マルクス主義は社会民主主義をどう位置づけるか、位置づけ直すのか。
いわく「第一次世界大戦で自国の帝国主義戦争を支持したのが社会民主主義だ」「資本主義の改良で終わるのが社会民主主義だ」「軍事ブロックを肯定しているのが社会民主主義だ」…などが古典的なマルクス主義からの社会民主主義批判である。
実践的には、例えば日本の市民運動の現場や議会などでは、共産党と社民党は共闘することも多い。
他方で「マルクス派は社会民主党や社会民主主義をどう思っているんですか?」とか、もっとズバリ「あなた方のめざしているものって社会民主主義とどう違うんですか?」とか、「ヨーロッパの社民政権の政治をどう評価しているんですか?」という質問があって、うまく答えられない人も多かろう。
この問題ついてぼくは、前に不破哲三の著作を紹介する中で、その摘要を示しながら考えたことがある。
この中で不破は、わりとはっきりとした位置づけを述べているのである。
不破哲三『激動の世界はどこに向かうか 日中理論会談の報告』(新日本出版社、2009年)についてのメモ。強調は引用者=紙屋。
第二の反独占民主主義の内容を、党綱領では、「ルールなき資本主義」の現状を打破し、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」の実現が柱だとしています。…この目標は、ヨーロッパではかなりの程度まで実現していることで、資本主義の枠内で実現可能であることが、すでに証明ずみだといえますが、ヨーロッパが資本主義政権のもとでこれを実現してきたのに対し、日本ではそれを、革命の課題として、人民の政権、国民を代表する民主的政権のもとで実現しようと言うわけです。ここでは、同じような形の「ルールある経済社会」であっても、当然、より根本的に、より合理的に、より徹底した内容で実施できるはずです。(p.130-131)
つまり、現在のヨーロッパの現状を、日本共産党が民主主義革命としてめざしている「ルールある経済社会」が「かなりの程度まで実現している」と見ている。
もう一つは、その西ヨーロッパで、とくに七〇年代以後に、「ルールある経済社会」を形成する過程がすすんできた、という条件です。多くの国で、「ルールある経済社会」づくりの担い手となったのは、社会民主主義の政党でした。共産党は、これを作る原動力である労働者・人民の闘争では大きな役割を果たしたはずですが、その闘争を背景に、その成果を「社会のルール」化する仕事は主に社会民主主義の政党がにない、共産党の方は、受け身の立場にとどまったようです。(不破同前p.134)
この「ルールある経済社会」形成の担い手を、社会民主主義政党の政権の仕事の結果だと見ている。共産党はその背景となる闘争には貢献したが、政治として実現するという点では主体的な位置を占めなかったと見ている。
社会民主党は、ヨーロッパの現在の「ルールある経済社会」をつくる上では、政権党として一定の役割を果たしました。最大の問題は、社会民主党にとってはこれが終着駅であって、それから先の目標も展望もないのが社会民主主義だという点です。つまり、資本主義の改革で“事終われり”になるという党だということです。(不破同前p.150)
本書『社会民主主義と社会主義』は、このような不破の議論に似ているが、もっと精緻に、マルクス派からの社会民主主義再評価を試みている。
ぼくなりの理解で言えば、本書は、社会民主主義を社会主義へ向かう上での、資本主義改革の積極的な一途上だと評価し直すものだ。
社会民主主義は、議会制民主主義を通じて政権の獲得をめざし、経済における産業民主主義の進展を通じて社会主義の理念に漸次的に接近しようとする点で、むしろ社会主義運動の本流の位置を占めてきたと評価できる。(松井p.148)
ただし、社会民主主義は、これまでヨーロッパで政権を取ってきた社会民主主義政権(福祉国家)を評価しつつも、今後もそのまま資本主義改革の一途上だとみなすわけにはいかないとする。
新たな社会民主主義像が必要になるのだが、そのためには、その先にある目指されるべき社会主義の姿はどういうものであるかをもっとはっきりさせないといけないと考えるわけだ。
将来の方向(社会主義)の新たなイメージがきちんと定まってこそ、その途中(中間)にあるという社会の姿が決まるからである。
そのために、
- 経済成長をどう考えるか
- 労働は賛美されるべきものか、抜け出すべきものか
- 国家の介入は必要か、社会の力でいいのか
- グローバル化を否定するかどうか
の4点に、もともとマルクスはどう考えていたかを考察する。
その点での本書の結論は
- 定常化社会
- 脱労働
- 国家の縮小
- コスモポリタニズム
である。
左派の当面の目標は、新自由主義のもとでの縮小した福祉国家を再び従来の規模に復元することである。/しかし大局的にみれば、福祉国家を通じて資本主義の中で社会主義的な制度を充実させるというタイプの社会民主主義は、限界に達している。…2020年代の現在、本書で提示した四つの論点——経済成長、労働、国家、グローバル化——からすれば、資本主義経済のもとで福祉国家を推進する社会民主主義はその役割を終えた。(松井p.148-149)
本書では、資本主義内に改良をとどめようとする立場を社会民主主義右派とし、その先に行こうとする立場を社会民主主義左派と規定し、社会民主主義左派こそ、社会主義に至る「今日もっとも期待できる社会主義の潮流」(松井p.150)だとする。
4つの論点についてのぼくの感想・評価
まず、4つの論点に対するぼくの感想・評価から。
定常化社会という点。環境との整合性があるんだから、資本主義そのままの成長は無理だよね。概ね経済成長は制御される。
その上で、必要な経済発展や成長はどうするのか。
ジェイソン・ヒッケルが『資本主義の次に来る世界』で行った整理、
経済成長を追い求め、それが魔法のように人々の生活を向上することに期待するのではなく、まず人々の生活の向上を目標にしなければならない。そのために成長が必要とされるか、必然的に成長を伴うのであれば、それはそれでよい。経済は人間と生態系の要求を中心に組み立てるべきであり、その逆ではないのだ。(ヒッケルp.194)
ということになる。
成長それ自体を追い求めることをやめ、生活向上に必要な目標を立てて、その分の成長は認める、という立場である。ヒッケルはそれを「脱成長」と呼んでいるのだが、ぼくからすれば、資本主義的な成長至上主義をやめる、ということになる。まさに社会の必要のために経済を使う(成長させる)ということになる。
環境との整合性は人類の生存のための最優先事項だろうから、それでキャップをかぶせるにしても、そこに生きる人たちが生活を改善するための成長はその範囲で許容する。そういう社会・経済にすべきだろう。まあ、おおむね定常化と言える。
次に、脱労働。松井によれば、マルクスは労働賛美ではなく、最終的に労働の廃絶を展望したとする。
ぼくは、労働自体はなくならないだろうとは思うが、生産性の飛躍的な発展(+経済成長の制限)によって、労働時間の短縮は大胆に進んでいく可能性が高いと考える。
最終的にマルクスがどう思ったかとは別にして、今の社会は労働時間をかなり短くする方向に作用していくだろう。
次は、国家の縮小。松井は国家に代わって市民によるネットワークが役割を果たすと考えているようである。
ぼくは、市民によるネットワーク、共助のようなものが公助に取り代わっていくようなイメージをもてない。あまりにも国家が果たす役割は大きくなりすぎているからである。
さらに、政府の経済活動の領域の広がりは著しい。政府権力の拡大と集中は、戦後世界で起こった政治経済上の大きな変化のひとつであろう。労働法制の整備、社会保障、安全衛生、競争政策、環境政策、都市計画など、われわれが日常生活にかかわるどの問題を取り出しても、法律に基づく政府権力の集中的な行使が観察される。政府の介入、政府による経済活動の拡大は法律による制約として表れるだけではない。電気・ガス・水道、航空・放送・郵便・通信サービスなどの公共的なサービスの生産と供給が公共セクターに属する国は少なくない。これらの産業の公的所有も、「行きつ戻りつ」ではあるが、戦後の世界経済の趨勢であることは明らかだ。この点は、公共部門の支出規模の膨張にはっきり表れている。OECD(経済協力開発機構)の統計を見ると、今や先進諸国のGDPの三割から六割が何らかの方法で公的部門を通して支出されている。(猪木p.3-4)
と戦後世界経済を俯瞰している。
ぼくは、こうした「大きな政府」化が、仮に例えば民営化・民間委託化することになるにせよ、そこにかなりの公的関与が働くようになると考える。ルール化や監督である。そうした場合、公有化ではなくても、社会がそうしたコントロールを効かせることができるようになるはずだ。
同時に、公有化している部門での事業についても、いっそう社会の手が入りやすくなる、つまり民主化が進むことになる。
だから、一概に国家が縮小するとも言えないし、肥大化するとも言えない。国家が民主化されていき、その民主化された国家が経済をますます広範な領域で管理するようになることは避けられないだろう。
最後に、グローバル化。この点は、松井が何を問題にしようとしたかは今ひとつ判然としないのだが、ラストで社会運動の国際的な共同を書いていることを見ると、国際的な規制権力の問題がテーマなのかもしれない。
グローバル企業への課税や規制強化という点では今後もその方向で発展するだろう。
また、「反グローバリズム」のスローガンがあるが、地産地消をはじめ、環境上の制約を考えた場合にはグローバル化は規制されるものの、交流や物流の発展が利益をもたらすこと自体も明らかである。だから、「公正なグローバル化」がスローガンになる。
社会民主主義の再評価と民主社会主義の再評価に賛成
以上4つの論点についてのぼくなりの考えを述べた。それはそのまま、本書の結論にたいする批評でもある。
そうした社会主義をめざす、一道程として社会民主主義を考え、それを積極的に評価するなら、それは大いに賛成だ。
社会改良を積み重ねることで、資本主義のもとでの社会民主主義を実現し、それが最終的に利潤第一主義という資本主義の社会原理(社会のありよう)を乗り越え、経済を社会のために奉仕させる・役立たせるという別の社会原理に取って代わるなら(その時に市場があるかどうかは全く関係がない)それは社会主義だとぼくは考える。
革命? 革命とは権力奪取のことである。政権獲得のことだ。社会改良を積み重ねていくわけだが、自覚的に社会主義を目指している左派政党が政権を獲得すれば、そのプロセスは合理的に、早く進むことができるはずである。だから、革命=選挙と議会政治による政権獲得を目指した方が早道であり、苦痛が少ない、ということになる。
大事なことは、今の資本主義下において、欧米でもそして日本でも、世の中は良い方向に向かっている。そのことに確信を持つことが重要だろう。
左派はともすれば「今の政権はダメだ」と言いたがる。そうなると勢い、今の資本主義下で、社会運動によってどんな達成がなされてきたのかまで否定して、今の社会があまりにも悲惨で、ダメで、劣悪な社会だと描きがちである。
しかしぼくはそうは思わない。
ぼくらコミュニストや左翼を先頭にした戦後からの運動によって、この日本はなかなか前進してきたではないかと評価することが必要だ。
マイケル・サンデルとトマ・ピケティ『平等について、いま話したいこと』でピケティは冒頭にこう言っている。
わたしは平等と不平等について楽観的にとらえています。…世界じゅうに…長期的に見れば常に平等へ向かう動きがあったことを強調しています。…この動きの源は、社会運動と強力かつ壮大な政治的要求であり、それは人々が基本的な財と考える教育、保健医療、選挙権などの機会を得る権利や、広く言えば、さまざまなかたちの社会的、文化的、経済的、市民的、政治的生活にできるかぎり完全に参加する権利の平等を求めるものです。…平等へ向かう長期的な動きはつづいています。わたしは、この動きが今後もつづくだろうと見ています。(サンデル・ピケティp.7-8)
これは「平等」に限った話だが、人類が様々な領域でおおむね進歩を勝ち取っていることについては、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』でも明らかにされている。
左派は自信を持って、このような方向に進むべきではないのか。
社会民主主義と民主社会主義は再評価されるべきであり、世界は社会主義に向かっているのだと言ってもいい。
マルクスはどう言っていたかについてはぼくの意欲・関心は薄く、能力もない
その上で、本書の少なくない部分は「こうした4つの論点についてマルクスはどう言っていたのか」という検証に当てられている。
例えば「生産力」概念についてマルクスはどう言っていたか、「労働」についてはどうか、「社会的所有」はどうか、「国家」についてはどうか、などである。本書の考察の流れからすればそれを明らかにすることは当然であろう。
斎藤幸平などがマルクスから環境についての思想を導き出したりするのもこうした流れだろう。
しかし、ぼく個人で言えば、マルクスの文章をあさり、そうした現代的論点にどう答えてきたかを考察することには、あまり意欲や関心がない。そして何よりも能力がない。
まず、ぼくの手元にはマルクスのテキストが十分にないのである。特に膨大な草稿や刊行されたマルクスの公式の言説を詳細に検証する力がない。
また、マルクスがどう考えていようが考えていなかったであろうが、社会はそれとは無関係に発展するわけだから、あまり過剰にマルクスに付き合うつもりはない。それは文献学が得意な人にまかせたい。
あまりにマルクスの言ったことにこだわりすぎて、無理な社会主義像を描いてしまう志位和夫のような失敗をすることにもなりかねない。
なお、p.132の10行目の「20世紀末期」は「19世紀末期」の誤りだと思うがどうか。