高校2年になる娘の勉強量は相対的に増えているなあと思う。居間で問題を解いている姿*1や、ぼくと一緒に英語の文法書や長文を読んだりする姿*2をよく見るようになったのだが、いかんせん絶対量が少ないなとも思う。ネットやスマホやってる時間が長いのである。
学校で課題として与えられている化学の問題集は一応解けるようになって定期考査に臨んだのが、いざテストでは頭が真っ白になってほとんど解けなかったという。泣いてた。
あることを「ちょっと知っている」「表面的に知っている」ということは、その知識が、必要なときにはいつも一貫して使える「生きた知識」になっているとは限らない。…〔単位に関する〕算数の文章題をきちんと解くことができるようになるための必要条件(十分条件ではない)は、単位の変換が身体化され、意識を向けなくても自動的に必要な形で使えることなのである。(今井むつみ『学力喪失』p.12-13)
ああ、これだなあと思ってみていたが、量的には努力をしていただけに、パニックで点を取れなかったという事態はなんとも気の毒だと思った。今でもぼくは数学のテストの夢を見るが、「時間がなくて解けない」という焦りを再現させられるので、気持ちはよくわかる。
本人は数学や化学が本当に苦手なようなのだ。「わからない」という言い方でそれを言い表す。だから、本当にわからないんだろう。その二つの科目はぼくにはまったくお手上げの領域で、つれあいが一緒に付き合っているのだが、説明されると理解し、合点はいくようなのだが「そんな解き方をどうして見つけられるのかわからない」というのが娘の感想である。あっ、それ、数学が苦手だったぼくの高校時代の気持ちに似ている。
そんなときに『ガクサン』を読んで、しかも実際に本屋にある参考書のコーナーで本をあれこれ手にとって、自分でも買って読んでみると「ああ〜今はこんなにいろんなシチュエーションに分けて、こんなにていねいに伴走して教えてくれる参考書がいっぱいあるのに、なんで娘はそういうものを活用しないのかね〜」という思いがめちゃくちゃ湧いてくる。
そういうふうに勧めたこともあるし、実際に買って渡してみたこともある。小論文などは参考書を買って読んで内容まで伝えた。
が、本人は本屋で参考書を使って、参考書で自分の問題点をどうにかする、という発想にはならない。
学習参考書の出版社に勤務する人の物語を描いた『ガクサン』の9巻では、「勉強が嫌になったら読む学習参考書」づくりの話である。
面白い内容を集めた「読み物」というかわったコンセプトの参考書だ。子どもを引きつけるとっておきの面白い話、切り口というものがある。
そもそもある教科に意欲が持てないというところから出発しなければならない子どもがたくさんいる。その教科の面白さを伝えたいが、授業ではそれを十分に展開する時間がなく、基礎的な内容で終わってしまう。基礎的な内容が「面白くなさ」で満ちていると、よりいっそう面白くなくなっていくという悪循環にハマってしまう。
そういう読み物自体は存在しそうな気がするが、そこに「解けなくていい演習」やつまづいた時にどこに戻ればいいのかなどを記した「学びのマップ」など、必要であればそこに食いつける教科学習的な要素を置いておく、というものだ。
まあ、これ「今でもあるのでは?」と思ってしまうが、そこまで詳しくないので、よくわからないところはある。
でも、最初に述べたように、こんな具合に、今の参考書って、本当に自分から探してみれば自分の困難のシチュエーションに合ったものが存在する、という場所なんだなあと本作を読んで強く思うのである。
しかし、自分の置かれた状況を的確にみて、それに合った参考書を抽出してくれる、そのコンシェルジュのような人が必要になる。そんな理想的な人を、本作では主人公にしているし、主人公たちが配置されている「ご相談係」というのはまさにそれなのだと感じる。
そういう社会的な存在ってどこかにいないですかね? 学校の教師?
9巻で面白かったのは、後半に出ている英検とTOEICなどと違い。そして、推薦入試のいろいろな違いである。
前者については英検が学校教育と発達段階に伴走した資格試験であるという認識を持った。
後者については、古い世代の「学校推薦」観そのものだったので、娘の高校の受験への説明会などで話を聞いたはずだったのがよくわかっていなかったことがわかった。
どちらも実用的な知識として、とても役に立った。