8月15日午後8時の戦死

 西日本新聞は「うちにも戦争があった あなたの家族の軌跡」シリーズが掲載されている。8月16日付同紙夕刊では「終戦あと1日早ければ 記者の大伯父 旧満州で地雷の犠牲 秘めた無念 祖母切々」として1945年8月15日における満州での戦死の記事が掲載されていた。

 見出しにあるように、記者の大おじ(祖父母の兄弟)について書いたものだ。

 戦死者の妹にあたる、記者の祖母のコメントが載っている。

「あと1日、戦争が早く終わっていたら。兄さんは帰ってきちょったかもしれんな」。快活な祖母の悲しげな顔を見るのは、祖父の葬式以来だった。(同紙)

 戦死そのものはつらいものだが、とりわけ8月15日の戦死には特別な感情がつきまとう。本来死ななくてもよかったはずではないかという思いが拭えないからだ。

 

満州では8月15日以後も戦闘

 もっとも満州での戦闘は、8月15日以後も続いた。日本側(関東軍)にうまく停戦命令が伝わらなかったのと、ソ連側との会談に時間がかかったことで19日頃まで本格的な停戦が行われなかった。そして、何よりも占領地を増やしたいソ連側の意図と相まって実際には、正式な降伏(9月2日)まで続いたようである。

 下記のNHKの番組では8月29日まで戦闘が行われ、1300人の命が失われたことが証言として残っている。

www2.nhk.or.jp

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。

 

ぼくの大おじも8月15日に戦死していた

 実は、ぼくも家系図を作るために一族の除籍簿(死亡者の戸籍)を集めていたのだが、その中で祖母の弟(大おじ)も、1945年8月15日に満州開嶺(ソ満国境の砂漠、標高983m)で戦死していたことを知った。下記画像はその除籍簿である。

 しかも除籍簿には死亡時刻まで書かれていて、戦死したのは15日の午後8時0分。「戦争は終わっているはずではないか」という気持ちがこみ上げてきた。

 西日本の記者(そしてその祖母)と同様に、「終戦あと1日早ければ」という思いになった。

 

 しかし時刻や日付について、少なくとも生きている親族は誰も知らなかった。祖父母の代やそれより上の代、つまり戦死の報に直接触れた人々は認識し、関心をもって聞いたのかもしれないが、その下の世代には何も伝わっていないようだった。

 

祖母の大おじも日清戦争満州にて戦死

 実は、ぼくの家族には戦死者がおらず、母の実家にもおらず、祖母の実家を調べてようやく戦死者がいることがわかった。祖母の実家はもう一人「戦死者」がいて、それは日清戦争での戦死者だった。やはり祖母からみた大おじ、つまり祖母のそのまた祖父の弟で、名前からすると僧侶だったらしいが、1905年に「清国盛京省孤家子東北方高地戦死」とある。現在の瀋陽あたりである。

 除籍簿を細かく眺めていると、色々と気づく情報が少なくない。

 戦死は当時としても大変な出来事だったに違いない。しかし、その一族は当事者がいなくなれば、誰も認識も関心も寄せていないことが少なくないのだろう。戦死を媒介にした戦争が伝わっていないことが少なくない。ぼくの父は記憶力もいいし、彼の聞き書きをしているのだが、一族や関心外のことをまるで知らない。もちろん祖母の実家の戦死者のことなど何も情報を持っていなかった。

 「うちにも戦争があった あなたの家族の軌跡」というこの西日本新聞のテーマを考えたいなら、あなたの家の除籍簿を取り寄せて、眺めてみることをお勧めする。確かに戦争はぐっと身近なものになった。これは戦後世代が戦争にアプローチする一つの重要な入り口になると思う。