FLOWERCHILD『イブのおくすり』

 このマンガを何度も読み返してしまうのは、興奮する中身だったから。しみじみ、今自分は百合にエロしか求めていないなと思った。

 

 特に中学生の衣舞と養護教諭とおぼしき由仁とのカップリング。

 最終話では、教師という指導的立場にあったはずの由仁と、ペット的な存在だった衣舞の力関係が、欲望を媒介にして完全に等価になってしまう。というか逆転してしまう。

 全体的にそうだけども、特に最終話のセックスシーンは、「気持ちいいと思う部位を探り合う」という描写にまみれていて、欲望とは愛情とまったく同じものだというテーゼが見事に立ち上がってくる。

 セックスをすること、快楽を与え合うことが愛情なんですよ、という世の中ではおよそ相手にされない、しかしぼくのような男性の中にあるファンタジーを刺激してやまない作り込み方、本当に好き。

 

 さらに、中学生の永南とその先輩・馨、そして志摩コーチの3者が絡むエピソードは、さらに歪んでいる。

 永南は自分が憧れていた馨が実は志摩コーチと恋仲、というか性的な玩具であることを知り、今目の前で自分が失恋しているにもかかわらず、性的快楽を与えられる機会に抗えずにその行為の中に誘われるままに入っていってしまう。

 お前は根っからの性的な存在なんだ、と思い知らされるわけである。

 「気持ち悪い!」と怒鳴りながら快楽に溺れたり、馨先輩がおもちゃにされてると嘆きながら自分がその流れに乗っかってしまったりする描写には、ある種のコミカルささえある。

 

 人間が性的な存在でだけあるはずがない……が、あたかも性的な存在としてのみ描いている。いやこの場合、「人間」のところは「女性」にしたほうがいい。とりわけ1グラムも性的な存在であってはならない、学校という空間で「性的存在」であることをさらけ出してほしい。そしてもちろんそれは妄想であり虚構であるが、説得力を持って成立するのが本当に素晴らしいと思う。

 

大門実紀史のMMT論

 共産党大門実紀史議員がMMTについて質問をしていた。

www.jcp.or.jp

 えっ、共産党が? MMT

 というので、質問が議事録になった機会に全文を読んでみた。

 なんで関心を持っているのか。

 ぼくは薔薇マークキャンペーンに賛同をしていて、薔薇マークの趣意書のうちの例えば「5.   (4)の増税が実現するまでの間、(2)の支出のために、国債を発行してなるべく低コストで資金調達することと矛盾する政策方針を掲げない」についても賛成している。

 

rosemark.jp

 

 ただ、薔薇マークキャンペーンの理論的支柱である松尾匡の反緊縮のための金融緩和政策については判断を保留しているのだ。「保留」というのは「反対」というわけではない。態度を決めかねているのである。

 

 その時に、大門の質問(参議院財政金融委員会2019年5月9日)を知った。

 大門が言っていることは、自分の思いとかなり重なるので、ここに全文を紹介しておく。(著作権法で「政治上の演説」は利用が原則自由である。)

 自分用のメモの意味もある。

 前提として、知っておくといいと思うのだが、「日銀が引き受けた国債は借り換えの時期がきてもそのままにしておけばよい。だから借金とはみなさくてもいい」という理屈について土居丈朗が(批判的に)説明している記事がある。

toyokeizai.net

 上の記事はMMTそのものの説明ではないのだが、日銀が国債を引き受けるということについてわりとわかりやすく解説しているので、下記の質問の理解に役立つと考える。

 その理屈を知った上で、以下の文章を読むとわかりやすいのではないかと思う(強調は引用者)。

 

大門実紀史 大門です。
 既に今日も議論ございましたけれど、今話題のMMT、現代貨幣理論について、日銀の政策にも関係いたしますので質問したいというふうに思います。
 今資料を配っていただいておりますが、既にいろんな方に使ってもらっていますけど、一枚目が朝日新聞の資料でございまして、MMTとは何かということが左上に書いてございますが、朝日は金融理論になっていますが、貨幣理論の方が的確ではないかなとちょっと若干思いますけれども、要するにどういう主張かと申し上げますと、政府は通貨発行権を持っているから通貨を限度なく発行できる、自国の通貨建ての国債が返済不能になることはない、したがって財政赤字が大きくなっても問題はないというんですね。で、インフレは起こらないとはおっしゃっていませんで、インフレが起こるだろうけれども、ある水準に達するまではさっき言った財政支出は幾らやっても構わないというんですね。仮に、ハイパーとは言いませんが、高インフレになっても簡単に抑えることができると、国債を売る売りオペとか増税すればいいというようなこと、もう一つは中央銀行による国債の直接引受け、財政ファイナンスもやっていいんだと。
 これは、ニューヨーク州立大、ケルトン先生の記事でございます。この中にもありますけれども、過去の世界の歴史で起きたハイパーインフレ、日本の、先ほどありましたが、戦後直後のハイパーインフレも含めて、ハイパーインフレが起きたのは中央銀行による財政ファイナンスのせいではないんだと、戦争とかいろんな特別な危機の下で、つまり供給が需要に追い付かない、いろんな生産設備が破壊されますので、そういう物の供給不足からインフレになったので、中央銀行の債務や信用拡張とは関係ないということですね。ですから、財政ファイナンスをやっていいと、ハイパーや悪性インフレ、高インフレは起こらないと、起きても制御できるというふうな、そういう理論でございます。
 MMTそのものはそもそも、ちょっと調べてみましたら、私も専門ではありませんけれど、通貨とは何かという純粋な貨幣学説であって、特に何か急に出てきた話ではないということで、ただ、今まで余り注目されてこなかったのが、今、日本とアメリカで大変話題になっていると。
 そのきっかけは、昨年のアメリカの中間選挙で史上最年少の女性下院議員に当選したオカシオコルテスさん、民主党のサンダース派の、民主的社会主義者とおっしゃっているグループの方ですね、このオカシオコルテスさんが、女性議員ですけど、MMTを支持するということで一気に注目をされてきたということでございまして、これは今のところ、出どころからいえば左派の理論なんですね。日本では右派が注目しておりますけれども。
 資料の二枚目に、先ほどございましたけれど、このMMTについて、アメリカのFRBの議長さん含めてそうそうたる、本当にそうなんです、これ何枚も続くんです、著名な学者がみんなMMTを批判をしております。これ財務省の資料で、後でこの問題点も言いますけれど、非常に過剰反応じゃないかと思うくらい、もうことごとくこれは駄目だというふうに批判しているわけですね。
 余りに批判されますので、このケルトン教授というのは、今言いましたMMTの急先鋒の学者さんであって、先ほどのコルテスさんですね、サンダースさんのときもそうですが、コルテスさんのとき、民主党の左派のブレーンみたいな方ですけど、そういう批判が猛烈にされましたので、このケルトン教授は、資料一に戻りますけれども、そのいろんな批判された反論として、日本でやっているんだと、日本で成功しているんだと、実例があるじゃないかということでいろいろおっしゃっているわけですね。だから、もう理論的にも実証されているんだということで、そういう議論があったので、この議論がアメリカから日本に飛び火をして、日本の日銀も含めて今いろんなことになっていると。
 それで、財務省が、要するにどんどん借金しても大丈夫だよというような理論なので、慌てて火消しに躍起になって、財政審で、この三枚目から六枚目の資料ですね、こうびっしり出して、これも過剰反応ではないかなと私思いますけれど、出してきているということですね。
 資料の三枚目に西田さんの有名な決算委員会での質問の答弁が載っているわけですが、これ私、西田さんに大変失礼だと思うんですよね。西田さんの質問を載っけないで答弁だけ載っけているんですよね。面白い、何ですか、天地創造ですか、あっ、天動説か、地動説ね。ああいうのを載っけないで、この答弁だけ載っけて反論だけに使っているというのは、大変議員の質問に対して失礼じゃないかと思いますけれど、非常に過剰反応ですよね、過剰なんですね。
 このMMTの理論の中身は後で触れたいんですけれど、まず、なぜこういう主張が欧米で力を増してきたのかということをやっぱり私たちは考えるべきじゃないのかなと思うんですよね。一言で言いますと、緊縮財政、緊縮政策に対する反発、もうたまりにたまった不満が爆発してきたのではないかと。これは日本でも言えると思います。
 要するに、この二、三十年、日本では二十年ぐらいですかね、新自由主義的なグローバリゼーション、規制緩和、小さな政府、緊縮、財政規律、社会保障を抑制して、増税して、我慢しろ我慢しろと。こういうふうないわゆる緊縮政策に対して、もういいかげんにしろと、政府は国民のためにお金使えと、場合によっちゃ借金してでも国民の暮らしを守れということなんですね。今まで政府が言ってきたような、日本の政府もそうなんですけど、財政規律とか緊縮というのが一体誰のための緊縮だったのかと。
 要するに、小さな政府論があって、富裕層とか大手資本が海外に逃げないとかいろんな、そのために緊縮財政を押し付けてきたんじゃないかというようなことがだんだん分かってきて、そういうことも含めてこういう反発が起きて、ですから、私はこれ、不満の歴史的な爆発というふうに捉えるべきではないかと思うんです、政治的に言えば、歴史的に言えばですね。
 ですから、欧州の左派、イギリスの労働党のコービンさんとか、スペインのポデモスですか、新興左派ですね、で、アメリカのさっき言ったサンダース、オカシオコルテスさんというような人たちが一様にこの緊縮に対する反発、反緊縮という言い方されておりますけど、そういうものとして、対抗軸として出てきたのではないかと思うわけであります。
 実際にこのMMTの理論をどういうふうに政策として採用するのかは、今言ったいろんな国のいろんなやり方がありますけれど、大きなバックボーンとしてこのMMTがあるということではないかと思います。
 ただ、正確に言いますと、コービンさんなんかの政策を見ると、社会政策の方は税制改革でと。つまり、富裕層に増税を求めてとか、歳出の中でやるものは増税、税制改革。で、緩和マネーでやるのは公共インフラ、公共住宅の建設。そこで雇用を生めと、雇用も生めという意味ですけどね。そういうふうにありますけど、いずれにせよ、緊縮財政への反発が歴史的な背景にあるといいますか、あると。
 そこで、日本について考えますと、この財務省の過剰反応も含めて思うんですけれども、日本の緊縮財政の本丸が財務省だというふうに思われているから、西田さんも財務省を主要の敵の本を書かれるわけですよね。そういうことが広がっているわけ、いろんな方からね。
 そういうふうに考えますと、財務省はこれ、ただ過剰反応するんじゃなくて、自分たちがやってきたこと、やろうとしていることをもうちょっと謙虚に反省すべきじゃないかと、まず。このMMTは日本にずっと波及しますよ、財務省が今の姿勢のままですと。
 要するに、財務省は一貫して財政再建至上主義、借金が大変だ大変だと危機感あおって、プロパガンダやって、もう社会保障は削るしかないと、増税しかないんだというようなことをずっとやってきたわけですね。四月の財政審なんかも、あれもう夢も希望もない、国民にとっては。もう気持ちが暗くなるだけの、そんなものばっかり出してきているから景気も悪くなって、マインドも冷え込んで良くならないということになっていると思うんですよね。
 ですから、財務省に聞きたいのは、緊縮財政にこんな過剰反応するんじゃなくて、今の財務省の緊縮政策そのものがもう歴史的に日本では問われていると、そういう認識をまず持つべきではないかと思うんですが、いかがでしょうか。

 

副大臣鈴木馨祐君) 今いろいろと御指摘をいただいたところでありますけれども、例えば、今、高齢化がこれから進んでいくような状況を考えれば、やはり医療の高度化も伴って社会保障全体の費用というのはこれからどうしても増えていく傾向があると、そういった状況があります。さらに、やはり今の景況感、景気の状況を考えたときに、どこまで公助でしっかりと支えていかなくてはいけない状況なのか、これは当然、その時々の景気状況によって我々の打つべき政策変わってくると思います。
 そうした中で、どこに最適解があるのかということを考えて、今しっかりとそうした財政の必要なところ、必要なところをしっかりと対応していくということで今政策を進めているところであります。

 

大門実紀史 そんなことばっかり言っているから、財務省がもう主要な敵になっちゃうんですよね。副大臣財務省出身だから仕方がないのかも分かりませんけれども。
 私は、このMMTの理論の中身というよりも、欧米の場合は左派が多いわけですけれども、こういう政治家の方々の心情というのは、国民の気持ちを代弁していて大変理解できるところはあるわけでございますし、大変共感するところはもちろんあるわけです。当たり前ですよね、目の前で困っている人がいたら借金してでも助けろと、それは政治の役割ですよね。これは当たり前のことでありましてですね。
 あと、財務省にちょっと一言言っておきますと、何でこんな過剰反応するのかなと。私、このMMTの理論は、一つの知的なシミュレーションとしてちゃんと参考にすべきところは参考にして、何も全面否定、こんな全面否定する必要ないんじゃないかと思うんですよね。西田さんが言われた信用創造の話も、先ほどもありましたけれども、当たり前の話をされているわけで、銀行が万年筆マネーで数字書けばそれでお金が生まれるわけですから、それは一つの当たり前の、実務的には当たり前の話をされているわけですね。それを延長するとちょっといろいろ言いたくなるというのは分かりますけれども。
 ただ、いずれにせよ、物事というのはそういう面もあれば違う面も見ると、からも見るということであって、これは一つのシミュレーションとして、この信用創造論、別に新しい話と私思わないんですけれども、天動説、地動説ほどの話だとは思わないけれども、これは一つの考え方とこのMMTの人たちも言っているわけですね。そういうふうに捉えればいい話で、何もむきになって否定する必要ないと思うんですよね。
 統合政府まで、これ、わざわざよくこんなもの資料作ったなと思いますけれども。これ何枚目ですかね、統合政府は資料五枚目ですかね。何でここまで一々やる必要があるのかなと思うんですけれども。要するに、政府と日銀が一体だと考えるとどうなるかということを一つのシミュレーションとしてMMTの人はかたがた言っているわけでありまして、これは要するに、財務省が借金大変だ大変だと言うから、違う考え方もありますよと、こうやって見ればちょっと違う絵柄が見えるでしょうということのシミュレーションであって、何も本当に統合しているわけでもありませんし、当座預金は負債で残りますからね。それをこんな、何か非常に過剰反応する必要は何もないんじゃないかと。財務省の脅しに乗るよりはよっぽど、この統合政府論をいつも描いておいた方がよっぽどいいなと私は思うんでありまして、何もこれもそんな否定するような話じゃないと。財務省が余りにも今まであおり過ぎるからこういう考え方が出てくるんではないかと思いますし。
 先ほどもちょっとありましたけれども、六枚目のシムズ理論、FTPLですね、これも何で一々こんなこと書くのかなと思いますけれども。これも一つの知的シミュレーションで見ればいいんじゃないかと思うんですよね。要するに、これ言っていることは、政府が財政支出を行う、借金して行う、だけど将来増税しませんよ、歳出のカットもしませんよということをコミットしたら人々はお金を使うだろう、景気は良くなるだろう、物価は上がるだろうと。これ一つのシミュレーションで、私は本当にこのとおりいくと思いませんよ、人々の気持ちというのはいろいろありますからね。このとおり動くとは思いませんが、一つの学者さんの意見として、理論として参考にすればいいだけで、シミュレーションとしてですね、こんな一々反応する必要はないんじゃないかというふうに思います。
 ですから、ちょっと過剰反応し過ぎじゃないかなと思うわけですけれども、一つだけ私が思うのは、なかなかMMTの主張に同意できないといいますか、思うのは、やはり中央銀行が財政ファイナンスをしても大丈夫、高インフレは起こらない、日銀はもう既に財政ファイナンスやっているからインフレにもならない、金利も低いんだと。やっているけれどもインフレにならない、金利も低いんだ、だからこれからも大丈夫と。これだけはちょっと違うのかなというふうに大変思っているところでありまして、ここからは西田さんと意見が分かれてくるわけでございます。
 これはもう長いこと、私もう二十年近くそういう議論しているんですけれども、先ほども黒田総裁にMMTどう見るかという質問ございまして、要するに、ちょっと一般的な今までの答弁と同じで、みんなが批判しているし、少数の主張だし、オーソライズされていないということだけでしたけれども、このケルトン先生がおっしゃっているのはそういうことではなくて、実態として。目的じゃないんですね。日銀はそういう目的でやっていません、財政ファイナンスなんか考えておりませんと。それはそういう目的じゃなくて、事実この六年やってきたことは間接的なファイナンスで、しかも巨額の国債保有をしている、しかしインフレ起きていないじゃないか、金利もゼロに張り付いているじゃないかと、この部分がケルトンさんはMMTと、今までのところですよ、少なくとも、同じではないかということをおっしゃっているわけですね。それはもう藤巻さんと私は同じで、同じじゃないかと思うんです、そこはと思うんですね。
 あえて違うと日銀がおっしゃるとしたら、日銀は、この先も絶対高インフレは起こらないとか、財政ファイナンスに発展しても大丈夫だとは思っていないということならば違いますよということになると思うんですけれど、その点はいかがですか。

 

参考人黒田東彦君) 先ほど申し上げたように、MMTの理論自体が必ずしも体系化されておりませんので、なかなかこの評価が難しいということは申し上げたいと思いますが、その上で、この基本的な考え方の、自国通貨建て政府債務はデフォルトしない、したがって財政政策は財政赤字や債務残高なんか考慮しないで景気安定化に専念する、しかも、その際、国債中央銀行引受けで幾らでもやってもハイパーインフレにならないということも言っている人がいるわけですけれども、御承知のように、戦後のインフレの多くが、確かに生産設備が破壊されて供給力が落ちたところに、戦後に、戦争中に抑制あるいは抑圧されていた消費需要がばっと出てきてインフレになったという面があることは事実なんですけど、他方で、やはりその際に巨額の国債をため、それをファイナンスしてきたと。
 御承知のように、アメリカ自体もそういう下で中央銀行が長期国債金利を上げないようにずっとしていたわけですけど、景気がもう良くなっているのにやったということが失敗だったというので、それは五〇年代にやめているわけですけれども。
 いずれにせよ、ハイパーインフレは戦後のそういう時期だけでなくて、途上国ではそこらじゅうでハイパーインフレは起こっています。これは別に戦争があった結果ではなくて、ラテンアメリカとかアフリカとかでいっぱい起こっていますし、アジアでも起こっています。
 ですから、MMTの理論が、財政政策はもう幾らやっても大丈夫で、しかもそれを中央銀行ファイナンスしたら大丈夫、ハイパーインフレなんてほとんどならないというのは実際間違っているわけでして、そこは学者の人がみんな批判する一番大きな理由だと思います。
 それから二番目に、ケルトン教授ほかの人が、日本はMMT理論を実行しているじゃないかということを言われるんですが、私はそういうふうに思っておりません。
 ケルトン教授の理論というのは、要するに、財政はもうどんどんむちゃくちゃ拡張して、それを全部中央銀行引受けで国債を買ってやれればいいんだと言うんですけど、それを日本がやっているかと言われると、むしろ委員が御指摘のように、景気対策ということはやってきましたけれども、やはり財政の健全化あるいは持続可能性を強化するということは歴代の内閣でも、今の内閣でもそうですけれども、重要なことであると考えていますし、それは私は間違っていないと思いますので、ケルトン教授が言っているように、日本はMMTを実行して財政を大拡張して、それを中央銀行が引き受けてうまくいっていると、ハイパーインフレになっていないという議論は、日本がそういうことをやっているわけではありませんので、そのMMTの理論の、何というんですか、正当化するための、実例があるというのは間違っていると思います。
 なお、シムズ教授の理論、議論については私もよく存じておりまして、実際にシムズ教授が講演して話されたのはもう大分前ですけれども、五、六年前ですか、その場におりまして、シムズ教授と話したこともありますけれども、この理論自体はしっかりした理論で、別におかしくはないんですね。ただ、その前提がちょうど満たされるような状況かと言われると、そういう状況になっているところは余りないということでして、前提をきちっと受け入れるときちっとした結果が出てくるということは間違いないので。
 シムズ教授はたしかノーベル経済学賞もらって、期待とかマーケットの話について非常に詳しい人ですけれども、全く理論として間違っていると思いませんし、それはそれで考慮すべきものであると思いますが、MMTについては理論もしっかりしていないし、それから、確かに今委員御指摘のような政治状況の中でアメリカでかなりもてはやされてはいますけれども、アメリカの学者自体がまずほとんど、デモクラットでもリパブリカンの学者でも受け入れていないというのは、やはり言っている、主張していることが理論的に正しくないということがあって言っているんだと思います。
 一方で、委員御指摘のような財政政策に関するリベラルな人たちの不満とか、現に民主党の大統領候補の方々はグリーンニューディールということを唱えて、それを実際にちゃんとインフレとか財政破綻なくできるということを言うためにこのMMTというのを使っているんだと思いますけれども、そういう政治的な、あるいは社会的な背景があるということは委員御指摘のとおりだと思いますけれども、ただ、この理論が正しいとか、あるいは日本がそれをやっているとか、それはちょっと当たらないというふうに思っております。

 

大門実紀史 私、このケルトン先生好きなんですよね。何といいますか、心情的にね、人々を救わなきゃいけないというところからいくとですね。だからこそ、財政ファイナンスしても大丈夫だとおっしゃる根拠は何だろう、何だろうということでいろいろ見てみたんですけれど、はっきり大丈夫だと言える根拠が示されていないというのが今のところ、私の勉強不足かも分かりませんけれど。
 まず思うのは、国債直接引受けと間接引受けはまず大きく違うと思っているんですね、そもそもこの日銀の議論の最初からですけど。銀行から日銀が国債を買うときというのは、既に銀行が国から買っているわけですね。そのときは、銀行は民間の、自分の判断として国債のリスクなりあるいは償還の可能性とかいろんなものを検討した上で市場価値を測って、その値段で買うなら買う、買わないなら買わないと、こう裏付けがあるわけですね、一定、市場のですね。
 ところが、直接引受けになりますと、それとは関係なく、もう政府が発行したら買わなきゃいけないと、こういう仕組みになりますから、市場の裏付けの価値のない国債、つまり通貨も発行することになりますからインフレになると。もうこれ当たり前のよく分かる話で、それがありますから、どうして財政ファイナンス、直接引受けしても大丈夫だと、事実やっているから直接引受けやっていいんだと、ちょっと違うと思うんですけど、その議論もなかなか、どこにも書いてないですね。
 何よりも、ちょっと私分からなかったんで、この新聞記事にあることなんですけど、戦後の、今おっしゃいました戦争とかクーデターでハイパーインフレは起きたんじゃなくて、物不足で起きたんだというようなことなんですね。もちろん、それは物不足もあったと思うんですよ。ところが、それだけなのかということが逆にあって、今言った直接ファイナンスもあるんですけど。
 それで、国会図書館に、このケルトンさんがおっしゃっている、何を根拠にこうおっしゃっているのか、世界各国ではというのを国会図書館に調べてもらったら、この根拠になっているのはアメリカのCATO研究所のワーキングペーパーで、五十六か国におけるハイパーインフレに関する調査というのがありまして、その文言の中に、戦争、政治的失敗等の極端な状況の下で発生したと、ハイパーインフレはですね。で、それしか書いてないんですよね。
 もちろん、その戦争の意味ともう一つ政治的失敗の意味の中に当然直接引受け、ファイナンスがあったんではないかと、時の政府の圧力によって、軍部の圧力とかで国債買わされるわけですからね。ですから、ケルトンさんは別にその文言だけ持ってきて戦争とか何かだとおっしゃっているだけで、中央銀行の信用膨張が関係ないんだという実証は何もないということが分かったんですよね。
 あと、もう一つ気になるのは、これ、民主的な政府ならば、民主的な政府では起きないと。実は、第一次世界大戦の後のドイツでハイパーインフレ起きましたよね。あのとき、ワイマール共和国ですよね。世界で最も民主的と言われた国でしたよね、当時ですね。だから、その意味は分かりませんけど、これは恐らく、理想的な政府、非常に賢い人たちが運営する理想的な政府で、しかも統制経済的な運用ができる、その世界ならばハイパーインフレを起こさず、あるいは起きても止めることができるというようなことの意味かなというふうに善意に解釈して思うところでございます。
 あともう一つは、ちょっといろいろ疑問点あるんですが、いずれにせよ、こういう方々がおっしゃっている意味、最初申し上げましたけど、今の緊縮財政そのものがやっぱり根本的に問われていると。やっぱり税制改革含めてもっと人々のためにお金を使うような、税制改革含めてやらないと違う話になってきて、私がそれともう一つ思うのは、このMMTの理論がこれから、今までの日本を思うとどう影響するかというと、本当に人々のための財政支出、例えば社会保障とか生活予算とかに財政支出が回ることに使われるんだろうかと。ひょっとしたら、要するに、もっと借金していいですよと、あと百兆、二百兆大丈夫ですよと、ここだけが、都合のいいところだけが利用されて、結局新幹線造ろうとか公共事業もっとやっていいとか、そちらの方に使われてしまうんじゃないかと、MMTの理論は、善意としても。(発言する者あり)社会保障は、やっぱり私、社会政策だから、歳出の範囲で税制改革をやるべきだと思っておりますので。
 で、公共事業を全部否定しているわけではありません。重要な公共事業もあります。必要な新幹線もあるでしょう。住民のための公共住宅の建設だって必要ですよね。あと、投資、収益、効率を見てですね。否定するわけじゃありませんが、この理論が、結局今の安倍内閣の下では、財務省だけの責任じゃありませんで、安倍内閣の下では結局はそちらに使われて、国民のための、だって社会保障ずっと削ろうとしているじゃないですか。(発言する者あり)と言う人もいるんですけど、全体はそうなっていないですよね。だから、そういうふうに危険に、何というのかな、危なく使われる可能性があると。だって、今までのリフレ理論も、いろんなこと言っていましたけど、結局株価上げるために使われたんじゃないかと私は思っておりますので。
 政治の場というのは大変怖いものがありまして、学者さんたちの知的なシミュレーションとかいろんな研究のいいところだけ切り取って使うというのはこの国会の常でございますので、そういう点は非常に警戒をしているわけでありますが、こういうふうに日本もMMTをやっていると言われるぐらい、やっぱり日銀の政策というのは行き詰まっているし、逆に言うと、出口に向かうなと、向かわなくていいためにこういう話が出てきているというふうにも思うわけですよね。
 ここはしっかりと、何度も提案しておりますけど、量的緩和、正常化の道にきちっと踏み出すべきときにやっぱりこういう面からも来ているんじゃないかと思いますが、黒田総裁、いかがでしょうか。

 

参考人黒田東彦君) 現時点で、展望レポート等にも示されておりますとおり、二%の物価安定の目標に向けたモメンタムは維持されていますけれども、それまで、達成されるまで、従来考えていたよりも少し時間が掛かるということでありますので、現時点では、この長短金利操作付き量的・質的金融緩和の枠組みの下で強力な金融緩和を引き続き続けていくということになるということであります。
 ただ一方で、二%の物価安定目標が実現すると、そういうような事態に近づいてきた場合には、当然出口について政策委員会でも議論しますし、私どもからもその出口への具体的な考え方についてはコミュニケーションを取っていきたいというふうに考えております。

 

大門実紀史 終わります。

 

黒木智子のどこがいいのか

 『私がモテないのはどう考えてお前らが悪い!』の主人公・黒木智子はずっと一人ぼっち(「ぼっち」)であることをネタにしてきたマンガ作品だが、ここへきて奇妙な形で次々と友人ができはじめる展開になっている。その様は「コミュニケーションの牢獄」である高校生の教室空間において、一種の人間関係のユートピアともいえる状況を呈していて、感動を覚えずにはいられないというのが正直なところである。

 

 

 

 虚構なんだから設定の中の「現実」についてまじめに考えてもしょうがないとは思うんだけど、どうして黒木のまわりに人が集まりだしたのだろうか。

 

 例えば、ネモがゆりに自分のことを嫌いなのかを正直に聞くシーンがある。

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谷川前掲書、p.105

 上図の通り、ネモは嬉々として(というか興味津々で)それを聞いているのである。「普通の答えじゃないね」とネモが言っていることからもわかるように、ネモが黒木周辺の人間関係に惹かれるのは「普通じゃないから」である。

 「普通じゃない」ことはネモにとって「面白そう」なのである。

 例えば下図でもネモはそのように告白している。

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谷川前掲、p.30

 アニオタで声優志望であることを隠してきたネモは、空気を読んで本音を隠しあうグループを「普通」であると感じ、それを「面白くない」退屈な集団だと思い始めたのだろう。15巻には、中学時代に人間関係で傷ついて疲れてきた歴史が描かれ、高校に入ったらそういう目に遭わないために空気を読んでうまくやろうと決意するエピソードが描かれている。

 

 13巻では黒木が少女マンガ批評をするシーンがある。少女マンガにありがちな展開を批判することがそのまま現実の教室の友情道徳批判になっている。下図の通り、その批評は、普段滅多に反応しないはずのゆりが同意をわざわざ表明するほどの鋭いものとして映った。

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谷川前掲、p.123

 ここのコマの運び方の雰囲気が決して真面目すぎるトーンではなく、どちらかといえばギャグっぽく描かれ、黒木のセリフもまったくしんみりせず、ニュートラルな印象を与えている。それが可笑しみとともに、冷静さをぼくらに印象づける。

 黒木は腐りきった(いろんな意味で)クズであるような側面も持つけども、それはクールな観察眼、相手への容赦のない批評性の裏返しであったりもする。

 14巻で、人の性格をじっくり見ながら本を勧める黒木の姿にぼくは驚いた。

 あっ、こいつ気遣いをしている……という驚きでもあるが、オタクとして自分の得意領域ではついつい黙っていられなくなり、親切心のようなお節介を発揮してしまう調子がよく出ている。そして下図の通り、黒木の顔はドヤ顔でもないし、にやけ顔でもないし、むしろやや真面目寄りの価値中立的な表情をしている。

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谷川前掲14巻、p.39

 黒木の周辺に「普通じゃない人」=「面白い人」が集まってきたのは、そのコアに黒木のクールで、時に陰湿な批評眼があるからじゃないのだろうか。それが人をラクにさせたり、楽しくさせたりする。

『響』と『月と六ペンス』

 天才的な高校生の小説家を描いたマンガ、『響』について、つれあいは「たかが高校生に芥川賞はともかく直木賞を取れるような文章が書けるはずがない」「しかも本人に社会性がなく、経験もない。世事に疎そうだし」という批判をした。

 

 

 

 

 年齢については一見説得力のあるところだが、朝井リョウ直木賞を受賞したのは23歳だそうだから、高校生が受賞することはそれほど無理な話とも思えない。

 

 こうしたつれあいの批判以外にもAmazonのカスタマーズレビューにも批判はたくさん上がっていて、例えばこうだ。

2巻まで読みましたが、駄目ですね。
肝心の、主人公の少女の書く小説がどう凄いのか読んでもさっぱりわからないので反応に困ります。グルメ漫画で例えると、変わり者のシェフがこしらえた料理の、絵も一切書かず、どんな味なのかも説明せず、ただひとこと「美味い」とだけ言うようなものですからね。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1BEWT12U8MG84

 そのこと〔本が作られるまでの苦労――引用者注〕に敬意を払わず、自分の感性とやらにのみ従って暴言を吐き暴力行為で物事をすすめようとする響には虫唾が走るだけで全く魅力を感じない。どうせなら人間性に多大なる問題があったとしても、本だけは愛するという信念をもっていてほしかった。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R123N0X70RAPVW/

才能があれば何をしてもいいのだ!!!というのなら、その才能の片鱗でも見せてくださいよね。思いつかなかったのでしょうが。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1R9XU16TJXUHW/

 

 「天才の片鱗(小説の中身)を示せ」という批判、性格がひどすぎるという批判が多い。

 しかし、こうした批判は、天才画家の生涯を「私」と称する作家の目を通して描く、モームの『月と六ペンス』を最近読んだばかりのぼくとしては、「いやこれはぜんぶストリックランド(モームが同作で虚構として描いた天才画家)の描写に当てはまるよね?」という反論を思い浮かべてしまう。

 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 まじめ一徹で無骨で無趣味な株の仲買人だったはずのストリックランドはなんの前触れもなく妻子を捨てて出奔。「私」が探し出して問い詰めても、人が変わったようになり、意に介する様子もない。

「ご婦人を無一文で放り出すなんて、とんでもないことですよ」

「なぜ」

「奥様はどう暮らしていけばいいんです」

「十七年も食わしてやったんだ。そろそろ自力でやってみてもいいと思わんかね」

「無理です」

「やらせてみるさ」……

「奥様がどうなってもいいんですか」

「いいとも」(モーム前掲書、p.81-82、土屋政雄訳、光文社)

 

 絵の描写はあることはある。しかし、これはAmazonのレビュアーたちが求めていたような「天才の成果物の描写」と言えるだろうか。

 ストリックランドの絵の天才性を知る数少ない一人、売れっ子だが凡人の画家・ストルーブの言葉だ。

 

「すごい絵だった。大傑作だ。ぼくは打たれた。もう少しで恐ろしい罪を犯すところだった。もっとよく見ようとして近づいたとき、何かが足にぶつかった。見たらスクレーパーで、身が震えた」

 ストルーブの感動の一部が私にも伝わってきて、不意に別世界に連れていかれたような不思議な感覚にとらわれた。そこは価値観の異なる世界だ。見慣れたもののはずなのに、引き出される反応がまったく違う。土地不案内の私は、ただ途方にくれて立ちすくんだ。ストルーブは絵のことをしきりに話してくれたが、言葉は支離滅裂で、何を言いたいかは私が想像するしかなかった。そして自分自身を見つけた、とも言った。いや、そんな手垢のついた表現では間に合わない。そうではなくて、思いもよらぬ力を持つ新しい魂を発見した。大胆に単純化されたデッサンからは、豊かで得意な個性が見て取れる。だが、それだけではない。色使いは肉体に情熱的なまでの官能性を与え、奇蹟的なまでの何かをとらえ得た。だが、それだけでもない。中身の詰まった肉体は圧倒的な重量感で迫ってくる。だが、それだけでもない。そこには、見たこともない、心を騒がせる精神性がある。それは見る者の想像力を思わぬ方向へいざない、薄暗い虚空へと導く。永遠の星明りで照らされるだけのその虚空で、人の魂は赤裸となり、新しい神秘を見つけようと恐る恐る足を踏み出す……。(前掲書p.249-250)

 正直、モームがこの作品で絵を形容するくだりは、こんな調子だ。「舞い上がった表現」「三文小説的表現」と自嘲気味に書いている通り、少しでも条理のある描写は期待できない。

 だけど、それでいいのである。

 『月と六ペンス』という小説を読んで「天才の絵画」そのものを見たいわけではないのだ。むしろストリックランドという天才と呼ばれている人の凡人との距離を見たいのである。

 絵についていえば、『月と六ペンス』には、お金に換算するエピソードが随所に出てくる。生きているうちにはまったく評価されなかったストリックランドの絵だが、死後莫大な高値がつく。そのことをすでに知っている現在の「私」は、後で高値がつくとも知らない絵を、ストリックランドを取り巻く世間の人々が二束三文で取り扱おうとする皮肉を、その時の値段の比較によって表すのだ。その通俗性こそ、痛快なのである。

 

 ちょうど『響』における鮎喰響の天才が、小説の言葉ではなく、数々の賞、世間的評価、群がってくる金銭話によって表現されるのに似ている。

 そして、人格の欠片すら見出せない傍若無人なストリックランドと、自分の尊厳に対して異様にセンシティブでその侵犯に対して極端な暴力で反発を表す響とは、どこか通底するものがある。

 

 ただ、『月と六ペンス』と『響』はやはり違う。

 『響』のどこが面白くて読んでいるのかといえば、響その人というよりも、響によって照らし出される凡人たちの凡才ぶりであり、天才という狂気に群がる金銭欲の通俗ぶりなのである。主人公はむしろ響ではなくその周りにいる人々だと言える。

 そこそこ才能があり、本当ならもっと注目されていいはずのリカが響に抱く劣等感やコンプレックスが、ぼくにとっては特に興味を引く。あるいは、受賞ができるかどうかという次元で悩んでいる作家たちと、ただ小説というものをひたすらに突き詰めようとしている響との差。天才の周辺を照らす役割としての天才――それこそが『響』の魅力ではないのか。

 『月と六ペンス』では売れっ子だが、平凡極まる絵を描いているストルーブの存在がそれに似ているが、あくまでそれはストリックランドの引き立て役でしかない。主人公はあくまでもストリックランドなのである。

 

 

「人権=思いやり」という洪水のような「教育」

 人権は道徳ではない、っていう、あの話だけどね。

fairs-fair.org

  特にこの記事のこの部分。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

  マジでそう思うわ

 つうか、学校と自治体の人権教育が「人権=道徳=みんなで仲良くしましょう」で覆い尽くされていて本当にヤバいと思う。その量・規模たるや洪水のようだ。

 小学校の「人権学習参観」に行ってみればこれがベースでガンガン教えられているし、子どもたちに書かせる「人権標語」で最優秀に選ばれる作品はこのトーンばかりである。「広げよう えがお・やさしさ・おもいやり」「ありがとう 言われて 心に花がさく」。

広島市 - 過去の人権標語入賞作品(平成16年度~平成20年度)

鳥取市公式ウェブサイト:人権標語・ポスター入選作品の紹介(平成26年度)

 福岡市では町内会*1を動員して「人権=思いやり」という思想の標語が街中に貼られている。

 これは深刻な思想「教育」だと思う。日本では国家規模で予算をつぎ込み、草の根の人員を動員して、こうした「人権=思いやり」という「教育」がされている。

 だいたい政府の「人権教育・啓発に関する基本計画」の「人権教育」の最初の柱の、しかも「第一」が「心に響く道徳教育を推進」だからな。

http://www.moj.go.jp/content/000073061.pdf

 

「人権=思いやり」というパターナリズム(温情主義)

 人権教育を専攻としている阿久澤麻理子は次のように述べる。

 学校教育――とりわけ初等中等教育――の現場では「子どもに権利を教えると、自分勝手な主張が増えて、学校がまとまらなくなる」という意識はいまだ根強く、人権教育が既存の生徒と教師の関係を変えてしまうのではないかという危惧が存在する。それゆえ学校における人権教育は、表面的な憲法学習や「思いやり・やさしさ・いたわり」と行った道徳的価値の学習に読み替えられやすい。(阿久澤麻理子「人権教育再考 権利を学ぶこと・共同性を回復すること」/石埼学・遠藤比呂通『沈黙する人権』法律文化社所収p.35)

 

沈黙する人権

沈黙する人権

 

 

 

 ここで「表面的な憲法学習」が取り上げられている。これについてもついでに一言。

 これはぼく自身が受けてきた学校教育がそうだった。

 例えば社会科で習う「表現の自由」とは「自分とは関係のない」わいせつ表現を自由にするかどうかという話であり*2、それが自分が制服や指定バッグを強制されるかどうか、丸刈りを強制されるかどうかという問題と密接に関わっており、自分がその権利をもとに「声を上げる主体」であることを意識的に注意深く眠りこまされていた。

 「教育を受ける権利」「教育の機会均等」は、高学費によって政策的に踏みにじられている日本の現実には決して認識が届かず、「日本は義務教育や奨学金によってこの権利は保障されている。発展途上国はかわいそうね」のような認識へ導かれる。「学費を下げろ!」「給付制の奨学金を!」という運動には絶対に結びつけてはならないというわけだ。

 同じく「表現の自由」を根拠にして校則を変えたり、子どもの権利条約を根拠にして生徒にも意見表明をさせろと主張したりすることは、とんでもないことだとされるのである。

 憲法に定められた人権は、徹底して自分とは関係のない縁遠い権利であり、間違っても学校で行使してはならないことを繰り返し叩き込まれる。*3

 

 権利より価値を強調するのは、学校だけにとどまらない。日本では国や自治体が実施している人権啓発事業にも共通した傾向がある。しかし「思いやり」を強調する啓発は、「弱者に対する配慮」や「温かな人間関係」による問題解決を理想として描き出す一方で、「弱者とされる側」が権利を主張したり、その実現を求めて立ち上がるような「争議性」のある解決を回避し、そうした運動のシーンを啓発の中でとりあげようとはしない。「弱者への配慮」を強調する啓発は、ときにそれが「強者」と「弱者」の非対称的な力関係にあることに無自覚で、結局のところ、人権ではなくパターナリズムを教えることに陥っている。(阿久澤前掲p.35-36)

 このような「人権=思いやり」という議論は何を招いてしまうのか、阿久澤麻理子は次のようにのべる。

 さらに「思いやり・やさしさ・いたわり」型アプローチの問題は、人権に関わる問題を市民相互の私的な人間関係のなかで、「心のもちよう」によって解決するよう促す点にある。ここには「国家」と「市民」の関係は介在せず、人権を実現する公的機関の責務や、法・制度の確立による解決の道筋がみえない。このことは、国の役割が縮少し自己責任、自己救済の風潮が強化されるネオリベラルな社会に、きわめて高い親和性をもつ。人権問題を民主主義のメカニズムを通じ、諸制度を構築しながら解決しようとするよりも、私的世界に問題を差し戻すことになるからである。(阿久澤前掲p.36)

 

人権は思いやりによって生じるものではない

  「人権=思いやり」は二つの根拠らしいものを持っている。

 一つは、「憲法にも『すべて国民は、個人として尊重される』ってあるでしょう? 尊重するというのは、大切にするということだから、思いやりの気持ちをもって大切にするってことでいいじゃないの?」という考えだ。つまり「人としての尊厳の尊重=思いやり」という見方だ。

 もう一つは、「人権って、お互いに主張しあったら衝突するから権利調整するんでしょ? なら『思いやり』って言ってもいいだろ?」という考え方。

 共通しているのは、人権が市民間(私人間)の配慮によって初めて生じるかのように見えることだ。個人の尊厳が、他人との関係(「義務を果たしたからいただけるもの」だとか「他人が配慮してくれるからスペースが生じるもの」)ではなく個人の中に最初から無条件にそなわっているものだという原則が消えてしまう。だから、個人がその権利の主体であり、その実現のために争えるということは抑圧される。前者の主張は特にそう見える。

 後者について言えば、極言すれば「思いやり」など1グラムもなくても人権は主張してよいし、主張すべきものである。紛争して勝ち取って何らさしつかえないものである。ある人の人権の主張が誰かの人権を脅かすというのであれば、その「誰か」は人権が脅かされていることを主張し、争い、決着をつけるべきものである。*4 

 

いじめ問題を本当に人権教育として扱うとすれば?

 いじめ問題は子どもにとってきわめて身近で切実な人権問題である。

 しかし、それだけに「思いやり」問題として語られやすく「人権=思いやり」という考えに容易に導かれやすい。周りの配慮の問題としていじめが語られる。

 いじめが人権問題であるということを教える場合、確かにいじめが人間の尊厳を犯す行為=人権侵害だということを認識させるのは出発点になるだろう。

 しかし、切実なのは、いじめの多くが犯罪を構成する人権侵害であるがゆえに、いじめを停止させ、犯罪者を処分・処罰・隔離する責任が学校や公的機関には生じること、また防止する責任がそうした機関にはあること、そうした停止・防止をさせるために権利主体としての子どもにはどんなツールがあるのかを教えること、実際にそうしたツールを使えるように訓練し、使いやすいように改善すること――こうしたことが本当の意味でのいじめ問題における人権教育となるはずだ。つまり権利の主体であること、人権保障についての公的なものの責任について教えるのだ。

 根本的には、学校や公的機関が行ういじめの防止策や停止措置が実効的なものかどうか、どう改善すべきかについて意見表明をする権利さえ子どもにはある。(このことはいじめ問題を「道徳問題」として扱うことと矛盾するものではない。それはそれでやればいい。)

 

 冒頭の記事で扱ったLGBT問題も同じである。

 例えば福岡市はパートナーシップ制度を行政として取り入れたことだけが「先進的」であるかのように扱われているが、日常的には就職・就学・生活の場での様々な差別が行われている実態とそれを禁止し防止・救済する市としての手立てについてはほとんど無頓著だ。共産党市議が性的マイノリティへの差別禁止を含めた条例の制定を求めたのに対し、市長は応じていない。福岡市が行なっているのは行政として差別的な取り扱いをしないことと、市民に対する啓発・相談のみである(下記動画の37〜41分)。

www.youtube.com

 

 

人権が道徳の土台となる可能性について

 最後に「人権=道徳ではない」という言葉について。

 「人権=思いやり」という世に跋扈する危険なすり替えへの批判はすでに上記までで行ったから、以下は読みたい人だけ読んでくれればいいと思う。

 ぼくはこの記事における「人権=道徳ではない」を「人権=思いやりではない」と微妙に言い換えた。

 というのは、人権は道徳そのものではないが、人権を学ぶことを道徳の出発点とすることはありうるからである。

 道徳とは、社会と切り離された、個人の心の中にある「徳目」ではない。

 教育学者の佐貫浩は道徳性について、

道徳性は、社会的矛盾の根源に向かうことを断念して、その矛盾を心の有り様で対処しようとする心の技術、あるいは心を操作する技術であってはならない。(佐貫『道徳性の教育をどう進めるか』p.51)

と前提しつつ、

道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現――共に生きるということ――という土台の上で、反省的に吟味し続ける力量であるということができる。(佐貫同前)

 と述べている。また、「市民的道徳」として「本質からいえば、この人間の尊厳を基本として他者と交わることにほかならない」「非人間化とも呼ぶべき現実社会への批判と変革の視点を欠いては、人間の尊厳は維持できない」(佐貫前掲p.59-60)とも述べている。

 つまり、個人の尊厳が守られるような人との関わり方を、たえず考え(反省し)、たえず組み替えていく力が道徳なのであり、その「組み替え」には社会のあり方やルールを無前提にせずにそれを批判し組み替えることも含まれているというのだ

 

 具体的に考えてみる。

 今日(2019年5月6日付)の「しんぶん赤旗」には、同志社大学大学院教授の内藤正典の外国人との共生についてのインタビューが載っている。

 外国人との共生問題は、いかにも「心」の問題、受け入れる側の個人の態度に終始しそうな話である。事実、記者はこの記事の中で「外国人と共に生きていくにはどのような心構えが必要ですか」と聞いている。

 内藤はまず同化を求めるやり方を批判する。

 これはわかりやすいだろう。

 しかし次に、「多文化主義」の限界をも批判する。

 

多文化主義は異文化の人たちにも同じ権利を認めますが、互いをよく知ろうという相互理解を前提にしていません。相手のことを何も知らない場合、何かのきっかけで異文化への恐怖や憎悪を抱くと、一挙に溝が広がってしまいます。

 同化もだめ、多文化主義も限界がある。では、どうすればいいのか。内藤は、

どこまでは自分たちの価値観に従えといえるのか、どこから先は彼らの自由にまかせるのか、外国人の声を聴き、私たちの意見を述べたうえで、約束をつくることが必要です。

と提案する。これは対話によって「個人の尊厳が守られるような人との関わり方を、たえず考え(反省し)、たえず組み替えていく」態度そのものである。

 そしてこの記事は、外国人労働者について新制度そのものの問題点を内藤に語らせている。外国人を単なる「労働力」とみなす政策への批判と組み替えが前提となっているのだ。

 今の社会・政治を無前提に受け入れて心のありようのみを問題にするのではなく、社会制度の批判と組み替えを十分に意識したうえで、他者との関わりを対話によって開かれた形で組み替えたり反省したりして模索しようという態度こそ、本当の意味での道徳(市民的道徳)である。

 先ほど紹介した阿久澤も、人権教育のあるべき姿として、ぼくらがまず人権という権利の主体であることを出発点にすえることを説いている。

自らの権利を学び、権利の主体であること〔を〕実感することは、自分が社会の一員であり、パブリックな領域で問題解決の主体となれる――社会の中に「居場所」をもつと実感する――ことである。そうであるなら、人権問題の解決が私的領域に追いやられることは、数多くの他者との対話や協働の機会からの排除を意味する。人権教育が「権利を学ぶ」ことからスタートするのは、学習者のエンパワメントに寄与すると同時に、他者との広くて豊かなつながりを担保するためである。(阿久澤前掲p.52-53)

 このような意味においてのみ、人権が他者との関わりの土台となるという、道徳の領域の話になる。

*1:人権尊重推進協議会(人尊協)。

*2:しかしわいせつをめぐる表現の問題は、実は大人になってマンガをこよなく愛する自分にとって切実な問題だと気づくのであるが。

*3:ぼくの出身地の愛知県の三河地方では一部の「同和教育」の流れを汲んで差別を私人間の心の持ちようにだけ押し込める「人権=思いやり」論はほとんどなく、憲法学習を「表面的」にするパターンが多かった。

*4:もちろん、私人が誰かの人権を「尊重」する意識を持つのは大事なことだし、積極的に権利調整の意識を持つことも決してマイナスではない。

永井義男『江戸の糞尿学』

 なぜか連休中に、自分の娘の参加する少年団のキャンプで、江戸時代について話すことになった。

 子どもたちが観た劇に江戸時代の屑屋が出てくるので、江戸時代がどんな時代で、どんなリサイクル社会だったかを子どもたちに伝えたいというのが団の意向なのである。ぼくは専門家でも何でもないのだが、「何かモノを書いている人間」ということが選挙に出てまわりに知られたために、こうしたやや無茶振りの小さな注文も増えた。個人的には、できる範囲のものであれば楽しんで受けている。

 で、そのような話は実は劇団の人が劇のプレ企画のような時間ですでに話してしまった。ただ、そこで「江戸はリサイクル社会」ということが過剰に強調されていたように思うので、少し修正し、そこに理屈を入れたいと思っている。

 江戸時代がリサイクル社会であった、というのは半分当たっているが、半分は怪しい議論でもある。例えば永井義男は『本当はブラックな江戸時代』(辰巳出版)という本で「江戸はエコなリサイクル都市ではなかった」という議論をしている。

 

本当はブラックな江戸時代

本当はブラックな江戸時代

 

 

 まあ、これは程度問題だろうと思う。

 “なんでもリサイクル・リユースをするからゴミひとつない清潔な都市だった”的なところまで行けばやはり行き過ぎの議論である。永井が同書で紹介しているように、最終的にどうにも再利用できないものはゴミになって川などに平気で捨てられていた。

 しかし、利用できるエネルギーが少ない社会では、モノをつくるコストが高く、それに対して人件費が異様に安いから、しぜんにリサイクルをしたがるというのはその通りなのである。

 たしかに現代にくらべると江戸の人々は物を大事にし、リサイクルも盛んだったが、べつに環境意識が高かったからではない。

 現代、人件費は高く、物の値段は安い。江戸時代は正反対で、人件費は安く、物の値段は高かった。

 いまでは電機製品が故障したときは修理するより、新しく買ったほうがはるかに安くつく。修理代はけっきょくは人件費である。いっぽう、新製品は高機能になり、しかも値段が安くなっている。

 江戸では物が高価だったし、回収や修理にかかわる人件費は安かったので、リサイクルは充分に採算が取れたのである。(永井『本当はブラックな江戸時代』p.143)

  江戸時代は、今からどれくらい前の時代か。わが娘をダシにして、おじいちゃんの時代か、そのまたおじいちゃんの時代か……とさかのぼろうと思う。

 ぼくは昨年の夏に自分の系図づくりをした。だからさかのぼれるのだが、ぼくの娘から見て「おじいちゃんのおじいちゃん」が生まれた時はまだ明治時代(明治11年1878年)である。「おじいちゃんのおじいちゃんのお父さん」が生まれた時にようやく除籍簿に「嘉永5年(1852年)」が登場する。この人は人生の一部を少しでも江戸時代として生きた人である。さらに「おじいちゃんのおじいちゃんのおばあちゃん」は「文化13年(1816年)」に生まれ「明治元年(1867年)」に死んでいる。故にこの人は完全に江戸時代の人である。

 そして、時代ごとにエネルギー利用が低くなっていることを知ってもらおうと思う(ネットがない、テレビがない、クーラーがない、自動車がない、など)。

 この違いは何か。

 江戸時代というのは現代に比べエネルギー利用が圧倒的に小さい社会だった。特に電気*1とエンジンというものが使えないことが大きい。大昔は食べ物を食べることで自分一人分のエネルギーしか使えなかったが、現代では科学・技術がすすんで1人あたりのエネルギー利用がその100倍になっている。つまり100人の召使いを持っているのと同じである。

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(↑ https://www.ene100.jp/zumen_cat/chap1 より。)


 もともと紙くずのリサイクル=屑屋の話を観た子どもたちなので、和紙をつくる大変さと現代の製紙工場を簡単な映像で見てもらい、エネルギーを縦横に利用できる社会ではいかに大量にモノがつくれるかを実感してもらう。

 

 さて、その上で、江戸におけるリサイクルの典型として糞尿を取り上げようと思っている。これについては江戸時代を持ち上げすぎる風潮に批判的な永井も「江戸でもっとも有名なリサイクル」「見事な資源のリサイクルといえよう。循環型経済のモデルといえるのではなかろうか」(同前p.147)と述べている。もっとも、「弊害は大きかった」という留保を忘れていないが。

 

 関連する本をいくつか読んだが、子ども向けの藤田千枝『大小便のはなし』『下水のはなし』(さ・え・ら書房)は端的で参考になった。

 

 

下水のはなし (人間の知恵 (13))

下水のはなし (人間の知恵 (13))

 

 

大小便のはなし (人間の知恵 30)

大小便のはなし (人間の知恵 30)

 

 

 この中に、万葉集の巻16にある歌(の大意)が紹介されている。

からたちと  茨(うばら)刈り除(そ)け   倉建てむ  屎(くそ)遠くまれ  櫛造る刀自(とじ)

(枳  蕀原苅除曽氣  倉将立  屎遠麻礼  櫛造刀自)

 

 歌の大意は「この辺りのいばらを刈り取ってコメの倉庫を建てようと思ってんだけど、あのー、そこで髪の毛を櫛でときながら野グソしている奥さん、もっと遠くでウンコしてもらえませんかねえ?」で、万葉集らしい大らさがあり可笑しかった。

 ちなみに「まる」は「放る」で、ウンコをするという意味だ。「おまる」の語源である。愛知(三河地方)の実家では父母以上の世代は「まる」という言葉をよく使っていた。

 

 ただ、詳しさと面白さという点ではやはり永井の『江戸の糞尿学』(作品社)が圧倒的だった。

江戸の糞尿学

江戸の糞尿学

 

 

 解説としても至れり尽くせりで初めに「基礎知識」がある。

 排泄したばかりのものは有害でむしろ植物を枯らせてしまうこと、発酵させる必要があることなどが示される。2つの肥桶を天秤棒で担ぐスタイルは、中身と桶と合わせて60キロに及ぶ。しかも江戸時代のそれはフタがない(明治に入ってからフタがついた)。

 ぼくは実際に農家から天秤棒を借りてきたので、天秤を担いでもらおうと思っている。しかし60キロはさすがに重いな……。

 次に江戸時代以前の糞尿処理事情(第1章)。

 万葉集の時代には野糞でよかった。それはなぜかを考えてもらう。永井が野山の動物の糞が気にならないのは動物が少ないからだと書いているように、人口が少なかったからだ。

 これが一変するのが都市の成立だ。平安京では側溝に捨てていたし、道でも平気でしていた。貴族はおまるにして、やはりドブに捨てていた。

 永井によれば下肥の利用は昔から農村であったはずだが、都市の住民の糞尿を利用して農村で食料を生産し、それを都市に納めるシステムは、鎌倉時代から戦国時代に成立したのではないかと述べている。ぼくも農学者に意見を今回聞いてみたが、似たようなことを述べていた。

 永井はルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』を引用しているが、すでに安土・桃山時代にはヨーロッパ人によって日本の下肥利用システム(金を払って糞尿を買うこと)への驚きが語られている。

 

 第3章が「江戸での都市生活と便所」。長屋ではどうか、江戸城ではどうか、遊里ではどうかなど江戸時代の様々な大小便事情が紹介されていて、まあこの部分が本書の面白さの中核である。

 遊里の糞尿が需要が大きく価格が高かった理由が興味深かった。

 

 当時、人々の栄養水準は低く、とくに動物性たんぱく質の摂取が極端に少なかった。

 ところが、芝居町や遊里では宴席が設けられることが多く、豪華な仕出し料理も利用された。そのため、こうした場所では人々が普段は滅多に口にしない卵や鶏肉、魚介類を使った料理がふんだんに賞味された。

 その結果、排泄物は質がよくなり、下肥の効果が高かったのである。農民が経験から発見した肥料の効果といえよう。芝居町や遊里の糞尿は農民がほしがり、いきおい値段も高くなった。(永井同書p.92)

 

 この章に「下肥利用の弊害」が書かれていて、寄生虫問題に一定のページが割かれている。「癪」(腹や胸の激痛)は寄生虫によるものが少なくなかったことや、回虫などを口から吐くことは昭和時代までよく見られた光景であることが記されている。

 ぼくは不思議に思ったのは、人糞は腐熟(発酵)によって発熱し、寄生虫の卵を殺すということがさまざまなものに書かれているのに、なぜ寄生虫が蔓延したのだろうということだった。また、鶏糞や牛糞は大丈夫なのだろうかと思った。

 ただ、よく考えてみれば、別に腐熟を適正に管理する法律があるわけでもなく、十分に処理もされない下肥、寄生虫の卵がついたままの器具がどこにでもあった時代なら、そりゃあまあ蔓延するわなと思い至った。

 逆に言えば、人糞は適正に処理するなら現代でも肥料にはできるはずのものだと思った。藤田千枝『大小便のはなし』は1980年代に書かれた本だが、宇宙での大便の利用方法として大便でクロレラを育てて食料にするという話が出てくる。調べてみると今は宇宙では尿は再利用して飲んでいるが、大便はまとめておいて大気圏突入の熱で燃やしているらしいのだが……。

 

 第4章の「下肥の循環システム経済」は認識を新たにした章だった。

 というのは、肥料が売れるというのは「小遣い稼ぎ」程度の話かと思っていたのだが、その認識はとんでもないことであって、農業という当時の経済、特に江戸近郊の農業の太い必需品だった。

 このために、まず農民が高いお金を払って糞尿を集める。貧しい農民はなかなか買えない。

 そして、都市では土地や長屋を所有している地主・家主にとってかなり大きな収入源となっていた。

 また、これを集めるために大規模で重層的な下請けの組織が農民側に登場する。この親玉(豪農)は汲み取りの実務には携わらず、上前だけをハネる。

 そして、「水増し」が横行する。泥水を混ぜたりする粗悪品ができるのだ。

 いわば燃料・原料的な意味合いを持った重要な商品であったので、この獲得、料金をめぐり社会紛争が起きている。「下肥をめぐる騒動」という記述がそれだ。

 

 つまり糞尿をめぐる経済は江戸時代にとって決して小さなものではなかったという認識を新たに得たのである。

 

 ここには糞尿(下肥)の価格(売上価格)が書かれている。

 3780荷で180両だとある(p.192)。ただ、これがどれくらいの量かは永井の本には書いていない。だから単価がよくわからない。

 計算してみる。

 1荷はさっきも述べたが天秤棒でかつげる重さであり、桶2つなので16貫、つまり60kg。桶の重さも入っているのではないかと思うのだが、いろんなサイトを見ても肥桶一つが38リットルで8分目で30リットル、つまり2桶で60リットル(水であれば60キロ)だとしている。

http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo041.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/yota/Tsubozan.html

 

 60L×3780荷=22万6800L

 1両をどう計算するかだが、下記のサイトを参考にすると1両=13万円。

manabow.com

 13万円×180両=2340万円。

 2340万円÷22万6800L=103円/L。

 ウンコとおしっこ(屎尿)1リットルあたり100円である

 

 第5章は近代以降の下肥利用についてである。

 下肥利用は昭和になっても続くが、人口の増加・都市集中(供給過剰)と農業における下肥利用の低下(需要減少)によって、糞尿は農家が買い取るものではなく、都市住民がお金を払って買い取ってもらうものに変化する。それが大正時代である。また東京市屎尿処理を公営化するのもこの頃である。

 本書によって都による糞尿の海洋投棄は1997年まで続いていたことを知った。

 

 第5章の終わりに「平成」という節を永井は設けている。

 水洗化率は現在9割を超えているという。「住宅・土地統計」によるものだが、まだ9割かと逆に驚く。ただそれでも9割である。

 1988年に66%だったから、この30年で劇的に向上したことになる。便座のシャワーは77%の住宅で設置されている。

 自分の排泄物を見なくても済むのである。

 便座に腰をおろしたままで水を流せば、自分の排泄物をいっさい目にすることなく排便をすますことも可能である。さらに技術が進めば、トイレ内の臭気を完全に消し去ることもできるであろう。

 自分の糞便すら、その色や形を目で見ることなく、その匂いを鼻でかぐこともなくなる……。(永井p.230)

  この30年はウンコが消えた30年だと総括することができる。

*1:究極的には蒸気によってタービンを回す技術であることが多いが。

日高トモキチ『ダーウィンの覗き穴〔マンガ版〕―虫たちの性生活がすごいんです』

 原作はメノ・スヒルトハウゼンの同名書。*1そのマンガ版である。

 

 

ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか

ダーウィンの覗き穴:性的器官はいかに進化したか

 

 

 どんなマンガか試しに読んでみたい人はこちら。

https://www.hayakawabooks.com/n/nb4ed50f0c303

 

 一見するととっつきやすそうな絵柄、思わず話したくなる虫たちの極端なエピソードのオンパレードなので、気楽に読めそうに思える。

 しかし、実はしっかりしたテーマと論理があり、それをまじめに追おうとするとなかなか骨が折れる。しかも理系の研究者によくある感じの、断定をせずに、関連するエピソードを合間に入れ込んだりするので、率直に言ってわかりにくい。個々のエピソードはわかりやすいけども、問いに対する答えを追うのがとても大変だった。それはこの記事の終わりに少し書いてみる。

 

 だが、そうやって苦労しながら論理を追ってみれば、この本の冒頭にある通り、ダーウィンが提唱した「性淘汰(異性をめぐる競争を通して進化した選択のこと、もしくは雌により好まれる属性を持つ雄が選択され、進化すること)は、進化とは関係ない」という命題を批判(検証)するために書かれていることがわかる。

 しかし、こう書くと、この命題になんの興味もない人にはちっとも面白そうではない本のように思えてしまう。

 もう少し立ち入ってみる。「雄がどんな雌とでも交尾したがるのに対し、雌は受動的ではあるが相手を選択する」ということをダーウィンは広く観察された事実だとした。ベイトマンはこの「事実」の説明として「精子はコストが低く卵はコストが高いので、雌は選り好みするが、雄は相手を選ばない」というベイトマンの原理を打ち立てた。本書は、この「選り好みしようとする雌」と「それをかわそうとする雄」の競争のドラマとして読むことができる

 そして、人間から見て「極端すぎる虫たちの性生活」が、実はこのような自然の競争ドラマの共通した論理を持っており、人間もその一環であることを最終的には実感できるようになっている。つまり「極端すぎる虫たち」と「人間」の性生活はあい通じるものがあるのだと。

 

 と言っても、こうした論理を追っていくのがこの本の唯一の楽しみ方なのか、というと明らかにそうではない。

 やはり、一つは日高トモキチの絵とコマとセリフが魅力だ。キャラ名さえついていないが、スヒルトハウゼンのツッコミ役として書かれているネコミミのこの女性キャラをぼーっと見ているだけでも楽しいではないか。

 そしてもう一つは、やっぱり虫たちの「極端すぎる性生活エピソード」を羅列的に楽しむだけでも本書は十分に面白いだろう。覚えた知識を日常の会話の中で使いたくなる。

「半ゆでのイカを食べた女性が口の中で激痛を覚えたのは、イカがセメントの弾丸みたいな精子の袋を発射したからだそうで、そういう事故は時々起きてるんだってさ」

みたいな。

https://www.hayakawabooks.com/n/na2498c12b726

 

 他にも「女性がオルガスムに達しない場合は精子は膣内にあんまり残らないし、オルガスムスに達する場合はよく吸い込むんだってさ」というような知識として。……どこの日常会話で披露するんだ、そんな知識。使い方を間違えばセクハラである。まあ、会話の相手や内容が純粋にそういう自然科学バナシならね。

 

 だから、あまり構えずに、パラパラと読むだけでも本書は十分に楽しめるのではないかと思う。

 

論理を追うのが大変だった回

 さてここからは蛇足である。作者への通信のような役割しか果たさない。

 前述のとおり、論理を追うのが大変だった一例を書いておく。

 例えば第6回「秘密のクリトリス」の回だ。

 

 この回は雌たちが気に入らない雄の精子を排出する戦略以外に「さらに巧妙な戦略を用意している」と書いて、その多様な戦略を紹介していく回なのだが、なかなかその紹介が始まらない。

 「たとえば」といって「一部の齧歯類が行う二段階交尾」だというのであるが、p.64に、ウッドラット科のネズミが射精後も雄はペニスを引き抜けずに雌を引きずり回すというエピソードがすぐ書かれているけども、それは二段階交尾とは関係ない。

 その次に書いてあるシロアシマウスや他の生物が行う二段階交尾はそういう交尾があるというだけで、なぜそれが雌の戦略なのかという説明はない。

 その次にゴブリングモの二段階交尾の話が書かれるが、ここでもまだ二段階交尾が雌の戦略である理由は書かれない。それどころか、何百回・数時間も精子を出さないドライセックス(第一段階の交尾)を繰り返しているというびっくりする事実が書かれて、「なんのために?」という別の疑問がさしはさまれてしまうのである。

 ようやく次のシエラドームスパイダーの二段階交尾の説明の中で「生殖孔への刺激が最も激しく印象的だった雄のものを選んでいたのだ!」という結論らしきものが出てくる。

 しかし、そうすると、すぐに疑問が湧いてしまう。

 二段階を主体的に選択しているのは雄の方であって、雌の方じゃないのでは? 雄はさっさと射精すればいいのでは? なぜシエラドームスパイダーのようなケースが結論(「生殖孔への刺激が最も激しく印象的だった雄のものを選んでいたのだ!」)になるのか、意味不明なんだけど?

 この疑問は当然だったのだろう。p.66で「さっさと射精しちゃえばいいのでは」と疑問をネコミミに語らせている。

 しかし、これに対する答えは、“雌は複雑怪奇な生殖管を持っていて、簡単に精子は入れないのだ”というもので、ぼくなどは「えー? それは気に入った雄が射精しても障害になってしまうんじゃないの?」と思ってしまう。

 ここまでまだ二段階交尾をなぜするのかという説得的な説明が行われず、その間に入る説明に対して新しい疑問が次々湧いてきてしまうのである。

 そして、その次は、ブタの人工授精の話。これは雌は気に入ったシチュエーションでは交尾を成功させる例として出されているのだと後でわかるけど、ちょっと見ただけではなんのたとえなのかわかりにくい。

 このブタの話の後に、ジュウイチホシウリハムシの話がきて、ようやく読者である僕は「あ、雌が気に入った時だけ筋肉が弛緩して、その雄の精子を受け入れられるんだなあ」ということに気づく。

 つまり、要約すれば、二段階交尾は、雄が雌の気に入るようなテストを受けている時間であって、雌が気に入れば体に変化が起こり、雄の精子を受け入れる……ということだろうか、とやっとわかるのである。

 正直イライラしながら読み進めるのだが、そうやって結論にたどり着けば読み返した時には楽しんで読めるのである。そしてこのことは人間の前戯やオルガスムスに類推できると気づく。

 

 

 

*1:邦題。英語版タイトルは「Nature's Nether Regions」。直訳は「自然の股間」。「大自然のアソコ」とか「自然における下ネタ」とかみたいな感じ? サブタイトルは「What the Sex Lives of Bugs, Birds, and Beasts Tell Us About Evolution, Biodivers ity, and Ourselves」で「虫・鳥・獣たちの性生活は進化・生活多様性・我々自身について何を物語るか」。