この作品をどんな気持ちで読むべきなのか。
本当に正直なところを言えば、とても欲望的な気持ちで読んでいる。
まともな保護者がおらず、あちこちの家を転々とさせられ、ネグレクトに近い状態の少女(高校生)・スミカを、遠縁の一人であり、名門女子高の教師をしている吉成昭明(しょうめい)が引き取る物語である。
「欲望的」とはどんな?
一つ目は、暗く、無知蒙昧な精神の牢獄に閉じ込められてきた少女に一つ一つ教育を施して、まるで砂に水が染み透るように少女がそれを受け入れて、人間になっていくプロセスがぼくにはクラクラするほど欲望的なのである。
2巻で哲学と数学のことを調べていたスミカが、それらは神話を不要にするために同じものとして出発したことにたどり着くシーンがある。
コマはその解放感、爽快感に満ちている。
学問をすることや知識を得ることの大きな喜びの一つは、バラバラだったものがつながり、世界が一つの図面として立ち現れる瞬間に出会えることで、自分が教えていた少女が、しかし自分でそこに到達するのを見るのは、教師冥利につきるというものではないか。
これはぼくにとってとても欲望的なことである。
ぼくは、誰かに「教えたい」という気持ちが強いのだ。特別に女性に対して、というわけではないが、たぶん「マンスプレイニング」的な要素も混ざりこんでいるのだと思う。
二つ目は、恋愛対象として。もっと言えば性的な対象として。
昭明とスミカは密かに、しかし互いに惹かれあってしまう。昭明は強い気持ちでそれを抑圧し続けることになる。
ぼくは、そういう抑制のタガが外れた昭明バージョン、という気持ちでスミカを見ている。昭明にぼくは気持ちを投影する。昭明はぼくの「自画像」なのである。知的で、自己抑制心が強いという……おい、ここは笑うところじゃないぞ。まあ「自画像」だったらいいな、という単なる願望だ。微塵も似てはいない。
自分の力添えで蒙を拓かれた少女に欲望するっていうのは、相当にいびつな感情だと思うのだが、そういう危うさに満ちているのである。
だいたい、タイトルからして「せんせいのお人形」であり、1巻の頃の昭明の立ち位置、振る舞い方(上から被せるようにスミカに「俺は教育するよ きみを」と言ったりすること)は、そういう欲望を読者に「誤導」させる気満々だよね?
それがたまらなく好きなのである。
すでに本作は完結しているが、結末を描いた最終巻はまだぼくの手元にはない(2021年8月末時点)。
本作がいかなる結末を迎えているのかは知る由もないが、少なくとも結末に至るここまでの間、ぼくは欲望的な気持ちで本作を読み続けてきた。