『夫ブハーリンの想い出』のブログ記事のところで述べたことを、もう少し詳しく書いておきたい。
無実の罪によって銃殺されるブハーリンは、さぞや自分の裁判で、自分は冤罪であることを力説しているであろう、と思って、その裁判記録である『ブハーリン裁判』を読むのだが、いきなりブハーリン自身が自分の有罪を認めてしまうので、読んでいるぼくとしては本当にたまげてしまう。
これはブハーリンの妻であったラーリナがブハーリンの裁判記録を読んだときに感じた衝撃とたぶん似ているのであろう。
『ブハーリン裁判』では、ブハーリンに対してスターリニスト中のスターリニストである検事ヴィシンスキーが訊問を行なっている。例えばそのやりとりの冒頭の一部分は、次の通りなのだ。
ヴィシンスキー 許しを頂いて被告ブハーリンへの訊問を始める。あなたが有罪であると弁論するものが正確に何に対してであるのか、簡潔にそして系統立てて説明しなさい。
ブハーリン 第一に、反革命的『右翼的=トロツキー派連合」に属していたことに対してです。
ヴィシンスキー 何年からですか。
ブハーリン その連合が結成された時からです。いやもっと以前でさえ、私は「右翼派」の反革命組織に所属していた、そのことによって有罪なのです。
ヴィシンスキー 何年からなのですか。
ブハーリン 一九二八年頃からです。私はこの「右翼派=トロツキー派連合」の中心的な指導者の一人であったことにより有罪です。従って私はこの事実から直接に結果する全てのことに関して、この反革命的組織が犯した総体に対し、ある特定の行動について私が知っていたかどうかに関係なく、また私が直接それに関与したかどうかにも関係なく、有罪であることを認めます。何故なら私はこの反革命的組織の歯車の一つとしてではなく、指導者の一人として責任があるのですから。(同書p.11-12)
この通りなのである。
ブハーリンの独特の裁判戦術
しかし、これはブハーリンの独特の裁判戦術だった。
その解説を不破哲三が『スターリン秘史』1の中で行なっているので紹介しよう。『スターリン秘史』は言うまでもなく、日本共産党の志位和夫委員長が先ごろ(2023年9月15日)の党創立101周年記念講演で、その功績を高く評価した文献だ。
しかし、この裁判でブハーリンの供述は、それまでの他の被告のように、与えられた筋書き通りのものではなく、独特の構成を持ったものでした。彼は、反革命的な「右翼=トロツキー派連合」の存在を認め、その中心的な指導者の一人であった自分が、この「連合」が犯した犯罪の総体にたいして「有罪」であることを認めます。しかし、彼は、自分が認めるのは、「ある特定の行動について私が知っていたかどうかに関係なく、また私が直接それに関与したかどうかにも関係なく」、指導者としての責任という意味での「罪」だとの説明を、最初から最後まで押し通しました。共同の被告たちは、各種の犯罪行為にブハーリンが直接関与したという証言を彼の目の前で繰りかえしおこないましたが、ブハーリンは、最後までその立場を貫いたのです。最終陳述では、とくにキーロフなどの暗殺、諸外国の諜報機関との通謀、一九一八年のブレスト講和の時期におけるレーニンの暗殺の企てなどとの自分の関係は、強い言葉できっぱりと否定しました。(不破p.251-252)
つまりこのように読める。
“自分(ブハーリン)はソ連の政治指導者の一人として、反革命・反ソ活動というものがもし起きてしまったのだとしたら、そういうものを起こしてしまったという非常に大きな意味で、政治家としては責任があるんだろうね。だけど、そういうものの陰謀や謀議には自分は具体的には全く関わっていないんだけど?”
現代日本で言えば、こういうロジックだろうか。
安倍元首相が暗殺された。岸田首相はその陰謀に加担していたのか? という問いを立てた時、“そのようなテロを結局は許してしまった政治土壌を生んだという点において、政治指導者の一人として責任を感じる。もちろん、テロの陰謀などには具体的に私は関わっていない”…的なものだろうか。
具体的な関与を否定するブハーリンの様子を、例を挙げて紹介しておこう。
党内外で人気がありスターリンに次ぐ党幹部であったキーロフの暗殺について、その具体的な指示を下したかどうかを問い詰めるヴィシンスキーに対して、ブハーリンは以下のように否定する。
ヴィシンスキー そしてセルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフ暗殺に対するあなたの関係はどんなだったのですか。この暗殺もまた「右翼派=トロツキー派連合」が承知の上で、またその指示の下に遂行されたものですか。
ブハーリン それは私の知るところではありません。
ヴィシンスキー 私が尋ねているのは、この暗殺は「右翼派=トロツキー派連合」が承知の上で、またその指示の下で遂行されたのかどうか、ということなのだが。
ブハーリン それなら私も繰返すだけです。私は知りません、市民検事。
こんな具合。
で、裁判長だったウリリッヒはその戦術に気づいてしまうので、苛立つわけである。
不破も『スターリン秘史』の中で参考文献としてあげている(1巻p.310)メドヴェージェフ『共産主義とは何か』でも、次のように書かれている。
あるとき裁判長ウリリッヒは、がまんできなくなり、ブハーリンにむかって断言した。「これまで君はまわりくどいことばかり言って、犯罪のことは何も言っていないではないか」。(同書上巻p.289)
そして検事だったヴィシンスキーも気づく。ブハーリンが事件への具体的な関与を認めず、政治・哲学論争などを始めようとするので激怒するのである。
ブハーリンの言動に、ある戦術が存在していることにヴィシンスキーも気がついた。彼は言った。
…君は明らかにある戦術をまもっていて、真実を述べようとしない。言葉の洪水にかくれ、小理窟をこね、政治や哲学や理論や何かの領域に後退している。そんなものはきっぱりと忘れる必要がある。君はスパイ活動を告発されており、すべての審理事実によると、明らかにある諜報部のスパイである。だから小理窟をこねるのはやめたまえ。
(同前p.289-290)
ソ連政府の機関紙「イズヴェスチヤ」もこの戦術を指摘し、裁判を目撃した外国の大使もそこに気づいた。
ブハーリンの独特の戦術のことは、当時の新聞も書いている。「イズヴェスチヤ」は次のように書いた。「それは方式であり戦術である。ブハーリンのすべての答弁は、この戦術を基調としてすすめられている。すこしも直接に答えず、対審においても、反対尋問によっても、証人の供述によっても、これまでのところ、彼がもっとも凶悪で卑劣な犯罪者であることを立証することができず、自白を迫ることができない。この戦術の目的は、何も言わないことである。うわべは学問的な文句で告発を混乱させ、真実をぼやかすのである。自分を救うことであり、自分はすべてのことに責任があると大仰に宣言して、すべて具体的な告発をかわすことである」。〔…中略…〕
ブハーリンの供述と法廷での態度での分析から出発して、現代の若干の研究者(イー・アー・エリ——)は、ブハーリンは検事との正面衝突に入りこまないで、それにもかかわらず、裁判の司法的側面に一撃を加え、この裁判の不法性と被告の供述における虚偽を指摘しようと、まったく意識的に努めたものと考えている(この裁判の目撃者であるモスクワ駐在イギリス大使館員エフ・マクリーン准将も、その著書で、これと同じ見地を展開した)。(同前p.290)
そこに出てくる「裁判の司法的側面」とは、物証などを積み重ねず、被告の自白だけを根拠に有罪を決めるというやり方のことだ。ブハーリンは最終弁論でそれを厳しく批判した。
被告の自白は本質的なものではありません。被告の自白は法制の中世的原理であります。(『ブハーリン裁判』p.176)
この考えは例えば現代の日本国憲法(第38条)にも具体化されている。
何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
ブハーリンは裁判ではスターリンやスターリン体制そのものを否定しなかった。それは後世からみて弱点ではあった。しかし、その限界内においても、彼は戦術を駆使して、裁判の虚偽を明らかにしたのである。ブハーリンは有罪とされ銃殺されたという意味においてスターリンの「勝利」ではある。しかし、その「勝利」の意味を不破は次のように書いた。
スターリンがかちとった勝利も、ブハーリンの抵抗を完全に封殺するまでには至らず、法廷記録そのものに後世に生きる疑惑を残したという点では、傷だらけの勝利だったと言わねばならないでしょう。(不破p.252)
なぜ彼らは裁判で「すべてでっち上げだ」と言わなかったのか
現代の我々から見ると、「裁判の場で、『そんなものは全部でっち上げだ!』と言えばいいじゃないか?」と思うかもしれない。たとえ拷問で「自白」を強制されたとしても、なぜ裁判の場で1ミリもありもしない罪を認め続けてしまうのか? 全くわけがわからないだろう。
メドヴェージェフの本には、どのようにしてこうした「証言」が法廷で生まれるのかを、いくつかの例で明らかにしている。
例えば、ブハーリン裁判ではないが、その少し前、1928-31年の「全国ビューロー」事件というものがある。ボルシェヴィキと対立していたメンシェヴィキの「全国ビューロー(事務所)」というものが作られソ連体制の転覆を図っていたとされる事件であり、もちろんスターリン体制下ででっち上げられた事件である。
そのでっち上げ事件に巻き込まれたエム・ペー・ヤクーボヴィチが生き残り、のちに上申書(1967年)を書いて、なぜ彼が虚偽の自白をして、法廷でそれを繰り返してしまったかという事情が書いてある。
裁判の前に被告たちが集められ、何度も「予行演習」をさせられる。
そうした中でヤクーボヴィチは次のように逡巡するのである。
私は当惑しました。法廷でどのように振舞うべきか? 審理での供述を否認するか? 訴訟のぶちこわしを図るか? 世界的な大騒ぎをおこすか? それが何の足しになるのか? それはソヴエト権力を中傷することになりはしないだろうか? 共産党を? 〔…中略…〕オー・ゲー・ペー・ウー機関〔ソ連の治安機関——引用者注〕がどんな犯罪をおかしたにせよ、私は党と国家を裏切ってはならないのです。私は、ちがった考えをしたことも隠しません。もしこれまでの審理の供述を否認したら、あの残忍な取調官は私をどうするだろうか? それは思っても恐ろしいことでした。死ねさえしたら。私は死を欲しました。私は死のうと思い、それを試みました。しかし彼らは死なせようとはしません。彼らはゆっくりと、はてしなくながいあいだ私を拷問しようというのです。死にいたるまで眠らせようとしません。不眠のため死がやってくるとしたら、たぶんその前に気が狂うでしょう。どうしてその決心がつくでしょう? 何のために? もし私が共産党とソヴエト国家の敵であったなら、それを憎む勇気の道徳的な支えを見いだすことができたかもしれません。しかし私は敵ではありません。どうして法廷でこうした絶望的な振舞ができるでしょうか?(メドヴェージェフ前掲上巻p.211-212)
共産党と革命が生み出した社会体制への熱い信頼があったこの頃、その事業に誠実に人生を捧げてきた共産党員ほど、いかに自分の罪をでっち上げられようとも、もはや冤罪からの脱出が絶望的とわかると、「共産党や革命の事業を傷つけまい」と思い、「諦めて」しまう。
加えて、そのあとに続くであろうと予想される自分や家族に対する言語に絶する暴力や迫害も、その「冤罪」を認めさせてしまう構造になっているのである。
ヤクーボヴィチと監獄で引き合わされたティテルバウムの場合は、“外国の貿易会社からの収賄”の罪をでっち上げられ、「自白」をさせられるのだが、ティテルバウムは「収賄」という破廉恥罪で死ぬよりは、政治犯として死にたいという欲求に駆られてしまう。
私〔ティテルバウム——引用者注〕はながいあいだ投獄されている。彼らは私が外国で資本家貿易会社から収賄したと自白することを要求して殴打した。私は拷問に堪えられなくて「自白」した。おそろしいことだ、こんなに恥をかいて生死するのはおそろしいことだ。取調官のアプレシャンは、突然言うのだ。「多分君は自白を変更して、反革命メンシェヴィキの全国ビューローに参加したことを自白したいのだろう? そうすれば君は普通犯でなく政治犯になるわけだ」。私は答えた。「そうしたいです。どうすればいいのですか?」アプレシャンは言った。「すぐヤクーボヴィチを呼ぼう。君は彼を知っているかね?」「知っています」。そこで君〔ヤクーボヴィチ——引用者注〕を呼んだ。同志ヤクーボヴィチ、お願いだから僕を全国ビューローにいれてくれたまえ。僕は堕落した悪漢としてよりは、むしろ反革命派として死にたいのだ。(同前p.211)
死ぬことはもはや逃れられない前提であれば、「収賄で死ぬ」か「反革命で死ぬ」かどちらかを選ぶしかないという「究極の選択」をさせられるのである。
この「全国ビューロー」事件では、経済学者イー・イー・ルービンがどのように、全く身に覚えのない「罪」を「自白」をさせられたのか、ルービンが流罪になった後で、妹(ルービナ)が聞き取った覚書が紹介されている。
当初、ルービンは自分の「罪」を聞いたときにびっくりする。
一九三〇年一二月二三日に逮捕されたとき、彼〔ルービン——引用者注〕は「メンシェヴィキ全国委員会」の一員であることが告発された。この告発はひどくばかげたことに思われたので、彼はただちに、彼の考えではこうした告発がありえないことを説得できるにちがいないように、自己の見解を述べた上申書を提出した。予審判事はこの上申を一読するとその場で破りすてた。(同前p.215-216)
ここで、前述のヤクーボヴィチが登場する。ヤクーボヴィチもやはり「自白」させられ、検察当局の筋書き通りにするよう強要されていた。ヤクーボヴィチは対審したルービンに対して、「イサーク・イリイッチ君〔ルービンのこと——引用者注〕、われわれはいっしょに『全国ビューロー』の会議に出席したではありませんか」とウソの言葉かけをせざるをえなかったのである。
しかし、ルービンは素早く「その会議はどこで開かれたのですか」という実に素朴な、しかし本質的な、鋭すぎる質問をしてしまう。その「会議」の詳細なイメージをでっち上げることを忘れていた検察当局はそこで狼狽してしまうのである。
この質問は尋問の進行に大きな混乱をひきおこしたので、取調官はその場で尋問を中断し、「なるほど君も法律家だったな、イサーク・イリイッチ!」と言った。(同前p.216)
「ルービンは全国ビューローの一員」という筋書きがこうして崩れてしまった。当局側はその後、移送の車の中でルービンに考え直せ、48時間を与えよう、などの脅しをしたが、ルービンは考えを変えなかった。
そして「彼の意志を挫くために、ありとあらゆる策が講じられた」「取調官が〔…中略…〕一分間たりとも眠らせず、呼びさまし、あらゆる尋問で責めたて、彼の精神力を嘲弄し、彼のことを『メンシェヴィキのイエス』と呼んだ」(同前p.217)というほどに拷問を仕掛けられた。しかしルービンは屈しない。
でっち上げの罪をいきなり突きつけられ、本質的な反論を返すと、相手は狼狽し、答えられなくなり、どこかにお伺いをたてにあわてて尋問を中断。その後、「考え直せ」「罪を認めろ」「自己批判しろ」としつこく問い詰め、ついには精神や身体に不条理な抑圧を加える……ああ、このくだり、とても他人事とは思えない。
しかしルービンは屈してしまう。
どのような責め道具によってであろうか?
〔…前略…〕一月二八日から二九日にかけての夜、彼は地下牢に入れられた。そこにはいろいろの獄吏とヴァシレフスキーとかいう囚人が一人いた。……彼らは兄〔ルービンのこと——引用者注〕の面前でこの男にむかって「ルービンが自白しなければ、いますぐお前を銃殺する」と言った。ヴァシレフスキーはひざまずいて「イサーク・イリイッチ〔ルービンのこと——引用者注〕、自白しても何でもないでしょうが」と懇願した。しかし兄は、ヴァシレフスキーがその場で銃殺されても気丈におちついていた。内心で正しいという感情がきわめて強かったので、この恐ろしい試練にたえるのを助けた。その翌日の一月二九日から三〇日にかけての夜間、兄はふたたび地下牢に入れられた。こんどは、学生らしい青年がそこにいたが、兄はこの男を知らなかった。彼らがこの学生に「ルービンが自白しなから、お前は銃殺されるだろう」と言うと、学生は胸のシャツを破り「ファシストめ、憲兵め、射て!」と言った。彼はすぐさま銃殺された。この学生の名はドロードノフといった。
ドロードノフ銃殺は私の兄に強烈な印象をあたえた。そして監房に戻ってから、彼は考えこんだ。どうすべきか? 兄は取調官と話し合うことを決心した。(同前p.217)
共産主義とは何であってはならないか
ここで紹介した『共産主義とは何か』は、1967年に出版された本である。原題が「歴史の裁きのまえに」(Перед судом истории)、英題は「Let History Judge」(歴史をして裁かしめよ)である。サブタイトルは「スターリン主義の起源と帰結」。
日本では1973年に三一書房から出版されている。訳者は石堂清倫で、日本共産党員だったが1961年に除名されている。だから不破がこれを石堂の名前もちゃんとあげて参考文献として『スターリン秘史』で紹介したときには、ちょっとした驚きがあった。
メドヴェージェフ自身も本書を理由にソ連共産党を除名された(1989年に復党)。
「共産主義とは何か」というタイトルで、スターリン体制のもとでの犯罪が描かれているので、「共産主義ってこんなに恐ろしいんだよ!」という意味でつけられたタイトルのように思える。
しかし、学生時代、本書をぼくに教えてくれた人は、左翼活動家の先輩で、同じ下宿に住んでいたのだが、その古い下宿先で彼がぼくの部屋にきて話し込み、こう話してくれたものである。
「このタイトルは『共産主義とは何か』なんやけど、そこに込められてる意味は、『共産主義とは何であってはならないか』ってことなんやな」
つまりこのようなスターリン主義であってはならない、という意味が込められているのだと教えてもらった。
1980年代が終わり90年代にさしかかったころ、まだぼくのまわりの左翼はトロツキーは反革命的な人物だという評価であり、彼の著作を読んでいると「ほう、まず敵を知るために読んでいるわけですか」などと声をかけられた。
そんな中で、その先輩は、スターリンやその体制のまちがいだけでなく、トロツキーの面白さ、市場を否定した一元的計画経済の無理、そしてレーニンのさまざまな蛮行についても教えてくれたものだった。
あの頃、ぼくは本書『共産主義とは何か』をただの「歴史の知識」として読んだに過ぎないが、今まさに自分に関わる切実な問題として本書を読むことになった。そんなことにはなりたくはなかったのだが。