アンナ・ラーリナ『夫ブハーリンの想い出』

 長い休みの間、不破哲三スターリン秘史』を読み直し、スターリンの大テロルについて関連の本をあれこれ読んでいる。

 不破の本の中で紹介されているのが、本書である。

 ぼくは身近にいる、ある左翼活動家の女性に「ブハーリンって知ってますか?」と聞いたのだが「いえ、知りません」と言われた。ぼくと同じくらいの年代で、ぼくと同じくらいの活動歴がある、のに。そっかー。

 ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリンは、ロシア革命の指導者の一人で、理論家肌のボルシェヴィークである。スターリンの大テロルの犠牲となり、無実の罪を着せられて1937年に銃殺される。フルシチョフスターリン批判の際にも名誉回復がなされず、ゴルバチョフペレストロイカのもとで1989年にようやく名誉回復がなされた。もっともその2年後にソ連共産党は解体してしまうのだが。

 

 本書を書いたアンナ・ミハイロヴナ・ラーリナは、タイトルからもわかるようにブハーリンの妻であった。ブハーリン45歳のときにアンナ・ラーリナは20歳でまだ大学生だった(以下「ラーリナ」と記す)。有名な活動家の娘で、そこに出入りしていたブハーリンは幼い頃からラーリナを知っていた。

 ブハーリンは、レーニンが遺言の中で名前をあげて評するほどの高い理論水準をもった指導者の一人で、トロツキースターリンが対立したときにはスターリン側に立って、トロツキーを批判した。しかし、その後の農業集団化の問題では今度はスターリンのやり方を批判し、政治的な要職から次々解任される。ラーリナはブハーリンがいったん失脚していた1934年に結婚している。

 そして、結婚したその年にまさにブハーリンソ連政府の機関紙「イズヴェスチヤ」の編集長となり、政治的に復活を遂げる。

 ところがその年の終わりに党幹部だったキーロフの暗殺事件が起こり、1938年まで続くスターリンによる大量弾圧=大テロルが始まっていく。ブハーリンは、突如全く身に覚えのない「反ソ活動」の告発を受け、不当な裁判にかけられて、銃殺刑にされる(1937年)。

 

 スターリンの大テロルをジャーナリスティックに、あるいは研究解析ふうに読みたいなら別の本の方が適当だろう。本書は、大テロルで犠牲になった指導者の身近にいた家族の証言として、冤罪であった指導者がどういう表情・振る舞いだったのか、とか、市民や多くの党員、他の幹部はどう反応していたのか、とか、そういう概説書ではわからない空気感を知るために読んだ。そしてそれは想定以上だった。

 

銃殺の瞬間に「スターリン万歳!」と叫ぶ幹部たち

 まず意外と思われるのは、スターリンの弾圧になった犠牲者たちの多くが、スターリンを呪詛するのではなく、むしろ銃殺の瞬間に「スターリン万歳!」と言ったり、最後の言葉としてスターリン指導・統治を讃えたりすることだった。

ブハーリンと同じ裁判で裁かれたア・ぺ・ローゼンゴリツは、奇怪な犯罪を認めるとともに、最終陳述をこう結んでいる。「私は言いたい。一つの勝利から次の勝利に進んでいく偉大な、強力な、すばらしいソヴエト社会主義共和国連邦は健在であり、花開き、強化されると。……スターリンの指導の下で平和であるかぎり、熱狂、英雄的行為、自己犠牲の最高の伝統をもつボリシェヴィキ党は健在であると」(上p.228)

ブハーリンにしても人びとへの最後の声明で同じことを言った。「スターリンによって保障されている国の賢明なる指導は万人に明らかである。そうした意識をもって私は判決を待っている。問題は悔悟した敵の個人的体験にあるのではなく、ソ連邦の繁栄、その国際的意義にある」と。

 エヌ・イ〔ブハーリンのこと——引用者注〕は私〔ラーリナのこと——引用者注〕に別れを告げた時にも、つまり私から永久に去っていった時にも同じことを言った。「腹を立てないで見るんだ、アニュートカ〔ラーリナのこと——引用者注〕、歴史にはいまいましい誤植がよくあるんだからね」と。

 さらに、光栄ある司令官イ・エ・ヤキールは銃殺の瞬間に(二十回大会の結語でエヌ・エス・フルシチョーフが述べたことから判断すれば)、「党万歳、スターリン万歳」と叫んだ。(上p.229)

 

古参幹部はスターリンへの根本批判がなぜできないのか

 なぜだろうか。

 伝記『スターリン』を書いたアイザック・ドイッチャーは、古参の党幹部たちがなぜスターリンに屈服したのかという心情について次のように書いている

彼らのなまぬるい態度は、スターリンのなし遂げた変革はその手段についての判断はともかくとして革命を傷つけることなしには逆転不可能であるという認識とともに生まれてきたのである。スターリンのとった手段は彼らを恐怖で充したにもかかわらず、彼らはスターリン主義者、反スターリン主義者をとわず、すべて同じボートに身を託しているものと感じた。自己卑下はこのボートの指導者に彼らが支払った身代金であった。従って、彼らの自説撤回は全面的な誠実でもなければ、全面的な虚偽でもなかった。(ドイッチャー『スターリン』下p.44)

 ぼくは以前このことについて次のように説明した。

――スターリンにラディカルに反対する、すなわちスターリンを「除く」ことは、スターリン体制であるところのソ連体制、つまり革命によって生まれた体制を傷つけてしまいかねないという気持ちがあったってことですか。
 そういうことだね。ドイッチャーによれば、決してスターリンに屈しなかったトロツキーでさえ、「反革命の危険に対してスターリンと協力する用意があると提案した」(下p.45)らしいよ。
 〔…中略…〕

ソ連という体制は間違いはたくさんあったけど、それを根底から否定することは、自分が人生をかけてきたものを否定するような感情があった。

 実際、本書『夫ブハーリンの想い出』の中で、ブハーリンは、外国で亡命メンシェヴィキの一人に会った際に、次のように語っていたことが紹介されている。

 「いまのロシアは見違えるようです」とニコライ・イワーノヴィチ〔ブハーリンのこと——引用者注〕は結論して言った。〔…中略…〕

 「だが、集団化はどうですか、集団化は、ニコライ・イワーノヴィチ」と彼〔亡命メンシェヴィキであるニコラエフスキー——引用者注〕は質問した。

 「集団化はすでに通り過ぎました。大変な段階でしたが、しかし通り過ぎたのです。意見の不一致は時が除去してくれました。テーブルがすでに作られたのに、どんな材料でテーブルの脚を作ったらいいのか、論争するのは無意味でしょう。わが国では、私は集団化に反対していると書かれています。しかし、これは安っぽい宣伝屋だけが使っている手だ。私が提案したのは、別の道、もっと複雑で、あまり急激ではないが、究極的にはやはり生産協同組合に達する道で、あんなに犠牲を伴わずに、集団化の自発性を保障する道なのです。しかし、迫りつつあるファシズムに直面しているいまとなっては、『スターリンは勝利した』と私は言いますねソ連邦に来てください、ボリース・イワーノヴィチ〔ニコラエフスキー——引用者注〕、あなた自身、自分の目で見てください。ロシアがどんなになったか。私がスターリンを通じてこうした旅行を組織するお力添えをしましょうか」

「結構、結構」とニコラエフスキーは手を振った。(下p.109)

 あるいは、ブハーリンスターリンを「プロレタリアの総帥」と呼んだ感覚についての次のような記述。

十七回党大会は当時、全体としてひどく重苦しい印象を与えた。大会代議員たち、つまり勝利者たち——未来のスターリンの犠牲者たち——はスターリンを熱狂的に礼賛した。まさに彼ら、大会代議員たちは、労働者階級、あるいは当時の言い方でいえばプロレタリアートも農民も、工業化と集団化の重みを自分の肩に担いだのである。窮乏は過去のものとなり、先には輝かしい未来があるかのように思われた。それは自由な、平等な、豊かな未来であり、その社会は新しい生産力と別の生産関係を持つ社会主義的人間の社会であった。夢の中で考えられ、ツァーリの監獄や徒刑地、亡命地で、革命前の崩壊の中で、内戦の銃弾の下で夢想されたものが実現するのだと思われた。パトスは心底からほんものであり、これを理解しない者は歴史感覚を喪失した者であった。ブハーリンもまったく同じ理由から、スターリンを「プロレタリアの総帥」と呼んだ。(上p.156-157)

 “スターリン体制の転覆はもはや不可能であり、そんなことをやれば抑圧しかもたらさない。それよりは党の結束を大事にして、ソ連が達成した成果を育てることの方が現実的だ”という思いがブハーリンにあった。それはおそらく古参幹部共通の思いだったのではないか。

 リューチンという幹部が反スターリンの政綱を作って体制転覆を企てようとした事件にもブハーリンが関与していたとされた件について、ラーリナはそれがいかに馬鹿げたでっち上げかを書いている中で上記の趣旨のことを述べている。

ニコライ・イワーノヴィチの観点からすれば、一九三二年のスターリンに対する陰謀行動は、悲しいことに、もはや抑圧以外には何も国にもたらさなかったのである。最も影響力のある三人の政治局員——ブハーリン、ルイコフそれにトムスキー——が一九二八—一九二九年に行なったスターリンの政策に反対する公然たる行動も、リューチンよりははるかに権威があり、人気があった人物たちであったのに、成功しなかった。スターリンの圧力の下で党は、ブハーリンの経済的コンセプトを拒否して、別の道を進んでいたのである。出来上がった状況の中で、ブハーリン党の隊列の結束以上に有益なことは何もないと見ていた。集団化の時期の暗い姿だけを見、それと並んで建設における人民の偉大な熱狂を認めないことは、彼の観点からすれば、歴史において何も見ず、何も理解しないことを意味した。(下p.119-120)

 こうした立場——問題はあってもスターリンの指導を認め、ソ連体制を擁護する立場からすると、例えばブハーリントロツキーは同じ「スターリン弾圧の犠牲者」というふうに考えられなくなってしまう。トロツキーとの闘争が終わり、トロツキーが国外に追放され、彼が国外からソ連スターリン体制を厳しく批判していることは、「党外から党を攻撃し、国外から反ソ活動をしている破壊・撹乱分子」のようにしか見えなかったということである。それがトロツキー追放後のソ連党幹部・党員たちの多くの心情だった。

 例えばラデックという、やはりスターリンの大テロルの犠牲になった古参党幹部も、かつてはトロツキーと組んだが、後になってトロツキーとは絶縁していることを繰り返し強調する。 

ラデックはブハーリンに、トロツキーとはずっと前に手を切っており、トロツキストの秘密組織(まさにこう彼は表現した)の摘発とは関係がないと断言した(まるでその時トロツキーの見解に同調している秘密の陰謀組織が存在していたかのような口ぶりであった)。(下p.195)

 トロツキーは、スターリンの犠牲になったブハーリンにとってさえ、「党外から党を攻撃し、国外から反ソ活動をしている破壊・撹乱分子」という忌むべき存在として扱われ、その名前と結びつけられるだけで、震え上がるような絶望感を味わされる相手だったことがわかる。

 現代から歴史を眺めているぼくにとっては、こうしたブハーリンたちの態度のなんともどかしいことか。

 トロツキーは「敵」あるいは「外から党を破壊し撹乱する分子」ではなく、むしろソ連体制の病根をえぐり出しているまっとうな論者の一人であり、本来対話し共闘すべき相手ではなかったのか、どうして見抜けなかったのか、とつい言いたくなる。

 

「『良きもの』の中での性被害」を思い出す

 ソ連の体制そのものを批判することは、革命=ソ連の成果を台無しにしてしまうから、いうべきではない。結束をまずは大事にすべきだ、というメンタリティは、「『良きもの』の中での性被害」を思い出す。

uneriunera.com

 良きもの=進歩的組織の中で性被害の声をあげてももみ消されてしまう。あまり大きな声にならない。どうしてそうなるのだろうかと書いてる中に次のような一節がある。

たぶん多くの「良識ある仲間たち」は、「良きもの」が無くなって欲しくない、汚れてほしくないと思うんでしょうね。「正義の味方」は当然正義でなくちゃいけない、と。そんな意識が、不正の告発を思いとどまらせているんじゃないでしょうか。

あるいは

そもそも被害者は個人としての尊厳を傷つけられたんだから、「もっと人の尊厳を大切にする世の中になってほしい」と切実に感じているわけです。でも「良きもの」のなかの被害者は、自分の個の尊厳を取り戻す行為が、逆に、尊厳を大切にしていこうとする社会の流れを断ち切ってしまうんじゃないかという心配をしてしまう。そう心配せざるを得ない状況に置かれてしまう、ということだと思います。

というあたり。

 「自分の告発が、あるいは告発の強調が、進歩的な組織の大義を傷つけるようなことになってはいけない」という心の中のブレーキが作動してしまうということだ。

 

スターリン体制へ向かない批判

 そうした視点としての限界、あるいは弱点は、裁判でスターリン体制を根本から批判し、自分への不当な扱い・でっち上げを正面から反撃することをしないという、常識では考えられないような形で現れたのである。

 ラーリナはブハーリンが屈服的な陳述を行なっている新聞記事を収容所で読み、信じられない思いだった。

ニコライ・イワーノヴィチは、ずっとあとになって彼の裁判記録と最終陳述を読んだ時よりは、はるかに屈服的だと私の目には映った。トムスクの収容所で私は、あれはほんとうにブハーリンだったのだろうか、ブハーリンに似た顔の替え玉ではなかったかという疑いさえ持った。彼の自供は、もし二人きりのところで彼がそう私に言ったとしたら、気が狂ったと判断したにちがいないほど荒唐無稽なものに私には思われた。(上p.49-50)

 和田春樹は、本書の解説でこう書いている。

ハンストで憔悴しきったブハーリンは、罵倒を浴びながら、中央委員会も内務人民委員部も傷つけるつもりはないという弁解を繰り返している。彼はついに党に対して自分の正しさを対置することはしなかった。(下p.301)

 不破は、これらの人々の精神構造をごく簡単に

犠牲になった人々のなかには、NKVD〔内務人民委員部。ソ連政府の治安・公安組織——引用者注〕がスターリンと党中央委員会をだましているのだと、最後まで信じていた人が多くいました。(不破『スターリン秘史1』p.228)

と説明している。これはブハーリンにも言えて、ブハーリンが妻ラーリナに暗記させた『党の指導者の未来の世代へ』という遺言的文書は、この立場で書かれている。

 無実のブハーリンを銃殺に追い込んだのは、スターリンその人である。

 そのことをなかなか見抜けなかったブハーリンは、自分の死刑執行人であるスターリンに救いを求めてしまったほどである。

エヌ・イが救いを求めたのは、自分の死刑執行人だったのだ! おそらく、その当時、つまり悲劇の瞬間ではなく、いまだからこのことは明白なのだと思われる。エヌ・イはそのことを理解していなかったばかりか、むしろ最初の頃には、信じがたいことであるが、恥ずべきカーメネフ=ジノーヴィエフ裁判も、スターリンが望まなければ、行われなかったとは考えもしなかったのである。この時までジノーヴィエフ、カーメネフ、その他のボリシェヴィキを十字架にかけたばかりか、彼らの口から自己告発と自分たちの同志たちを陥れる中傷を言わせたのは、他ならぬスターリンであったことが彼にはわからないはずはなかったのに、自己保存の本能がこの考えを追い払ったのである。「中傷者」、カーメネフとジノーヴィエフに対する理解しがたい怒りがブハーリンを引き裂いたにもかかわらず、それは決してスターリンには向けられたものではなかった。これら二人の政治家、とくにカーメネフに対する反感は深い根をもっていた。(下p.170-171)

 目の前で拷問や恐怖のために偽証をさせられている人たち(カーメネフジノヴィエフ)あるいはラスボスの手先(エジョフ)にどうしてもブハーリンは目を奪われてしまった。本当の自分の死刑執行人はその後ろにいたのに。

 

「党を撹乱・破壊する者との同調・結託者」というでっち上げ

 “党を外部から撹乱・破壊する分子と結びついてる内部のスパイ・同調者”という無理にもほどがあるシナリオを書き、意に沿わない人間の抹殺を最初から意図したのは、目の前の知り合いの幹部たちでもなく、党機構における小役人たちでもなく、狂気の道を歩みつつあった党の最高指導者そのものだったということ——ブハーリンはそこに対して、正確に反撃をすべきであった。

 “党を外部から撹乱・破壊する分子と結びついてる内部のスパイ・同調者”という無理にもほどがあるシナリオがブハーリンに結び付けられた。ラーリナは次のように皮肉を込めて書いている。

 〔…中略…〕ところが、裁判の告発の無恥さと荒唐無稽さは私〔ラーリナ——引用者注〕の予想を完全に凌駕していた。この裁判の創造者(残りの者たちは実行者であった)の犯罪的幻想は極致に達していた。いかなる犯人といえども、このような量の犯罪は生涯のうちになしうるはずがなかった。というのは、命が足りなかったばかりではなく、かならず最初のいくつかで失敗するに決まっていたからである。

 スパイ活動と破壊活動。ソヴエト連邦の分割と富農反乱の組織。ドイツ・ファシストのグループ、ドイツ諜報部、日本諜報部との結びつき。未遂に終わったスターリン殺害のテロルの企て。キーロフの暗殺。右派エスエル女性党員カプランによって行われたどころか、カプランの手はブハーリンの手であったという一九一八年のレーニンに対するテロ行為。病気で以前から仕事をすることもできなくなっていたメンジーンスキー、クーイブイシェフ、ゴーリキーの殺害。さらにはエジョーフ毒殺の試み(上p.47-48)

 誰が読んでもおかしいと思うかもしれないが、次々と「証言」が上がってきてしまうのである。もちろんある人は弾圧の恐怖から、また別の人は激しい拷問による自白からだ。あるいは、押収した家宅から全くのでっち上げの「文書」が見つかることもある。

 あるいは「自己批判しろ。自分が間違いだったと認めろ。そうすれば死罪だけは免れるぞ」「罪は軽減してやるぞ」という取調官の取引に応じてしまうこともある。

 被疑者は短い審理の場では一度には否定できないほどの無数の「証言」「証拠」に固められてしまう。

 あらかじめ周囲への工作を徹底して行い、固められ出来上がった「罪状」は、「党破壊・撹乱分子」との「同調・結託」という荒唐無稽と思われるようなシナリオ。

 そして、「自己批判すれば、罪を軽くしてやるぞ」という甘い誘い。*1

 

被疑者を罠にハメようとするスターリンの術策

 中央委員会総会でスターリン自身が、“除名なんかさせないさ”という甘いささやきに乗せてブハーリンに「自分の誤りを認めろ」とささやくように話す描写も紹介されている。ブハーリンは自分の生命を賭して抗議のハンストを始める。しかし、自分の「反ソ活動」だけでなく、ハンストまでが党への反抗として問題視され、中央委員会総会の新たな議題とされてしまう。

 会場に入ると、エヌ・イは立っていられず、目がくらんで倒れ、議長団席に通ずる通路の床に座り込んだ。スターリンが彼のところにやって来て、言った。

 「君は誰に対してハンストを宣言したんだ、ニコライ〔ブハーリンのこと——引用者注〕、党中央委員会に対してかい? 見てみろよ、君は誰かに似てきたぞ、まったく痩せてしまって。総会でハンストのことを詫びたまえ」

 「どうしてその必要があるんだ」とブハーリンスターリンに訊いた。「もし君が私を党から除名しようとしているんだったらね」

 生きながらえるだけのために、「遠僻の地」へ行く覚悟が生まれる時もあったが、エヌ・イは党からの除名を最悪の罰だとみなしていた。

 「誰も君を党から除名する者はいないだろう」とスターリンは答えた。付近に座っていた中央委員には気兼ねせずに、このように彼は相変わらず嘘をついたスターリンの言葉は確実に彼らまで聞こえた。きっと彼らはスターリンの言うことを真に受けたことだろう。「歩くんだ、歩くんだ、ニコライ、総会に許しを請うんだ、まずい振る舞いをした、と」

 偽善者というものは、誰もが自分の意思に服従することをどんなに愛することか! これらの言葉はブハーリンが逮捕される四日前に言われたものである。その時には、疑いなく「主人」は、彼の逮捕どころか、彼の銃殺までも、あらかじめ決めていたのに。

 ところが、ニコライはふたたびコーバ〔スターリン——引用者注〕を信じてしまった。そんなにやすやすと嘘がつけるとは考えられなかったのである。(下p.258-259)

 そして、ブハーリンは、自身のハンストを「謝ってしまう」のである。

 他にもある。

 ブハーリン(とルイコフ)を死刑にする、という古参党員がなかなか賛成できないような提案(エジョフの提案)を飲ませるために、スターリン自身がこの問題を話し合う小委員会に出て、「飲ませやすい修正案」を提案し、通してしまうエピソードが、和田春樹によって解説されている。

三十五人の委員のうち二十人が発言している。まずエジョーフが二人を中央委員候補から解任し、党から除名して、軍法会議にかけ、銃殺刑も適用すると提案した。するとポーストゥイシェフが解任除名し、裁判にかけるが、銃殺刑は適用しないと提案した。これは二人の死刑に反対するという勇気のある提案である。スターリンはこのポーストゥイシェフ提案に賛成が集まるのを恐れた。そこで、ブジョンヌイがエジョーフに賛成したあと、発言を求めて、解任除名するが、裁判にかけず、追放すると提案した。人々は混乱した。マヌイリスキーが銃殺賛成論を述べたあと、シキリャートフ、アンチーポフ、フルシチョーフ、ニコラーエワが銃殺反対のポーストゥイシェフに同調した。だがレーニンの妹で、『プラウダ』編集時代のブハーリンの代理であったマリヤ・ウリヤーノワはスターリン案に賛成した。これはスターリンの罠に落ちたのである。シヴェールニクが銃殺賛成論を述べたあと、コシオール、ペトロフスキー、リトヴィーノフがポーストゥイシェフ案に賛成した。そこでふたたびレーニン未亡人クルプスカヤがスターリン案に賛成する。コーサレフが銃殺案に賛成した後、ヤキールも「同上」だと書かれている。これがブハーリン未亡人が強く疑問を呈しているところである。最後はワレイキス、モロトフ、ヴォロシーロフがスターリン案に賛成した。

 こうしてエジョーフ案は六人、ポーストゥイシェフ案は八人、スターリン案は六人と分かれたのである。だが結論は、スターリン案を修正したもの、つまり、解任除名するが、裁判にはかけず、二人の事件を内務人民委員部に送ることになったのである。これは全員一致で決まったとある。こうしてスターリンブハーリン、ルイコフの死刑反対の気分を巧妙に抑え込んだのである原案の追放案の印象にかぶせて修正案をみなに呑ませたのである。修正スターリン案がエジョーフ一任案であり、実質的にはエジョーフ案であるのは明らかである。(下p.302)

 最も厳しい処分案では通りにくいので、みんなが「まあそれなら…」と思える処分案にしてしまい、「飲みやすくする」。そう油断させて、衆目が去った後で、こっそりと一番やりたかった措置をやってしまう。このようなスターリニストの奸計は、おそらくソ連だけでなく、現代でもいかにもありそうなことである。

 もちろん、スターリンブハーリンを陥れるために周到に仕組んだ罠としては、本書で紹介されている「マルクス・エンゲルスのアルヒーフ購入交渉事件」だろう。不破の本でも簡単に紹介されているが、本書では、ラーリナがこの交渉に直接同行したこともあって、そのでっち上げを暴くくだりがまことに見事である。

 

「道理なんかいらんのだよ、撃滅あるのみだ!」

 さて、本書でそれ以外にぼくが注目した部分についていくつか挙げておく。

乗客たちは猛烈な勢いで「裏切り者」に対する憎しみをぶちまけていた。

「なにも裁判なんかしなくていいんだ!」

「道理なんかいらんのだよ、撃滅あるのみだ!」

道理なんか唾を引っかけて、つまみ出すだけでいいのだというわけである。(上p.36)

 「犯罪者」の家族として移送されるラーリナが、他の「犯罪者」家族とともに、その列車の中で聞く声である。

 少なくない人にとっては裁判の細かい立証・弁論などは聴く機会がない。一方的に流される情報だけで鵜呑みにしてしまう。自分がどんなに弁論を用意し、どう考えても自分にしか道理がないと思われていても、それを聞いてくれない、「当局」の言っていることを信じてそれに身を委ねておけば間違いない、という世界があるのだとすれば、それはぼくにとってまことに戦慄すべき世界である。

 

弾圧者3人の人物評

 スターリンの大テロルを直接指揮した幹部(内務人民委員=内務大臣)は3人いる。

 ヤゴダ、エジョフ、ベリヤである。

 最終的には3人とも「粛清」、つまり銃殺されてしまう(うちベリヤだけはスターリン存命中には処刑されず、政争に敗れる形で殺される)。

 まさに「狡兎死して走狗烹らる」である。不破はこれをスターリンの「秘密主義」の現れとして紹介し、大テロルの全貌が明らかになるのを半世紀も遅らせた第一の原因として数え上げている。

 本書では、この弾圧執行責任者3人の評が載っていて興味深い。

 オーゲーベーウー=内務人民委員部の先頭に立った三人の人民委員(ヤーゴダ、エジョーフ、ベリヤ)のうち、エジョーフは労働組合官僚、際限のない熱狂者で、盲目的にスターリンを信じ、絶対的に服従した。彼は、レーニン世代のボリシェヴィキ有機的に結びつきを持たなかった。私が聞いたところでは、エジョーフは活動の最後の頃には、〈エジョフチシーナ〔一九三六—三八年のエジョーフの下での大量テロルをさす〕〉を堅持していなかったということであるが、すべてはすでにレールの上に行くように転がって行った。

 ベリヤは暗い経歴に持ち主であり、背信的真理の点でスターリンの仲間であった。

 ヤーゴダは彼らとは違って、職業革命家であり、一九〇七年以来のボリシェヴィキ党員であった。したがって、出世主義的魂胆で党に入ったのではなかった。それなのに、まさにめぐり合わせで党の同志たちを撲滅する基礎を置く役まわりになってしまった。彼にとってこの役目は、それほどたやすいものではなかった。ところが、強力なスターリン官僚主義的機構は不可抗力の龍巻となって彼を呑み込んでしまったのである。このためにヤーゴダは、とくに明瞭に人格の堕落、精神的変質の例となっている。

 それでも私は、ヤーゴダは悲劇的な精神的ドラマを体験した人物だという壁の向こうの隣人の考えに同感だった。彼は内部で抵抗しながら、徐々に堕落して行った。スターリンにとって彼は余計な人物となったが、それは自分の犯罪の証人であり、加担者であったからばかりでなく(ヤーゴダの抹殺はもっと遅らせることも出来ただろう)、彼がさらなるスターリンの巨大な犯罪計画にとって不適当になったからでもあった。スターリンはヤーゴダを通して、どのような犯罪を行ったのか、彼には内緒でどのような犯罪を行ったのか、いま区分けをすることは難しい。疑いのないことは、エジョーフとベリヤとの方がスターリンには組みやすかったということである。(上p.109-110)

 それぞれ、ヤゴダのようなやつ、エジョフのようなやつ、ベリヤのようなやつ、というのは現代のぼくにも思い浮かべることができる。

 有名なヤスパースの命題——「三つの性質がある。知的・誠実・ナチス的だ。これらのうち、合わさるのは常に二つであって、決して三つ全部が合わさることはない。人は、知的で誠実であってナチス的でないか、あるいは、知的でナチス的であって誠実でないか、あるいは、誠実でナチス的であって知的でないなのかのいずれかなのだ」*2がある。「ナチス的」は「スターリニスト的」と言い換えてもいいだろう。狂信的イデオロギーの虜というほどの意味だ。「知的でナチス的」なのはベリヤ、「誠実でナチス的」なのはヤゴダだろう。エジョフは「知的でナチス的」っぽく振る舞おうとしたが、「誠実でナチス的」だったということだろうか。

 

「僕と君はヒマラヤだ」

スターリンは、この時点ではまだ完全に自分の勝利を確信出来なかった。そこでブハーリンの機嫌をとろうとして、彼を自分のところに呼んで、こう言った。「ニコライ、僕と君はヒマラヤだ。残りの者(政治局員のこと——ラーリナ)はかすだ」と。政治局の定例会議で論争が続いた際に、スターリンに腹を立てたエヌ・イは、彼の偽善ぶりを明らかにしようと決心して、この言葉を暴露してしまった。激昂したスターリンは、ブハーリンに向かって叫びはじめた。「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」と彼は怒鳴った。「政治局員を私に逆らわせようと仕向けているんだ」(上p.144)

 あー、俺、こういうこと言われたことあるなー。「僕と君はヒマヤラだよね! 他の奴らはクズだよね!」的な。何も返事しなかったけど。そいつは今コーバ……いや…もっと小物感ある…そう、ニコライ・イワーノヴィチ(←本書でいうとブハーリンじゃない、もう一人の方)みたいなことやっている。

 

有罪が確定していないのに、有罪確定扱いにするやつ

「ところがですね、あなたが流刑を忌避したいということであれば、『背水の陣を敷か』なくてはなりません」とフリノフスキー〔エジョーフの代理人——引用者注〕がつけ足した。

「何を言いたいんですか」と私〔ラーリナ——引用者注〕は警戒した。

「人民の敵としてのブハーリンとは絶縁すると新聞に発表するんですね」

「私に卑劣な提案をしてるんですね、私を侮辱するんですか」と私は叫んだ。

〔…中略…〕

「でも、取調べ中なら、取調べと裁判が終わるまでは、彼を人民の敵だと言う権利はないじゃありませんか」と私は言い返した。

 二人〔フリノフスキーと内務人民委員部の課長・マトゥーソフ——引用者注〕は黙り込んだ。(上p.249)

 有罪が確定していないのに有罪確定扱いして、ベラベラ言いふらす。

 そういう奴、いるなあ…としんみりお茶を飲みながら思ったものです。

 

いつまでも結論を出さない

一九三六年九月十日、新聞紙上にソ連邦検察庁の声明が現れた。ところが、それはエヌ・イが望んでいたものとは若干違った内容のものであった。そこでは、犯罪構成要件がなかったからではなく、刑事上の責任をとらせるための法律的証拠がないので、ブハーリンとルイコフ事件の取調べは中止されたと述べられており、このことはブハーリンの理解では、捕まらなければ、泥棒でない! ということを意味した。しかし、ともかくも立件中止と発表されたので、気が楽になった。ソコーリニコフとの対審のこのような結末がスターリンの判断であったことはもちろんである。事件のその後の展開は、それが「客観的な」取調べを誇示するための「主人」の戦略的ステップであったことを示している。(下p.192)

 いったん「ぬか喜び」のような「中止」の知らせ。

 しかしその後にブハーリンには逮捕・銃殺という地獄が待っていたのである。

 なんのためなのかわからないが、スターリンはこのような「ぬか喜び」のプロセスを踏ませているとしか思えないやり方をする。

 不破はディミトロフの日記から『スターリン秘史』を描いているが、スターリンブハーリン裁判で小委員会を設けてやる手口を「結論の慎重な出し方」の演出として解説し、それがディミトロフに「大きな感銘」を与え「スターリンが進めている『反革命陰謀』との闘争への信頼を深めたことは間違いありません」としている。

 ディミトロフは2月23日の日記に

ブハーリンの発言(むかつくような、哀れな光景!)

と書きつけ、中央委員会総会の締めくくりの日(3月4日)には

——討議。

——スターリンの結語(計り知れないほど貴重な助言)。

——総会の終結

 (本当に歴史的な総会だった!)

(不破『スターリン秘史1』p.275)

と「感動」を赤裸々に綴っている。いや、本当に「感動」したんだろうな。

 ディミトロフという大物も、すっかりスターリンの詐術にハマり、ブハーリンを犯罪者とみなし、スターリンの「細やかで丁寧な配慮」を賞賛しているのである。「計り知れないほど貴重な助言」? 「本当に歴史的な総会だった!」? はっはっはっ! そういうセリフ、どこかでよく聞くよ。かわいそうなディミトロフ!

 

 「結論に時間をかけている」というのは、何か政治的打撃があって遅れているのでなければ、より悲惨な結末に向かって、「丁寧さ」を演出するためのものでしかない。

 そして、何も知らされずに待たされる被疑者の精神的苦痛。

 それをこのラーリナの本書から痛いほど読み取る。

十月革命記念日のあと一カ月ほどは比較的静かに過ぎていった。彼〔ブハーリン——引用者注〕はふたたび編集局で「落ち着いて仕事をする」こともありうると考えていた。ところが、編集局からも中央委員会からも仕事のことは何に一つ連絡がなかった。エヌ・イは仕事をしようと試みた。パリへ行く途中にベルリンで買い求めたドイツ語の本を読み、抜き書きを作った。それらはファシズムの理論家たちの著書であった。彼はファシズムのイデオローグたちに反対する大作を描きたいと考えていたのである。それらのに、注目すべき十一月七日から日が経てば経つほど、ますます大きな動揺が彼を襲った。十一月末には彼の神経の緊張は、仕事がまったく手につかないほど大きくなった。(下p.200-201)

 この最後の一カ月は最もつらかった。しかしながら、エヌ・イが生きる希望を持っていた、相対的に心の晴れる瞬間があった。彼ら(ブハーリンとルイコフ)の「事件」はあまりにも延ばされ、逮捕はやはりのびのびになっていた。

 「どうかね、もし僕が遠僻の地に追放されたら、君は僕と一緒に行くかい、アニュートカ」と子供のような無邪気さで彼は訊いた。「ほんとうにコーバは全世界を前にして第三の〔「合同」本部裁判、「平行」本部裁判につづいて〕中世裁判をやるだろうか。僕には党除名だけは耐えがたい、生きながらえることは難しくなるものな。だが、仕事ならどこにだって見つかるさ、自然科学をやってもいいし、詩だっていい、経験したことを小説に書いたっていい、隣には愛する妻もいるし、息子は大きくなっていくだろう……。この状況下で僕はいったい何をまだ夢想してるんだ!」

 「遠僻の地だって私はあなたと行くわ、でもそれは虹みたいな夢想にすぎないんじゃないかしら」私はエヌ・イを落ち着かせられなかった。

 オプティミズムの閃光は長くは続かなかった。見通しはきわめてはっきりとしていたのである。

 エヌ・イは罠にかかったように自分の部屋で座っていた。最後の頃には風呂に入るのさえやっとの思いだった。(下p.230-231)

 でっち上げ裁判とはいえ、いつまでも結論が出ない。

 その間に待つ身は地獄である。精神をすり減らしていく。それ自体が拷問である。

 十分な審理をしているなら話はわかる。「ああ十分な審理や調査をしているな」というプロセスが目に見えて分かれば、逆に安心の材料になる。でっち上げの不当性が今に解明されるであろうという希望が可視化されるからだ。

 しかし、何も伝えられない。何を聞いても返答しない。

 そういう暗黒の中で隔絶されて、ただただ結論を待つ身というのは、本当に精神に悪い。一日として心から日々を楽しめる時はない。精神の拷問である。

*1:その誘いに乗って証言だけ取られて死刑になった人は少なくない。

*2:Spiegelの1965年11月号に掲載。加藤和哉によった。