自由な討論のない党——トロツキー三部作を読みながら

 アイザック・ドイッチャーはスターリン主義に反対し当時のコミンテルンの方針に逆らう主張をする中でポーランド共産党を追われた人である。『スターリン 政治的伝記』で伝記作家としてデビューし、トロツキーの伝記である「トロツキー三部作*1」(『武装せる予言者』『武力なき予言者』『追放された予言者』)で世界的名声を博した。イギリスの首相だったブレア(労働党)は、「生涯で最も感銘を受けた書物」としてドイッチャーの「トロツキー三部作」を挙げた(2006年)。

 トロツキーソ連の政治の中心から排除され、次に共産党を除名され、国内に流刑され、さらに国外へと追放され、そこでスターリン体制に反対し革命を立て直そうとするが果たせず、最後はスターリンの刺客に暗殺されてしまう。

 ぼくは、今トロツキーが失脚し、共産党が古典的マルクス主義の政党から、野蛮な官僚制国家とそれを支える組織に変質させられるあたりを手始めに、追放された孤独、そこでの仲間づくりなどを読んでいるが、身に沁みるような気持ちで読み直している(かなり久しぶりに)。

 ちょうど『武力なき予言者』の終わりから『追放された予言者』の始めあたりである。

 若い時期に読んだ際には気づかないこと、あまり注意を払わなかったことが、今のぼくには本当に深く突き刺さるような話として論じられている箇所がたくさんある。

 今後このブログに、ノートのようなつもりで抜粋を書きつけておきたい。この1回で終わるかもしれないし、もっといくつかの抜粋になるかもわからないが、とりあえず。

 

 トロツキーは、国外に追放された後、ソ連国内政治以上に、各国の共産党が関わっていたコミンテルンの路線について論じることが多くなる。

 コミンテルが国際革命を放棄し、実際にはソ連の政策のための下僕にさせられることを批判した。そして「プロレタリア民主主義」、特に、党内で自由に討議され、討議のもとに規律ある行動の統一をするという「民主主義的中央集権主義」(民主集中制)の復活を主張した。

 「民主主義的中央集権主義」を問題視するのではなく、「民主主義的中央集権主義」のかわりに「官僚的中央集権主義」にすり替えられてしまった、というのがトロツキーの批判である。それがソ連だけでなく、各国の共産党に押し付けられたというのだ。

一九三〇年までに、ドイツやフランス、その他の共産党員は、だれも、党の方針とちがった見解を表明することができなくなっていた。そして、モスクワからくるあらゆる公式発表を、福音としてうけいれなくてはならなかった。こうして、すべての共産党は、それぞれの国では、革命的目的というよりか、そういう目的とはほとんど無関係な行動の掟によって、一般国民からはっきり切りはなされた、奇怪な飛び地のようなものとなった。これはその党員を、反宗教改革以来、どんな修道院でおこなわれた、どんなきびしい精神訓練にもおとらない、非常に峻厳な精神訓練に服させる、準教会的秩序の掟であった。(ドイッチャー『追放された予言者』p.51、強調は引用者)

 「モスクワからくる…」というのは、「組織の上からやってくる…」という意味である。それを全く自分にとって他の情報と等価に検証・吟味するのではなく、「福音」として、つまり宗教の教義のようにして、まずそれを正しいものとして受け入れる精神状態になってしまっているということだ。

 組織の上から来るものが、いつも正しいはずがない。

 特に社会の価値観が大きく揺らぎ、昨日までのやり方が通用しないような激動期にはなおさらで、もっと言えば組織が硬直化し始めている時には、幹部の出す方針は世の中の人たちとは全く噛み合っていない可能性がむしろ高い。組織の上から来ることに長く信頼があったとしても激動期にその信頼感のままで受け入れたら、共産党は世の中から総スカンを食うだろう。

 なのに初めからそれを「正しい」と受け入れてしまう精神状態は、広い社会の中では、ぽっかり浮き上がった島のようになってしまう。要するに社会一般から浮いているのである。そのことをドイッチャーは「奇怪な飛び地」と表現しているのである。

 このような「まず上から来る方針を正しいものとして受け入れる精神」をここでは「非常に峻厳な精神訓練に服させる、準教会的秩序の掟」とドイッチャーは皮肉っている。

 党の扇動家たちが、かれらの目的のために獲得したいとおもうひとたちに、自由に、気安く近づいていかなくてはならないときに、このふしぎな規律と儀式は、かれらの手足をしばってしまった。ヨーロッパの共産党員が労働階級の中へ出かけていって、聴衆のまえで自分の主張を論ずると、いつもたいてい社会民主党員の反対にあい、それに反駁し、そのスローガンを反撃しなければならなかった。ところが、それができないことがしょっちゅうあった。政治的討論の習慣が党内でつちかわれていないため、そうした習慣がなかったためと、党の訓練によって、未改宗者にむかって説教する能力をうばわれていたためである。かれらはいつも自分自身の正教のことばかりかんがえていなければならず、自分がいま話していることで、しらずしらずに党の方針からそれていはしないかと、たえずたしかめなければならないので、敵の主張を十分に吟味することなどできなかった。ちゃんときめられた議論やスローガンを、機械的に、狂信的に説明することはできたが、予期しない反対や質問攻めにあうと、たちまち狼狽してしまった。党の扇動家は、ソ連批判にこたえることを迫られる場合がしょっちゅうあったが、そういう場合でも、納得のいくようにこたえることができなかった。労働者の祖国にたいするかれらの感謝の祈りとスターリン賛美とは、かれらを冷静な聴衆の目にはいい嘲笑の的にした。スターリニストのこうした扇動の無能こそ、長年にわたり、最も有利な情勢にあってさえ、社会民主党改良主義にたいする扇動が、ほとんど、もしくは全然発展しなかった、主な理由のひとつであった。(ドイッチャー前掲p.51-52、強調は引用者)

 どこかで見たような光景ではないか、と思いながら読む。

 繰り返すが、トロツキーはこれを「民主主義的中央集権主義」(民主集中制)の帰結ではなく、その忘却・破壊による症状だとみた。それゆえに、トロツキーは自分が体験した党内での自由な討論と決定したら団結して行動の統一をはかり、再びそれを検証する自由な討論…という「民主主義的中央集権主義」(民主集中制)の復活、党内民主主義の強化を主張したのである。

 「自由な討論」の「自由さ」は生易しいものではない。

 たとえレーニンが言ったことであってもそれに反対し、反対の論陣を張るばかりでなく、一時的なグループを組んでそれと対抗する。しかし、討論の後は、それを解消し、自分がまちがっていたとわかれば考えを変えたし、また、さらに長期の検証が必要だとみて考えを変えなかったりした。「間違った考え」を抱いたことの自己批判の一札を書かせたり、追放で脅してその考えを放棄させたりするようなこととは無縁であった。

 そういう自由さこそが、西欧的な古典的マルクス主義の伝統のうちに、ボルシェヴィキには存在したのだとトロツキーは考えたし、ドイッチャーもそう見ていた。

 その自由な精神、気風が破壊されて、党指導部・党幹部が言ったことはほぼ無条件で正しいとする党員ばかりになって(異論はせいぜい戦術上の小さな諸点か、実務的な問題に限られる)、それが共産党が国民大衆の中で影響力を広げる上での能力欠如として現れるようになったことをトロツキーは嘆いた。

 

この対照〔レーニン主義スターリン主義〕は組織や規律の問題よりも、むしろ思想の領域やボルシェヴィズムのモラル的、知的風土にいっそう強力にあらわれた。ここでは、事実革命のフィルムは、すくなくともスターリニズムはロシアのあらゆる原始的で、古風に半アジア的なもの、一方ムジーク〔ロシアの農民〕の文盲と野蛮さ、他方古い支配的グループの絶対主義的な伝統、その混合であったという意味で、逆に回ったのである。トロツキーはこれに反対して、知的な、モラル的な力とともに、政治的弱み——それ自身、ロシアの後進性と両立しないということと、西欧における社会主義の失敗との結果として生まれた弱み——をもった、水で割らない、純粋な、古典的マルクス主義のためにたたかった。スターリントロツキーを追放することによって、ロシアから古典的マルクス主義を追放したのである。(ドイッチャー『武力なき予言者』p.483)

*1:正確には「トロツキー伝三部作」というべきであろうが、ドイッチャーにとってのトロツキー三部作という意味ではこれでも成り立っている。ドイッチャー自身『追放された予言者』の序文でこの3冊を「トロツキー三部作」と呼び、訳者もそう訳している。