青木朋『土砂どめ奉行ものがたり』


 山といえば「自然」のイメージがまずぼくの頭にうかぶ。
 そして、人がこない、ひっそりとした場所というイメージ。
 ぼくの生まれ故郷には山がなく、となりの自治体までいくと木曽山脈の末端の末端(支脈)くらいの小さな山がようやくあった。そこに初めて行ったのは小学校の遠足で、それからも山は縁遠かった。
 ようやく山に接するようになったのは、20代も後半になってから、職場の上司に連れられて山歩きをするようになってからで、東京から100キロも離れた長野・山梨のあたりの登山道だった。あと福島や新潟にスキーに年1回くらいは行くようになった。
 しかし、九州に来てからは登山やスキーさえしなくなった。
 山に生活を感じることは一切ない。


土砂どめ奉行ものがたり (アクションコミックス)
 青木朋の本作『土砂どめ奉行ものがたり』(双葉社)は、このような現代人の山林感覚とはまったく異なる「生活の場としての山」が舞台となる。山は生活のための燃料、生活のための木材、生活のための肥料を得る、生活の中心であった。
 青木が冒頭に、江戸時代の浮世絵を紹介し、木が「パヤパヤ」としか生えていない状態であることを確認する。ぼくもこれは浮世絵独特の効果であろうと思っていたのだが、実際にこのような風景が広がっていたのだという。
 明治期の写真を模写した絵を載せて、山には木らしい木がなく、わずか1本だけしか木が生えていないことを示す。はげ山である。江戸時代の山城国京都府)の地図をのせているが、やはりはげ山が広がっていることがわかる。
 さらに、山からは肥料に使う草もとられてくる(刈敷)。
 どれほど多くの刈草が農業経営に必要だったかも描かれている。
 つまり、山は収奪される自然であり、そのために土砂崩れなどの災害が繰り返し起きていた。
 青木の漫画の冒頭に出てくる資料は、太田猛彦『森林飽和』(NHKブックス)によっている。『森林飽和』を読むと近代初期までの山がどのように収奪されてきたかが書かれている。建築資材として大きな木が切り出されるため、大寺院や大城郭の建設のたびごとに、次第に遠くまで木を求めていた。また、製塩、製鉄、製陶のために莫大な燃料が必要となっていた。加えて人口増加によって収奪が加重される。日本中がはげ山だらけとなり、災害が繰り返されるわけである。
 日本の山がどれほど収奪されていたかについては、太田の本にも出てくるが先行研究としてコンラッド・タットマンがある。タットマンは、古代から始まる山の収奪をまず「古代の収奪」と呼んだ。


 宮崎駿は、中世以降この収奪が自然と非和解的なほどに決定的となったとして、「人間と自然の共存」などという生易しい、おためごかしのスローガンは許されないという思いをこめて、映画『もののけ姫』を作った。『もののけ姫』に出てくる、女性であり、障害者を共同体のなかで扶助し、統治の聡明さをもっている人間集団のリーダー(エボシ御前)は、タタラ製鉄をおこなっており、山林の神々と絶対的に対立する存在として描かれている。
 また、白土三平カムイ伝』には、山の木を乱伐してしまうために凄惨な土砂災害が起きるシーンが描かれている。
 つまり、山林の収奪者として人間を描くことはマンガやアニメの表現としてこれまでもあったのだが、正直にいえば、青木の本作を読んで、しかも冒頭におかれたマンガによる解説(根本的には元ネタの太田の本)を読んで、初めて「山が生活資源を生み出す中心であり、市井の民の生活そのものが山を収奪している」という印象を持つようになった。
 もちろん、市井の民の生活だけではこうはならないのかもしれない。
 『土砂どめ奉行ものがたり』には、経済的な思惑で乱伐がされるエピソードが入り、生活とは別の経済の論理が働くことで重大なかく乱が起きることを示している。しかし、そうであるにしても、明治以前の山は相当にあやういバランスの上に成り立っていた(あるいは成り立っていなかった)といえるのだ。
 『もののけ姫』にしても『カムイ伝』にしても、ぼくがそれを観たり読んだりしたときの印象は、「タタラ製鉄という特別な事情があるから」「木材乱伐という特別な事情があるから」山が荒れたのだというものだった。つまり、「特別な事情の話」という印象しか与えられなかったのである。
 ところが青木の『土砂どめ奉行ものがたり』では、それを学者の解説を手っ取り早く使うことで、ぼくにまったく違った山林観を与えることに成功したのである。

森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193) 青木の本の元ネタとなった太田の本には、国土緑化推進機構が出した写真集を使って「明治中期以降の荒廃した国土の姿」(太田p.43)が紹介されている。

そこには、「砂漠を行くキャラバンのようだった」という、泥と砂の舞う北海道襟裳岬を行く人と馬、炭山からトラック道まで炭を背負って運び出している福島県川内村の炭背の人々(写真2-7)、山に入ってガソリン代わりに使う松根を掘り起こす岐阜県多治見市の奉仕作業の人たちなど、当時の人々の営みが写っているが、背後の山にはまったく木がないか、あってもまばらな状態である。(太田p.43-44)


 対照的に、現代の日本は治山の「成功」と林業の衰退によって山がよみがえっている。

本の森林は劇的に変化し、現在日本の森林は四百年ぶりの豊かな緑に満ちているのでる。実際、奥山か里山かを問わず、温泉街の桜並木も川原のヤナギ類も、今いっせいに成長している。私たちは今、日本の森林がきわめてドラスティックに変化している時代に生きているのである。これまで徐々に変化してきたものが、たった四、五十年というきわめて短い時間に変化のスピードを上げ、「はげ山」を消してしまったのである。こんな変化は日本の植生史上なかったことである。とくに、森林の蓄積が増える方向に変わったことは初めてであろう。(太田p.137-138)

 『土砂どめ奉行ものがたり』で描かれる「土砂留」とそれを監督する奉行は、山の荒廃に対して江戸幕府が規制をもうけ、木の伐採を禁じて森林保護に転じた規制策の一つである。『土砂どめ奉行』の解説でも描かれているが、江戸時代のこの規制自体はあまり成功しなかった。
 その原因を、青木は普請(工事)の負担を村方(住民)に求めたせいであろうとしている。
 このように、生活をふくめた経済の論理によって引き起こされた災害を、政治や社会的規制の力で克服しようとする姿、それが有効に作用しない問題も描かれている。


 本作は、もちろん「解説」のためだけの作品ではなく、山林やその近辺の田畑での生活を描いた物語作品である。山の木を切り出す強欲に憑かれた男・利兵衛が弟・小兵衛を山の事故(山の神様のたたり)で失ってしまうシーンから描かれる。
 家に本書を置いておいたら、7歳の娘が勝手に持ち出して読んでいた。回転ずしにいっしょに行ったのだが、このマンガを持ち込み、すしも食べずに、モノも言わずに、身じろぎもせずに読んでいた。どのページが面白かったのかを聞いた。
 一つは、狐が変身して利兵衛に恋してしまう、その狐(お紺)がかわいかったのだという。これはぼくもそう思った。青木の作品はこれまでいくつも読んできたが、女性キャラクターの描き方(グラフィックとしてのそれ)がぼくの好みとあまりあわなかったのだが、お紺は素直にかわいいと思えた。ちなみに中性的に描かれている青木のキャラもかわいかった。
 二つ目は、小兵衛がかわいいのだという。「これ、女の子じゃないの? 女の子だったらもっとよかったのに」と娘。たしかに、女の子みたいな風貌だよなと娘の感想を聞きながら思ったけど、なんでそこで女の子じゃないといけないのかとちょっと可笑しかった。
 三つ目は、ラストの登場人物の命名の紹介。「うんこ頭」(頭頂部が天然パーマのようになっている)「ナナシ」(名前がないから)「シマ」(服が縞模様だから)という命名が可笑しくてたまらないらしく、声をあげて笑っていた。ぼくもあまりにひどすぎるので笑った。「俺らの名前、ひどすぎるやろ!」と登場人物たちが青木に詰め寄っていた。
 四つ目は、五郎平という力もちのボーっとしたキャラクターの頭が燃えているのに、五郎平がぼんやりしているシーンが笑えたといっていた。
 本作はもともと「しんぶん赤旗」日曜版に連載されていて、家族がそろって無理なく楽しめることをコンセプトにしているので、ぼくも娘も楽しんで読めた。