志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(1/5)

 日本共産党志位和夫ローザ・ルクセンブルク財団本部で理論交流を行い、「共産主義と自由」について、自著(『Q&A 共産主義と自由――「資本論」を導きに』、『「自由な時間」と未来社会論――マルクスの探究の足跡をたどる』)を献本し「懇談の素材を提供」した上で、「ぜひ忌憚のないご意見をいただければと思います」と述べている*1

 

 「忌憚のない」とは「遠慮のない」という意味である。

 そもそも日本共産党は本書を使って「『共産主義と自由』を学び、語りあう大運動」を呼びかけているのだ。「学ぶ」とは学んだ対象が絶対でありそれを盲信すべきと考えるのではなく、徹底した批判的な目で読み込み、それを「学んだ」党員であれ市民であれ、厳しい批判も含めて自由に語り合うことも含まれているだろう。当たり前だ。

 ならば、依然としてコミュニストではあるが、今や一般市民となったぼくがこれらの本について多少批判したところで「攻撃」だの「敵対」だのと言われることもないだろう。志位自身が「忌憚のない意見」や「学び、語りあう」ことを大いに歓迎しているのだから。共産党員のみなさんも批判を含め大いに自由に議論すればいい。

 ぼくもいっちょ、その「大運動」とやらに参加してみることにする。「しんぶん赤旗」あたりで「『私もコミュニスト』 大運動に一般市民が飛び入り参加」というタイトルでぜひとりあげてほしいものだ。

 さすがに長いので5回に分けて書こうと思う。まず最初に批判点を指摘する。最後に本書の積極的な点をお伝えしたい。

 

今回の記事の要旨

 とはいえ、1回分も長い。だから、要旨を先に書いておく。

  1. 本書Q24が、共産主義になって起きる2点(資本家などが生産に参加する、経済の浪費部分をなくす)をもって労働時間の抜本的短縮の条件としているのは、相当に厳しい。大幅な時短が起きるのは、この2点ではなく、生産力の向上の成果を資本が独占せず、社会がそこに関与し、社会に還元させるからこそだ。
  2. 本書Q22の説明は、現代日本の搾取部分(剰余労働分)を全て「自由時間」=労働時間短縮に回せるかのような説明になっていて、大きな誤り。この剰余労働分の中には、社会にとって不可欠の、社会保障の拡充、社会資本の建設、経済発展の原資などが盛り込まれていて、かなりの分をそれに使わないといけないはず。
  3. 本書がこのような立場にしばしば落ち込むのは、「搾取をなくす」についての明快な整理がないから。「搾取をなくす」とは、剰余労働について資本家だけでなく労働者や社会全体がその決定に関与できるようになることである。

 体力や時間がない人は以上の要旨だけ読んでくれればいい。時間がある人はその後も。また、「要旨のこの部分はどういう理屈だろう?」と興味を持った人は下記でその部分だけでも読んでほしい。

 また、以下の記事には4.と5.もあるが、それは本筋ではなく、付属的な論点なので、必ずしも読む必要はない。

 なお『Q&A 共産主義と自由』のテキストと動画は下記で無料で見られる。

www.jcp.or.jp

 

 

1. 本書のテキストとしての最大の問題点——労働時間抜本短縮の2条件のまずさ

 本書のテキストとしての最大の問題点は、労働時間の抜本的短縮が共産主義社会になればなぜ起きるかという説明のまずさである。

 志位は、この点を本書のQ24(p.100-102)で2点紹介している。

 1点目は「社会のすべての構成員が平等に生産活動に参加するようになる」ことで「一人当たりの労働時間は大幅に短縮されます」(p.101)というもの。

 2点目は「資本主義に固有の浪費がなくなり」「それらに費やされている無用な労働時間が必要でなくな」(p.102)るからだというもの。*2

 この2つによって、共産主義社会になれば、労働時間の抜本的短縮が起きるというのだ。

 しかし1点目についていえば、仮にそれが「資本家の生産参加」を意味するとしたら、資本家階級は就業人口の0.5%*3しかなく、大ざっぱに経済価値を生み出すものが、労働人口×労働時間×生産性という計算式で求められるとすれば、理論上も0.5%しか労働時間は短縮できないことになる。

 また、2点目についていえば、「資本主義に固有の浪費」をなくすといっても、それは労働時間の抜本的短縮を引き起こすほどのものなのかという根本的な疑問が生じる。例えば労働時間を半減させたいなら、半分の経済活動は無駄だと立証する必要があり、それはGDPを半減させることを意味するが、いくら資本主義に浪費がつきものだとはいえ、そんなことをして大丈夫なのか、ということである。*4

 詳しく知りたい人は以下の記事を読んでほしい。*5

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 このような「まずい説明」はむしろ共産主義になって起きるはずの労働時間の抜本的短縮の展望を見失わせ、失望させる結果となる。「ホントに短縮できるの…?」と。

 これは労働時間の抜本的短縮そのものを、“何が何でもマルクス自身の書いたものの中から典拠*6を引き出そうとする無理”がたたって起きているものではないかと思う。

 では、志位があげたような理由ではなく、共産主義になればなぜ労働時間の抜本的短縮が起きる本当の根拠はなんだろうか。それは生産力(生産性)向上の成果を資本が独占せず、社会が享受できるようになるからである。こうした説明は実は不破哲三も2004年の講演で行なっている。しかしそれ以後その説明は消えてしまったのだが。(そのことは7月のぼくの記事でも触れた。)

 その記事でも書いたことだが、資本の下では生産性が向上して労働時間の抜本的短縮の条件が生まれると、資本は、労働時間の短縮をするのではなく、直ちに労働者のリストラして「もうけ」にしてしまおうとする。生産性の向上により前と同じ時間でより多く生み出される価値を、労働者に分け与えず、「もうけ」として資本が独り占めしようとするからである。

 しかし、共産主義になれば——いや、少なくとも大資本家に遠慮することがない政権ができるようになれば、その「もうけ」分に対して、労働者や社会が関与し口を出せるようになる。「その分は資本が独り占めにするな。労働者や社会のために回せ」と。

 したがって、生産性が向上したことでより多く生み出された価値を、例えば課税によって資本からたくさんとりあげ、社会保障に回すこともできよう。さらなる時短の法律を作って、労働時間の短縮に結びつけることもできよう。

 もっと単純にいえば、今の日本で6000万人の就業者が平均8時間働いて500兆円の経済価値(GDP)を作り出している。生産力(生産性)が向上すれば、その結果、同じ6000万人だけど平均6時間でやはり同じ500兆円が生み出せるようになる。その時に、社会主義であれば、その2時間を時短に回すことができる、ということだ(資本主義ではその2時間を使ってGDPを例えば600兆円に増やし資本家がその多くを独占しようとする*7)。

 大資本家に奉仕する政権ではそこはなかなか通らないけども、労働者と社会のことを第一に考える政権であれば、そういう法律や課税は通りやすいのである。だからこそ、社会主義政権(左派政権)のもとでは、労働時間の短縮は抜本的にすすむ可能性があるのだ。

 このように説明してこそ、いまヨーロッパなどの先進資本主義国で起きている労働時間短縮の流れを説明しうるし、今の日本での時短や社会保障充実のたたかいがどう「地続き」なのかも説明できるというものだ。

 志位は本書で「今のたたかいが…未来社会に地続きでつながっている」(p.129)としていて、そこはぼくも大事なポイントだとは思っているのだが、資本主義下での時短運動と共産主義での労働時間短縮とが、どう「地続き」なのかはあいまいなままである。*8

 共産主義になって、あるいは共産主義社会主義の政権になって、剰余労働をどう処分するかということについて、(大)資本家だけがそれを独り占めして考えるのではなく、社会が本格的に関与できるようになり、それをある部分は社会保障に、ある部分は労働時間の短縮に、ある部分は環境破壊の制御に、またある部分は経済の活性化・効率化に使ったりできるように自己決定がすすむのである。

 「資本家の生産への参加*9や浪費の一掃で労働時間の抜本短縮がもたらされる」という説明は部分的には正しいとは思うが、共産主義のもっとも重要なポイントを説明していない。あたかも共産主義になれば自動的な過程で起きるようにさえ見える。

 剰余労働の処分への社会の関与・自己決定——それこそが共産主義における自由のポイントではないだろうか。もちろんそのことによって、労働時間の抜本的な短縮がすすみ、人間の全面発達が促されるというのは、その結果としてもらたらされる、人類史におけるもっとも貴重かつ本質的な成果ではあるのだが。

 

2.本書のテキストとしての問題点その2——必要労働と剰余労働の区分

 テキストとしての問題点は他にもある。次にあげる問題点としては、“剰余労働を全部なくす”かのように扱ってしまっていることだろう。

 本書Q22(p.92-94)では、研究者である泉弘志の試算を用いて、現代日本では(8時間労働に換算した場合)必要労働が3時間42分、剰余労働が4時間18分であると示す。

 志位の聞き手(中山歩美)が「今の日本で、働く人は『自由に処分できる時間』をどのくらい奪われているのですか」という問いをと立て、志位は特に留保もせずに、

そうですね、8時間働いた場合、およそ4時間以上は、本来、労働者が持つべき「自由に処分できる時間」が資本家によって奪われているということになります。(p.93)

ド直球で答えている。

 これは、現在日本での労働時間のありようをそのまま共産主義社会に適用し、半分は「自由時間」、つまり労働しなくていい時間(労働時間の短縮)に当てられると述べていることになる

 しかし、現在日本の剰余労働時間には、例えば年金や医療といった社会保障を担う費用や、橋や道路などの社会資本を建設する費用、資本家の純粋なもうけのためだけではなく、新たな社会的必要のために確保すべき生産拡大の原資などが、含まれている。

 さらに言えば、この剰余労働分で、価値や剰余価値を生み出さない労働者の生活費用(可変資本価値)を担っている可能性もある。*10

 それが一体どれくらいの規模に及ぶのか。

 このやりとりは、そのことを全く無視しているのである。

 あたかも、今すぐにでも4時間の労働時間短縮ができるかのようなやり取りになってしまっている。

 共産党の田村智子委員長はこれをナイーブに繰り返している(動画33分あたり)。

研究者の中では4時間切って働けば十分幸せになれるだけの生産力・経済力はあるだろうと言われています

www.youtube.com

 うん、まあ、身内の小さな学習会とかでこういう「乱暴」な物言いをすることはあるよ。ざっくりとね。でも、党首が動画で拡散するような中身としてそれを街頭で言うのはどうなのかと思ってしまう。

 党のトップをしてこのような理解をさせしめてしまうのが、志位の乱暴とも言える本書でのやり取りなのだ。

 実はこの泉の試算は、ぼくも今をさかのぼること15年前、2009年に『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)で取り上げたことがある*11

門井文雄原作・紙屋高雪構成『理論劇画 マルクス資本論かもがわ出版、p.127、2009年

同前p.128

 ぼくの場合、そこでは今に現代では労働者が搾取されているかという現状認識にとどめ、それをそのまま共産主義での時短の根拠にはしなかった。本来泉の試算はそのようにして使うのが適切なはずである(剰余労働の4時間は、いったん産業資本家が搾取し、その後、商業資本家・銀行資本家・地主、税金などに分配される)。

 ただし、志位の名誉のために言っておけば、志位は次のようなことは本書や関連する本では書いている。実は、志位自身は、搾取されている剰余価値や剰余労働時間が、労働者の直接の生活費用のためだけでなく、社会保障や社会資本、必要な生産拡大の原資になることを、本書の他の箇所ではきちんと認めている(Q30、p.119-120)。

 また本書を解説した『「自由な時間」と未来社会論——マルクスの探求の足跡をたどる』(「前衛」2024年9月号所収)では、『資本論』第1部第15章の文章を典拠にして「予備元本」(社会保障や社会資本など)、「蓄積元本」(拡大再生産の原資)について触れ、

剰余労働の一部は、必要労働に、「社会的な予備元本および蓄積元本」を獲得するのに必要な労働に組み入れられるからです。(志位、同誌p.54)

資本による搾取がなくなった場合、必要労働の範囲が拡大することになるが、それを考慮しても、資本による「自由に処分できる時間」の横領がなくなります(同前p.55)

と述べている。つまり社会保障や社会資本のための原資は、必要労働の概念を拡大して、その中に組み入れていく、と言っているわけである。

 しかし、「必要労働の範囲が拡大することになるが、それを考慮しても」とはいうが、それは一体全体の何%に当たるのか。介護・医療・年金の拡充、学校や水道管・橋・道路の拡大や老朽化の更新などは、決して小さな費用ではない。それを「考慮」してどれほどの時短=「自由に処分できる時間」が創造できるかを示さなければ、この志位の論理構成の場合、ずいぶんと無責任な話になってしまう。

 また、「しんぶん赤旗」に哲学研究者である牧野広義の本書への感想として、上記の『資本論』第1部15章を根拠にしながら、未来の社会(共産主義社会)では、“剰余労働はなくなる”という見通しを載せている。資本主義では社会保障などを剰余労働が生み出すものとしてカウントしていたけど、共産主義になったらそれを必要労働の方でカウントするというのである。*12

 「だって社会保障は生きていく上で必要なものになるんだもーん」というわけだ。カテゴリーの移し替えをするわけである。これは上述の志位の主張を補強するものだと言っていい。

 だが、もともと「労働者とその家族の生活費用を稼ぎ出す労働」に限定されていたはずの「必要労働」の概念を、どんどん拡大し、「剰余労働」から「必要労働」にカテゴリー区分を移動するという「操作」によって「はいっ! 剰余労働は消えて無くなりました!」とやるのは…手品みたいなのもじゃないか? 仮にマルクスがそういう見通しを立てていたとしても、社会保障もろくに知らなかったマルクスの言い分をそのまま適用することに強い危惧を覚える。「必要労働」の概念を無意味化してしまうものだ。

 いずれにせよ、この部分で志位が「正しい」ことを言っていたとしても、本書Q24の記述——現代日本の剰余労働分を全て「自由に処分できる時間」に回せるかのような叙述は明らかに誤っていると言わねばならない。

 

3. 志位の混乱の大もとには「搾取をなくす」ということの未整理がある

 こちらの方も、本当に問題を解決するためには、どうすればいいのか。

 それはやはり同様に、剰余労働をどう処分するか、つまり現状の労働者の生活費にさらに補填して生活水準を上げるのか(賃金アップ)、社会保障や社会資本を拡大するのか(法人税課税の拡大)、生産の拡大の原資にするのか、それとも労働時間の短縮に使うのか——それを大資本家だけでなく、労働者や社会全体が関与して決定すること。これこそが、搾取の廃止という本当の意味であり、労働者や社会が経済の上でもまさに主人公になれるということである。

 剰余労働分を全部「労働者」のものにしてしまったり、どんどん時短に使ってしまったり、果ては単に「必要労働」にカテゴリーを移し替えたり、そんなことでは問題は全く解決しないだろう。

 数理的マルクス経済学者であった置塩信雄の次の言葉は至言だと言える。

搾取をなくすとはどういうことか

 …ところで、搾取とは何だろう。これがはっきりしなければ、搾取があるとかないとか言っても内容がはっきりしない。労働者が8時間働いて、一定の生活資料を受け取る。この生活資料を生産するには労働者が直接・間接に3時間働かねばならないとしよう。すると、労働者は5時間の剰余労働をしたことになる。これが労働者が搾取されているということだろうか。

 労働者が剰余労働を行なうということは、直ちに、労働者が搾取されていることを意味しない。どのような社会形態のものとでも、拡大再生産や労働できない人びとの扶養などを行なおうとすれば、剰余労働は絶対に必要であることは、直ちにわかる。労働者が剰余労働を自主的に行ない、それによって生産された剰余生産物を自分たちがきめた使途にあてるのであれば、そこには搾取という人間関係は存在しない

 問題なのは、剰余労働を行なうのかどうか、それくらい剰余労働を行なうのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行なうのではなく誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである。(置塩信雄『経済学はいま何を考えているか』大月書店、1993年、p.173-174、強調は引用者)

 今、本書(『Q&A 共産主義と自由』)のテキストとしての最大の問題点ともう一つの問題点、以上の2つの問題を挙げてきたが、そうした問題が起きる根源には、ここで置塩が述べている視点を欠いていること、すなわち志位が「搾取をなくすとはどういうことか」についての明快な整理がないことがあるのではないかと考えられる。

 実践的に言えば「搾取をなくすってどういう意味ですか?」という問いにすぐ答えられなければいけないのだが(皆さんも身近にいる共産党員に質問してほしい)、志位はその問いにパッと答えられないのではないかということである。(この問いへの答えは「剰余労働分の処分を資本家が独占するのではなく、労働者を含めた社会全体がそれに関与できるようになること」となるはずだ。)

 もしこの視点を明確に持っていれば、自分があたかも社会主義政権下の労働者階級になったつもりで「剰余労働分をどう処分しようか?」「何と何に振り分けようか?」と真剣に悩むはずだ。

 時短に過大な比重を置きすぎて剰余分をすべて時短に回してしまおうとする早とちりをやってしまったり、あるいは、共産主義になって資本家が全員生産に参加してくれることや経済の浪費部分をなくすことを待ち望んだりして、それがないと労働時間の抜本的短縮が引き起こされないと思い込んでしまうのは、この視点を欠いているためだろう。その根本の整理がないために、ある箇所では大きく間違い、別の箇所では正しい叙述に近づく、という混乱が生じてしまうのである。

 

4. ディルクやマルクスの表面的な言い分に振り回されすぎている

 そこがないために、マルクスが「自由に処分できる時間」のヒントとした著述家・ディルクの言ったこと(パンフレットで書いたこと)や、マルクスの表面的な主張に振り回されすぎているのではないだろうか。

 最初にあげた、労働時間抜本短縮の2条件(資本家など全構成員の生産参加や資本主義経済の浪費部分の一掃)について、マルクスから典拠を探し、それにとらわれてしまうというのは一つの典型である。

 またディルクは自分のパンフで「資本に利子が支払われない」、つまり資本が自分のもうけ分(剰余価値分)を追求せず、必要労働時間分だけにすること、12時間労働を6時間労働に短縮する例をあげ、

富とは自由であり——休養を求める自由であり——生活を楽しむ自由であり——心を発展させる自由であるのです。

と述べている。

 志位は本書でディルクのパンフレットの主張を

このパンフレットは、1日の労働時間を12時間から6時間に短くすることを提起し、富とはこうして人々が得ることができる「自由に処分できる時間」という主張を行なっていました。(本書p.85)

と紹介している。半分は自由時間にしてしまえる、という印象を強く受ける。

 マルクスはディルクのパンフレットを要約して、

富とは自由に処分できる時間のことなのであって、それ以外のなにものでもない

と書き付けている。

 富=自由時間(自由に処分できる時間)。

 確かにこう書くことによって、自由時間というものの貴重さが浮かび上がる。そして、共産主義が単なる物質的な富の充足(貧困克服と生活向上)を超えて、労働時間の抜本短縮による自由時間の創出とそれによる人間の全面発達をめざしているというポイントも強調される。

 だけど、それは一種の文学的な強調である。

 いわばデフォルメだ。

 「物質的な富」と「真の富(自由時間)」を分けて対立させ、後者の一面的な強調に及ぶなら、これは「富」という概念の濫用になるし、不正確な理解に導いてしまう。

 マルクスはディルクにも影響されて、物質的な富を「真の富ではない」と強調する記述をノート(草稿)にしばしば書き付けているのだが、さすがにちょっとそれは言いすぎたと思ったのであろうか、いろいろと動揺している。

 例えばマルクスは「1857〜58年草稿」では

直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の〔尺度〕であることを、やめるし、またやめざるをえない。…『富とは剰余労働時間(実在的な富)への指揮権ではなく全ての個人と全社会のための直接的生産に使用される時間以外の、自由に処分できる時間である』(『 』はディルクの抜粋)

と述べているが、「1861〜63年草稿」では

労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である。しかし、自由な時間、自由に利用できる時間は、富そのものである。

としている。

 つまり「1857〜58年草稿」では「物質的な富なんかホントの富じゃないぜ!」というニュアンスが強いが、「1861〜63年草稿」では「いや…まあ…物質的な富も富っちゃあ富だけど、ホントの富は自由時間なんだぜ?」という、いくらか弱気な言い方になっている。

 志位はこうした差分はあまり振り返らず、「真の富=自由に処分できる時間」というポイントだけを強調しようとするので、

マルクス資本論草稿』(1857〜63年)の研究から(本書p.86)

というタイトルをつけてこの2つの草稿グループを強引にまとめてしまっているのだ(一応2つの草稿グループがあることはこの直前の本文には書いてあるが)。

 志位は本書の解説である『「自由な時間」と未来社会論』(「前衛」24年9月号)では、「1857〜58年草稿」と「1861〜63年草稿」のそれぞれの解説はあるものの、両者のニュアンスの差について志位が指摘している箇所はない。(関係ないが、「前衛」24年9月号p.32上段の「マルクスは、『1861〜63年草稿』を書き終えたあと、…」という志位の記述は「マルクスは、『1857〜58年草稿』を書き終えたあと、…」の間違いだと思われる。)

 

 物質的な富は富であるのか、あるいは真の富であるのか、そうでないのか、などという問題は、資本主義に生きているぼくたちに、なかんずく貧困や格差にあえいでいる国民にとっては、どうでもいいことだし、そんなデフォルメのニュアンスにいちいち引きずられるのはあまり意味のないことではなかろうか。

 

5. 自由時間概念について(家事・育児時間との関係など)

 マルクスの「自由時間」(freie Zeit/free time)あるいは「自由に処分できる時間」(disponible Zeit/disposable time)にはなおも検討すべき問題がある。

 非労働時間は全て自由時間なのかといえば、必ずしもそうとはいえないということだ。

 よく「8時間は仕事のために、8時間は休息のために、残りの8時間は自分のために」がメーデーの出発点のスローガンとしてあげられるが、ここでいう「休息」の時間、例えば睡眠・入浴・食事などはその時間だと言えよう。

 では家事や育児はどうなのか。あるいは、ぼーっとテレビやネットを見ている時間はどうだろうか。パラパラとマンガを読んでいる時間は?

 そして「自分のため」の時間とはそれとどう区別されるのだろうか。

 志位和夫は本書Q25で

「自由に処分できる時間」を取り戻し、広げていくことは、互いに交流しあい、団結を広げ、社会進歩の運動をすすめるうえで、決定的な力となります。民青の活動も「自由な時間」がないとできませんよね。

と述べている。活動時間も「自由な時間」なのである。

 共産党小池晃が24年8月3日の都道府県委員長会議

そしてお盆は休まなければなりません。「自由に処分できる時間」を満喫していただいて、そしてまたお盆明けは、「自由に処分できる時間」のためにたたかっていく。そのために全力をあげることをよびかけて、会議のまとめといたします。ともに頑張りましょう。

と言っていたが、活動時間も「自由に処分できる時間」なのだから、お盆休みは「自由に処分できる時間」で、活動に戻ればそうでない時間であるかのように述べた、この区分の理解は本書に照らせば「おかしい」ということになる。本書の党幹部の理解が問われるところであろう。

 

 それはともかく、家事・育児・介護などの時間を短縮する、例えば社会化することが個人の「自由に処分できる時間」を1時間、2時間、3時間と大きく増やしていくことにもつながる。「社会化」とは、個別家庭の無償労働(特に女性にだけ)に委ねられていたものを、例えばヘルパーを頼んだり、惣菜を買ってきたり、そういうふうにすることである。

 そのあたりの解像度が低いままに本書が議論されているのも気になるところではある。

 志位がローザ・ルクセンブルク財団での理論交流について報告した際に(2024年9月20日付「しんぶん赤旗」)、

そのなかには「ケア(労働)」と「自由に処分できる時間」との関係をどうとらえるかなどの重要な問題提起もありました。私は知恵をしぼって一つひとつしっかりとお答えました。

と述べている。たぶんぼくが疑問に感じたような上記のことが問われたのではないかと想像する。中身は書かれていないのだ。「私は知恵をしぼって一つひとつしっかりとお答えました」とあるので、いや考えてなかったんかい、と思った。

*1:ベルギー労働党本を渡した時にも志位はこの言葉を述べた。

*2:この2点についての解明は本書で初めてのものではなく、すでに志位自身が『綱領教室』などで何度も述べてきた点であり、もっと言えば、それ以前に不破哲三が各種の著作で、マルクスの『資本論』を典拠にして繰り返し述べてきたことを引き継いだに過ぎない。

*3:日本共産党市田忠義副委員長は『日本共産党の規約と党建設』(新日本出版社、2022年、p.53)で「資本家階級」(2015年)を「154.5万人」とする数字を挙げている。これは2015年の労働力人口の0.25%しかなく、私が挙げた0.5%よりさらに少ない。

*4:志位和夫自身は本書では述べていないが、志位が参照している不破は一掃されるべき浪費部門について具体的に言及し「経済が資本から解放されたら不用になるような経済部門」として「証券業はもちろん、金融関係のかなりの部門など」(不破哲三マルクスと友達になろう』民青同盟中央委員会、2015年、p.53-54)と述べている。証券や金融部門の大半が「浪費部門」として「不用」にされてしまうのだ。

*5:これは共産党や志位のことについて書いたものではなく、一般的に存在する議論について検証した文章なのだが、たまたま本書にもこの批判の一部が該当するものになっている。

*6:マルクスが『資本論』でこの問題をどう述べているかは2024年7月19日のぼくのブログ記事にメモってある。

*7:もちろん社会主義でも、1時間を時短に回し、残りの1時間で50兆円の経済価値を増やして社会保障の拡充に回すことなどができる。

*8:Q25で「『自由に処分できる時間』を広げることは、今の運動の力にもなる」としていて、『資本論』第1部第8章での時短が労働運動に活力を与えた話などを引用しているのだが、これは現在の時短が現在の社会運動に与える好影響の話であって、今の取り組みが将来の共産主義の部品=パーツを形作るという話になっていない。

*9:「社会の構成員の平等な生産への参加」という問題は単に「資本家への生産参加」というだけにとどまらない可能性もある。マルクス経済学では、価値・剰余価値を生み出す生産的な労働は限定的なもので、その生産的な労働が社会全体を支える富を担っていると考える。例えば、マルクスは商業は価値を生み出さないとした(他方で例えば輸送は価値を生むとした)。同様に、公務や金融も価値を生まないとするのがマルクス経済学界隈での有力な議論である。志位が紹介した泉の試算でも、商業・公務・金融部門は計算から除かれている。不破哲三も、介護労働者の「私の労働からは価値が生まれない」という悩みを紹介した後で、「経済学的には『価値』を生まない労働もあれば、『価値』を生む労働もあり、さまざまです」(不破『古典教室 第1巻』新日本出版社、2013年、p.80)と述べている。もしこれを機械的に適用すれば、「公務労働者が金融労働者、商業労働者は、共産主義では平等に工場などの生産的労働にたずさわる」という話になってしまう。

*10:泉は試算の際に正確に商業・公務・金融労働者を除いている。

*11:セリフの一部や泉のデータ全体は門井の原作にはなく、ぼくが挿入したものである。

*12:なおマルクスは『資本論』の別の箇所(第3部、新日本出版社版13巻、p.1433)で「剰余労働一般は、所与の欲求の程度を超える労働として、つねに実存し続けなければならない」と述べており、不破は「マルクスは、この文章では、「必要労働」および「剰余労働」という概念に多少の変形をくわえて、人間とその社会の直接的な欲求をみたすための労働を「必要労働」、その範囲を超える労働を「剰余労働」と呼ぶことにしています。ここでは、こういう意味での「剰余労働」は、搾取社会だけでなく、人間社会一般に存在すること、つまり、人間による人間の搾取がなくなった未来社会にも存在することが、指摘されているのです」(不破『マルクス未来社会論』新日本出版社、2004年、p.189)と解説している。「多少の変形をくわえて」じゃねーだろww