gryphonのぼくへの批判を考える


 前の記事について批判的なコメントがあったので、ぼくなりにちょっと考えてみる。

id:gryphon 『A(例えば自衛隊)は憲法違反。だが「国民合意」の形成まで存続させ続ける』というのは”立憲主義”とは言えないのでは?…とhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160628/p1 で以前書きました。

http://b.hatena.ne.jp/entry/345150060/comment/gryphon

 共産党自衛隊違憲論と立憲主義について、前からこの種の批判があることは知っている。共産党がどう思うかは共産党に聞いてもらえばいいと思うが、ここではぼくの考え、つまり一般的に連立政権(考えの違う政党同士の一致点での政権)と立憲主義の問題を考えておく。

立憲主義実現のプロセスと考える

 まず、実践的に考える。


 日本の左派や左派系政党が、「憲法を守れ」「憲法を暮らしにいかせ」というスローガン、つまり現行憲法の価値に進歩的な理想があり、現実がそこからズレていて、現実を理想にキャッチアップさせたい、という理屈立てをしていることはよく知られている。
 平たく言えば「憲法にもとづいて政治が行われていない」というような認識。
 政党助成金憲法違反だ、社会保障の現状は憲法違反だ、お金で左右されて大学に行けないのは憲法違反だ……こういう無数の「憲法違反」。*1


 こういう場合、その政党が政権に参加して、一気に解消されるだろうか。
 むろんそうなる場合もあるが、たいていは連立政権だったり、仮に単独政権であっても部分的な解決にとどまったりするだろう。
 最初の連立政権で、まず集団的自衛権問題の解決をするとしても、他の多くの問題で連立政権の合意ができないのであれば、その部分は現状のままだ。その左派政党が「憲法違反」と言ってきた政治実態は当面残ったまま、政権運営をせざるをえない。
 例えば集団的自衛権行使は禁止に戻すにしても、「憲法違反の政党助成金は廃止」は合意にならないので、政党助成金はその連立政権下では存続したままであろう。
 政党助成金憲法違反だと言ってきたのに、連立政権の内閣に入ったらその左派政党出身の閣僚は「合憲です…」と国会で答弁するハメになる。
 しかし、「憲法にもとづく政治」には一歩近づいた……ということである。
 「立憲主義」をその程度の平易な意味に理解すれば、その左派政党の「違憲状態の容認」は、「完全な立憲主義」に近づく前進プロセスの一つである。たくさんの「違憲状態」を解決するには、このような「一歩一歩の前進」しかなかろう。


 それなら安倍政権が「50の違憲状態を抱える政権」だとすれば、左派政党が加わる連立政権は「49の違憲状態を抱える政権」にすぎないではないか、と言われるかもしれない。それなのに「立憲主義を名乗るのはおこがましい」という批判はあろう。
 なるほど、左派政党の目から見れば「49の違憲状態」は残っているのだから、「立憲主義」だというのはおかしいかもしれない。しかし左派政党の目から見れば、それは「50」から「49」へと違憲状態を一つ減らした政権なのだから、立憲主義への「大きな前進」だと言える。*2
 それでも左派政党の目から見れば「49の違憲状態」は残っているんだからやっぱり立憲主義うんぬんと名乗るはおかしい、とあくまで食い下がる人はいるかもしれない。
 それは甘んじて受けるしかないよね。うん。
 ただ、「49の違憲状態は残っているじゃないか」と批判できるのは、「49も違憲状態があると本当に信じている人」に限るはずだ。つまり左派政党よりももっと憲法価値の緊急の実現を求めているような、よりラディカルな人。そういう人だけが「49の違憲状態は残っているじゃないか」「立憲主義なんておこがましい」と言える資格を持つのであって、「今の政治が憲法違反に満ちているなんて思ってもいない人」が口にできる批判ではない。
 いや、してもいいけどさ。
 迫力ないよね。
 揚げ足とってるクラスの男子みたい。

解釈変更ではなく政策的に対応すればいい

 次に、法律論として。
 「立憲主義」というのはいろんな定義があるみたいだけど、

憲法によって国家権力に「縛り」をかけるという考え方を「立憲主義」(constitutionalism)という。こうした考え方は、17世紀のイギリス、18世紀フランス、アメリカなどの、近代市民革命を通じて確立されてきたものである(近代立憲主義)。それは人民の権利の保障と国家権力の制限を基本目的とするものであった。……近代立憲主義の根本目的は、人の固有の権利としての基本的人権の保障である。(浦部法穂憲法学教室 全訂第2版』日本評論社p.12)

というのが一つの学説としてあって、それを野党が共有して使うことは、それほどトンチンカンもしくはトンデモなことではあるまい。
 長く政府が使ってきた憲法解釈を一内閣の判断でくつがえして、集団的自衛権の行使を、憲法を変えずに容認してしまうことは、国家権力が自ら縛っていたものを乗り越えてしまうことであり、これまでの野党共闘の中で「近代立憲主義の危機である」、とすることも、一つの理屈であって、まったくのトンチキということでもないだろう(反対論があるのは承知だが)。


 問題はここからだ。
 では共産党のように「自衛隊はそもそも違憲である」という立場に立っている政党からすれば、仮にその後、共産党のいうような本格的な革命政権(民主連合政府)ができてその政権が15年ぐらい続いて、アジアの安全保障環境が変化して、国民から「自衛隊は無くしてもいいよ」と合意が取れた場合、その民主連合政府とやらは、「やっぱりですね、自衛隊は存在自体が違憲だということです!」というふうに長年の政府の憲法解釈を変えるのであろうか?


 gryphonの批判はここにかかっているのであろう。
 解釈変更ができるかどうかは直接共産党に聞いてほしいが、ぼくは解釈変更はできないんじゃないかと思う。

国会で長年の議論の積み重ねで定着してきた憲法9条の解釈を勝手に変える

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-06-27/2014062701_02_1.html

 これは共産党幹部が安倍政権を批判した言葉であるが、もし共産党が参加する民主連合政府ができて遠い将来だけど「自衛隊違憲」へと解釈変更することも同じ批判にさらされることになるに違いない。


 だとすればどうすればいいのか。
 ぼくは、その時の政府が政策判断として自衛隊を解消すればいいと思う。つまり憲法では自衛隊を置けるんだけども、今は必要ないのでもう予算もつけないし、省庁も廃止する、ということだ。
 これは政党助成金でも同じだろう。
 いちいち「いやー、やっぱり政党助成金憲法違反でしたわ〜」と政府が憲法の解釈変更をする必要はない。政党助成金をなくしたければ、法律を廃止したり、予算をゼロにすればいいのである。


 立憲主義の危機が複数の政党の合意として焦眉のスローガンになるのは、単に憲法規範と現実がズレているからではない。右派も左派もかなり広く認めてきた憲法解釈が乗り越えられてしまうことによって、集団的自衛権行使や海外での武力行使が容認され、現実の危険(アメリカの戦争に巻き込まれる)が日本国民に迫っているからである。自衛隊の存在自体が違憲かどうかなどということは、今ぼくにとっては「どうでもいい」ことである。


 今の解散・総選挙をめぐるホットな議論とは、かなり遠い、思考ゲームのような話で申し訳ないけど、憲法が一つの争点になり、「立憲主義」という野党共闘の旗印が揺らいでいるもとで、こういうそもそもを考えてみるのも悪くはない。

*1:例えば共産党は直近の第27回大会決議でたくさんの「憲法違反」を告発している。決議の(18)を見よ。 http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/27th-taikai/20170118-27taikai-ketsugi.html

*2:もちろん、左派政党が加わって合意ができた連立政権の目から見れば、「違憲状態ゼロの政権」だということになる。だって、合意された連立政権が「違憲」と思われる状態を残したまま、運営するわけがないのだから。