『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』『一休伝』

100%興味本位で読んでしまった

ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝 (岩波文庫) 『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』は、中世のチベットブータンの仏教僧であったドゥクパ・クンレーの伝記である。

ドゥクパ・クンレー(一四五五−一五二九)は、チベットブータンを中心に活躍した型破りの遊行僧である。……住まいを1ヶ所に定めず諸国を歩き回り、人の眉をひそめさせるような常軌を逸した行いを憚らず、「瘋狂」(smyon pa)と称された。瘋狂(ふうきょう)というのは、一般的な風狂、すなわち「風雅に徹する、精神的な平衡を失っている」といった意味ではなく、チベットブータン教においては、普通の宗教者のレベルを超えた、凡人の常識では計り知れない境地に達した聖人を指す。彼らは、戒律に囚われることなく、あえて社会規範に反した行いをし、それによって形骸化した既成教団を弾劾し、仏教の本質を思い起こさせようとする者である。(本書解説、p.223)


 本書冒頭の口上「読まれる方は、ごろ寝をして敬意を欠いたり、下世話な話のように笑いこけたり、疑ったり、勘ぐったり、居眠りをしてはいけません」(本書口上p.24-25)とは違えて、申し訳ないが100%興味本位で読ませてもらった。


 この本を知ったのは、2018年2月18日付の「読売」の書評欄だった(評者・宮下志朗)。

村に行くと、酒を所望するのみならず、「美女をくだされ」とのたまって、その男根を「智慧の金剛」となし、まぐわいにより女たちを清めては、悟りを開かせた。「女たらしのクソ坊主」と罵られても、平気の平左。ために「瘋狂(ニョンパ)」と呼ばれた。「智慧の金剛」からは炎も発射して悪魔や魔女を調伏し、改宗させた。(宮下、「読売」2018年2月18日付)

 もう、こう聞いただけで荒唐無稽さがほとばしるではないか。
 どこの「このマンガがひどい!」ですか。
 出版社を見ると天下の岩波文庫だ。
 「読みてぇ!」と思わずにはいられない。
 別に異文化理解とか仏教の勉強とかそんな高尚な話じゃなくて。完全に性的な意味で。お笑いの意味で。


 しかも書いた(編纂した)のは、ブータンの大僧正(ジェ・ケンポ)も務めたゲンデュン・リンチェン(1926-1997)という。

ややもすればショッキングな、猥褻文学としか見なされかねない。しかもその編纂者が、カトリック教会ではローマ法王に当たる、ブータン仏教界の最高位ジェ・ケンポ大僧正であるとなれば、驚きはなおさらであろう。(本書解説、p.231)

 ローマ法王に当たる宗教者がこんな本を?


 最初も書いたけど、ぼくのような不心得をあらかじめ戒めるように、本書の口上には次のように警告されている。

そうした人たちが読むと、仏の御教えの本質である智慧と方便の深い結合を、陰茎と膣の結合という下世話な話と誤解し、仏法を誤って受け取り兼ねません。それゆえに読まれる方は、ごろ寝をして敬意を欠いたり、下世話な話のように笑いこけたり、疑ったり、勘ぐったり、居眠りをしてはいけません。襟を正して読み、物語を楽しまれますように。(本書口上p.24-25)

 解説でも訳者・今枝由郎がこの口上の警告を引用して、

日本人読者にも当てはまることであり、字面だけから猥褻と誤解されることないことを願うばかりである。(本書解説、p.233)

と同様の注意をしている。
 だけど、例えばこんなふうな描写が大量にあるわけだよ。

〔ドゥクパ・クンレーは*1〕スムチョクマの手を掴み、領主の寝床に寝かせ、〔裾をまくしあげて〕下のマンダラ〔ここでは女性器のこと*2〕を覗き込まれた。肌白く、絹より柔らかい腿の真ん中に、こんもりと盛り上がった白蓮のマンダラがあった。そこに口づけされ、ご覧になると、機が熟しているので、行為に及ばれた。スムチョクマが
「今まで交わった中で、今日ほど気持ちが良く満たされたことはない」
と思っているあいだに、行為は終わった。(本書p.54-55)

 これは「智慧と方便の深い結合」の、その、比喩か何かだろうか。いやー「陰茎と膣の結合という下世話な話」以外の何者でもないだろ


 「チベット仏教は、アレなんだよね、男女合体の像を拝むでしょ? セックスが信仰の対象なんだよ」という向きにも、あらかじめ訳者は釘をさす。

日本ではかつて、チベット仏教を俗にラマ教と呼び、堕落した淫祠邪教と見なす傾向があり、……完全に消え去ったわけではないだろう。その大きな理由の一つは、チベット仏教で祀られるヤプ・ユムと呼ばれる男女合体尊が、文字通り男女の肉体的交合を表していると見なされ、チベット仏教では実際に男女の成功が修行の一部として実践されているという誤解からである。(本書解説、p.
231)


 そして、敵と戦う際には、必殺技・智慧の金剛を必ず使うのな。

〔ドゥクパ・クンレーは*3〕隆起した陰茎を戸の拳ほどの穴から突き出されたので、〔ドアの向こうにやってきていた*4〕鬼はほうほうの体であった。
「鬼よ、食べるものが欲しければ、これを食べよ」
とおっしゃって、智慧の金剛から燃え盛る炎を発射された。それが鬼の口に鉄槌のように当たり、上の歯も下の歯も四本ずつ折れてしまった。(本書p.99-100)

 超訳するとこんな感じ。
「ドゥクパ・クンレーはボッキした一物をドアの節穴めがけブスッ! 
 ドア向こうの鬼が『ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』と深刻なダメージ。
 『ふっ、鬼よ。食うものがなけりゃ、これでも喰らえ!』
 ドゥクパ・クンレーの一閃、智慧の金剛からファイヤー!! 
 『ぎえぇぇぇぇぇぇぇ』と鬼。その口に鉄槌がくだり、鬼の歯がめちゃくちゃになった」
 完全に興味本位で本当にすいません。
 まあ、こっちは実際に陰茎から炎が出ることはないので、比喩的な意味だってわかる。実際、鬼はここから逃げて同じように智慧の金剛の炎で膣を焼かれた尼僧のところに行って相談をして、またドゥクパ・クンレーのところに戻って帰依をするんだよね。
 つまり、鬼みたいなやつもドゥクパ・クンレーは信仰心を起こさせた、という例え話(方便)として書かれている。
 そう思うと、さっきのセックスの話だって、性的な恍惚にたとえた法悦的な改宗とか帰依の方便……と言えなくもない。
 いや、無理があるな。
 セックスはセックスとして捉えるのが自然じゃないのか。
 ドゥクパ・クンレーが「瘋狂聖」と呼ばれるのは、「人の眉をひそめさせるような常軌を逸した行いを憚ら」なかったからであり、それによって「形骸化した既成教団を弾劾し、仏教の本質を思い起こさせ」るものなのだから。存在と行為自体が批評的なのである。


 だけど、ここには論理がない
 だから、話だけ聞いても日本人のぼくには、すぐさまそういうものとして理解できない。
 ぼくが言う「論理がない」とはどういうことか?
 それを、日本のある瘋狂な僧との比較で考えてみる。

一休宗純との比較

 このような瘋狂聖といえば、やはり思い出すのは日本の一休宗純である。
 奇しくも、訳者・今枝は解説で「ドゥクパ・クンレーに該当する僧侶を、強いて日本仏教史上で挙げるとすれば、時代的には半世紀ほど早いが、室町時代臨済宗大徳寺一休宗純(一三九四−一四八一)であろう」(p.235)と述べている。


 一休を描いた作品には、例えば水上勉『一休』があるが、ぼくはそれを読んだことはなく、読んだことがあるのはその水上の小説を原案とした、佐々木守・脚色、小島剛夕・画の『一休伝』(集英社)である。

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 この作品では、仏門に入り、壮年期に差し掛かるまで一休(宗純)は、きわめてストイックな修行をつみ、懊悩し続ける。坐禅中に若い女から誘惑を受けても決して動じないのだが、人探しをしている最中にふとしたことから辻女を抱いてしまい、一休はそのことを激しく後悔しながら「しかし女を抱きながら感じた歓喜は何だ!」と鮮烈に刻んでしまうのである。


 下巻になると諦観・達観が際立ってくる。
 湖で悟りを開きながらも、それを褒めて後継者としての認証(印可証)を師が渡そうとすることに失望し、やがてその寺も出て行く。
 自分が煩悩に出遭うたびに「もよ」という女性にハマり「夢中に」させ「忘れさせ」てもらうために、繰り返し激しく抱くのである。やがて子まで成す。そして戦乱・飢饉・貧困に苦しむ市井で庶民と同じように暮らし、最後は「森(しん)」という目の見えない女性に激しい執着を示しながらセックス三昧の晩年を過ごす。

仏教のテーマ=執着からの解放

 仏教とは、死の恐怖の克服を中心に、現世にあるさまざまな執着から逃れる精神をつくることがテーマである。
 いわば執着・固執の解体、固定観念からの解放をどのようにすべきなのかということがテーマになっている「宗教」であるが、宗教というより、一種の思考制御、心理統治の技術のようなものだろうというのが、ぼくの今のところの仏教観だ。現代では心理学とか自己啓発などがその座についている。


 このマンガでも出てくるが、一休はまず、名刹に入って業界内エリートになるような生き方を嫌った。執着だらけで全然仏教のテーマをクリアしないからである。最後に大徳寺の住持に乞われて就任するのだが、「居成(いなり)」のまま就任する。つまり大徳寺に常勤しないのである。
 かといって、人里を離れての隠遁のようなものをひどく嫌った。

一休は、山中独居をもっとも嫌った人と思える。(『一休伝』下、p.274)

 これは一見、執着を断つ道に思える。
 しかし、物理的に執着から離れるだけであって、執着まみれで生活せざるを得ない、「地獄」を生きている「凡夫」には何の役にも立たない結論なのだ。


 ゆえに一休は「地獄」である市井に降りて生活し、自らもその「地獄」を生きようとする。

そうさァ 一休さんは地獄を生きてるんだ

そしてなァ 同じように地獄を生きるしかない巷の人々と身も心も一つになろうとしてるんだよ
(『一休伝』下、p.158)

 一休は悟りを開いている。故に、執着しない問題については執着しない。
 しかし、断ち切れない煩悩には苦悩しながら執着を見せる。作中で引用されている一休の著作『狂雲集』『続狂雲集』はいわば煩悩だらけである。特に晩年の森女への執着、そのための生への執着には半端でないものを感じる。87歳だというのは三日三晩森女とセックスし、3回生まれ変わっても一緒になるっぺよ、と約束するのである。あほか。
 特に小島の絵柄、特にその性描写は、今から見れば古いタイプの劇画にも関わらず、肉感的なエロティシズムをたたえている。単にエロいという性的なニュアンスというより、からみついて離れがたい生への執着がまことによく描けている。
 しかし、この激しい執着こそ、「地獄」を生きることそのものであり、そこでの苦悩こそがそれと真剣に向き合わない既成仏教へのあからさまな批評であると言える。


 ここまで行けば、セックス三昧の行動、瘋狂な生き様は論理的な批評となる。だから『一休伝』での瘋狂は、ぼくには仏教の話としてとてもよく理解できるのだ。しかしドゥクパ・クンレーの生き様は、下ネタの笑い話にしか思えないのである。

*1:引用者注。

*2:訳注。

*3:引用者注。

*4:引用者注。