に学校に忘れてしまった場合など、連絡帳で代替したり、保護者からの電話があればまだいいですが、連絡がない場合、プールに入らせなくて後になってトラブルになる場合があります。


並木 そのようないろいろ課題もありますが、それでもおおむね保護者との連携はうまくいっているということですね。永田先生はいかがでしょうか。


永田 保護者の方は協力的ですがいろいろな考え方がおありなので、小学校のように継続してやるのは大変だと思います。中学校でのプール指導は保健体育教科の中の時間ということで限られています。生徒が授業を欠課した場合、担任、教科担任、養護教諭で判断した場合もあります。が、保護者が欠課届けを本人に持たせる場合もあり、養護教諭がすべてに関わるわけではありません。本校では毎日検温することは行っていません。

 

 責任逃れじゃなくて、本当に安全管理上大事だからお願いしているんだよ、というわけである。

 いずれにせよ、保護者の確認の形式について、学校以外のどこかで決められた、抗い難いルールがあるというわけではないのだ。決めたのは学校のはずである。

 

質問しただけだろ? 説明すればいいのに

 んでその上で、元々のツイートを見てみる。

 このツイッタラー(ぺたぞう)が不思議に思ったのは、ハンコ以外はダメというルール、なぜサインではダメなのかということである。

 ぼくも同じ。不思議に思ったもん。

 そして、その理由について、向こう(学校)からたまたま電話がかかってきたことをきっかけに質問したに過ぎない

 担任や校長は、決めた理由を説明すればいいのである。

「宿題の朗読はサインでいいのですが、プールは事と次第では命にもかかわるので、特別にしっかりと確認していただきますためにハンコにしております」

とか、

「サインは偽造が可能で、そうなるとその判別に担任が相当時間を食ってしまうので、申し訳ありませんがハンコとさせていただいております」

とか、

「サインは一見すると大人が書いたか子どもが書いたかわかりません。ハンコでも三文判などを子どもが買ってきて押せるとは思いますが、一般的にはそこまでする子どもはなかなかいないので、やはり保護者にしっかりと確認してもらっていることが即座にわかるハンコをお願いしております」

とか。

 学校や職員会議で判断した理由をそのまま話してくれればいいのである。

 その説明を担任も校長もやっていないのである

 説明をしないという点でもうダメだろうと思う。質問したのにどうして説明してくれないのだろうか。*1

 「会社でも役所でもハンコを要求される時いちいち『サインでも可能か』と聞くのかよ」という反論が返ってきそうだが、不思議なら聞いてもいいんじゃないの? 法令で決まっている場合は「法令で決まっています」と言って、自分たちの説明責任の範囲外であることを答えればいいのである(「〇〇という法律の第◯条です」と法令根拠まで示してあげられれば親切だがそこまでする必要はない)。

 

質問したり説明を求めることはクレーマーか

 質問したり説明を求めること自体がクレーマーである、という意見はどうだろうか。

 親はどこかのレストランに行くかのように自分の趣味で子どもを学校に行かせているのではない。憲法で義務を課されているがゆえに子どもを小・中学校に行かせているし、教育を受ける権利の実現のために子どもを送り出しているのである。

 その関係の中で、学校機関側が子どもの健康状態の確認について親に「カードをかけ」という仕事をさせているわけである。その方式や手順について親が質問したら、それで「モンペ」扱いされる謂れはあるまい。

 そういう奴は、アレか。会社の仕事を依頼されても、手順の質問とか絶対にしないクチか。質問したら「モンスターワーカー」とかいうのか。

 

さらに言えば

 以下は、「さらに言えば」というほどのもの。最初の「ぺたぞう」のケースを超えた話だと思って聞いてくれ。

 ぼくは教育という営為はマニュアル的な対応ではない、と思っている。一人一人の子どもの発達と成長にあわせた対応が教育のはずで、だからこそ画一的な中央統制ではなく、教育委員会は独立した行政機関なのだし、学校は一つ一つが独立した権限を持っているし、教師は専門家として広範な裁量を持っている。

 であれば、子どもも保護者も学校に質問していいし、「こうしてほしい」と積極的に要求してもいいはずだ。

 というか、そういうことをしなくて、全部質問禁止・要求禁止の画一対応マニュアルでやれ、というのは間違っている。もちろん時間の制約があるから、無限に付き合うわけには行かないが、子どもを成長させ、あわせて「親育ち」(親を教えて成長させる)をさせるのは学校教育の重要な役割の一つである。説明したり、要求に応えて変えたりすることが旺盛なほどいい、と言っても過言ではない。学校は消費者相手の「店」ではない。

 現実には学級の人数が多すぎるし、教員は仕事に追われ過ぎている。そういう中で塩対応になってしまうことはあり得るし、保護者の側も遠慮するということはあり得る。また、教育の中身そのものでないことだと判断する事項なら、教師でなく別の人員が説明してもいいとは思う。

 しかし、もともとのところを言えば、教育について保護者は学校に対して質問すべきだし、要求すべきである。それでクレーマーと言われる筋合いはない。

 

*1:ただ、これは、あくまで「ぺたぞう」からの叙述であって、ひょっとしたら実際には学校側は簡単にでも理由を説明したのかもしれない。その上で「そういう決まりですから」と言ったのかもしれない。ぼくの立論はあくまで「ぺたぞう」の話を信用すれば、という前提である。

デービッド・アトキンソン『新・生産性立国論』

 著者アトキンソンによれば、人口減少の日本では生産性を上げる以外に未来がなく、著者はそのための3つの政策を提唱している。

 

デービッド・アトキンソン 新・生産性立国論

デービッド・アトキンソン 新・生産性立国論

 

 

 えーっと、まあ別に書いてもええやろ。この人の本は、この3つの政策を種明かししたからといって価値がなくなるようなタイプの本じゃないので。

 

  1. 企業数の削減
  2. 最低賃金の段階的な引き上げ
  3. 女性の活躍

 

である。なぜこういう政策が導かれるのかというロジックはそれこそ本書を読むといいだろう。

 

 この政策のうち1.と2.についてちょっと書く。

 左翼としてどう考えるかってことを。

 

企業を淘汰すること

 まずこの1.なんだけど、アトキンソンはホントこの点は容赦ないんだよね。

 というのは、日本はサービス業で生産性が悪くて、それは劣悪な労働条件をそのままにしている中小企業がこの分野で温存されているからだという。で、昨今中小企業数が減っているのをアトキンソンは大喜びしているのである。

国の生産性はあくまでも全体の平均ですから、生産性の低い企業が消えることによって平均値が上がります。この動きは歓迎すべきです。この動きに対してもっとも大事なことは、政府が余計なことをしないことです。(p.210)

  「余計なこと」というのは中小企業保護政策である。

 中小企業の中でもとりわけ零細な企業を守る法律、「小規模企業振興基本法」が2014年にできたけど、これなんかアトキンソンが想定する「余計なこと」の最たるものかもしれない。

 「中小企業振興条例」が今全国で抜本改定される流れがある。

 福岡市でもこれが数十年ぶりに大幅改定されたんだけど、その中には「小規模企業者への配慮」(14条)なんていう項目がある。

市は、中小企業の振興に関する施策を講じるに当たっては、経営資源の確保が特に困難であることが多い小規模企業者(法第2条第5項の小規模企業者であって,市内に事務所又は事業所を有するものをいう。)の事情に配慮するよう努めるものとする。

  アトキンソンからすれば、このような「余計なこと」=中小企業の保護が、現状の最低賃金レベルの時給しか払えず、労働法も無視した働かせ方を残し、生産性を下げ、デフレを引き起こしているではないかというわけである。こうした企業は淘汰されるべきであり、2060年には今の企業数の半分でいいと言う。

 アトキンソンは、地価を算定するために莫大な不動産物件の測量・調査を、原始的な人海戦術でやっている実態に驚く。そんなところになんで貴重な人手を割いているのだ、と。

 

最低賃金を上げること

 もう一つの最低賃金

 こちらについてアトキンソンは、人口減少なのに賃金を下げたためにデフレになったといい、生産性と非常に高い相関関係を持っているのが最低賃金だと指摘する。「最低賃金が高ければ高いほど生産性も高まるのです。その相関係数は、実に84.4%。驚異的に強い相関関係が見て取れるのです」(p.231)。「日本の生産性が低いのは最低賃金が低いから」(p.233)。

 アトキンソンによれば一人あたりのGDPが日本に近いドイツ・フランス・イギリスの場合、1人あたりの最低賃金は一人あたりのGDPの約50%にあたるという。

 その式に当てはめれば、日本が1.5%の成長をしていくとしたら、2020年に目指すべき最低賃金は1225円ということになる。

 ちなみに、最低賃金をあげたら失業が増えるのではという問題についても英国の例を出して反論している。この話題は最近韓国のことが引き合いに出されるのだが、アトキンソンはこの本を出した後、次のような記事を書いているので参考にしてほしい。

a.msn.com

 まあ、要はアトキンソンの主張は「韓国の失敗は、いっきに引き上げすぎたという、引き上げ方の問題でした」というだけなんだけどね。

 いずれにせよ、これは左翼的主張にほぼ重なる。

 

企業の淘汰と最賃引き上げの二つを左翼としてどう考えるか

 企業数の削減(事実上、中小企業の淘汰)と最低賃金の段階的引き上げ。

 一見すると、現在の日本の左翼的政策からすれば前者は受け入れがたく、後者は歓迎すべき政策のように思える。

 例えば共産党なんかは、小規模企業振興基本法にムッチャ期待をかけている。

www.jcp.or.jp

 読めば分かる通り、「成長発展」と別カテゴリーとして「持続的発展」をする存在として小規模企業をとらえている。

 企業数の削減(事実上、中小企業の淘汰)と最低賃金の段階的引き上げの関係をどう考えたらいいか? 前者は誤りで後者のみが正しいのだろうか?

 

 ぼくは、最低賃金を例えば時給1000円にして(中小業者には一定の支援を行うにせよ)、それに耐えられない中小企業には市場から退場してもらうのがいいのではないかと思う

 最低賃金を引き上げることで、一定期間後にも経済はよくなり、中小企業ももはや自分の力で賃金を引き上げる環境はできるだろう。そうやって支援を外して、それでもなお1000円を支払えない企業は淘汰されるべきではなかろうか。

 もっと言えば、最低賃金だけでなく、ブラック企業規制も同じである。つうか、労働法の厳密な適用な。

 例えば労働基準法32条な。

第三十二条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
○2 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

 ぼくは左翼として、当然こうした法律の厳格な適用を要求する。

 「いやあ、そんなこと中小企業には無理だよ」と言う中小企業の経営者がいるだろうか? ぼくが中小企業団体を訪問して話を聞くと、たいてい「中小企業の多くはまじめに労働法を守っている」と言う。

 それならば、いいではないか。できない企業には遠慮なくつぶれてもらおう。

 労働時間を法律通りに短縮する。

 「労働法通り」の働かせ方を要求するのである

 労働者が人たるに値する最低賃金への引き上げ。ブラックな働かせ方を一掃すべく現行労働法の厳格な適用。これである。

 それをすることで、耐えられない中小企業が出てくるかもしれない。しかしそのような企業は淘汰されてしかるべきである。マーケットから退出してもらおうではないか――これは中小企業経営者も(少なくとも建前では)認めざるを得ないだろう。

 短い労働時間で、より多くの賃金を出す企業――つまり生産性の高い企業だけが生き残る権利があるのだ。

 かくてぼくら左翼的政策とアトキンソンは基本的な一致を見る。

 まあ、これは別にアトキンソンだけでなく、例えば冨山和彦(経済同友会副代表幹事)なども言っていることなんだけどね。

www.sankeibiz.jp

 ただ、左翼としてこうした政策の結果として生産性を打ち出すことはこれまであっただろうか? そこは調べていないのでよくわからないのだが。ぼくは打ち出してもいいんじゃないかと思うんだけどね。

 

 

女性の活躍とはなんじゃらほい

 ところで、アトキンソンのいう「3.女性の活躍」なんだが、これは早い話が、専業主婦がサラリーマンの夫の家計補助的な労働力として「150万円の壁」の範囲内でパートをするという働き方は「贅沢」であり、破壊しろ、というものだ。

 収入150万円までの税制上の「優遇」、専業主婦ゆえの「優遇」をやめて、働くほどトクになる制度設計にしろという話なのだ。

 アトキンソンは人口減少に対して子どもを産むことを奨励すべきなのだから、子育て、とりわけ多産に対して相当なプレミアムをつけろと主張する。結婚しても子どもをもうけることとは別だから、今や結婚=夫婦のユニットを支援する税制は古臭いのでやめろともいう。

 どんな家族形態や生き方を選択しても、「健康で文化的な最低限度の生活」ができるような社会保障は必要だと思うので、子どもをもうけないことが劣悪な生活になってしまうような社会はダメだろう。しかし、すべての人に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した上で、子どもをつくることがコストでなく明らかなアドバンテージであるとする制度は、あり得なくないだろうか?

 いや、それをやると社会的にやはり「子どもを産め」というプレッシャーを助長しかねない気もする。

 ここはよく考えないといけないところなので、保留しておこう。

 

 

 というぐあいに、本書は刺激的である。

 読むべし。

 

大島智子『セッちゃん』

 誰とでも寝る「女の子」を主人公にした大島智子『セッちゃん』。

 以下ネタバレがある。

 本作を読んだとき、すぐに思い浮かべたのは、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』だった。

 そのことは他の人にもそうらしく、例えば、下記のインタビュー記事では、インタビュアー(土井伸彰)はまず『リバーズ・エッジ』との関連を聞いている。

magazine.manba.co.jp

 

本作は、岡崎京子的でありつつも、そこから離脱しようとしてもいる、ということだ。岡崎京子が捉えた1990年代以降のある種の空気──『リバーズ・エッジ』で引用されたフレーズを使えば「平坦な戦場」としての現実──が、東日本大震災によって終わってしまったことを描いているのである。

 『リバーズ・エッジ』では、地球環境問題が自分の日常とは無関係な、実感のわかないものとして示された。日常は退屈な現実なのだが、その退屈な現実の奥底には生々しいリアルが潜んでいる、あるいは退屈な現実を知らぬところで支えているのではないかという予感が岡崎にはあった。

 

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

 

 河原で白骨化した死体は、「生々しいリアル」への入口であり退屈な日常の裂け目だった。セックスや恋愛は「生々しいリアル」の入口のように見えて距離の短い袋小路になっている。岡崎の作品ではセックスはどんなにそれに執着してもそこから何も見えないような不毛な行為として描かれることが多い。

 主人公と親交を結ぶゲイの山田一郎を一方的に思い詰めて、やがてストーカーに近い存在となり、最後はストーキングの最中で誤って丸焼けになってしまう田島カンナの事件は、退屈な日常のすぐ裏側に生々しいリアルが転がっていることを象徴的に示している。黒焦げの死体が転がる現場を眺める登場人物の一人(吉川こずえ)の生き生きとした目を見るがいい。

 ここでは、退屈な日常と「社会問題」は完全に分裂していた。しかし、この退屈な日常の奥底にも、そして「社会問題」の根底にも、それらを共通して支えているはずの「生々しいリアル」があるのではないかという予感を岡崎は持っていた。

 

  『リバーズ・エッジ』が始まったのは1993年で、刊行されたのが1994年。

 この直後1995年に、阪神・淡路大震災が起こり、オウム事件が起きる。神戸児童殺傷事件は1997年、山一證券の破綻は1997年である。

 バブルの余韻があった「退屈な日常」の時代でも、その根底に不気味な、見えないリアルが広がっているのではないかという予感を岡崎が1994年にすでに示し得ていたのは、その先見性を物語るものだと言える。

 1996年に「新世紀エヴァンゲリオン」を見たぼくが強く印象付けられたのは、アスカやシンジたちの日常と、やがてそれが戦闘で傷つき、エヴァが暴走するという「生々しいリアル」の落差だった。

 バブル以後の社会の奥底で何かが進行している、あるいは退屈な日常の奥底では「生々しいリアル」に支えられているという不気味な予感をやはり「エヴァ」も先取りしていた。

 

 就職氷河期で大量のロスジェネが生み出され、そして2011年に東日本大震災によって原発が過酷事故を起こしたという歴史の後では、「生々しいリアル」はかなり露頭となってきたと言える。

 それを受けての『セッちゃん』である。

 

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

 

 

 登場人物の一人、あっくんは誰とも真剣に交わろうとしない。あっくんの彼女が感激している少女マンガの嘘臭さに気づきながらも、黙っている。わざわざそんな虚構性を暴く必要などないのだ。あっくんにとって世界は「あっち側」と「こっち側」に分けられている。

 「こっち側」はいわば退屈な日常であるが、それらは自分が要領よくうまくやっていける世界でもある。

 「あっち側」は自分とは断絶された向こう側、大きな物語が演じられている社会のように感じられている。

 ここまでは『リバーズ・エッジ』と似た構図がある。

 しかし、『セッちゃん』に特徴的なのは、おそらく「SEALDs」や反原発デモをモデルとしたものと思しき若い人たちのデモ(「SHIFT(シフト)」という学生団体が仕切っている)がそこに入り込んでいることだ。あっくんにとってシフトが主催するデモも、そのテロに反対するデモも、いずれも「あっち側」である。自分とは切断された物語であり、少女マンガの世界に憧れている彼女はデモに加わり「あっち側」に行ってしまう。

 デモという政治行動がこれほど身近なものとして作品に進入しているのは、まさに『リバーズ・エッジ』の時代とは異なる、3.11以後の日本の現実を示すものに違いない。そして、それにもかかわらず、主人公がそこに冷ややかな目線を向けるのも、やはりまた3.11以後の一つの実感には違いない。

 

 岡崎が空虚なものとしてくり返し描いたセックスは、『セッちゃん』においても虚しいものとして描かれる。セッちゃんが不特定の相手とくり返すセックスにはどこにも希望がない。ところが、セックス抜きでなんとなく芽生えたセッちゃんとあっくんの恋愛的感情には希望がある。恋愛がまずは自分たちの小さな世界を変える主体的行為であるかのようだ。少女マンガ顔負けの恋愛賛歌だが、あえて少女マンガを批判した上で少女マンガに再帰するのが、この作品の面白さだ。

 セッちゃんは、自分の妹にピンクの差し歯を買ってあげることにこだわっていた。何事も他人が決めてくれる世界に生きていたセッちゃんにとって、利他的に行動するという主体性に覚醒してしまった瞬間、セッちゃんは「間違えた」と感じてしまうのだ。

 だが、間違えてはいない。

 セッちゃんは、恋愛という些事、小さな「こっち側」の世界で世界に主体的な働きかけをしようとする。あっくんに会いにフィンランドに行くなんて、なんという大それた世界変革であろうか。

 

 しかし、セッちゃんは、「あっち側」から復讐される。

 ヘルシンキ空港でテロに遭い、セッちゃんはあっけなく殺されてしまうのだ。

 「あっち側」は決して「あっち側」ではない。「あっち側」は「こっち側」の端なのである。シフトによるテロが身近で起こり、その主犯があっくんの知り合いだったとしても、テロという巨大な社会現実はいまだ「あっち側」のままだった。そして、そのまんま、最後には「あっち側」によって「こっち側」が実感のわかないままに押しつぶされてしまうのである。

 2019年の現在、「あっち側」との距離感は、『リバーズ・エッジ』の頃と比べて相当近くなったと感じられる。すぐそばにあることがわかる。だけど依然として「あっち側」という膜に隔てられたままだというもどかしさが、この作品から伝わってくる。

 デモは身近にある。55ページではシフトのデモに学生たちが共感を述べている言葉が書いてあるし、シフトがテロを起こしてから学生たち自身がその反テロの座り込みを起こす。

 だけど、あっくんとセッちゃんはそこにいない。

 「それじゃない」というわけだ。

 まだそんなことを言っているのか、と左翼のぼくはつい叱り飛ばしたくなるのだが、それも一つの実感に違いない。その実感をデフォルメした作品として、本作はある。

 

 セッちゃんが「…なんですぐ変われるの?」(p.85)と疑問を呈するのは、「あっち側」と「こっち側」がシームレスでないこと、つまり自分の世界と社会の現実が完全に分断をしていることを示している。セッちゃんにとって「変わらなくてもいい」、継ぎ目なしに「あっち側」と「こっち側」を思考できる説得力ある言葉が紡げれば、左翼はもっと大きくなれるかもしれない。

 だけどそんな言葉を開発するまで待ってられないから、ぼくはとりあえず行動するわけである。

 

『家系図を作ろう!』

 ぼくも家系図を作るのにハマっている。

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 ぼくが参考にしたのはこの本。『家系図を作ろう!』。

 

家系図を作ろう エイムック

家系図を作ろう エイムック

 

 

 120ページほどでイラスト・図が多い本だ。知りたいことが簡潔にわかる。冒頭で紹介した記事でも書いてある通り、役所に行って「系図を作りたいのでさかのぼれるだけ戸籍・除籍簿*1がほしい」というとたいてい担当者が親切に教えてくれる。

 ハンコと身分証明書、そして手数料のためのお金を持っていけばOKである。あとはその場で記入する書類だけだ。

 郵送でもできるが、詳しくはこうした類の本を買ったり借りたいして調べてほしい。

 

 除籍簿の文字は最も古いものが明治に書かれたもので、少し読みにくい。ただ、数人の分をじっと見て記述のパターンを覚えてしまうとあとはスラスラとわかった。

 

戸籍でたどれる一番古い人はマルクスと同じ頃

 父方の方は完成した。

 除籍簿に記されたもっとも古い戸主は「嘉永5年」=1852年だった。

 A三郎としておく。

 A三郎には父・B兵衛がいて、それが「前戸主」として小さく載っている。しかし、B兵衛の生没年はどこにも書いていない。

 残念!

 ところが、B兵衛の妻(A三郎の母)・C子は「文化13年」=1816年生まれと書いてある。これが除籍簿に載っている最も古い年である。

 C子は「明治元年」=1868年に亡くなっている。

 ということは、B兵衛もほぼ同じ頃の生没年だろう。

 伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成した頃、あるいはカール・マルクスと同じ頃に生まれて、明治維新の頃に死んでいる。

 ぼくの「おじいさんのおじいさんの父親」がB兵衛、その妻がC子。

 これがわが紙屋家でたどれる一番古い夫婦である。

 

 ぼくの家の除籍簿を調べても、「隠された大いなる秘密」のような特別なものはなかった。

 戸籍の中にはいわゆる「戦死者」さえも一人もいなかった。

 それでも、戸籍(除籍簿)には、人の不思議な運命がいろいろ書かれていて、ぼくは昨年のちょうど今頃から夏にかけてこの「ミステリー」の読解に深々とハマっていた。

 

父親が亡くなり一家がバラバラに

 例えば曽祖父(ひいおじいさん)の弟・D治郎の子ども4人は、D治郎が30歳で亡くなると、養子に出されたり、戸籍を抜けずに遠くに行ったりしている。

 長男のE雄は父D治郎の死から6年後に名前を変えている。どうも紙屋家の戸籍を抜けないまま、隣の県に住んでいて、20代でその隣県で死亡している。死亡を「同居人」が届け出ているのだ。これは推察に過ぎないが、結婚せず改名して遠くにいるというのは、寺に入って僧侶になったのではないだろうか。

 二男のF男は戸籍を抜け、遠くの島(F島)へ、養子にもらわれていく。少なくともF島に親類がいるとは聞いたこともないし、F島に行ったこともなく、存命の父も何も知らない様子であった。養子先の名字(J山)も初めて聞く名字だった。

 三男のG郎は、父D治郎の死から20年経って25歳で結婚し、他家の婿養子として迎えられ、紙屋家の戸籍から抜けていく。

 四男のH夫は、父D治郎の死から6年後に、近隣の村に養子に出されていく。

 

 曽祖父が紙屋家の「戸主」だったわけだが、その家のどこかに住む形で曽祖父の弟・D治郎一家は暮らしていたと思われる。

 しかし、D治郎の死によって、この「居候」的な一家は解体し、妻は里帰り、子どもたちは次々養子に出されていく。

 ただし、紙屋家に長く残った子ども(三男・G郎)もいた。

 三男・G郎が結婚するよりも前にぼくの父が紙屋家で生まれており、父に「G郎を知っているか」と聞いたら「知っている」と答えた。しかし父は「遠くの親戚としてのG郎」を知っているだけで、「G郎がかつて紙屋家にいたということは知らない・記憶にはない」と答えたのである。

 

 その時の雰囲気はどういうものか知らないのだが、戸籍(除籍簿)から読み取れることは客観的に見れば「一家離散」である。

 ぼくはしんみりしてしまった。

 そして、あろうことか、この二男のF男が養子にもらわれていったF島を訪ねてしまう。

 F島は小さな島であるから、墓誌などを見て回ったりした。すると養子先と同じ「J山」という名字はいくつかあった。F男と同じ名前、つまり「J山F男」の墓誌もあったので思わず宿泊先の民宿に事情を話してしまったら、親切にもその民宿が知り合いの「J山」さんやその近隣の「J山」さんに電話までしてくれた。

 すると、つながった電話に出た一人の話によれば「確かに養子で来たF男という人は覚えているが、F男はもう亡くなったし、子孫はだいぶ前に島を出ていってしまった」ということであった。ああ。

 まあひょっとしたら突然現れた「遠縁を名乗る中年男性」を警戒して嘘を言ったのかもしれないが、もうF男の痕跡はこの島にはないのだなと、とりあえずあきらめるしかなかった。(会ってどうしたかったのか、と問われれば困ってしまうのだが。)

 

写真の整理

 家に眠っていた古い写真も掘り起こし、できる限り顔・名前が一致できるようにさせた。一番古いのは、A三郎の妻(1852〜1915年)の写真であった。

 

 世話になっている寺の過去帳についても、他の家の個人情報が侵されない形で閲覧させてもらった。除籍簿よりも古い情報が出てくるのではないかと思ったからだが、除籍簿以上の情報は出てこなかった。

 

 祖父の兵歴についても調べようとしたが、該当する資料は保存されていないようであった。

 

 

 今、母方の系図づくりに取り掛かっている。

 また、系図づくりとは別に、80を超えた父と母からライフ・ヒストリーについて聞き書きをしている。祖父が亡くなっていろいろなことがわからないままになってしまい、ひどく後悔しているからだ。

 

 自分のルーツを何らかの形で知っておきたい人は、祖父母・父母の聞き取りと合わせて今の時期にやっておいてはどうだろうか。

 

 差別問題と戸籍

 ただし、自分のルーツなど知りたくもない人、思わぬことを知ってしまうのが嫌な人には当然オススメしない。

 また、差別問題については、前述『家系図を作ろう!』には次のような記述がある。

最初の近代的な戸籍は、この年〔明治5年〕の干支(えと)をとって「壬申戸籍(じんしんこせき)」と呼ばれました。しかし、これには差別問題につながる記載があったことから、昭和44年以降、閲覧禁止となり、除籍謄本…などの交付も行われていません。つまり現在では誰も見ることができないのです。(『家系図を作ろう!』p.50)

 

 

(紙屋家についての記述は一部事実を変えて記載しています。)

*1:戸籍に記されている家族が死亡・婚姻・離婚などで全員除籍になった「ぬけがらの戸籍」のこと。戸籍簿から除かれて閉じられ保管されている。

小学校の運動会は要らないなと思った理由

 この記事を読んで思ったこと。

news.yahoo.co.jp

 

 特にこの点。

●運動会の目的と目標がきちんと明確になっていない。
 関係者のあいだで(保護者だけでなく、おそらく教職員の間ですら)腹落ちしていない。

●その目的、目標に照らして適切な手段となっているかが十分に検討されていない。

 

 ところが、なんと、指導要領には一言も「運動会」という言葉は出てこない。この事実を教職員は知っているだろうか?

 正確に言うと、特別活動の学校行事のひとつとして、「健康安全・体育的行事」という記述はある。この体育的行事のひとつの例として、運動会はある。(指導要領の本体ではなく、解説には運動会との文言は出てくる。)

 極端な話をすると、「うちは運動会はしません」という学校があってもよいわけである。

 

 運動会が目的に合ったものなのか、そもそもマストではないはずだ、という指摘は大事だ。

 なぜなら、ぼくはつい先日小学6年生の娘の運動会を見てきたのだが、6年間ずっと運動会を見てきて、「本当に必要か?」という思いを強くしていたからである。そこへきてこの記事だったので、この記事は大変時宜を得ていた。

 なお、ぼくは途中で引越しをしたので、同じ市内の2つの小学校しか見ていない。その観測範囲でのものだけど。

 

保護者=観客目線で見ても面白くない

 小学校での運動会が「不要では?」と思った直接のきっかけは、まずは観客=保護者目線でのことだった。700人〜1000人ほどの子どもがいて、自分の子どもの出番が一瞬である上に、親が運動場にテントを林立させて群がっていて(ぼくもその一人)、競技フィールドに近づけないために子どもは遠くから豆粒のようにしか見えず、それをカメラに収めようとすると直接肉眼でろくすっぽ見ることもできずに終わってしまうからだった。しかしまあこれはあくまで親目線。

 

保育園時代と比較してみる

 最大の違和感は、自分が娘を通わせていた認可保育園での運動会との差だった。

 そのA保育園では、例えば5歳児クラスには20人しかいなかった。いまの30人台後半で、しかもそれが学年あたり3〜6クラスもあるような小学校とは子ども一人一人の存在感がまるで違う。同じクラスの子どもの顔をすべて知っている保育園のクラスでは、たとえ自分の子どもでなくても「へえ、あの子が…」と注目できたし、保育園側は「自分のお子さんだけにフォーカスするんじゃなくて、そのまわりの子どもたちとの関係もよく見てください」と繰り返し親に話してきた。

 つまり、自分の子どもはもちろん、クラス全体の取り組みが「集団」として保護者にも見えているし、さらにバラバラの個体としても自分の子だけでなくまわりの友達、友達との関係が「成長」「抗争」「葛藤」「協力」などとして見えてくるのだ。

 ただ、この点については、ぼくがもっと小学校の地元の保護者たちとのつきあいをディープにしていたら、他人の子どももよくわかっていて、もう少し見えていた風景は違ったかもしれない。

 

 子どもたちにとってはどうなのか。

 保育園で例えば5歳児(年長)クラスだった時は、数ヶ月かけて自分で縄を綯い、それを使って走りながら縄跳びをする競技があった。また、(1)登り棒(2)板の飛び越え(3)跳び箱などを組み合わせた一種の障害物競走があった。

 これは「競争」=勝敗のゲーム=スポーツではなく、全て自分に課した課題をきちんとクリアできるかどうかが問題となる。たとえば登り棒は登りあがるのがやっとの子どもがいる一方で楽々と登っていって、頂上にあるタンバリンを足で鳴らして観客たちを驚かせる子どももいる。

 そして、運動会の準備は数ヶ月前から始まっているので、その課題がクリアできたかどうかは、保護者への一人ひとりのノート(お便り帳面)、クラスの保護者を集めた際の懇談会などで話される。

 保育園の先生からだけでなく、保護者は子ども(ぼくの場合は娘)から自分が登り棒ができるようになったかどうか、板の乗り越えのどこで苦しんでいるか、どんなすごい友達がいるか、などを毎日聞かされることになる。さらに娘から「早く行って園で練習したい」と言われたり、日常的に友達に教えられたり、教えたりする様子が自発的に親に伝えられる。友達の指摘を無視して縄を綯う順番を間違えて、完成直前に気づき、泣く泣くそれを解いて自分で作り直した子どももいる。

 親は手伝わない。園からも「日曜日とかにこっそり親が手伝って練習とかさせないでください」と釘を刺される。

 

 そういう課題設定や苦労が日常的に保護者にも共有されている。

 運動会は非日常ではなく、日常の取り組みの延長であり、そのディスプレイに過ぎない。保護者もそれをよく知っている。だから、見るのが楽しみだった。この方針はA保育園では他のイベントにも共通していて、例えば「学芸会」は存在せず、「生活発表会」であった。竹馬に乗る姿を披露するのは、日常の遊びの延長であり集大成だからそれを披露するのである。ものすごく高い竹馬に乗ってくる子どももいる一方で、やっと竹馬に乗れるという子どももいる。そうかと思えば、竹馬ではアレだった子どもが、リズム体操ではものすごくキレのある動きをしたりする。

 だから、A保育園は運動会で何をしようとしているのか(障害物のクリアをゴール=目標にする。それをたまたま保護者にも見せる)、そのプロセスはどうなっているのか、がきわめて明快だった。

 

勝敗を真剣に競わない

 ところが、小学校の運動会にはこうしたプロセスは全くなかった。

 6年生はソーラン節を踊った。

 実は保育園でもソーラン節を踊る機会はあったが、これはいかにも楽しみの一つであった。保育士も保護者も一緒になって踊った。

 ところが小学校の場合は、ただのマスゲームである。

 一糸乱れぬように踊らせる「美」を誇るわけだが、仮にそれを目標としているとしても結果は全くグダグダで、学年全体(100人)が一斉に、レベルの低い踊りを踊っている様を見てもほとんどなんの感興も催さない。

 そして、綱引きとリレー。

 どちらも勝敗を決するというスポーツの本質を取り入れている。

さしあたり、「勝敗の決着による強さの決定」、これをスポーツの内在的目的と考えることができます。ある倫理学者に倣って――といっても用語を借用するだけですが――、これをスポーツのエトス(ethos)と呼ぶことにします。(川谷刺激『スポーツ倫理学講義』ナカニシヤ出版p.75)

 先ほどスポーツの本質=「勝敗の決着による強さの決定」を運動会に取り入れることは全く反対しない。

 しかし、それは、きちんと設計しないとうまく作用しないことをよく考えるべきだと思う。

 どういうことか。

 娘の通う小学校は、だいたい1学年3〜4クラスあるので、「1組」「2組」「3組」などの縦割りで「ブロック」を構成する。*1このブロックの対抗として「勝敗の決着」を行うのである。

 しかし、ほぼクラスによって初めから分けられたブロックには、最初からかなりの能力上の優劣差が存在する。

 それを覆し「ジャイアント・キリング」を起こすところにスポーツの楽しさの一つがあると思うのだが、始業式のバタバタがあって運動会の準備をしてから本番までわずか1ヶ月しかない。その期間に目的に沿った合理的な鍛錬をして能力差を覆すのは至難であると見る方が自然だろう。

 だから、クラスで縦に分けられた集団=ブロックには初めから超えがたい能力差が存在し、それは短期では全く覆りそうもない。リレーで多少早く走る努力をしてもあまり関係ないのである。綱引きも同じだ。

 だから、娘のクラスでは勝敗に対してのアパシーが起きていた。「どうせやっても勝てないでしょ」的な。

 教師たちにも苦悩の跡があった。

 リレーでは、3人1組で走るのだが、「遅い人たちの組」「速い人たちの組」がまとめられていて、スタート(バトン継承地点)位置が明確にズレていた。しかし、そういう工夫をしても、機械的にわけられたブロックごとの総合タイムの差は歴然としており、埋めようがないのである。「遅い人たちの組」「速い人たちの組」という工夫は、スポーツの勝敗とはあまり関係なく、個人が恥をかかないためにだけある。

 

 たぶん勝敗のために真剣になっている子どももいると思うのだが、それはその競技が得意な子どもだけなのではなかろうか。

 

スポーツの本質的暴力性

 勝敗によって強さを決めるエトスを持つスポーツというものは、勝敗という明確な基準で勝者と敗者のコントラストを浮かび上がらせ、敗者に敗北という害悪を与えるという点で「本質的暴力性」(川谷前掲書p.124)を持っている。

 「だからスポーツを学校で教えてはいけない」というつもりはぼくには全くない。むしろその勝負事としての暴力性ゆえに、我を忘れて興奮するほどののめり込むを生むわけで、スポーツの楽しさはそこにある。ただ、逆にその教育への導入には慎重で考え抜かれた設計が必要なのだ。

 最近書いた記事、『僕はまだ野球を知らない』に出てくる強豪校の「格下見下し意識」はその副作用である。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 他方で、スポーツを教育の場に導入しながら、「勝敗に対する無関心」を起こしてしまう設計は、逆の失敗をしていることになる。

 勝負事において勝敗にこだわらない態度は、スポーツの本質を失わせている。スポーツへの冒涜といってもいい。

 前述の『スポーツ倫理学講義』の著者・川谷が次のように「あとがき」で述べていることは実に示唆に富んでいる。

 

スポーツ倫理学講義

スポーツ倫理学講義

 

 

 私がこれまでの人生で最も日常的にスポーツをしていたのは、九州の田川というさびれた炭鉱街の小学生だった頃である。

……最後の年、チームの中心にはYという同級生がいた。四番・サードで実質的には監督も兼ねていたYは、きれいごとではない、ほんとうのスポーツマンシップを全身で表現していた。一言で言えばそれは、「なりふりかまわず勝ちにいく」という精神である。たとえちょっとしたお遊びの試合でも、負けるとグローブを地面に叩きつけて悔しがるYの姿や、それに気押されて敵も味方も静まりかえる校庭の空気感を、今でも鮮明に思い起こすことができる。

 ……私は、勝つとそれなりにうれしいけど、負けてもYほど悔しくなかった。……自分さえ楽しければ負けてもかまわないという私の態度は、明らかにスポーツマンシップに反している。Yのおかげで私は、スポーツとは何よりもまず勝負事であるという根本的な事実を学んだと同時に、勝負事にそれほど情熱を傾けられない自分の個性も否応なく悟った。……

 だから私には「スポーツはほんとうは勝負事なんかじゃない」ときれいごとを言いたくなる倫理学者=大人たちの気持ちが、手にとるように分かる。もしそのきれいごとが正しければ私も自分の態度を正当化できるのだけれど、残念ながらそんな子どもだましは、真剣かつ純粋にスポーツをやっていたあの頃の子供たちには全く通用しない。(川谷前掲書p.251-252)

  ぼくはスポーツ=勝負事に真剣になれない自分のことを、この本のこの記述とともによく思い出す。

 谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』15巻には高校の球技大会・体育大会においては「女子の球技大会は男子と違って空気を読み 楽しくやることが暗黙の了解」(谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス)だという登場人物の内語が出てくる。そんな中で全く「空気を読まず」に毎回「本気の」セーフティバント、カット打法からのフォアボールなどで確実に出塁するキャラ(小宮山)が描かれる。勝負事に本気にならない=スポーツとしてエトスを破壊することに抗することがここでは、クラスの空気を読まないことと重なって、絶妙なギャグとして立ち現れている。

 ひょろひょろだまを投げる素人女子ピッチャーにクールな「マジ顔」(メガネの半分が光っている)でバントする小宮山、可笑しすぎる。

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谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス

 このギャグは、運動会におけるこの落差を見事に暴いている。

 

 もしも本当にスポーツを運動会に真剣に導入したいなら、例えば各個人の50m走の平均タイムを合計して、ほとんど同じになるようにブロック分けすべきであろう。一人ひとりの努力でブロック全体が勝利を得られるという意欲を引き出すために「設計」するのである。しかもその設計は「遅い人たちの組」「速い人たちの組」のように可視化されない。簡単に言えば「シラけない」のである。

 教育においてスポーツを導入するとは、子どもたちから勝敗への熱烈なこだわりを引き出すことであり、その本質的暴力性を召喚することなのである。

 

他の行事では代替できないのか

 「運動会の意義はスポーツ=勝負の決定だけではないはずだ」という人もいるかもしれない。

 例えば、以下はある小学校の校長がまとめた運動会の4つの意義である。

http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf

 

  1. 集団で勝敗を競う体育的行事である。
  2. 集団行動を多く伴う体育的行事である。
  3. 高学年の児童が会の運営に関わる行事である。
  4. 地域や家庭に広く公開する行事である。

 

 

 ただ2〜4は果たして運動会でなければ実現できない目的だろうか。

 2は保護者の前でやらなくてもいい。集団行動は何かの必要があって(例えば避難訓練など)その必然性において行うべきものであって、保護者の前で披露すべきものでもあるまい。マスゲームのようなものは、やりたい人だけやればいい。やりたくもないものに無理に合わせることはそもそも苦痛である上に、「集団には従うべきもの」という間違った観念さえ植えつけるに違いない。

 3は例えば他の行事で十分代行可能である。

 4はこれまでA保育園の例を書いてきたが、クラスレベルのもので十分だ。一人ひとりが主人公になれないものをぼくは見る気もない。

 

 というわけで、ぼくは今のような運動会であれば、やらない方がいい。あるいは(普通の授業と同様に)保護者が来ることを制限・禁止してもいいと思う(なぜなら昼食時に保護者・家族と食事をするという「体裁」のためだけにぼくは行っているからだ)。

 

 スポーツ(勝敗決定)ではなくA保育園のような個人・クラスごとの課題設定をした方がやりやすいと思うし、そのプロセスを保護者と共有した方がいい。「教師は忙しくてそれどころじゃない」というのであれば、別に多忙化を加速させる気はない。イベントそのものをリストラすべきである。

 

*1:学年によっては分割する。

西餅『僕はまだ野球を知らない』4

 勝敗の明暗を残酷な形で示すスポーツというものは、どうしても「格下」と相手を見る意識が生まれるものなんだろう。

 

僕はまだ野球を知らない(4) (モーニング KC)

僕はまだ野球を知らない(4) (モーニング KC)

 

 

 データにもとづく徹底した科学的な分析で高校野球ジャイアント・キリングを起こそうとする西餅の『僕はまだ野球を知らない』は第4巻で強豪チームの露骨な差別意識が描かれている。

 

「ま 何にせよ せこい変則P(ピッチャー)には変わりない

 格下相手にこんなしょぼい点差で終わったら俺らBチーム

 監督にアピールできねえよなー

 あの四番手 あいつがたぶんエースなんだろ

 あいつボコって一気に突き放そうぜ」

 

「こういうピッチャーって

 ほんと意味わかんね

 能力ないのに なんで投手にしがみつくんだろう」

 

 

 中学時代に軟式テニスの前衛をやっていて3年生最後の試合で、よその中学と対戦した時、ぼくが穴だとすぐ見抜かれ、どんどん横を抜かれて、あっさり負けた。「はっ、こいつが穴じゃん」と思われたわけである。

 いや全くその通りなんだよ。

 そしてそれがスポーツなんだよ。

 弱点を徹底して攻める。残酷なまでに。

 それで勝敗を決めるというのがまさにスポーツなわけだ。

 

 でも本当にムカつく。

 どうしたらいいんだかわからない。

 圧倒的な差があってその間を埋められない。そのために何もできない。

 そしてスポーツにおいて能力がある人間は、どうやらそうでない人間を「格下」に見ていいようなことになっている(面と向かって言ってはいけないとしても)。

 つまりスポーツの場面では、ただ自分は「格下」であり続けるしかない。

 その圧倒的な差の壁の前で絶望するしかないのである。

 

 その壁を少しずつでも崩していこう、一矢報いようではないか、というのがこのマンガの面白さだとみた。データとそれに基づく科学で説得的にそれをやろうというのである。