自己批判が攻め道具になるとき——トロツキー三部作を読む3

 自己批判は「自分の言動の誤りを、自分で批判すること」(大辞泉)であり、本来健全な精神の作用である。

 内省と同じで、自分を絶対視せず、客観的に見つめ直すからである。

 こういう作業が、自分の中でできればすばらしいと思う。

 他方で、とてもデリケートな営為である。

 静かに自分の内面に向き合わないと、たえず「誰かからやらされた」という言い訳が入ってきて、本当に深く自分に向き合うことにはならない。

 だから、他人に「反省しなさい」と無理やりやらされたのでは、本当の意味での自己批判にはならない。「どこが悪かったと思う?」などという、自主性の体裁を取りながらの、実際には「お前はすでに悪い。そのどこが悪いかが問題だ」という相手側の勝手な土俵の上で相撲を取らされる訊問でさえ、内省をともなう自己批判など出て来ようがないだろう。

 ましてや、罰に脅されたり、吊るし上げられたりして行う「自己批判」とは、言葉の醜悪な反転であって、そこに「自己」などはなく、あるのは、ただただ他人の批判を強制されて自分の口から言わされている姿だけだ。

 そこでは、「自己批判」は屈服の儀式として行われ、「自己批判」として書いた文書は、提出先の権威がくり返し、その「自己批判」を提出した人間を叩頭させ、拝跪させ、マウンティングする証拠として活用される。「お前、あの時、『私が悪うございました』って言ったよな?」という証文として。つまり、「永遠の譲歩」を迫るための攻め道具になるのである。

 だから、その場の責め苦を逃れようとして「私が悪かった」ということを一瞬でも認めようものなら、それは地獄につながる隘路になってしまう。

 

屈服を強いる道具としての「自己批判」、無限の譲歩

 スターリン体制下での自己批判はこのように使われた。

 トロツキーソ連から追放されていない、まだ「牧歌的」な時代、トロツキーと合同して、スターリンブハーリンに対する反対派を組んでいたジノヴィエフカーメネフは、トロツキーが頑強に反対を崩さない中で、先に支配的分派(スターリンブハーリン派)に屈服してしまう。

 トロツキーの伝記であるドイッチャーの三部作の一つ『武力なき予言者』には、こう書いてある。

ジノヴィエフカーメネフが屈服を声明するやいなや、支配的分派はすかさず、その屈服をうけいれることはできない、屈服者たちは彼らの思想を全面的に否定し、悔い改めなくてはならない、と言明した。最初、ジノヴィエフカーメネフは、ただ彼らの見解を発表することを遠慮しさえしたら、復権されるものと思いこまされた。ところが、彼らがいったんそれ〔屈服〕に同意すると、こんどは彼らの〔自己批判しないという〕沈黙は党にたいする侮辱であり、挑戦である、といわれた。(ドイッチャー『武力なき予言者』p.404)

 

つぎの一週間は、〔屈服して復権する〕条件の押し合いで終始した。その間、ジノヴィエフ派たちは罠のなかであがき、もがきつづけた。彼らは彼らの最初の降服を取消すわけにはいかなかった。その意義をすくい、しかもそれによって達成しようとねがったことを達成するために、彼らはさらに新しい降服に転落していった。十二月十八日、ジノヴィエフカーメネフはふたたび〔党〕大会のドアをノックして、自分たちの見解を「誤った、非レーニン的な」見解として否定するとつげた。(同前p.404-405)

 

いちど降服すると、つぎつぎに降服しなければならない〔…中略…〕トロツキージノヴィエフの降服の無益なことを見て、自分は正しい道をえらんだという確信をいよいよ強めた。(同前p.405)

 

カーメネフジノヴィエフが銃殺される前にした「自己批判

 しかし、これで終わりではなかった。

 合同反対派が解体されたのは1927年。それからトロツキーは国外に追放され、1934年にキーロフの暗殺をきっかけに「大粛清」=大量弾圧が始まり、ジノヴィエフカーメネフは、“国外のトロツキーと組んでテロを企て、ソ連体制を転覆させようとした”というでっち上げの理由によって死刑となる。

 しかし、死刑をされる誇りさえなかった。

だが、いちばん悪いことは、被告たちが言語に絶するほど胸のむかつく非難と自己非難のさ中に、泥のなかをひきずりまわされ、死ぬまで這いつくばらせる、そのやり口だった。(ドイッチャー『追放された予言者』p.369)

 ドイッチャーは、フランス革命ではまだ粛清された革命家、例えばダントンが「ぼくのあとは、きみの番だぞ、ロベスピエール!」と断頭台で叫ぶ自由や尊厳があったことを記す。

かれ〔スターリン〕はボルシェヴィズムの指導者たちや思想家たちを、宗教裁判にむかって、自分の魔法の行為をひとつのこらず、悪魔との放蕩を、微にいり細にわたって、かたらなくてはならなかった、みじめな中世の女たちのようにふるまわせた。(同前)

 スターリニストの検事であるヴィシンスキーとカーメネフジノヴィエフのやり取りはこうである。

ヴィシンスキー。きみが党にたいする忠誠を表明した論文や声明を、いったいどう評価したらいいのか? これはごまかしだったのか?

カーメネフ。いや、それはごまかしよりも更に悪かった。

ヴィシンスキー。裏切りか?

カーメネフ。それよりもっと悪かった。

ヴィシンスキー。ごまかしよりも悪く、裏切りよりも悪かった? では、どういったらいいのか、いってみたまえ。反逆か?

カーメネフ。そのとおりです。

ヴィシンスキー。被告ジノヴィエフ、きみはこれを確認するか?

ジノヴィエフ。します。

ヴィシンスキー。反逆か? 裏切りか? 二心か?

ジノヴィエフ。そうです。(同前p.369-370)

 

 そして、カーメネフジノヴィエフの「ミア・カルパ」(自己批判)。ぼくはこれを読んだ時、本当に胸がつぶれる思いがした。かつての革命の英雄であり、誇り高いボルシェヴィキだった活動家が、こんな自分を卑下することを、いったいどうしたら言えるのだろうかと信じられない思いで読んだ。*1

 まず、カーメネフである。

わたしは二ど助命されました。しかし、何事にも限度があります。プロレタリアートの寛容には限度があります。われわれはその限度にたっしたのであります……われわれは外国の秘密警察の手先とならんでここに座しています。われわれの武器はおなじでありました。われわれの運命がこの被告席でたがいにからみあうまえに、われわれの腕はいっしょにからみあったのであります。われわれはファシズムのために働き、社会主義にたいして反革命を組織しました。これこそわれわれがたどった道であり、これこそわれわれがおちいった軽蔑すべき裏切りの陥し穴であります。(同前p.370)

 次にジノヴィエフ

わたくしはスターリン、ヴォロシーロフ、その他の指導者たちの暗殺を目的としたトロツキスト=ジノヴェヴィスト・ブロックの、トロツキーにつぐ主要な組織者たる罪を犯しました……わたくしはキーロフ暗殺の主要な組織者たる罪を犯しました。われわれはトロツキーと同盟をむすびました。わたくしの欠陥であるボルシェヴィズムは反ボルシェヴィズムに変り、わたくしはトロツキズムを経てファシズムに到達しました。トロツキズムファシズムの一変形であり、ジノヴィエフ主義はファシズムの一つであります。(同前)

1920年ジノヴィエフウィキペディア

1936年の死刑執行直前のジノヴィエフウィキペディア

 このような「這いつくばり」もむなしく、カーメネフジノヴィエフも結局銃殺された。

 脅しや強制による「自己批判」は、屈服の儀式でしかなく、無限の譲歩と後退を意味し、その行き着く果ては、カーメネフジノヴィエフのような「自己非難」である。

 「自己批判すれば救ってやる」「自己批判すれば復権できる」という甘言、うらはらでの「しなければ追放する」「しなければどんな目にあうかあわからない」という脅迫が、人間の精神をどういうところに導くのかが、ここに示されている。

 

 そして、「トロツキージノヴィエフ・ブロック」というでっち上げである。

 何某◯◯という憎悪の対象をつくりあげ、「◯◯は党破壊者だ」「◯◯は撹乱者だ」という看板で、気に入らない存在を「あいつは◯◯との同調者だ」「こいつは◯◯とつるんでいる」として、「◯◯一派」「◯◯・△△派」などと、全て◯◯との分派・ブロックのように語るこの思考様式。

 

 そんな愚かしい思考様式は20世紀の全体主義に時代にもう終わったのだと思っていた。スターリン体制の話は、「識字率が低い、遅れた国での革命の話」だとどこかで思っていたのではないだろうか。

*1:もちろん、それは拷問の末に、何度も演習をされ、身体化された挙句に言わされ、読まされるものであるが。