小学校の運動会は要らないなと思った理由

 この記事を読んで思ったこと。

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 特にこの点。

●運動会の目的と目標がきちんと明確になっていない。
 関係者のあいだで(保護者だけでなく、おそらく教職員の間ですら)腹落ちしていない。

●その目的、目標に照らして適切な手段となっているかが十分に検討されていない。

 

 ところが、なんと、指導要領には一言も「運動会」という言葉は出てこない。この事実を教職員は知っているだろうか?

 正確に言うと、特別活動の学校行事のひとつとして、「健康安全・体育的行事」という記述はある。この体育的行事のひとつの例として、運動会はある。(指導要領の本体ではなく、解説には運動会との文言は出てくる。)

 極端な話をすると、「うちは運動会はしません」という学校があってもよいわけである。

 

 運動会が目的に合ったものなのか、そもそもマストではないはずだ、という指摘は大事だ。

 なぜなら、ぼくはつい先日小学6年生の娘の運動会を見てきたのだが、6年間ずっと運動会を見てきて、「本当に必要か?」という思いを強くしていたからである。そこへきてこの記事だったので、この記事は大変時宜を得ていた。

 なお、ぼくは途中で引越しをしたので、同じ市内の2つの小学校しか見ていない。その観測範囲でのものだけど。

 

保護者=観客目線で見ても面白くない

 小学校での運動会が「不要では?」と思った直接のきっかけは、まずは観客=保護者目線でのことだった。700人〜1000人ほどの子どもがいて、自分の子どもの出番が一瞬である上に、親が運動場にテントを林立させて群がっていて(ぼくもその一人)、競技フィールドに近づけないために子どもは遠くから豆粒のようにしか見えず、それをカメラに収めようとすると直接肉眼でろくすっぽ見ることもできずに終わってしまうからだった。しかしまあこれはあくまで親目線。

 

保育園時代と比較してみる

 最大の違和感は、自分が娘を通わせていた認可保育園での運動会との差だった。

 そのA保育園では、例えば5歳児クラスには20人しかいなかった。いまの30人台後半で、しかもそれが学年あたり3〜6クラスもあるような小学校とは子ども一人一人の存在感がまるで違う。同じクラスの子どもの顔をすべて知っている保育園のクラスでは、たとえ自分の子どもでなくても「へえ、あの子が…」と注目できたし、保育園側は「自分のお子さんだけにフォーカスするんじゃなくて、そのまわりの子どもたちとの関係もよく見てください」と繰り返し親に話してきた。

 つまり、自分の子どもはもちろん、クラス全体の取り組みが「集団」として保護者にも見えているし、さらにバラバラの個体としても自分の子だけでなくまわりの友達、友達との関係が「成長」「抗争」「葛藤」「協力」などとして見えてくるのだ。

 ただ、この点については、ぼくがもっと小学校の地元の保護者たちとのつきあいをディープにしていたら、他人の子どももよくわかっていて、もう少し見えていた風景は違ったかもしれない。

 

 子どもたちにとってはどうなのか。

 保育園で例えば5歳児(年長)クラスだった時は、数ヶ月かけて自分で縄を綯い、それを使って走りながら縄跳びをする競技があった。また、(1)登り棒(2)板の飛び越え(3)跳び箱などを組み合わせた一種の障害物競走があった。

 これは「競争」=勝敗のゲーム=スポーツではなく、全て自分に課した課題をきちんとクリアできるかどうかが問題となる。たとえば登り棒は登りあがるのがやっとの子どもがいる一方で楽々と登っていって、頂上にあるタンバリンを足で鳴らして観客たちを驚かせる子どももいる。

 そして、運動会の準備は数ヶ月前から始まっているので、その課題がクリアできたかどうかは、保護者への一人ひとりのノート(お便り帳面)、クラスの保護者を集めた際の懇談会などで話される。

 保育園の先生からだけでなく、保護者は子ども(ぼくの場合は娘)から自分が登り棒ができるようになったかどうか、板の乗り越えのどこで苦しんでいるか、どんなすごい友達がいるか、などを毎日聞かされることになる。さらに娘から「早く行って園で練習したい」と言われたり、日常的に友達に教えられたり、教えたりする様子が自発的に親に伝えられる。友達の指摘を無視して縄を綯う順番を間違えて、完成直前に気づき、泣く泣くそれを解いて自分で作り直した子どももいる。

 親は手伝わない。園からも「日曜日とかにこっそり親が手伝って練習とかさせないでください」と釘を刺される。

 

 そういう課題設定や苦労が日常的に保護者にも共有されている。

 運動会は非日常ではなく、日常の取り組みの延長であり、そのディスプレイに過ぎない。保護者もそれをよく知っている。だから、見るのが楽しみだった。この方針はA保育園では他のイベントにも共通していて、例えば「学芸会」は存在せず、「生活発表会」であった。竹馬に乗る姿を披露するのは、日常の遊びの延長であり集大成だからそれを披露するのである。ものすごく高い竹馬に乗ってくる子どももいる一方で、やっと竹馬に乗れるという子どももいる。そうかと思えば、竹馬ではアレだった子どもが、リズム体操ではものすごくキレのある動きをしたりする。

 だから、A保育園は運動会で何をしようとしているのか(障害物のクリアをゴール=目標にする。それをたまたま保護者にも見せる)、そのプロセスはどうなっているのか、がきわめて明快だった。

 

勝敗を真剣に競わない

 ところが、小学校の運動会にはこうしたプロセスは全くなかった。

 6年生はソーラン節を踊った。

 実は保育園でもソーラン節を踊る機会はあったが、これはいかにも楽しみの一つであった。保育士も保護者も一緒になって踊った。

 ところが小学校の場合は、ただのマスゲームである。

 一糸乱れぬように踊らせる「美」を誇るわけだが、仮にそれを目標としているとしても結果は全くグダグダで、学年全体(100人)が一斉に、レベルの低い踊りを踊っている様を見てもほとんどなんの感興も催さない。

 そして、綱引きとリレー。

 どちらも勝敗を決するというスポーツの本質を取り入れている。

さしあたり、「勝敗の決着による強さの決定」、これをスポーツの内在的目的と考えることができます。ある倫理学者に倣って――といっても用語を借用するだけですが――、これをスポーツのエトス(ethos)と呼ぶことにします。(川谷刺激『スポーツ倫理学講義』ナカニシヤ出版p.75)

 先ほどスポーツの本質=「勝敗の決着による強さの決定」を運動会に取り入れることは全く反対しない。

 しかし、それは、きちんと設計しないとうまく作用しないことをよく考えるべきだと思う。

 どういうことか。

 娘の通う小学校は、だいたい1学年3〜4クラスあるので、「1組」「2組」「3組」などの縦割りで「ブロック」を構成する。*1このブロックの対抗として「勝敗の決着」を行うのである。

 しかし、ほぼクラスによって初めから分けられたブロックには、最初からかなりの能力上の優劣差が存在する。

 それを覆し「ジャイアント・キリング」を起こすところにスポーツの楽しさの一つがあると思うのだが、始業式のバタバタがあって運動会の準備をしてから本番までわずか1ヶ月しかない。その期間に目的に沿った合理的な鍛錬をして能力差を覆すのは至難であると見る方が自然だろう。

 だから、クラスで縦に分けられた集団=ブロックには初めから超えがたい能力差が存在し、それは短期では全く覆りそうもない。リレーで多少早く走る努力をしてもあまり関係ないのである。綱引きも同じだ。

 だから、娘のクラスでは勝敗に対してのアパシーが起きていた。「どうせやっても勝てないでしょ」的な。

 教師たちにも苦悩の跡があった。

 リレーでは、3人1組で走るのだが、「遅い人たちの組」「速い人たちの組」がまとめられていて、スタート(バトン継承地点)位置が明確にズレていた。しかし、そういう工夫をしても、機械的にわけられたブロックごとの総合タイムの差は歴然としており、埋めようがないのである。「遅い人たちの組」「速い人たちの組」という工夫は、スポーツの勝敗とはあまり関係なく、個人が恥をかかないためにだけある。

 

 たぶん勝敗のために真剣になっている子どももいると思うのだが、それはその競技が得意な子どもだけなのではなかろうか。

 

スポーツの本質的暴力性

 勝敗によって強さを決めるエトスを持つスポーツというものは、勝敗という明確な基準で勝者と敗者のコントラストを浮かび上がらせ、敗者に敗北という害悪を与えるという点で「本質的暴力性」(川谷前掲書p.124)を持っている。

 「だからスポーツを学校で教えてはいけない」というつもりはぼくには全くない。むしろその勝負事としての暴力性ゆえに、我を忘れて興奮するほどののめり込むを生むわけで、スポーツの楽しさはそこにある。ただ、逆にその教育への導入には慎重で考え抜かれた設計が必要なのだ。

 最近書いた記事、『僕はまだ野球を知らない』に出てくる強豪校の「格下見下し意識」はその副作用である。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 他方で、スポーツを教育の場に導入しながら、「勝敗に対する無関心」を起こしてしまう設計は、逆の失敗をしていることになる。

 勝負事において勝敗にこだわらない態度は、スポーツの本質を失わせている。スポーツへの冒涜といってもいい。

 前述の『スポーツ倫理学講義』の著者・川谷が次のように「あとがき」で述べていることは実に示唆に富んでいる。

 

スポーツ倫理学講義

スポーツ倫理学講義

 

 

 私がこれまでの人生で最も日常的にスポーツをしていたのは、九州の田川というさびれた炭鉱街の小学生だった頃である。

……最後の年、チームの中心にはYという同級生がいた。四番・サードで実質的には監督も兼ねていたYは、きれいごとではない、ほんとうのスポーツマンシップを全身で表現していた。一言で言えばそれは、「なりふりかまわず勝ちにいく」という精神である。たとえちょっとしたお遊びの試合でも、負けるとグローブを地面に叩きつけて悔しがるYの姿や、それに気押されて敵も味方も静まりかえる校庭の空気感を、今でも鮮明に思い起こすことができる。

 ……私は、勝つとそれなりにうれしいけど、負けてもYほど悔しくなかった。……自分さえ楽しければ負けてもかまわないという私の態度は、明らかにスポーツマンシップに反している。Yのおかげで私は、スポーツとは何よりもまず勝負事であるという根本的な事実を学んだと同時に、勝負事にそれほど情熱を傾けられない自分の個性も否応なく悟った。……

 だから私には「スポーツはほんとうは勝負事なんかじゃない」ときれいごとを言いたくなる倫理学者=大人たちの気持ちが、手にとるように分かる。もしそのきれいごとが正しければ私も自分の態度を正当化できるのだけれど、残念ながらそんな子どもだましは、真剣かつ純粋にスポーツをやっていたあの頃の子供たちには全く通用しない。(川谷前掲書p.251-252)

  ぼくはスポーツ=勝負事に真剣になれない自分のことを、この本のこの記述とともによく思い出す。

 谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』15巻には高校の球技大会・体育大会においては「女子の球技大会は男子と違って空気を読み 楽しくやることが暗黙の了解」(谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス)だという登場人物の内語が出てくる。そんな中で全く「空気を読まず」に毎回「本気の」セーフティバント、カット打法からのフォアボールなどで確実に出塁するキャラ(小宮山)が描かれる。勝負事に本気にならない=スポーツとしてエトスを破壊することに抗することがここでは、クラスの空気を読まないことと重なって、絶妙なギャグとして立ち現れている。

 ひょろひょろだまを投げる素人女子ピッチャーにクールな「マジ顔」(メガネの半分が光っている)でバントする小宮山、可笑しすぎる。

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谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス

 このギャグは、運動会におけるこの落差を見事に暴いている。

 

 もしも本当にスポーツを運動会に真剣に導入したいなら、例えば各個人の50m走の平均タイムを合計して、ほとんど同じになるようにブロック分けすべきであろう。一人ひとりの努力でブロック全体が勝利を得られるという意欲を引き出すために「設計」するのである。しかもその設計は「遅い人たちの組」「速い人たちの組」のように可視化されない。簡単に言えば「シラけない」のである。

 教育においてスポーツを導入するとは、子どもたちから勝敗への熱烈なこだわりを引き出すことであり、その本質的暴力性を召喚することなのである。

 

他の行事では代替できないのか

 「運動会の意義はスポーツ=勝負の決定だけではないはずだ」という人もいるかもしれない。

 例えば、以下はある小学校の校長がまとめた運動会の4つの意義である。

http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf

 

  1. 集団で勝敗を競う体育的行事である。
  2. 集団行動を多く伴う体育的行事である。
  3. 高学年の児童が会の運営に関わる行事である。
  4. 地域や家庭に広く公開する行事である。

 

 

 ただ2〜4は果たして運動会でなければ実現できない目的だろうか。

 2は保護者の前でやらなくてもいい。集団行動は何かの必要があって(例えば避難訓練など)その必然性において行うべきものであって、保護者の前で披露すべきものでもあるまい。マスゲームのようなものは、やりたい人だけやればいい。やりたくもないものに無理に合わせることはそもそも苦痛である上に、「集団には従うべきもの」という間違った観念さえ植えつけるに違いない。

 3は例えば他の行事で十分代行可能である。

 4はこれまでA保育園の例を書いてきたが、クラスレベルのもので十分だ。一人ひとりが主人公になれないものをぼくは見る気もない。

 

 というわけで、ぼくは今のような運動会であれば、やらない方がいい。あるいは(普通の授業と同様に)保護者が来ることを制限・禁止してもいいと思う(なぜなら昼食時に保護者・家族と食事をするという「体裁」のためだけにぼくは行っているからだ)。

 

 スポーツ(勝敗決定)ではなくA保育園のような個人・クラスごとの課題設定をした方がやりやすいと思うし、そのプロセスを保護者と共有した方がいい。「教師は忙しくてそれどころじゃない」というのであれば、別に多忙化を加速させる気はない。イベントそのものをリストラすべきである。

 

*1:学年によっては分割する。