唐鎌直義が紹介していたので読んでみた。
サブタイトルが「理念なき資本主義の末路」であることからもわかるように、資本主義批判ではある。
その主張をぼくなりに解釈すると、資本主義が無限の膨張をやめずに、人々がいつまでも満たされないのは、うまく社会の目的設定ができていないからだと考えて、古典からヒントを得た「よい暮らし」を提案する。その「よい暮らし」とは7つの基本的な価値を実現することであり、その価値を実現することを社会の目的にすれば、経済成長はその必要にあわせたものになる、とする。「理念なき資本主義」を逆さまにすれば、「理念のある資本主義」ということになろうか。
このプロセスで、資本主義の自動進化論、反成長論、「幸福」を目的にする議論を退ける。
自由主義が浸透し国家の「中立化」が進む現代では、そのような基本的価値を社会の目的に設定することはほとんど不可能に思えるかもしれないと筆者(ロバート&エドワード・スキデルスキー)は問いかける。「これがキホン」などとやることは押しつけ以外のなにものでもなく、個人の内心に踏み込むものではないか? と。
だけど、実際には踏み込んでるじゃん、とスキデルスキーは言う。
うん、まあそりゃそうだ、と思う。
なんでもいいけど、例えば福岡市の「子ども医療費助成条例」の第1条「目的」にはこうあるよね。
この条例は,子どもの医療費を助成することにより,その保健の向上を図り,もつて子どもを健やかに育成することを目的とする。
どんな政策にだってこれくらいの「基本的価値」は目的として設定されている。
「俺は保健の向上なんぞ求めていない。思想信条の自由を侵すのか」といいたくなる人もいるが、このような条例は許されて、税金がそこに注ぎ込まれているのだ。
「社会主義」(共産主義)の運動に足りないものはこれではないのか、とぼくは常々思っている。「社会主義とは生産手段の社会化である」と辞書的に定義したとき、経済を社会が管理・運営することであることはわかるが、では経済を社会のために使うとして、それで何を実現する(どんな価値を実現する)というのだろうか、と人々は不思議に思うだろう。
かつてこの価値は「平等」だと思われていた。
しかし、昔のソ連や中国を見て、それは悪平等を意味するものではないのか、というイメージが付着し、もはやこの理念を口にするものはあまりいない。
日本共産党の綱領には、
生産手段の社会化は…すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
生産手段の社会化は、…環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
という規定が登場する。
こうした規定を「実現すべき基本的な価値」と読み替えてはどうか。
つまり社会主義とは、
- すべての人の「健康で文化的な最低限度の生活」
- 労働時間の抜本的短縮
- 環境破壊などへの有効な規制
という基本的価値を実現するものだということだ(このような「基本的価値」の使い方はスキデルスキーの使い方とはやや違っているのだが)。
もっと簡単に言えば「社会主義になったらこうなる」という理念である。
スキデルスキーののべる7つの基本的価値は、
- 健康
- 安定
- 尊敬(「尊厳」に近い)
- 人格
- 自然との調和
- 友情(「社会資本」に近い)
- 余暇
である。
1.と2.と3.と4.と6.は「健康で文化的な最低限度の生活」に含まれると考えてもいいのではないか。
そして7.は「労働時間の抜本的短縮」。
5.は「環境破壊などへの有効な規制」。
つまりこのような価値の実現のために経済が使われるべきであり、この実現にあわせて経済は用いられるべきであろう、という点でスキデルスキーと一致する。
社会主義や共産主義は、もっと「実現すべき価値」の形で論じられていいものだ。
私有財産について
唐鎌が本書で評価していたのは「私有財産」が人格・自己の確立にもたらす不可欠の役割である。該当部分を引用しておこう。
己を確立し人格を守るには、私有財産が欠かせない。私有財産が認められて初めて、人は出資者・後援者の専横や世論の圧力を免れ、自分のやりたいことや理想とすることに従って生きていける。フランスの経済学者マルセル・ラボルデールは、ケインズに宛てた書簡の中で、「安定した財産……は無形の社会資産であり、どのような種類の文化も大なり小なりこれに依存している」と書いた。「個人の生計の財政的安定は、計画的に余暇を楽しんだり思索にふけったりする必要条件である。そして計画的な余暇や思索は、独創に富む真の文明を形成する必要条件なのだ」。(本書p.273-274)
そして、わざわざ、所得と資産の違いをのべる。
ここで、人を自由にするのが所得ではなく財産であることに注意してほしい。旧ソ連の共産党政治局員はあらゆる消費財を手に入れることができたが、資本は与えられず、個性を伸ばす自由はなかった。ウォール街のトレーダーたちも、その点では変わらない。彼らの巨額の報酬は、「必要経費」のためにあっという間に消えてしまう。経済的自立は贅沢とはちがうし、贅沢よりはるかに重要である。(同p.274)
私有財産を所有せよという主張は、社会主義批判のようにも見えるが、実は資本主義批判でもある。資産を独占し、多くの人がそれを形成できない資本主義のもとで、分配によって資産を形成せよ、という主張になるからだ。
このような人格尊重に基づく私有財産の擁護は、現代のキリスト教的社会思想の柱となっており、資本主義と社会主義の両方に対する間接的な批判を形成している。(同前)
人格尊重の立場からすれば、財産の少数集中は財産本来の機能に反する。財産の本来の機能は、所有者と家族に独立した生計を可能にすることである。財産はひろく分配されなければならない。(同p.275)
岸田政権は「資産所得倍増計画」を打ち出した。3世帯に1世帯が金融資産がゼロという事態の中で、これが本当に財産の分配を意味するのであれば、その意義は革命的と言えるかもしれない。しかし実際には、どうもそんなことではなく、単に金持ちをますます金持ちにする政策でしかなかった。
唐鎌はスキデルスキーが説く「私有財産の重要性」に注目して次のように述べた。
戦後日本の歴史的大事業・農地改革のことを想起せずにはいられない。農民による小土地零細所有の実現(寄生地主制の廃止)こそが戦後日本の民主主義の岩盤だったのではないか。(「前衛」7月号p.185)
地主が来れば這いつくばってペコペコしていた小作人は、小さいながらも農地を分け与えられ、人格的な従属から解放されて、「一国一城のあるじ」としての独立性から自分の頭で考え行動する人間になっていった。そうした改革が日本の後進性を打破して、民主主義を根付かせる根元になったのではないかということだ。
いま日本で民主主義がうまく機能していない、としたら、思い切って国民に資産を形成させるほどに富ませることが基本なのだ。
なお、マルクスは若い頃は私有財産一般を批判し否定していたが、『資本論』の頃には生産手段と生活手段を区別し、前者の社会化によって後者を富ませて個人所有を再興することを打ち出した。この精神を引き継いで、現代社会主義は、個人を豊かにするような私有財産・資産の形成をめざすことは当然であろう。