ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』

 タイトルに惹かれて手にしたのが本書である。原題は「LESS IS MORE(少ない方が豊か)」だから粋だとは思うけど、それではぼくのようなコミュニストは手に取らなかっただろうな。

「脱成長」概念の整理は重要

 しかし、一定の経済成長が必要であるというぼくのような左翼からすれば、本書をめくってたちまち目につくのは「脱成長」という概念である。

 斎藤幸平も「脱成長」を掲げており、この概念にどう向き合うべきか、整理しておかねば、対応を間違える。

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 本書の立場をぼくなりに要約しておけば、

  1. 現在の成長主義はGDPという数値全体を引き上げることが自己目的になっており、その場合、社会にとって何が必要かという視点が失われ、とにかくなんでもいいからGDPをあげればいいということになってしまい、そうなると貧困などの解決に役立たないだけでなく、地球環境を破壊し限界に追い込んでしまう。
  2. ゆえに、GDP引き上げを自己目的にする成長主義を脱却すること=脱成長をはかり、地球環境を守りながら、貧困の解決、社会保障の充実など社会にとって必要な分野を特定してその原資を作り、増やすことを経済の目的にすべきだ。

というものではないか。

 これは「価値の自己増殖」「利潤追求を自己目的とする経済」である資本主義からの脱却をめざし、社会の必要のための経済に変えるという(ぼくなりの)コミュニズムの理解と整合的である。具体的にどう実践するかはおいておくとしても、原理的には問題が整理されている

 使用価値が忘れ去られ、価値を増殖させることだけに熱心な資本主義は、価値の担い手としての使用価値にしか関心がない。使用価値=人々の必要を経済の中心に据えるところに経済を変えなければならない。*1ぼくは自分なりのコミュニズムそのようにスケッチしてきたが、本書は大きく言えばその立場である。

人間の幸福に関して言えば、重要なのは収入そのものではない。その収入で何が買えるか、より良く生きるために必要なものにアクセスできるかが重要なのだ。(p.191)

経済成長を追い求め、それが魔法のように人々の生活を向上することに期待するのではなく、まず人々の生活の向上を目標にしなければならない。そのために成長が必要とされるか、必然的に成長を伴うのであれば、それはそれでよい。経済は人間と生態系の要求を中心に組み立てるべきであり、その逆ではないのだ。(p.194)

脱成長とは、経済の物質・エネルギー消費を削減して生物界とのバランスを取り戻す一方で、所得と資源をより公平に分配し、人々を不必要な労働から解放して繁栄させるために必要な公共財への投資を行うことだ。(p.210)

 上記が原理的な視点である。

 そのような原理を示しつつも、もう少し具体的・実践的な態度としてはどうなるのか。著者ジェイソン・ヒッケルは、大ざっぱな見通しを示す。

富裕国は国民の生活を向上させるために成長を必要としない。(p.193)

 富裕国の経済は、地球環境の破滅を引き起こさない限度(プラネタリー・バウンダリー)を超えているとともに、すでに人間開発指数(平均寿命・教育・識字・所得などの複合統計指数)や重要な社会指標を満たすのに必要な一人あたりのGDP1万ドルを超えている(世界平均は1万7600ドル)。つまり基本的に、経済全体の成長はこれ以上必要ではなく、分配(もしくは成長分野の改革)により解決せよ、ということになる。

しかし、貧しい国についてはどうだろうか。フィリピンを例にとってみよう。西太平洋にあるこの島国は、平均寿命、公衆衛生、栄養摂取、所得といった多くの重要な指数が望ましいレベルに達していない。けれども、土地、水、エネルギー、物的資源の消費の点では、安全なプラネタリー・バウンダリー内にある。したがってフィリピンは、国民のニーズを満たすのに必要な範囲内で、それらの消費を増やしてもよいはずだ。(p.193)

 このようなスケッチが果たして現実的かどうかはわからない。

 また、ヒッケルが示すさらに具体的な方策(「大量消費を止める5つの非常ブレーキ」など)が果たして脱成長を現実に実行するのに十分な方策かどうかは、まったく心もとない。

 加えて、原理的には確かにヒッケルの示すような整理となるだろうが、現実はそんなに截然としてはいない。やはり経済成長をめざす熱狂や無駄の中に生活改善や次の社会のヒントが生まれるかもしれず、経済成長至上主義そのものが一気にきれいに消えることはないだろうとも思う(つまりある程度は必要とさえ言える)。他方で、プラネタリー・バウンダリーの現状はそのような逡巡や漸次的変革を待っていてはくれないようにも思われるし、そこは相変わらず、ぼくとしては優柔不断なままなのである。

 だが、それにもかかわらず、問題を整理する上では、本書の原理的な主張は貴重ではないかと言える。斎藤幸平にはなかった(弱かった)踏み込みではないだろうか。

 

 本書の最も原理的な主張=脱成長をめぐる感想は以上にして、本書を読んでぼくが注目した点をいくつか挙げておく。

 

資本主義創世記はマルクス主義の豊富化に役立つパッケージでは

 一つ目。第1章の資本主義批判は、マルクス主義が今日的に刷新される上で、多くの材料を提供しているということ。「材料を提供」というのは、素材そのものではなく、理論的なパッケージとしてすでに使いやすいように「売り出し」をされ、店頭に並べられているということだ。

 例えば

資本主義イコール市場ではない。(p.47)

は非常に重要な視点である。

 資本主義を市場(経済)と混同し(あるいは意図的に混同させ)、理論的混迷に陥るか、「やはり資本主義しかない」という結論に誤導していく議論が巷ではあふれている。そこをきちんと峻別している。

 同様に資本主義を「強欲な人間の本性」と規定する粗雑な議論を批判し、資本主義が歴史的にどう登場し、どのように特殊な社会体制であるかを明らかにする。

資本主義は人間の本質とは何の関係もない。(p.48)

は、ある歴史段階の特殊な人間のあり方にどっぷり浸かって、賢しらに「人間とはこういうもの」と言いがちな考えを批判した、マルクスフォイエルバッハ第6テーゼ*2を思い起こさせる。

 そして、ヒッケルはマルクス資本論』第1部第24章「いわゆる本源的蓄積」にあたる、資本主義がどのように生まれたかを描き出す。

 ここは、マルクスの成果を生かしながらも、感染症(ペスト)の影響を織り込み、さらに農民たちが封建支配から抜け出して共有地(コモンズ)を利用しながら自給自足・平等制・民主的管理へと踏み出していく様を生き生きと描く。それが森林などの生態系に肯定的な影響を与えたとも記している。しかしそれがやがて囲い込み(エンクロージャー)に代表される暴力的な動きによって頓挫させられ、資本主義が生成していくことを描く。

 このようなヨーロッパで起きたことの、比較にならないほどの大規模な再現が植民地化によって世界的に引き起こされたとする。

 こうした描き方の重要性は、かつてマルクスが「本源的蓄積」論で描いた資本主義生成の歴史をさらに豊富化させ、人間と生態系への収奪を一体のものとして描き、ヨーロッパと植民地の問題をやはり一体に描き、さらに感染症の影響や民衆の力強さなどを織り込んだ「一つの絵図」を描き出しているということである。

 そのようにマルクス主義の近代史解説を豊富化して一つのモデルにして示す上で、本書の叙述パッケージは参考になるのではないかと思う。

 

二元論を乗り越えるという枠組みもマルクス主義哲学の豊富化のパッケージとして役立つのでは

 二つ目は、哲学についてである。

 マルクス主義哲学を、政治団体などで学ぶ場合、依然として「唯物論と観念論」という「根本問題」を扱う。

 ヒッケルはさらに、近代の二元論(自然と精神への分裂)が人間という主体を特別視し、人間が自然を支配しようとするイデオロギーを完成させたのだと批判している。そして生態系の視点を持っていたアニミズムを壊したことを非難している。

 ヒッケルはアニミズムの現代的な復活を主張する。その結論にそのまま飛びつくかどうかは別にしよう。

 ヒッケルは

精神と物質に根本的な違いはなく、精神は他のあらゆるものと同じく、物質の集合であることが認められた。(p.270)

として、二元論ではなく、一元論——事実上の唯物論を主張している。そして、自然全体の連関が自分の身体に及び、さらに意識に及ぶという立場を述べ、生態系の問題を織り込んだ連関と発展のアニミズム、まあ弁証法唯物論だと言ってもいいんじゃないかと思うけど、それを展開するのだ。

 ここには、マルクス主義哲学の根本問題を今日的に考えてもらう理論パッケージが用意されている、少なくとも討論材料が用意されていると見ることができるのではないだろうか。

 

計画的陳腐化と都市開発

 三つ目は「計画的陳腐化を終わらせる」という話で思い至ったことがある。

 計画的陳腐化とは「売上を伸ばしたくてたまらない企業は、比較的短期間で故障して買い替えが必要になる製品を作ろうとする」(p.212)という意味に著者は使っている。その例として家電やハイテク機器をあげる。

 この話はかなり昔から資本主義の問題点としてあげられている。

 ぼくは、「都市開発」もそうではないかと思う。

 福岡市の髙島市政は、「天神ビッグバン」といって規制緩和と税金投入によるオフィスビルの大量更新を行い都市を新しくしようとしている。こうした都市開発は都市の競争力や価値を高めるというのが現在の福岡市政がとっている経済政策であるが、都市開発による「新しい感じ」の創出は、しかしながら、創出された瞬間に陳腐化が始まる。一定の年数が経てば古臭いものとなって、再び大規模な投資を呼び起こさざるを得ない。まさに計画的な陳腐化である。

「天神ビッグバン」で生み出された大名小跡地のカフェと公開スペース。(福岡市)

 それに見合う効果が果たして生み出され、しかもそれは、貧困層を富を切実に必要としている人たちに届いているのか? という疑問を絶えず生み出し続けるのだ。

 計画的陳腐化としての都市開発は見直されるべきであり、「人が住める、住みやすい都市」という必要から発想されるべきだろう。

*1:そうなれば利潤第一主義である資本主義だけでなく、長期的に市場経済のあり方——価値・使用価値といった商品生産の枠組みそのものも大きな変革を被るだろう。

*2:人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。