カール・ローズ『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』

 本書のメインタイトルであるWoke Capitalismは、簡単に言えば環境保護、人権、ジェンダー平等、人種差別反対などといった社会問題を解決したり、対処したりする「Woke」(目覚めた)な資本主義・企業活動を指す。サブタイトルではそれを「『意識高い系』資本主義」だと訳している(いい訳だと思う。ぼくはこの訳がなければ本書を手に取り、読もうという気にはならなかっただろう)。

 日本で言えば、岸田政権の掲げる「新しい資本主義」はその一つだろう。

www.cas.go.jp

 個々の企業で言えば、日本ではどんなものがあるか。

 まあ、例に挙げて申し訳ないが、例えばこういうものだ。

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 この本をどう読むべきなのか。

 社会問題・社会課題に対処しようとする企業活動のあり方に対して、3つの評価の仕方があるのだと筆者(カール・ローズ)は考えている。

  1. 企業の進歩的な方向での変化
  2. 利潤追求という企業本来の目的を歪める左派への譲歩 
  3. 企業が経済領域を超え政治的民主主義を乗っ取ろうとする危険な兆候

 この3つである。

本質的には、2つの対立する立場がある。ひとつは、エリザベス・ウォーレンのような左派リベラルの立場から、企業は株主のことだけを考えるのではなく、社会の幅広い利益を純粋に、誠実に支援すべきだという意見に同意する立場である。もうひとつは、伝統的な右派の立場から、企業は純粋に経済的実体であるべきで、社会的・政治的問題に直接干渉すべきではないと考える立場だ。本書は第三の立場をとっている。すなわち、表面上はどうであれ、企業の進歩的政治への関与は民主主義を害し、実際には進歩を妨げているという見方だ。つまり、ウォーク資本主義に批判的であるということは、進歩的な政治を否定する必要があるということだ。

(カール・ローズ『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』東洋経済新報社、p.337、強調は引用者)

 この3つに当てはまらないと思えるものがあるかもしれない。

 例えば「企業が社会の評判を上げるためにみせるポーズ・ごまかしだが、実際には社会問題の解決には役立たず、儲けを増やすだけのもの」というものである。

 3.に入る、もしくは3.の前触れとも言えるが、本書では1.の見解のなかに入っているといえよう(先ほどぼくが例に挙げたファミマの実践をめぐる評価は、どういう方向であっても1.に収まっている)。

 1.と3.は根本的に違う。そして根本的に違うことを警告しようとしているのが本書なのだと言ってもよい。

 企業のウォークな活動を、「ごまかしだ」とか笑い飛ばしたりとか、そういう所作自身が逆効果なのだとまでいう。社会や環境にやさしい企業活動のありようは「民主主義を害する」とはっきり警告しろよ、と本書はいう。

 企業が経済領域という企業本来のテリトリーを超えて、本来解決のできないはずの政治的民主主義の分野に入り込もうとするとき、民主主義が害されているのだ。

ウォーク資本主義は民主的な根拠に基づいて反対され、抵抗される必要がある。それは、公共の政治的利益がグローバル資本の私的利益によって、ますます支配されるようになってしまうからだ。この場合、企業資源の相当な部分が公共道徳を利用するために充当されるなかで、民主主義に問題が生じることになる。わたしたちの道徳性が企業資源として捕らえられ、搾取されるようになるため、企業の私利私欲を間近で見ることになる。(本書p.33)

 だけど…。

 あのー、ちょっと根本的な疑問を言うようだし、お前が読み取れていないんだろ、と言われるかもしれないのだが、これほど多くの文字やページを費やしながら、本書にはそのこと——企業のウォークな活動が民主主義を害してしまう、という例とロジックがあまり見当たらないのである。驚くべきことに。

 例えば、このようなケースでぼくがすぐ頭に思い浮かべるのは、「水道の民営化」の話である。

www.jcp.or.jp

 ところがそういう例はあんまり出てこない。

 むしろさっきあげた中途半端な例——「企業が社会の評判を上げるためにみせるポーズ・ごまかしだが、実際には社会問題の解決には役立たず、儲けを増やすだけのもの」みたいな話がたくさん出てくるのである。

 ロジックや論証についても、ウォークな企業活動が、「ごまかし」にとどまらず、どうして政治的な公共圏を乗っ取って、民主主義を害するほどまでになるのかという「論理」は、あまり本書では展開されていない。

 

 ぼくはむしろ、自分の身近なところで思い当たることが多い。

 例えば、福岡市では採算の取れないような地域でのバス路線の減便・撤退が相次いでいるのだが、それを埋めると称して、「オンデマンド交通」に民間事業を参入させている。

https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/95133/1/chiikimukechirasi.pdf?20220329100526

 「えー? いいことなんじゃない?」と思う向きもあるだろう。

 ただ、住民の生存権=生活の足を確保するという国や自治体としての公的責任、あるいは、その付託を受けている公共交通事業者としての公的な責任は、それまで政治的公共圏の問題であり政治的な民主主義の領域の問題であった。だから、議会で審議されるし、法律でコントロールできるし、採算を度外視して公益のためにそれを改良することができた。

 ところが民間主体の「オンデマンド交通」になることで、採算性が重視され、住民=利用者の私的負担が大きくなり、公的な責任が大幅に後退する。採算が取れなければ住民負担が上がるか、最終的に撤退してしまうのだ。今の福岡市の「オンデマンド交通」にはそれでもまだ住民の意見を反映する仕組みが一定残っているが、個々の住民の生存権を保障するための政治的裁量は小さく、もし、さらにライドシェアのような「ウォークな企業活動」になってしまえば、もはや公的なコントロールの余地は極小になってしまうだろう。

jidounten-lab.com

 あるいは、福岡市にある九州大学の跡地を、企業活動の実験地にしてしまおうという構想(スマートイースト構想)などは、政府のスーパーシティー構想と揆を一にしていて、まちづくりの公共性を売り渡して、企業活動の食い物にしてしまうものだ。

globe.asahi.com

 

 …とかいう話を本書ですればいいじゃないかと思うんだが、本書にはその種の話は登場してこない。

 ナイキが人種差別反対を看板にしているけど実際には格差是正に何にもしてないんだぜ、とか、アマゾンは気候変動対策にカネ出しているとか言っているけど労働者の人権はメタメタだぜ、とか、「企業が社会の評判を上げるためにみせるポーズ・ごまかしだが、実際には社会問題の解決には役立たず、儲けを増やすだけのもの」タイプの話に終始している。

 いや…。「企業が社会の評判を上げるためにみせるポーズ・ごまかしだが、実際には社会問題の解決には役立たず、儲けを増やすだけのもの」的なエピソードを集めた本として読めば、たくさんのエピソードを知ることができる本だという評価もできるだろう。でもそれは本書の趣旨じゃないんじゃないかな。

 

 筆者のローズは、「ウォークな資本主義」が「企業が経済領域を超え政治的民主主義を乗っ取ろうとする危険な兆候」だと主張するために、1980年代のサッチャーレーガンの時代の新自由主義のころに広がった「企業の社会的責任」の欺瞞性を指摘する。

 企業の社会的責任やステークホルダー資本主義はそれ以前からあるが、新自由主義台頭下では全く変質してしまうのだと言う。それまでのコーポレートガバナンス論は、経営の民主化を視野に入れたものだったが、サッチャーの頃に株主価値を最重視する「株主第一主義」が席巻して変わったのだとする。

 ここには重要な分岐がある。

 「企業の社会的責任」、あるいは「ステークホルダー資本主義」、あるいは「コーポレートガバナンス」論などは、マルクス主義的に言えば、資本主義の中で育ってくる企業への労働者の参加、住民の関与、社会のコントロールの第一歩なのである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 そういう意味では、例えばSDGsをめぐるブームを斎藤幸平は「現代版『大衆のアヘン』」などとメチャクチャ臭していたが、それさえ、進歩の一契機だとぼくは考えている。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 確かに、企業が「ウォーク」なフリをして政治の中に入り込み、政治的公共圏・民主主義を乗っ取ってしまうことがある。

 その意味で本書の、

ウォーク資本主義の現実に気づくということは、資本主義的企業が追求することを望む、あるいは追求することができる主要な利益に対して、ウォーク資本主義が根本的な真の変化を示していると信じ込まないことである。(前傾pp.337-338)

という警告は全く正しい

 しかし他方で、ウォーク資本主義が示す、社会の進歩的方向への萌芽については決して軽視すべきではなく、その中に新しい社会(社会主義)の萌芽があると見る視点も必要なのではないかと思う。