浅尾大輔「立春大吉」第1部第1章・第2章

 浅尾大輔立春大吉」は、奥三河の山村で透析・入院・救急医療を守ろうとする住民運動を描いた「しんぶん赤旗」日刊紙の連載小説である。

 

 今朝付の回は、こうである。

 親しい透析患者がコロナ禍でどこに救急搬送されたかも不明な中、町長が国のコロナ対策の交付金で編成した補正予算案に、共産党の町議をつとめる主人公が憤る。

  • 公用車購入費(二台)
  • 公文書資料室の建設整備費
  • ながしの温泉の非接触型券売購入費
  • 公共施設用リモート・ワーケーション通信整備費
  • 職員用タブレット端末購入費(六十台)

 浅尾は何もここに加えずに、次の場面に移ろうとしている。

 町長は、「財政難」を理由に、町で唯一の病院での救急医療・透析・入院を廃止した。ところが、国のコロナ対策としておりてきたお金(おそらく新型コロナウイルス感染症対応地方創生臨時交付金*1であろう)を使って町長がやろうとしていることは一体なんだ。

 “地域の医療を少しでも手当てしたい”とか、“命の危険を冒して遠くの自治体まで透析に出かけなければならない患者たちの苦労を1グラムでも削減したい”とか、そんな思いがひとかけらも感じられない補正予算案である。そういう町議の憤りが聞こえてくる。“廃止するのは心苦しい。我々も残したい。だが、財政難だから仕方ない”と苦渋の選択であるかのような顔をしてマスコミの取材に答えていた町長の顔が思い浮かぶのであろう。

 

蔦の渕(愛知県東栄町



 

 以前…といってももう20年近く前になるが、ぼくは浅尾の小説について書いたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 そこで新潮新人賞を受賞した「家畜の朝」における浅尾の文体について、次のように記した。

主人公の一人称でつづられ、独特のユーモラスな文体によって世界が叙述されていき、大半は、日々の労働、競艇、救いのない自分と友人たちの「愚行」、中途半端でやめた入れ墨のこと、さびしいセックスなどがしめている。

 この浅尾の筆致は本作においても健在である。

 住民運動に参加してきた、保守色豊かな、多様な人々の生活史を描き出すことに第1部第1章はずっと当てられてきた。浅尾の文体が、運動に参加してきた住民の個人史や日常の想念を描き出すとき、そこにユーモアが漂う。

 条例制定の直接請求運動における請求代表者となった佐藤てい子(88)*2の頭の中で彼女を悩ませているのは、「小室さん」の話題である。

 今夜、てい子は、旧校舎に向かう前、自宅の和式トイレに掛かった皇室カレンダーの九月十月分を破ってきた。署名の行方とともに案じるのは、秋篠宮皇嗣殿下の長女・眞子様の行く末であった。

 ……皇嗣殿下は、娘の婚約に難色を示してきたというのに、ここにきて胡散臭い男との結婚を認めると言い出した。*3

〔…略…〕つい先日十一月のこと、宮内庁は、眞子内親王殿下が民間人男性との結婚について「お二人のお気持ち」を記したという文書を発表したのであった。

 てい子は、その文書に「お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在」とあるのを認めたとき、実は啞然としたのだ。次いで彼女の父親が「憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいて、とある。本人たちが本当にそういう気持ちであれば、親はそれを尊重すべきだ」とのべた会見をテレビで見たときは、奇妙な敗北感さえ抱いたのである。

 てい子は、昭和天皇の「崩御」のときに思いが飛び、「日本の伝統」の解体を案じる。

 「日本の伝統」の解体は自分の家族にも迫っていた。山深い奥三河の寒村から息子夫婦の住む東京の中野のマンションを訪れたときのことをてい子は次のように思い出す。

東京の息子夫婦にゃ子が二人いるがョ、去年、遊びに行った中野駅近くの高ッけぇマンションは、なんと朝から晩、いや翌朝まで人間の蠢く音でうるさいのなんのって。嫁は外で働き、あの息子が「家事は分担」とか言う。孫が「お父さんの料理おいしい」なんて言ったときにゃ、オレは世界が狂ったと思ったわい

 頭を抱えるてい子と、料理に目を輝かせる孫娘の愛くるしい表情が、山内若菜の挿絵で添えられている。

 てい子にとって、「伝統」とは皇室からイメージされる古色蒼然たる家族像である。しかし、その家族の姿は田舎の、日々繰り返される、つまり安定した、つまり安穏な生活の姿と一体となっている。

孫の代になった今、日本の伝統はどうなっちまうのか。伝統っつうもんは、オレたちが「今日も一日一安心」と静かに戸締めできることだ。それがョ、天皇の御一統様が揺れりゃ、北設楽郡の救急車のサイレンがのべつ幕なし鳴るのも当然か。寝つきは悪りぃ。

 

 ぼくは三河の田舎に住む、やはりてい子と同い年ほどの、自分の両親のことを思い出す。保守的な家族観・労働観のすぐそばで、現在の岸田政権や前の安倍政権への鋭い批判が飛び出す。その両者は両親の中で当たり前のように同居している。というか、一体のものなのだ。

 皇室カレンダーを和式トイレの前に貼り、小室圭と眞子の「胡散臭い」結婚を案じる、まさにその気持ちこそが、かわらない生活の安穏を求めて、町政の横暴な透析廃止の強行に憤り、ただの署名とはわけがちがう、直接請求の請求代表者などという、面倒臭いことこの上ないほどの民主主義的行動の先頭に立とうとする強靭さを生むのである。

 当たり前の生活を守ろうとする強さが、一歩も引かぬ政治闘争に、人を駆り立てる。

高望みをしないで分相応に、日常の平凡な生活の中に幸福を見つけよう、
といった人生観の上からの押し売りに我慢ならない。
それは分相応という語で、貧富の差の拡大を企む輩の言い草だからだ。
貧しい者には分相応の低く固定した生活水準を強制し、
自分達は年々増大する生産力をしこたま吸収して、
肥えてやろうとの魂胆が見えている。
しかしこういう奴等に限って、
凡人の凡々たる普通の生活を破壊し続けてきたのだ。
ポル・ポトやイエン・サリが何を考えていたか知りたくもないが、
“本当の平等を実現する”と称して、
普通の市民の普通の生活を破壊してしまった。
革命が市民の支持を得るとすれば、
それがとりもなおさず市民の平凡な日常を守る企みだからだ。
自分の耕す土地から追い出されたくない、
家族と共にありたい、
思想や宗教の強制はごめんだ、
友人と飲み語り笑いたい、
年寄りや子供と共に収穫を喜び踊りたい、
そういったひとり一人のささやかではあるが、
ラジカルな願いが結集されるからこそ、一歩もあとにひかぬ強さが生まれるのだ。
まさに過激思想とは常識を実行することである。
革命家は最後まで大いに凡人であるに違いない。
第三世界反帝国主義解放闘争や、
対独レジスタンス、反日パルチザンなどが目指したのは、
凡人の平凡なる日常を回復することだったのだ。
ただし断固として。
人は整然たる行進、マスゲーム、大集会、そして演説に
感動して涙を流して闘うわけではない。
普通であること、平凡であり続けることが、最もラジカルなことなのだ。
そして一人一人の平凡は、それぞれ異なった内容を持って、
それぞれのためだけに光り輝いている。
その光を感じあえることが連帯だと思う。
権力が恣意的基準で民衆の生活を強圧的に均するのでなければ、
それぞれの普通や平凡は千差万別で互いに優劣などはありはしない。
(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』地歴社)

 浅尾の「立春大吉」の第1部第1章「女たちは暗闇から這い出す」は、そのような「普通であること、平凡であり続け」ようとした高齢者たちが「最もラジカル」であるさまを描破している。

*1:交付金は「新型コロナウイルス感染症拡大の下で、その感染防止対策、並びにその影響を受けている地域経済や住民生活の支援、並びに全体として地方創生を図っていくということが目的でございます」(2022年5月30日参議院予算委員会での政府参考人の答弁)とされている。

*2:本作では登場人物が初出するごとに、名前の後に年齢がカッコ付きで添えられており、あたかも新聞の社会面の記事のようだ。特殊な効果を狙ったというよりは、背負ってきた人生の長さ・短さを、煩雑さを避けて瞬時に読み手に伝える装置のような役割を果たしている。また、一般に自分の常識や価値観を変えにくいであろう後期高齢者たちがこの住民運動にたくさん参加していることをしみじみと感じいらせる仕掛けにもなっている。

*3:2022年10月18日付「しんぶん赤旗