上間陽子『海をあげる』

 リモート読書会で、上間陽子『海をあげる』を読む。

 

 

 エッセイ集である。

抗議集会が終わったころ、指導教員のひとりだった大学教員に、「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と話しかけられた。「行けばよかった」という言葉の意味がわからず、「行けばよかった?」と、私は彼に問いかえした。彼は、「いやあ、ちょっとすごいよね、八万五〇〇〇は。怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と答えた。私はびっくりして黙り込んだ。(本書p.177)

 他の参加者もまずここを取り上げて「違和感」を表明した。同断である。

 上間は指導教員のこの物言いに「強い怒りを感じた」とまでいう。

 なぜか。自分の住む東京で集会を開くでもなく、遠くの沖縄の集会を「ひとごと」、いや、「社会運動に参加する自分」の「癒し」であるかのように扱うだけだ。まずやるべきことは自分の生活圏を見直すことではないのか。それは沖縄と本土の関係そのもの、つまり沖縄に基地を押し付けて平然としている本土のあり方そのものではないのか、と上間は言いたいのである。

 ぼくは冒頭の、上間のパートナーが不倫をしていて、その相手は上間の友人であり、その友人は上間が提供する料理を平然と食べていた話にも強い違和感を覚えた。

 上間が友人に会い、どういうことかあなたの口から説明してといい、友人がどういう経過でそうした関係になったかを話したにも関わらず、そういうことを聞きたいんじゃないんだ、と否定するくだりである。

 説明をしろと言いながら説明し始めたら、そういうことが聞きたいんじゃない、と怒る。それはあまりにも説明をさせた側に対してひどくないだろうか。被害者の権利としてそこまで甘えられるものだろうか、という違和感がぼくを襲ったのである。

でも、私が聞きたいのはそういうことではなく、私のつくったごはんのことだった。なぜ私のつくったものを食べに来ていたのか、何を思いながらごはんを食べていたのか。日常生活に侵食して、ひとの善意を引き出すのはどういう気持ちなのか。(上間p.13)

 別の参加者が「でも、これはまさに本土と沖縄の関係の比喩のようにも読める。何食わぬ顔で付き合いながら、『基地負担を押し付ける』といううまい汁だけ吸っているという」と言っていた。

 まさにそういうことなのだろう。

「陽子、ほんまにごめん。今日、包丁で刺されるって思っててん」

 へぇと思い、また頭の芯が冴え冴えとする。包丁で刺されるくらいで許されることなのかな、これ?(上間p.14-15)

 パートナーの不倫相手を「刺す」のではなく、4年間優しくし続けた自分を刺してやりたい、と上間は言う。激しい暴力性は、かろうじて他者へは向かわず、自分の中に封じ込められ、しかし自分を殺すかもしれないほどの強い怒りとなって抱え込まれる。

 こう言われて、ぼくは戸惑うばかりだ。

 これは、あるフェミニストから四半世紀も前にぼくが言われたことへの戸惑いにも似ている、と思った。

 ぼくはポルノを見たことがある、とあまり重大視せずにこぼしたことがある。そしたらその言葉を聞いた、そのフェミニストである女性は「カミヤもそうなのか」と絶望し、死にたくなったと怒った。結局、進歩的な顔をしながら女性を差別する側にいるのではないかとぼくを激しく非難したのである。

 言われていること、批判されていることの中には、ある程度の道理がある。だから、ぼくはその批判を受け止める。しかし、その批判があまりに激しく、そして道理がないことも含まれていて、反発を覚え、全てを受け入れるわけにはいかなくなる。つまり「批判を受け入れられない」となる。

 したがって、告発されたぼくは「戸惑い」になってしまう。

 上間の告発を読んだ時、その時の「戸惑い」そっくりだと思った。

 ぼくは「もっとみんなに受け入れられる批判をしようよ」と言いたくなる。しかし、長く抑圧し差別されてきたという側には、そのように「配慮」させられること自体が耐えられないに違いない。怒りを率直にまず表明する。表明せざるを得ないのだ、というのが本人の気持ちなのだろう。このエッセイ集の冒頭で、不倫そのものとそれを黙っていた友人の関係に、気持ちが不安定となり、体調がおかしくなるほどの憤りを感じた上間は、その憤りをソフィスティケイトさせている暇などはなかったに違いない。

 「そんな形で発露することは権利ではないではないか」と言いたくなるが、他方で「それもわかる」と言いたくもなる。どうしたらいいのだろうか、という「戸惑い」で終わらざるを得ないのだ。

 

 不倫の話を聞いた、別の友人、真弓の言説にも違和感があった。

それまでうれしそうに私の話を聞いていた真弓は突然しんと静かになって、「あのな、陽子、ぜんぶ忘れていい」と言った。私がびっくりしていると、「本当に陽子は頑張ったんやなぁ。でもな、もう、ぜんぶ忘れていい。あのときあったことをぜんぶ、陽子の代わりに、真弓が一生、覚えておいてあげる」ときっぱり言った。(上間p.20)

 ぼくは、こんなふうに言うこともできない。相手がそんなことを望んでいないと拒否するかもしれないし、もしぼくが言われたとしても、全然心に響かない。何がわかるというのか? と言いたくなるような独りよがりの言葉にしか聞こえないからだ。

 しかし、これとて本土と沖縄の関係の比喩のようにも読める。

 沖縄に全ての負担を押し付けて涼しい顔をするのではなく、全て「引き受ける」ときっぱり言ってくれる。そこに上間は心打たれるのである。上間はこのような関係こそ期待をしているのだ。

 ぼくは「基地は一掃されるべきで、どこにもいらないではないか。本土と沖縄をなぜことさら対立させるのか」という思いを抱いてしまう。ますますぼくは「こんなふうには到底接することはできない」とやはりここでも戸惑うのである。

 沖縄で平和運動をしている元山仁士郎に最初つらく当たる話も出てくるのだが、のちにはすっかり元山を受け入れる。どう言えばいいのか、上間は良くも悪くも直情径行な人なのであろうか。しかし、沖縄が、本土が、という次元の話ではなく、上間という人物とリアルで近くでは生活できないのではないかと思った。

 

 本書には、風俗で働くことや妊娠のことなど、沖縄での貧困の調査についても描かれている。

 その聞き取りの細やかさは、本当に頭がさがる思いで読んだ。

 絶望的とも思える沖縄の貧困の具体的なありようがそこに提示されているが、もしぼくが同じような聞き手であったらおよそこんな話は引き出せないだろう。他の読書会参加者が巻末に記された聞き取りについての細かい日時の記録に驚いていた。研究者としての冷静さをそこにみる。

 けがの具合を聞いたとき、和樹はためらうことなく服をめくり、自分の身体を私にみせた。こういう、一見すると相手の意のままにふるまってみせる受動的なパフォーマンスはおなじみのものだ。

 こんなふうに自分のセクシャルな価値をよくわかり、それを使ってその場の空気を統制しようとする女の子や女のひとと私はこれまで何度も会ってきた。どこかで痛々しいと思いながら、そのひとがつくりだしてくれた空気に私はのる。それがそのひとのいちばん安心するコミュニケーションの取り方だからだ。(上間p.54)

 このようなスキルにぼくが感心していると、読書会参加者の一人であるぼくのつれあいは、「あなたはナイーブすぎる」と呆れられた。

 

 娘に性教育をする話、誘拐の話、祖父母の話などが書かれているが、それらはどこかで「沖縄」につながっていく。ぼくたちが日常で抱くいろんな感情がどう「沖縄」につながっていくのかを描くのである。

 

 次回の読書会は村上春樹『女のいない男たち』。